Scene 3:ゼロ・エミッション(完全制御)
合図はなかった。
瞬き一つの間に、二つの影が消失し――そして、空間の中央で火花が咲いた。
――キィィィィィン!!
鼓膜を劈くような高周波音。
鋼と鋼が、一秒間に数十回という異常な頻度で衝突し、弾かれ、再び噛み合う音だ。
「な、なんだ……!?」
部屋の四隅に控えていた親衛隊「影」たちが、武器を構えることすら忘れて立ち尽くす。
彼らの動体視力では、二人の姿を追うことすらできない。
見えるのは、紅い髪の残像と、紫電を帯びた剣閃の軌跡だけ。
「閣下をお守りしろ! 囲め!」
隊長格の男が叫び、数名が飛び出そうとする。
だが、その足を止めたのは、執事シリルの静かな声だった。
「……動くな。死ぬぞ」
「し、しかしシリル様!」
「見ろ。我々の入る隙間など、どこにもない」
シリルは片眼鏡の位置を直し、悔しげに、しかし畏敬の念を込めて二人の戦いを見つめた。
それは、異常な光景だった。
スカーレットとバルカスは、猛スピードで剣を振るい、体術を繰り出している。
だというのに――部屋の中の物が、何一つ壊れていないのだ。
テーブルの上の花瓶。壁に掛けられた名画。繊細なガラス細工のランプ。
二人の剣先は、それらをミリ単位で見切り、避けている。
いや、避けているのではない。
彼らにとって、対象以外を傷つけることは「無駄」なのだ。
スカーレットの剣が、高価な磁器のポットの取っ手の穴を、針を通すように突き抜けてバルカスの喉元へ迫る。
バルカスはそれを、ポットに触れることなく、最小限の首の動きだけで躱す。
「……ふっ!」
スカーレット(劉)の【勁】は、インパクトの瞬間のみに収束するため、衝撃波で周囲を散らかすことがない。
バルカスの【最適化】は、破壊判定を敵の肉体のみに設定しているため、背景には干渉しない。
嵐のような剣戟の中にありながら、テーブルクロスさえ風圧で少し揺れる程度。
この異常なまでの「制御力」こそが、彼らが人外である証明だった。
「…………」
執事シリルは、主に向かって深く頭を下げた。
戦いの最中の主に声をかける無礼を承知で、こう告げるしかなかった。
「……申し訳ございません、閣下。
我々ごとき凡俗のスペックでは、この『処理速度』にはついていけません。援護不能です」
「構わんよ、シリル」
バルカスは剣を振るいながら、息一つ切らさずに答えた。
その顔には、愉悦の笑みが貼り付いている。
「これは私と老師との『コード・レビュー(答え合わせ)』だ。ノイズはいらない」
ガギンッ!
二人の剣が強く交差し、互いにバックステップで距離を取る。
着地音すらしない。
静寂が戻る。
部屋は、戦う前と同じく整然と美しく保たれていた。ただ、二人の周囲の空気だけが、陽炎のように揺らめいている。
「……やるな、小僧」
スカーレットが、心底楽しそうに口角を上げた。
「私の突きを、ポットの穴越しに通させるとは。その高級品が惜しかったか?」
「ええ。それは中原国の古美術ですからね。老師の故郷のものでしょう?」
バルカスもまた、眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、ニヤリと笑う。
「貴方こそ、私の演算した『回避ルート』を先読みして、あえて袋小路へ誘導しようとしましたね? ……性格が悪い」
「年寄りは意地が悪いものさ」
軽口を叩き合う二人。
だが、その眼光は互いの急所から一瞬たりとも外れていない。




