第4章:龍は灰燼に舞う Scene 1:鉄と論理の茶会
翌日の正午。
スカーレットは約束通り、バルカス公爵城の正門へと足を運んだ。
そこには、奇妙な光景が広がっていた。
厳重な警備が敷かれていると予想していたが、巨大な鉄の門は大きく開け放たれているのだ。
門番もいない。殺気どころか、監視の気配すら皆無。
城の前庭には穏やかな陽光が降り注ぎ、小鳥のさえずりさえ聞こえてくる。
(……まるで、休日の午後のピクニック会場ね)
あまりにも露骨な「演出」された平和。
それが逆に、ここが支配者の腹の中であることを雄弁に物語っていた。
スカーレットが門をくぐろうとした、その時だった。
「ようこそお越しくださいました、ヴァーミリオン様」
音もなく、気配もなく。
何もない空間から滲み出るように、一人の男が目の前に立っていた。
執事服の男だった。
「あら!」
スカーレットは扇子で口元を隠し、大げさに驚いてみせた。
もちろん、気配は察知していた。だが、ここで「気づいていました」という顔をするのは無粋だ。
招かれた客として、相手の演出に乗ってやるのも貴族の嗜みである。
「驚かせてしまい申し訳ありません。執事のシリルと申します」
シリルと名乗った銀髪の男は、スカーレットの演技に満足したように、片眼鏡の奥で目を細めた。
彼もまた、ただの使用人ではない。
その立ち姿、重心の置き方。いつ、いかなる体勢からでも魔法と剣を抜ける「最適化」された側近。
スカーレットは内心で舌を巻きつつ、優雅に微笑み返した。
「案内を頼めるかしら?」
「はい、主がお待ちです」
案内されたのは、城の最上階にある空中庭園だった。
ガラスのドームに覆われ、計算し尽くされた配置で咲き誇る薔薇。
その中央にある白亜のテーブルに、「彼」はいた。
「やあ。待っていたよ」
ゲオルグ・ヴァン・バルカス公爵。
彼は本を閉じ、穏やかな微笑みでスカーレットを迎えた。
殺気はない。だが、その瞳の奥には、世界を数値としてしか見ていない冷徹な光があった。
「お招きにあずかり光栄です、公爵閣下」
「堅苦しい挨拶は抜きにしよう。座りたまえ。……君と私は、ある種『同郷』の友人なのだから」
バルカスが手で合図すると、執事のシリルが音もなく紅茶を注ぐ。
琥珀色の液体から、極上の香りが立ち上る。
「単刀直入に言おう」
バルカスは紅茶を一口含むと、スカーレットを真っ直ぐに見据えた。
「私の配下にならないか? ヴァーミリオン嬢」
いきなりの勧誘。だが、スカーレットは眉一つ動かさない。
脳内で、母から叩き込まれた【貴族外交術】と、前世の劉玄雲が培った【戦略的交渉術】が融合する。
「それは光栄なお話ですが……『配下』という言葉の定義が曖昧ですね」
スカーレットはカップに口をつけず、微笑み返した。
「対等な同盟ではなく、一方的な従属。貴方が求めているのは、意思を持つパートナーではなく、プログラム通りに動く『関数』でしょう?」
「……ほう」
バルカスの眉がピクリと上がる。
中世の貴族令嬢から出るはずのない、「関数」「定義」といった概念的な言葉選び。
「君は賢い。この国の腐った貴族たちが使う、腹の探り合い(婉曲表現)とは違う。もっと効率的で、論理的な交渉術だ」
「あら、母の教えが良いだけですわ。……それに」
スカーレットはテーブルの上に置かれた砂糖壺を指先で弾いた。
「交渉とは、互いに提示できる利益があって成立するもの。貴方のそのシステムは完成されすぎている。私の入る余地など、最初から用意されていない。違いますか?」
ゼロサム・ゲームの理論。
「貴方の提案には裏がある」と、数理的な理屈で看破してみせたのだ。
バルカスは数秒沈黙し、やがて愉しげに笑い声を上げた。
「ハハハ! 素晴らしい! まさかこの世界で、これほど高度な『会話』ができるとは!」
彼は立ち上がり、窓の外に広がる完璧に管理された街を見下ろした。
「君の言う通りだ。私の世界に不要な変数はいらない。だが、君だけは例外だ」
彼は振り返り、スカーレットの腰にある剣へと視線を落とした。
「あの『影』たちを一撃で葬った剣技。……あれは、この世界の剣ではない」
空気が凍りつく。
バルカスは、懐かしむような、それでいてどこか誇らしげな声で告げた。
「【柳方流剣術】」
その単語が出た瞬間、スカーレットの瞳孔が収縮した。
「私の故郷……扶桑国という小さな島国で生まれた、『柔』と『理』の剣だ。……君がどこでそれを学んだかは知らないが、その技の冴え、見事だった」
バルカスは眼鏡の位置を直しながら、独り言のように続ける。
「貴族の基礎教養として、私の目から見れば前世の算数レベル程度は習得していると思ったが……まさか、高等数学の概念まで理解しているとは」
バルカスの言葉には、隠しきれない傲慢さと、同類を見つけた歓喜が混ざっていた。
「この世界は本当に奇妙です。私の魂の故郷扶桑国に酷似した文化、扶桑国のみならず、強力な武術を伝える国々に酷似した文化を持つ地域がある……。まるで、この世界そのものが我々の前世の焼き直しのようです」
バルカスの言葉が、世界の根幹にある謎を揺らす。
だが、スカーレット(劉)の興味は、彼の腰にある剣に向いていた。
「……御託はいい」
スカーレットは、彼の纏う剣気を見抜いていた。
扶桑国。柳方流。そしてこの剣の質。
(この構え……間違いない)
劉玄雲の記憶が、確信へと変わる。
「……やはり、眞垣の孫か」
「ん?」
バルカスが怪訝な顔をする。名乗っていない祖父の名を、なぜこの少女が知っているのか。
スカーレットはゆっくりと立ち上がった。
もう、交渉の時間は終わりだ。
ここからは、師が弟子を、あるいは友の孫を「躾」る時間である。
「紅茶はもう十分だ、小僧」
スカーレットの纏う空気が、紅の炎のように揺らめき始めた。
「その歪んだ『理屈』……源信に代わって、私が叩き直してやろう」




