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救いのない世界  作者: Fall44


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第3章:黒羽の招き

 翌朝、カイは鏡の前に立っていた。

 昨夜浴びた血は洗い落としたはずなのに、指先にはまだ“ぬめり”が残っている気がする。

 目の奥は赤く冴え、睡眠を拒むようにぎらついていた。


 恐怖も後悔も、不思議なほど湧いてこない。

 胸の奥では、何か別のものがゆっくりと目を覚まし始めていた。


「……俺、こんな顔してたか?」


 鏡に触れた指先がわずかに震える。

 昨夜、人を斬った瞬間の手応えは、まだ皮膚の奥に残っていた。


 そのとき、玄関のチャイムが鳴った。


 警察だろうか。

 もしそうなら、終わりだ。


 カイは慎重にドアへ近づき、わずかに隙間を作る。

 そこに立っていたのは、黒いスーツに身を包んだ青年だった。

 昨夜、廃ビルの外で拍手をしていた男――クレハだ。


「……来たんだな」


「緊張しなくていい、カイ。僕は敵じゃない」


 クレハは落ち着いた声で名刺を差し出す。

 白地に黒文字でただ一言。


《夜鴉》


 それだけ。

 住所も役職も電話番号も記されていない。


「昨日のこと……見てたのか?」


「最初から、全部」


 クレハはまるで当たり前のように答えた。


「君の動きは悪くなかった。震えていたのに、あそこからの切り替えの早さ。怒りと恐怖を燃料にして“殺す力”へ変換する。あれは才能だよ」


 カイの背中を冷たい汗が流れ落ちる。


「褒めるために来たのか?」


「いや。勧誘だよ。──ゼロを正式に迎えにきた」


 クレハは靴を脱ぎ、勝手に部屋へ上がり込む。

 その自然な動作に、拒むという選択肢が浮かばなかった。

 彼が“人間の枠”には収まらない何かだと、直感が警鐘を鳴らす。


「“夜鴉”は裏社会で動く処理組織だ。表には出せない依頼を受け、闇の掃除をする。警察にも扱えない領域を引き受ける」


「……俺に、その掃除をしろって?」


「君にとっては“復讐の続き”だね」


 カイの喉が鳴った。


「君の家族を殺した連中は、まだ一人じゃない。昨夜お前が斬ったのはただの枝葉。背後には、もっと深い根がある」


 カイは強く歯を食いしばる。


「……全部、教えてくれるのか?」


「条件付きで」


 クレハの目が細くなる。


「君自身が、“夜鴉”の一員として動くこと。それが条件だ。

 ゼロ──君の新しい名前としてね」


「断ったら?」


「別にいいよ。ただ……昨夜の現場には君の足跡が残ってる。血痕も。警察が動けば、数日で君は捕まる」


 クレハは無表情で続けた。


「僕たちが守らなければ、君の人生は簡単に終わる」


 それは脅しではなく、事実だった。

 カイには、昨夜の痕跡を消す能力などない。


「……脅してるのか?」


「違うよ。救ってあげているんだ」


 クレハは静かに微笑んだ。

 その笑みは美しく、そしてどこか壊れていた。


「言っただろ? 君には才能がある。普通の人間は、初めて人を殺したあと震えて吐く。二度としたくないと泣く」


 クレハはじっとカイを見つめる。


「でも君は違った。──その目が証明している」


 胸の奥が痛むように脈打つ。

 昨夜、自分の手で誰かの命を奪った瞬間に芽生えた“あの感覚”。

 あれは恐怖でも罪悪感でもなかった。


 もっと──鈍く甘いものだった。


「…………」


「さぁ、決めてくれ。

 ゼロ。君はどうしたい?」


 窓の外では、朝日が湿った街を淡く照らしていく。

 新しい一日。

 だがカイの世界は、もう光の側にはいない。


 静かに息を吸い、吐く。

 心の奥に潜んでいた獣が、ゆっくりと身を起こす。


「……教えろ。あいつらの居場所を」


 クレハは満足そうに微笑む。


「──歓迎するよ。ゼロ。

 ようこそ、“夜鴉”へ」


 その瞬間、カイは完全に闇の世界へ足を踏み入れた。

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