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昭和40年代に行われていた恐ろしい結婚制度

作者: きつねあるき

今の時代に生きる若者達は、どんな風に出会っているのだろうか。

現在だと、多くの場合はインターネット経由で交際に発展しているのだと思います。

ただ、出会いに関する情報が多ければ多い程、人間は我が儘になっていくのでしょう。

今付き合っている人より、よりルックスが良い人、より優秀な人、よりお金持ちの人、等々、人間の欲はどこまでも深くなっていくものなのです。

そんな時、この人とずっと一緒にいたい、結婚したい、という決断するのは、かなりの勇気がいる事でしょう。

何故なら、現在は出会いに関する情報があまりにも多い為、気の迷いが生じてしまうからです。

なので、現在において最も苦労するのは、マッチングするという事なんだと思います。

早い話、結婚相手に対する条件が多ければ多い程、成婚には程遠くなります。

それに、現代社会において、あらゆる嘘が蔓延しているのも、判断を鈍らせるのです。

ただ、日本においての恋愛結婚の歴史は、それほど長くはないのです。

一昔前は、親同士が決めた結婚が主流だったので、好きな相手とは結ばれないという悲劇を、度々小耳に挟んだのです。

それも、地域によっては、かなり強引な手口で結婚させられるのが横行していたのです。

中でも、女系の家庭は大変苦労したとの逸話が聞かれたものでした。

とはいえ、現代の若者にとって、結婚出来るか出来ないかは、大きな問題だと思うのです。

結婚は若いうちにしないとならない、年を取ってしまうと恐怖心が先にくるから、何て言う人もいますが、確かにその通りなんだと思います。

何故なら、人間は若いというだけで多大なる価値があり、かつ、勢いもあるからです。

とはいえ、若気の至りというのは、いつの時代にもあるものです。

やはり、若くて体力のある時はいつまでも遊びたい、責任のある立ち場になるのはやりきれない、そんな思いが先に来てしまうのです。

若者が、自分の好きなタイミングで結婚が出来るのなら、目安としては30歳前後ではないでしょうか。

しかし、昭和40年代の親世代の方々は、子供を早く結婚させる事で、遊び人になる道を塞いでいったのでしょう。

実際、その当時の若者は、ほとんどの人が結婚し子供も多かったのです。

今となっては、羨ましいと思われるかもしれませんが、若者時代の自由な時間とお金との引き換えだったのです。

時代は変わり、完全に自由恋愛になってしまうと、それはそれで少子化という弊害をもたらせてしまいました。

そう考えると、何事も物事を変えていくには、少しずつであるべきなのでしょう。

今回のお話は、現代の結婚制度について、考えさせられる内容であればと願ってやみません。

 このお話を書いたのは、2025年(令和7年)8月の事になりますが、昭和40年と聞くとかなり前だと思われるでしょう。


 実際に、令和7年から平成元年迄が36年前、昭和40年だと丁度60年前に当たります。


 その当時、日本はそれほど豊かではありませんでした。


 昭和40年は、第2次ベビーブームの数年前に該当し、出生数は180万人超といったところでした。


 第2次ベビーブームでピークの時は、190万人を超えていたいたのですから、いかにこの時代に子供が多かったのかお分かり頂けると思います。


 それが、昭和40年から59年経った令和6年の出生数が、何と68万人超というところまで低下したのです。


 昭和40年代では、若者の適齢期(てきれいき)が、20代前半になります。


 なので、男性も女性も24歳迄には結婚し、所帯を持つ人が多かったのです。


 当時は、4年制大学に行く人も少なかったです。


 仮に、大学に行けたとしても、卒業後2~3年以内に結婚しないと、親御(おやご)さんが許してくれなかったのです。


 平均寿命も短かったし、20代といえどのんびりはしていられなかったのです。


 そうは言っても、早い人は10代で結婚する人もいましたが、今回のお話では触れないでおきたいと思います。


 昭和40年代は、そんな時代背景もあって、20歳前後のご子息やご息女を持つ親御さんは、気が気じゃなかったんだと思います。


 この時代は、独身でいるのが珍しかったのと、親御さんや周りの人からの圧力も半端じゃなかったのです。


 言い方は悪いのですが、この当時に結婚出来ない、またはしないのは、生計が立てられない障害者や重病の方、または極度に異性を嫌う性癖のある方と相場は決まっていたのです。


