◇9.ル・サングリエ再び
午後の講義が終わった後、もう一度時計塔を覗く。やっぱり二階の窓は開いていないし、バニラの混じった煙草の残り香も、もう随分薄れてる。たぶん、しばらく誰もここで煙草を吸っていないんだと、私は思った。
最近、私はアザミと顔を合わせていない。時々忘れそうになるけど彼女とは学年も違うし、お互いの予定が合わなくて数日会えないなんて事は、これまでも何度かあった。私もそろそろ実習が立て込んできていたし、アザミも学会とか論文執筆で忙しい時期に入ったのかな、なんて初めは軽く考えていた。でも、流石に一週間は長い。
しょうがないから、私は時計塔を出て文芸サークルの活動場所へ向かう。でも、足は思うように進まない。後ろを振り返って、時計塔を見る。やっぱり、アザミが心配だ。幸い、まだ松永先輩との約束の時間までは余裕がある。私は立ち止まって、スマートフォンで電話を掛けた。
呼び出し音を聞きながら、私は電話口にいるアザミを想像する。頭の中の彼女は、白衣姿で研究室に籠っていて、「前任者のデータが糞で再現性無くてな。検証実験に時間食われてたんよ。ほんまありえへんわ」なんて、眉をひそめて元気そうにボヤいてる。もし本当にそういった状況なら割と悲惨だけど、私としてはそんな理由であって欲しかった。
でも、電話に出たアザミは、私が今まで一緒にいて一度も聞いた事が無いような、しゃがれた声で口を開いた。
「……もしもし」
「もしもし、アザミ? どうしたの、その声? 大丈夫?」
「……ちょっと具合悪くてな。……マンションの部屋で死んでる」
私は、二人で講義を抜け出した時に、車の中でアザミが言っていたことを思い出す。もう、梅雨も本番に近づいて、ここ数日はずっと天候が不安定だ。
「具合悪いの⁉ もしかして、ずっと部屋から出られてない?」
「……せやな」
病院には行ったの? という言葉を言いかけて、止めた。吸血鬼の彼女が病院でまともな診察や治療を受けられるのかすら、私には分からない。
「アザミ、住所教えて。今から行く」
「……ええよ。……今日何曜日や。夏帆、サークルある日やろ。確か」
「いいよ、そんなの。休むから。アザミの方が大事。それより、何か食べたいものとか、買ってきて欲しいものとか無い?」
私はアザミから、住所と欲しい物を聞いて、電話を切った。マップアプリでアザミの住所を検索する。それは、いつも通ってる駅前の近くで、これなら迷わずいけそうだ。彼女が言っていた物はお粥などの軽食と飲み物で、これもコンビニで揃う。あっ、松永先輩にも、休む連絡をしておかなきゃ。
通話を切る。電話越しの松永先輩は何だか怖くて、もしかしたら怒らせてしまったかもしれない。でも、今日は許して欲しい。今度サークルの時に直接会って謝ろう。
私は歩きながら、アザミの食べ物の好みについて、自分が殆ど知らない事に気づいた。彼女の吸っている煙草の銘柄さえ、頭におぼろげなイメージは浮かぶけど何という商品名なのかは分からない。お粥はそんなに種類が無いから良いけど。飲み物は体調不良の時の定番のスポーツドリンクでいいのかな。お茶? それとも、血? 電話でもっと詳しく聞いておくんだったなと、私は少し後悔した。お金は……、電子マネーに結構入ってる。たぶん、足りるはず。通り道だし、寄っていこう。空を見上げると、黒い入道雲が迫っていた。一雨降るかもしれない。急がないと。
物語に出てくる秘密の場所みたいに、一人で行くと永遠に辿り着けないかもと不安だったけど、私は意外とすぐにサイトウさんのお店を見つけられた。マップアプリは、やっぱり便利。文明の利器は偉大だ。閉店前のル・サングリエは、おすすめのワインが書かれた黒い立て看板や、ワインボトル型の大きなバルーンが店頭に置かれていて、前回よりも難易度が下がっていた。そして、日没前の活気のある商店街の街並みに上手く溶け込んでいる。
『オープン』の札が掛かった扉を引く。店内は空調が効いていて、とても快適だ。涼んでいると、前回と同じようにサイトウさんがお店の奥から現れた。彼は今日も長袖のワイシャツにグレーのベストをクールに着こなしている。
「いらっしゃいませ。おや、貴女は確か」
「こんにちは。三浜夏帆です。アザミの友達で、前回一緒にお邪魔しました」
