第1章:静かな夜に壊れたもの
夜の街はいつも通り、微かに雨の匂いを含んで湿っていた。
ネオンの光がアスファルトを濡らし、足元に淡い反射を作る。
しかし、その夜、家の中は異様に静かだった。
扉を開けた瞬間、違和感が胸を突いた。
家族の声も笑い声も、いつもの生活の気配も、微塵もない。
台所の灯りはついていたが、テーブルの上には何も置かれていなかった。
ただ、家族の写真がひっくり返され、額縁のガラスにはひびが走っている。
冷たい風が窓から入り込み、カーテンを揺らすたび、空気がざわついた。
「……まさか」
声にならない声を漏らし、カイは手を震わせながらリビングに足を踏み入れた。
そこには、異様に整えられた家族の姿があった―とは言え、それは形だけの残骸だった。
母と父、弟。全員が椅子に座ったまま、目は虚ろで、口はわずかに開いている。
血はあまり目立たないが、服や床には微かに赤黒い染みが広がっていた。
一瞬、心臓が止まったように感じた。
「どうして……」
カイの手が空中で止まり、唇が震える。
理解できない光景に、理性は一気に押し潰されそうになった。
そして、机の上に置かれた紙切れ―そこにはただ、一行だけが書かれていた。
「これは始まりにすぎない」
その文字は、冷たく、意図的に整えられた筆跡で、まるで誰かが静かにカイを観察しているかのような錯覚を与えた。
怒り、恐怖、絶望。すべてが一度に押し寄せ、心を渦巻かせる。
カイの目に涙が浮かぶが、それすら理性が許さない。
血の匂い、冷たい空気、家族の残像―すべてが彼を呑み込もうとしていた。
その夜、カイは気づいた。
この街、そして自分を取り巻く世界には、普通に暮らせる場所など存在しないのだと。
警察も、近隣も、この異常を止めることはできないだろう。
なぜなら、背後には人間の手では制御できない“何か”が動いている―その存在を、直感で理解したからだ。
そして、静かに拳を握る。
血に濡れた床を見下ろし、崩れゆく理性の中で決意が芽生える。
「…必ず、奪い返す……」
その夜、雨音とネオンの光が、カイの決意を包み込み、街は変わらず静かに回り続けた。
だが、もう彼の世界は、あの夜を境に完全に変わってしまったのだった。