 昭和40年代に、ここまで婚姻数、出生数が多かったのは、年功序列と終身雇用が大きく影響したからだと思います。


 しかしながら、こんな時代だったとはいえ、昔ながらのお見合い制度、20代前半での結婚に反発する若者もいるにはいました。


 そうした(やから)を排除する為に、当時の町会長はあの手この手を使って、成婚させていったのです。


 これから記述していくお話は、実際に作者の子供時代に見聞きしたものになります。


 これらが行われていたのは、東京都心のほんの一部の地域になります。


 今となっては、考えられないような事もしていたのですが、それも時代の趨向(すうこう)だったのです。


 序文が長くなりましたが、これからが本文になります。


 私は、第2次ベビーブームのピークの年に誕生しました。


 子供が多い時代だったので、私にも2人の兄弟がいました。


 周りにも、大勢の子供たちがいたので、誰かと遊ぶ事には苦労しませんでした。


 ここでは、当時の子供の多さは置いておいて、私の住んでいた地域の結婚制度について語っていきたいと思います。


 私が住んでいた地域には、多くの路地が存在していていました。


 その路地全体には、同じ苗字の方が密集して住んでいました。


 なので、路地に住む人口の多さは、一族の強さでもあったのです。


 私が、物心つく年齢には、近所で結婚ラッシュが起きていました。


 とはいえ、現在でいう自由恋愛なんてのはほとんどなく、親同士で決めた結婚でした。


 なので、結婚式当日まで、お相手の顔が分からないなんて事も多々あったのです。


 当時の若者にとって、美人のお嫁さんをもらえるかどうかは、運でしかなかったのです。


 それでも、社会全体でそんな感じだったので、ありのままを受け入れる若者も多かったのです。


 現在とは違って、余程結婚がしたくない事情がない限り、誰しもが結婚出来た訳ですから。


 しかしながら、昭和40年代にも、独身主義の若者も一定数いました。


 当時は、親同士か大家さんが結婚を決めるのが主流でした。


 とはいえ、路地の住人同士だと同じ血族になるので、他の路地の若者を探し回るのです。


 なので、親同士では、暗黙(あんもく)のうちに結婚話が進んでいたりしたのです。


 私が育った路地では、結婚に関する一切を、地主である町会長が(にぎ)っていました。


 路地の一画に住んでいる若い男性は、20歳になると町会長の自宅に呼ばれて、24歳迄に結婚するよう説得されるのです。


 その際、23歳迄に好きな相手と結婚するならば、お見合いは免除するから、と伝えてくるのです。


 更には、23歳で結婚する目途が立ったら、婚約者と一緒に報告に来てくれ、と言われるのです。


 という事は、路地の一画に住んでいる若い男性は、実質22歳の時点で結婚を表明出来なければ、お見合いをさせられるという事なのです。


 なので、4年制大学なんか行ったら最後、卒論が出来上がると同時期に、花嫁を迎えに行かなければならないのです。


 ちなみに、若い女性はというと、男性よりも早く結婚する方が多かったと思います。


 当時の結婚式は、広めのお家に集まって行うものも多く、急であっても特に問題なく()り行う事が出来たのです。


 新郎に、お金があるかどうかは大した問題ではなく、とにもかくにも結婚ありきという風習が続いていたのです。


 但し、生まれ育った路地のどこかに住んだ場合のみでした。


 当時は、路地全体に同じ一族の方が大勢いたので、助け合いで何とかなっていたという(ふし)はありました。


 さて、ここまでは当時の若者が、従順に結婚してくれた場合について述べていった訳ですが、全員が全員素直に従った訳ではないのです。


 町会長からの面談の際、


「僕はそんなに早くに結婚したくありません」


 と、上申する若い男性も、いるにはいました。


 そうなると、町会長は心穏やかではいられません。


 毎月の様に、当該男性を訪ねては、町会長が推薦(すいせん)する女性と結婚するよう説得するのです。


 それでも、その男性が応じなかった時は、


「お見合い写真の中から、好きな女性を選ばせてあげる」


 と、(たた)み込んでくるのです。


 ひいては、結婚を嫌がる男性の両親にも、


「村八分にするぞ!」


 と、圧力をかけてくるのです。


 大概の場合、両親の説得もあってそこで折れるのですが、中には偏屈(へんくつ)な男性がいて結婚そのものから逃げ出す事もあるのです。


 そうなってしまっては、危険因子をのさばらせる事になってしまうので、町会長と側近の方々は強硬手段に出るのです。


 それは、今となっては考えられない事なのですが、その男性の自宅に押し入り逃げないように監禁するのです。


 そして、当該男性に結婚の意思があろうがなかろうが、翌日には結婚式を開催してしまうのです。


