Scene 8:悪夢へのカウンタ・コード
世界が軋む音がした。
バルカスだったものの身体から噴き出す黒い泥のような魔力が、美しい空中庭園を侵食していく。
触れた端から薔薇は枯れ、石畳は腐り落ちる。
それは、生命そのものを否定する「悪意」の具現化。
「……っ!」
スカーレットの足が、無意識に半歩下がった。
無理もない。彼女はスカーレットとしての記憶で知っているのだ。
かつて王家が国を挙げて封印した災厄、『悪意の真実』。
御伽噺に出てくるような絶対悪を前に、生物としての本能が警鐘を鳴らしている。
(……勝てるの? こんな、理屈の通じない化け物に……)
動揺する彼女の脳内に、落ち着き払ったしわがれ声が響く。
『ほう、こんな禍々しい「氣」を感じるのは久々だなぁ』
劉玄雲だ。
彼は恐怖どころか、骨董品でも鑑定するかのような口調で呟いた。
(劉!? 何を言っているの! あれは伝説の……)
『落ち着け、スカーレット。伝説だろうが神だろうが、形を持って現界した以上、そこには必ず「構造」がある』
劉の声が、スカーレットの震える思考を強制的に鎮火させる。
『奴に気取られないように、体内の魔導回路をフルオープンにしろ。
これから俺がプログラムを組む。少し時間がかかるから、二分だけ時間稼ぎをしろ』
(二分!? あの化け物を相手に!?)
(できるな? お前は俺の最高傑作だ)
その言葉に、スカーレットは唇を噛み締め、剣を構え直した。
やるしかない。
(……対応する魔法があるのですか?)
スカーレットは並列思考の片隅で問いかけながら、迫りくる黒い触手のような攻撃を、紙一重で回避する。
『ああ。前世で、面白い奴(退魔士)にやり方を教わっている』
劉は懐かしそうに笑った。
かつて旅先で出会い、強引に技術を聞き出した退魔士の顔が浮かぶ。
悪意の波長を解析し、中和する「善意」の波長をぶつけるワクチン・プログラム。
二分の死闘の末、準備が整った。
『――できたぜ、お嬢ちゃん』
『どう放てばいいの!?』
『掌打を眉間に打ち込め』
スカーレットは顔をしかめた。目の前には、ドロドロの異形の顔面。
「え? なんか掌が腐りそうで嫌なんですが」
『つべこべ言うな、今だ!』
「もう、分かったわよクソジジイ!」
スカーレットは覚悟を決め、地面を蹴った。
逃げるためのステップではない。敵の懐、「悪意」の中心へと飛び込む決死の踏み込み。
『ガアアアアアッ!』
バルカス(悪意)が反応し、全方位から黒い棘を突き出す。
だが、今のスカーレットには見えていた。
劉のプログラムが、敵の攻撃パターンの「隙間」を光の線でガイドしている。
潜る。回る。抜ける。
龍のごとき動きで、彼女はバルカスの目の前――ゼロ距離へと到達する。
「覚悟しなさい、小僧!」
(そして洗って返しなさいよ、この手袋!)
スカーレットは腰を落とし、右掌を突き出した。
中原国武術における基本にして奥義。
全身のバネと魔力を一点に収束させる一撃。
――奥義【白龍・浄掌】!
バァァァン!!
スカーレットの掌底が、バルカスの眉間に吸い込まれるようにヒットした。
物理的な衝撃音ではない。
巨大な鐘を突いたような、魂に響く清らかな音色が、戦場全体に響き渡った。
『ガ、ア……!?』
接触点から、幾何学模様の魔法陣が展開される。
劉玄雲が前世の友から教わり、この世界の魔法言語で記述し直した「善意の波長」。
それは強制的な「システム修復」の光。
黒い泥が、白い光に焼かれて蒸発していく。
断末魔の叫びと共に、「悪意の真実」がバルカスの肉体から剥がれ落ち、霧散していく。
「……ふぅ」
スカーレットは残心を取りながら、ゆっくりと掌を引いた。
目の前には、憑き物が落ちたように崩れ落ちる、一人の男の姿があった。




