◆6.近いけれど、果てしなく遠い
正直に言って、僕は少し苛ついていた。でもそれは、別に目の前の三浜さんが大学内のラウンジで原稿を見せ合う日なのに、白紙を持ってきたからじゃない。もちろん、大学生活の中でどうしても執筆時間が作れないタイミングはある。それに、創作活動をしていたらスランプなんて、たぶん誰にでも起こり得ることだ。だから、そんな事は別にどうでもよかった。
じゃあ、具体的に何が気がかりなのかと言えば、白紙だった事なんて、これまで一度も無かったのに、当の本人を見るに、深刻に悩んでいる様にはどうしても思えなくて、何処か心ここにあらずな体に感じるという点だ。それに、個人の交友関係や趣味嗜好に口を出す気はさらさらないけれど、最近面と向かった彼女から匂う煙草臭にも、不快さを感じないと言えば嘘になる。
「三浜さんは、春休みの時に話してたホラー系の公募は、もう参加しないつもりなの?」
僕は極力感情を押し殺すように意識して話した。
「今のところ、そうですね。ただ、まだこの通り全然まとまってないんですけど、書きたいものはあるんです」
彼女の顔から、僕の本心が伝わったのかは読み取れない。何を考えているかも分からない。
「その、現代を舞台とした吸血鬼の話を今考えていて」
「現代を舞台にした吸血鬼の話」
僕は無意味に繰り返しながら、そのテーマについて考える。
「……吸血鬼なら、怪物としての側面に注視して、ダークな雰囲気を醸し出しながら、大衆が抱く恐怖とかサスペンス要素を強調すれば、ホラージャンルとして成り立つし、例の公募にも出せるんじゃないか? 古典的だけど、吸血鬼が人を襲って口から血を滴らせるシーンとかは、やっぱり絵になる。それに、ヒーローが吸血気を退治する理由やエピソードに趣向を凝らして、現代舞台ならではのオリジナリティを出せれば、結構魅力的に映ると思うな。まぁ、今から書き始めて公募に間に合うかは三浜さん次第だけど」
話しながら僕の頭の中で、三浜さんに未だ腹を立てている自分と、何をべらべら語っているんだと冷ややかな視線を送る自分、そして彼女がやる気を取り戻して「やっぱり、公募に向けて頑張って書き始めます」と高らかに決意表明しないだろうかと淡い期待を抱く自分、計三人が居合わせた。そして、それぞれが三浜さんの返答を待っている。
「いや、その、猟奇的なサスペンスじゃなくて、吸血鬼と人間の友情とか、恋愛とか、登場人物が交流を通じて成長していく、みたいな話を書きたくて。でも、それってホラーじゃないですよね?」
「……違うね」
とりあえず脳内の淡い期待を抱く馬鹿は死んだ。
「今、吸血鬼を怪物として描写する作品を古典的って評したけど、吸血鬼が登場する友情や恋愛をテーマにした作品も既にたくさんあるよ。それも、手垢が付きすぎてるぐらいに。吸血鬼が実在すると考えられていた昔と違って、今は架空の存在、ファンタジーの一種としてエンタメで消費されているのが現状だから。聞いておきたいんだけど、三浜さんの中で吸血鬼ってどういったイメージなの?」
彼女は天井を見上げながら、顎に手をあてる。
「私の中の吸血鬼のイメージですか? 周りより少し大人びていて。一匹狼なところがあるけど、実は優しくて。かと思えば、子供っぽい部分もあって」
「ちょっとまって」
僕は無性に頭が痛くなってきた。
「僕が聞きたいのはそういう事じゃない。つまり、吸血鬼の持つ特性や能力をストーリーにどう影響させるのか、そこが作者の腕の見せ所なんだよ。例えば、血液はどうやって手に入れているのか、日中はどう過ごしているのか、とか色々あるでしょ。ただ単に友情とか恋愛を描写したいだけなら、吸血鬼を登場させる意味はないんだよ。三浜さんは、もっと吸血鬼って存在を勉強した方がいい。伝承や他の創作物でも何でもいいから。知っておけばイメージを膨らませるのに役に立つ。別にそれを真似しろって言ってる訳じゃなくてさ。本当の吸血鬼が身近に居て、そいつに直接聞ければ、もっと近道なんだけど」
僕の冗談に三浜さんは今日初めて笑顔を見せた。その顔を見るだけで彼女への怒りが沈んでいくのを感じるし、やっぱりそんな自分が少し腹立たしい。
「そうですね。松永先輩の言う通りだと思います。確かにもっと吸血鬼について知るべきですね。色々と自分で調べてから、身近な吸血鬼にも質問してみます」
「三浜さんが冗談に乗っかるなんて珍しいな。まぁ、焦らずがんばって。……今日はもうここでする事も無いし、解散にしようか」
「はい。今日はすみませんでした。ありがとうございました」
三浜さんは深く頭を下げて、ラウンジを後にした。
遠ざかる彼女を見つめながら、どうあれ彼女の助けになったのなら良かったと思う。それでも、僕を包み込む漠然とした不安は完全には拭いされない。少し前まで身近に感じていた彼女が、今は距離が測れないくらい離れてしまったような錯覚が胸に残る。
僕は他の有象無象と同じように、三浜さんが小説に興味を無くして筆を折り、自分の元から去って行く事を恐れていた。