第3章:黒羽の招き
翌朝、カイは鏡の前に立っていた。
昨夜浴びた血は洗い落としたはずなのに、指先にはまだ“ぬめり”が残っている気がする。
目の奥は赤く冴え、睡眠を拒むようにぎらついていた。
恐怖も後悔も、不思議なほど湧いてこない。
胸の奥では、何か別のものがゆっくりと目を覚まし始めていた。
「……俺、こんな顔してたか?」
鏡に触れた指先がわずかに震える。
昨夜、人を斬った瞬間の手応えは、まだ皮膚の奥に残っていた。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
警察だろうか。
もしそうなら、終わりだ。
カイは慎重にドアへ近づき、わずかに隙間を作る。
そこに立っていたのは、黒いスーツに身を包んだ青年だった。
昨夜、廃ビルの外で拍手をしていた男――クレハだ。
「……来たんだな」
「緊張しなくていい、カイ。僕は敵じゃない」
クレハは落ち着いた声で名刺を差し出す。
白地に黒文字でただ一言。
《夜鴉》
それだけ。
住所も役職も電話番号も記されていない。
「昨日のこと……見てたのか?」
「最初から、全部」
クレハはまるで当たり前のように答えた。
「君の動きは悪くなかった。震えていたのに、あそこからの切り替えの早さ。怒りと恐怖を燃料にして“殺す力”へ変換する。あれは才能だよ」
カイの背中を冷たい汗が流れ落ちる。
「褒めるために来たのか?」
「いや。勧誘だよ。──ゼロを正式に迎えにきた」
クレハは靴を脱ぎ、勝手に部屋へ上がり込む。
その自然な動作に、拒むという選択肢が浮かばなかった。
彼が“人間の枠”には収まらない何かだと、直感が警鐘を鳴らす。
「“夜鴉”は裏社会で動く処理組織だ。表には出せない依頼を受け、闇の掃除をする。警察にも扱えない領域を引き受ける」
「……俺に、その掃除をしろって?」
「君にとっては“復讐の続き”だね」
カイの喉が鳴った。
「君の家族を殺した連中は、まだ一人じゃない。昨夜お前が斬ったのはただの枝葉。背後には、もっと深い根がある」
カイは強く歯を食いしばる。
「……全部、教えてくれるのか?」
「条件付きで」
クレハの目が細くなる。
「君自身が、“夜鴉”の一員として動くこと。それが条件だ。
ゼロ──君の新しい名前としてね」
「断ったら?」
「別にいいよ。ただ……昨夜の現場には君の足跡が残ってる。血痕も。警察が動けば、数日で君は捕まる」
クレハは無表情で続けた。
「僕たちが守らなければ、君の人生は簡単に終わる」
それは脅しではなく、事実だった。
カイには、昨夜の痕跡を消す能力などない。
「……脅してるのか?」
「違うよ。救ってあげているんだ」
クレハは静かに微笑んだ。
その笑みは美しく、そしてどこか壊れていた。
「言っただろ? 君には才能がある。普通の人間は、初めて人を殺したあと震えて吐く。二度としたくないと泣く」
クレハはじっとカイを見つめる。
「でも君は違った。──その目が証明している」
胸の奥が痛むように脈打つ。
昨夜、自分の手で誰かの命を奪った瞬間に芽生えた“あの感覚”。
あれは恐怖でも罪悪感でもなかった。
もっと──鈍く甘いものだった。
「…………」
「さぁ、決めてくれ。
ゼロ。君はどうしたい?」
窓の外では、朝日が湿った街を淡く照らしていく。
新しい一日。
だがカイの世界は、もう光の側にはいない。
静かに息を吸い、吐く。
心の奥に潜んでいた獣が、ゆっくりと身を起こす。
「……教えろ。あいつらの居場所を」
クレハは満足そうに微笑む。
「──歓迎するよ。ゼロ。
ようこそ、“夜鴉”へ」
その瞬間、カイは完全に闇の世界へ足を踏み入れた。




