◇8.シネ・リュミエール
近くのコインパーキングに車を停めて徒歩数分、雑居ビルや飲食店が立ち並ぶ一角に、それはあった。レトロな赤レンガ壁の小さなビルに、『シネ・リュミエール』と書かれた昔ながらの看板と、鉄製の映写機のモニュメントが取り付けられている。アーチ型の入口を抜けると、アンティーク調のカウチやスツールが置かれていて、常連客と思われる人たちがそこで映画談義に花を咲かせていた。歴史を感じさせる壁には、ところ狭しと映画関係者のサインが書かれ、その下には自由に読める映画雑誌が陳列されている。そして、今時珍しい大きな喫煙スペースもあって、アザミのお眼鏡に適ったのは、たぶんこういうところも関係しているんだな、と私は思った。
「アザミ、煙草吸っとく?」
「ん。まずは、上映時間の確認せな。余裕あったら吸いたいけど、時間なかったら観終わってからでええよ」
「そうだね。わかった」
ロビーを進むと大きな木製のカウンターがあって、味のある顔のおじさんが立っていた。その奥が上映室になっているみたいだ。おじさんに聞くと、スクリーンは二つあって、どちらも80席程度の大きさ。次の上映時間までは約30分、座席はまだ空いていて二種類の映画から選べるようだった。上映室の入口に置いてあるポスターを二人で並んで見比べる。何気に、こういう時間が一番楽しいような気がする。時間に余裕はあった筈なのに、悩んでいるといつの間にか時間は経っていて、アザミの煙草タイムは無くなってしまった。口惜しそうに喫煙スペースを見つめるアザミの手を引いて、急いでカウンターでチケットを買う。
私たちがチケットを購入したのは、『砂塵の瞳』という映画だ。そのポスターは、荒廃して、ひび割れた赤茶色の地面の写真の中央に『砂塵の瞳』と書かれているだけで、俳優は一人も映っていない。煽り文句もない。内容は全く分からないけど、そのシンプルさやタイトルの意味に興味を惹かれる。最後まで二人で悩んだけど、今回初めて来た私にアザミは選ばせてくれた。
上映室に入ると、また驚かされる。海中をイメージしているのか、天井には波立つ水面が描かれ、水中の泡をイメージした雫状のデザインのインテリアがいくつも設置されていた。座席は紺色のベルベット地のもので統一されていて、間接照明で天井から座席に近づくにつれて少しずつ暗くなるようなデザインが施されている。私は気付けば、殆ど無意識にスマートフォンを取り出して写真を撮っていた。
「気持ちは分かるけどさ。時間ないよ?」
今度はアザミが私の手を握って、座席へ誘導する。ふかふかの椅子に座りながら、映画を観終わったら、外観やロビーの方も忘れず写真を撮っておこうと私は心に決めた。
「前、来た時に常連っぽいおばちゃんが教えてくれたんやけど。この上映室、地元の芸術家の人がデザインしたらしいんよ。どう? 気に入った?」
「うん。凄く好き」
「そか。なら、今日連れてこれて良かったわ。あ、ほらもう始まるみたいやで。暗なってきた」
アザミの言葉通り、間接照明が落とされ、上映室は一気に暗くなる。上映を告げるブザーが鳴り、観客は話すのを止めて、上映室はしんと静まり返った。そして、スクリーンが輝き始める。
始まった映画のジャンルはノンフィクションのヒューマンドラマだった。
一人の戦場カメラマンが内戦の起こっている異国に赴き、戦地の現実を伝えるために取材を続けていく姿に密着する、という内容だ。彼は、現地の子供たちが戦火に苦しみ亡くなっていくのに、直接助けられないというジレンマを抱えながら、それでもシャッターを切る。『砂塵の瞳』というタイトルは、戦地で横たわる遺体の物言わぬ瞳であり、それを撮影するカメラマンのレンズを意味していた。
映画をエンドロールまで見終えた後、私は上映室を出てから、しばらく一言も発せなかった。アザミも何も言わなかった。アザミが喫煙スペースで煙草を吸い始め、慣れ親しんだ匂いを嗅いで、ようやく私は気持ちを整理して口を開いた。
「……なんか、ごめんね。あんな重い内容だと思わなかった」
「まぁ、でも良い映画やったやん? こういう機会じゃないと見―へんタイプやと思うし。たまにはええんちゃう? あと、ハンカチあるから、顔ふき」
私は彼女からシルクのハンカチを借りて、目頭を拭った。
「ねぇ、アザミ。私って小説書いてるって、初対面の時言ったでしょ?」
「ん。知っとるよ」
アザミは頷く。
「今日の映画みたいなのを観るとね。凄く落ち込むし、不安になるの。もちろん、それは観た作品に込められた、メッセージの重さに打ちのめされるのもあるんだけど。でも、それだけじゃなくて。私がどれだけ良い物語を書いた気になっても、実際に起こったノンフィクションを前にしたら、自分の小説なんて何の価値もないような気がして……。やっぱり、創作は現実には敵わないのかな」
彼女は、しばらく黙って煙草を吸っていた。そして煙と共に、ぽつりと呟く。
「小説の事は詳しく分からへんけど。ウチはさ、努力した人とか良い行いをした人は報われて欲しいし、悪い奴は裁かれるべきやと思ってるんよ。だから、そういう話は好き。でも、現実は必ずそうなる訳ちゃうやん。もしかしたら、逆の方が多いかもしれへん。さっきの映画だって、亡くなった人は戻ってこーへんし、戦争を起こしてる張本人は何の罰も受けてへんかったやろ? でも、フィクションならって言うか。フィクションだからこそ、現実でどうしようもない事柄にも希望を与える事が出来るんちゃう?」
アザミが何気なしに発した言葉が、作家の使命や本質に触れているように私には思えて、心の中で何度も反芻を繰り返した。あれ以来、小説を書いていて、心が折れそうになったり、悩んだりした時には、スマートフォンに保存した映画館の写真を見ながら、アザミを思い出す。
彼女の言葉が今も、私の胸の大事な部分で輝いている。