「あぁ、そうでしたね。こんにちは、サイトウです。以後お見知りおきを。それで三浜様、本日はどういった御用でしょうか?」
サイトウさんは、にこやかな笑みを浮かべる。そういえば、アザミは何て注文していたっけ? シミュレーションゲームなら、選択肢がある所なんだけど。目を凝らしても、メッセージウインドウは出てくれない。
「えっと、フルボトルの夕暮れの薔薇を一本、お願いできますか?」
彼の眉がピクッと動いた気がした。笑顔は張り付いたままだ。私はサイトウさんがレジの裏に行って、血の入ったワインボトルを持ってきてくれるのを待っていた。だけど、彼は微動だにしない。重い沈黙が圧し掛かる。
「あれ、あの……」
私の狼狽っぷりに見かねたのか、サイトウさんが口を動かす。でも、何を言っているのか聞き取れない。私はカウンター越しに背伸びして、彼に近づく。サイトウさんは軽く舌打ちして、屈んで私の耳元まで寄って囁く。
「薔薇の夕暮れ。薔薇の、夕暮れ。逆だ、馬鹿」
舌打ちと馬鹿と呼ばれた事に多少傷つきながら離れると、サイトウさんはさっきと全く同じ笑みを浮かべていた。それが逆に怖い。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
「……フルボトルの薔薇の夕暮れを一本、お願いします」
「承りました」
そう言って、ようやく彼はバックヤードへと消えた。足早に私はレジの方に移動する。レジには電子マネー対応と書かれたポップが張られていて一安心だ。
「お待たせしました」
サイトウさんが、保冷バックを持って戻ってくる。それを私は受け取った。
「ありがとうございます。会計は電子マネーで」
彼の眉が、またピクリと動く。今度は、はっきりと。でも、理由が分からない。
「三浜様。申し訳ありませんが、電子マネーには対応しておりません」
「えっ、でもここに」
私が訴える様にレジのポップを指差すと、サイトウさんの細い目が開いた。そして、店頭から店の奥まで流れるように見渡す。
「他にお客様は、いませんね。……あのさぁ、電子マネーなんかで払うと足がつくだろうが」
サイトウさんは威圧感を出しながら、腕組みして私を見下ろす。その顔は初めて見るものだ。そして、私から保冷バックを取り上げた。
「えっ、あっ、すみません」
「きみ、普通の人だろ? 危なっかしいし、俺としては貴女にこれ、売りたくないんだけど。何でこれが必要なの? ふざけた理由なら、俺も対応を考えないといけない。だから真面目に答えて」
冷たい目つきが私を見つめる。周りは嘘みたいに静かで、シーリングファンの回転する音だけが聞こえていた。
「最近アザミが体調不良で大学を休んでて、今日これからお見舞に行くんです。それで、私の独断で、ここのワインも必要かもしれないと思って、買いに来ました。だから、社会的に消されるなら私だけで……」
サイトウさんは私の顔の前に手をかざして、言葉を遮った。そして、食い気味に質問してくる。
「白城が? 何でそれを早く言わないんだよ。いつ頃から?」
「えっと、一週間くらい前からです」
彼は前に突き出した手を戻して顎に当て、少し考えている様だった。
「一週間か。まぁ、それくらいなら。それで、現金は持ってるのか?」
「すぐにATMで下してきます」
私の言葉に、サイトウさんは大きなため息を吐いた。
「もういいよ。今回は俺が立て替えておくから」
「えっ、でも」
「学生にとっては大金だろ? そのかわり成人したら、この店でワインを買ってくれ。今度は普通の客として。それでチャラだ」
そう言いながら、彼はもう一度私の前に保冷バックを差し出した。それを受け取りながら、私は頭を下げる。
「分かりました。ありがとうございます。アザミにもサイトウさんが心配してたって、伝えておきますね」
「……埋めるよマジで。余計な事、言わなくていいから。俺の気が変わらないうちに、早く見舞いに行ってやれ」
サイトウさんは面倒くさそうに頭を掻く。その顔を見ながら、私は素のサイトウさんの方が全然人間味があるのに、と思う。
でも、お店の扉を開ける時にもう一度振り返ると、彼はもう執事風の笑みを顔に浮かべ直して、スマートに立っていた。