 それと、結婚式が終わる迄の間は、男性の母親が遠方に監禁されている事を父親から聞かされるのです。


 いくら結婚が嫌でも、実母がどこかに監禁されているという事を聞かされると、泣きながらでも結婚式に参加する男性が多かったのです。


 それに、父親からは、


「お前の結婚式が終わらないと、俺のかあちゃんはどこかの旅館に売り飛ばされちゃうんだよ」


「頼む!何としてでも結婚してくれ」


 と、懇願(こんがん)されるのです。


 ここから先は、(うわさ)の域を出ないのですが、男性の母親が向かった先は、伊豆にある温泉旅館らしいです。


 そこに、監視役も含めて数人で行く訳ですが、男性の結婚式が終われば無事に帰れるのです。


 ただ、当時の交通事情を考えると、2泊3日はしてきたそうです。


 それも、お土産付きで、ほくほくした顔で帰って来るのです。


 ここまでは、妥協の産物だったとしても、結婚した人のお話です。


 母親を人質に取られても、当該男性が結婚しなかった場合はどうなるのでしょうか。


 その場合は、本当に母親は帰ってきません。


 恐らくですが、新郎が結婚式から逃げ出すタイミングは、新婦さんの準備に手間取っている時なんだと思います。


 その時ばかりは、監視の目が手薄になっている事が多々あったからです。


 そうなってしまったら、父親が激怒して自分の息子を追い出すのです。


 さて、遠方に連れて行かれた母親は、どうしていたのでしょうか。


 それは、結婚式をぶち壊した(ばつ)として、


「伊豆の温泉旅館で女中をやらされていた」


 と、証言をする人が多くいました。


 なので、伊豆に行ったのだとしても、待遇は雲泥の差になる訳です。


 私が住んでいた路地では、


「もう、2度とこの家の敷居を(また)ぐな!」


 というセリフは、町会長が開催した結婚式を、断固拒否した息子に父親から浴びせた言葉になります。


 実際、その男性は、翌日には実家を追い出される事が多かったと記憶しています。


 遅くても、1週間以内にはどこかに引っ越して行きました。


 では、若い女性の場合はどうだったかと言うと、私が住んでいた路地では母親を人質に取られてまで結婚式に来なかったという人はいませんでした。


 よって、若い女性の母親にとっては、ただの温泉旅行だったようです。


 では、実家を追い出された男性の母親は、帰る事は出来ないのでしょうか。


 いいえ、条件が(そろ)えば早々に帰れる事もあるのです。


 その条件とは、当該男性が半年以上実家を出ていて、もう帰って来ないと確認出来た時です。


 町会長とその側近は、結婚式に来なかった男性が、夜中にこっそり実家に帰って来ないものかと、3ヶ月以上は監視しているのです。


 もし、それに見付かってしまうような事があったら、何年にも渡って母親が帰って来れない事もあるのです。


 そうなってしまったら、男性の父親もなりふり構っていられません。


 何日もかけて、伊豆の旅館に奥さんを探しに行くのです。


 しかし、連れて帰って来たという話は、聞いた事がありませんでした。


 長い方だと、向こうに行ってから3年後にやっと帰って来れた、なんて事もありました。


 その時、散々な目に()った母親からの愚痴(ぐち)を、よく耳にしました。


「あーあ、あの子があんなに頑固だったとはね」


「どこに行こうと、結婚からは逃げられないのにね」


「お陰で、散々イジメられてきたわよ」


 それを聞いた父親は、


「連れて行かれたのは、伊豆の旅館で間違いないのか?」


 と、何度も聞いていましたが、夜間に連れて行かれて逃げられない様になっていたとかで、正確な場所は分からなかったそうです。


 まあ、今と違って、調べられるツールも限られていたからなのでしょう。


 人によっては、伊豆かどうかも分からない、と答える方もいたのだとか。


 時代というのもあったのせよ、こんなに早く若者が結婚させられる事に、近隣住民の中からも不満の声が大きくなっていきました。


 路地の住人同士でも、こんな事を話すようになりました。


「もう、町会長の好き勝手にさせるのは限界なんじゃないかな」


「そうだな、誰もこんな結婚制度は望んじゃいないからな」


「俺は、時期が来れば立ち上がろうと思っているよ」


「やってくれるか」


「おう、ここでやらなきゃ男が(すた)るぜ!」


「町会長が代替わりしたら、こんな結婚制度は撤廃しないとな」


 とばっちりを食らった父親は、鼻息を荒くして近隣住民に訴えていました。


 それからというもの、男性の父親が言った通りに、強引な結婚制度は廃止されました。


 4年制大学に行っても、20代後半迄に結婚すればいいという風潮にもなりました。


 すると、路地の住民からは、自由恋愛の期待と希望に満ち(あふ)れました。


 ですが、結婚は、誰もが出来るものからしたい人だけがする、という傾向になりました。


 私が住んでいた路地では、この頃から結婚出来るかどうかは、個人の努力次第になったのです。


 それまで、長年続いた嫁いびりについては、()められた話ではないにせよ、結婚は全ての文化の始まりである事に変わりはないのでしょう。


 それと、自由恋愛になってからは、結婚のハードルがどんどん上がっていったのは、否めない事実だと思います。


 ただ、昭和40年代のように、個人の自由の無い結婚なら、真っ平御免ではないでしょうか。


 それでも、結婚したらしたで、幸せになった方も多数存在したんだと思います。


 もし、貴方がその当時の青年だったら、新居に帰った時にこんな事を言うと思います。


「あの~、ここは僕のお家なんですが、どちら様でしょうか?」


「あら、いや~ね~、さっき私と結婚したじゃない」


「えっ、あの時の…」


「もしかして、もう忘れたの?」


「へ~、角隠しで分からなかったけど、こんな顔をしていたんだ」


「そうよ、貴方はこんな顔の人と結ばれたのよ」


「僕達、本当に結婚したんだよね」


「そうよ」


「もう、貴方だけの身体じゃないって事だけは忘れないでね」


「何か照れるな~」


「とりあえず、私達は何もないところからのスタートね」


「僕は、今はこんなだけど、近い将来きっと幸せにするから」


「こちらこそ、末永くよろしくお願いします」


 ここに、昭和40年代に結婚した若い夫婦が、一再ならず誕生したのでした。


 ※文中にある、伊豆の旅館については、よく耳にしたものの、実際に行っていたのかどうかはよく分かりません。ただ、円満にお見合い結婚した場合においては、伊豆に限らず北関東方面にも温泉旅行に出掛けていたようです。そのお金がどこから出ていたのか?やはり町会長の資金だったのか?という事は、憶測の域から出る事はありませんでした。

現在は、男女平等が基本で、稼ぎに関しても同等である事も少なくありません。

そうなってしまうと、無理して結婚しなくても、自分だけの力で食っていけちゃいますからね。

現実はそうなんですが、あなたが今迄生きてこられたのは、周りの方々がサポートしてくれたからに他なりません。

それに、あなたの身体は、父親と母親の半分ずつで構成されているのです。

なので、自分の力というのは、その上にある一部でしかない訳です。

もっと言うと、ご先祖様の存在があったからこそ、今ここに生きている訳です。

とはいえ、現代においては、結婚どころか交際する事すら難しくなっているようです。

何故なら、ちょっとの失態で大騒ぎされて、SNSで拡散されてしまうからです。

それに、夫婦といえど元は赤の他人なので、一緒にいる事がストレスになる事もあるのでしょう。

いやいや、夫婦仲はいい方だから、という方も多くおられますが、お互いの両親との仲がギクシャクしているケースも珍しくありません。

どっちにせよ、人間は多数派の意見に流されがちです。

皆様の家系においても、既婚者が多いか独身者が多いかで、各々の発言力に違いがあるのではないでしょうか。

一昔前は、圧倒的に既婚者が多かったので、その発言に従った方も多くいたことでしょう。

タイトルにある、昭和40年代では親同士が決めた結婚が主流でしたが、適当に決めていた訳ではありません。

やはり、その当時でも、人気のある方は若くして交際している事が多かったのです。

そういう方は、お見合いの打診も多く受けていました。

なので、20歳を待たずに婚約してしまうのです。

そんな時、多くのご両親は、ああ、来るのが遅かったか、と思いながらも、次の結婚相手を探し回るのです。

大体ですが、ご両親が息子さんや娘さんの結婚相手を探す期間は、1~2年程かかったのです。

ですから、親としてもこれだけ苦労して探し回ったのに、無碍に扱われてはたまったものじゃないでしょう。

文中にある、町会長から薦められた結婚を拒否したら、リストから好きな女性を選ばせてくれる、とういのがありますが、それをしたくても威圧感が凄くて、進言出来る男性はごく僅かでした。

余談ですが、この当時は女性が1人で稼ぎ続ける事が難しい時代でした。

よって、女性が26歳も過ぎると、持参金を付けて嫁がせるなんて事もあったのです。

現在では、26歳なんてまだまだ若いですよね。

そう思うのは、平均寿命が延びたからなのでしょう。

人間、個人差はあるにせよ、衰えとは隣り合わせなので、若い時にしか出来ない事を優先に事を運んでいけばいいのではないかと思います。

これから結婚する方には、不安を与えてしまったかも知れませんが、子供から多くの事を学ぶ機会があると思いますので、ご安心下さい。

現在においても、子供に勝る投資先はそんなには無いはずですから。

最後に、数ある小説の中からこのお話を読んで頂きまして、誠にありがとうございました。

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