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◇16.研究室にて

 誕生日にアザミとゆびきりしてから、私はどんな物語にするか一人唸っている。だって、何もしない訳にはいかない。このまま順当にいけば、彼女の方が先に大学院を卒業する。もちろん、社会人になってからも休日には会えるし、一緒に遊びに行く事も出来るだろうけど、自由に使える時間は二人ともモラトリアム期間中の、今が一番多いはずだ。……それに寿命だって、吸血鬼と人間が同じかは分からない。

 だから、私はストーリーを考え始めてから、出来る限りアザミと一緒にいた。去年の長期休暇は実家に帰ったけど、今年は帰省せず試験勉強の時と同じように彼女の部屋で小説を書いている。創作が煮詰まれば、アザミの誘いでシネ・リュミエールに行って映画を観たり、彼女の車で意味も無く隣の県までドライブもした。それから二人で料理を作って、夕食にはル・サングリエで買ったワインを飲んだ。そんな何気ないけど今しかない幸せな日常を、私は写真を撮っては文章に起こしている。これ自体は殆ど日記みたいなもので、小説とは呼べない代物だ。でも、その一つ一つに大切なものが隠されている気がして、私はそれを探し続けてる。でも夏休みが明けると、私の焦りを嘲笑うみたいに学生生活はどんどん忙しくなった。



 とっぷり日が暮れて薄暗い渡り廊下を急ぎ足で歩く。普段入らない研究棟に繋がる重い扉を押すと、有機溶媒の混じった匂いが鼻先を刺激した。古い薬箱や歯医者さんの待合室のイメージが脳裏をよぎる。狭い廊下には沿うようにたくさんの機械が置かれていて、雑然とした雰囲気だ。でも、どちらも私は嫌いじゃない。入口近くでは濁った黄色い液体入りの大きな三角フラスコや大量の試験管がガシャンガシャンと音を立てて、幾つもの箱型の機械の中で揺れ動かされている。階段下の私物を入れるロッカーの隣では、太った白衣姿の学生が武骨な洗濯機みたいな機械を弄っていて。彼が回転式の蓋を開けた途端、大量の白い蒸気が廊下に充満して視界を奪った。体に害は無いんだろうけど、私は眉間に皺を寄せながら口をきつく閉じて、彼の隣を通り抜ける。肩をすぼめながら進むと、知った名前をようやく見つけた。第二応用微生物学研究室と書かれた扉の横にある回転式の名前表示盤は、『白城アザミ』だけが在室を示す白になっている。私は研究室の扉をノックしてから、おそるおそる中に入った。

「……失礼しまーす」

 でも、返事は無い。私は扉から顔だけ出して、彼女の名前を確認してみる。白城アザミ、白だから在室。うん、合ってる。もう一度大きな声で失礼しますと言うべきか迷っていたら、ようやく奥の方から聞き覚えのある声がした。

「夏帆か? 今、手―離されへんねん。入ってきてええよ」

 私がピペットやメスシリンダーなどの実験器具が置かれた棚を横切って奥へ進むと、白衣姿のアザミが大きなガラス張りの作業台の前に座って手を突っ込んでいた。作業台の中には火の付いたガスバーナーが置いてあって。彼女は先が丸く加工された耳かきのような道具を器用に使って、シャーレの中の寒天にジグザグな線を引いている。遊んでいる訳ではなさそうだ。久しぶりの白衣姿の彼女を私はスマートフォンのカメラに収めた。

「それって、今何してるの?」

「画線塗抹」

「……何?」

 多分間抜けな表情をしていたんだろう。アザミは私の顔を横目でちらりと見て、作業の手を止めた。

「夏帆は他学科やから、知らへんか。ほな、たまには院生らしい事でもしよか。ウチがいま手突っ込んでるこれは、クリーンベンチっていってな。天板にフィルターの付いたファンがあって、中に清浄空気を送り続けてる。この中で作業する事で無菌的な操作が出来るんよ。で、ウチは今、研究に使ってる酵母の継代培養をしてる。この白金耳って針金みたいなので古い培地からコロニーを採取して、新しいのに移す。寒天培地も段々乾燥してくるからな。定期的にこうやって新しい培地に植え替えてやらんと、菌が死んでしまうんよ」

 アザミは説明しながら、ゆっくりと一連の作業を見せてくれる。けど、私の頭には全く入ってこない。

「あー、なるほど。そういう事ね」

 腕を組んで適当に相槌を打ってみる。

「その顔は絶対分かってへんな。まぁ、もうちょっとで終わるから待っててや。そこらへんの椅子持ってきて、座ってええから。夏帆は今日サークルの日やっけ」

 言われた通り、近くにあったキャスター付きの丸イスを引っ張ってきて、邪魔にならない程度の距離で腰を下ろした。

「サークルの日だけど、行ったらもう終わってた。今、週3回も実習あるんだよ? 今日もさっきまで実習。帰ったらまたレポート書かないと。まだ前のレポートの提出期限前なのに、明後日には違う実習が待ち構えているっておかしくない? カリキュラム考えた人、絶対性格悪いよ。そろそろ文化祭の準備もしないといけないのに」

 彼女は手を動かしながら、けらけらと笑う。

「まぁ、気持ちは分かるけど。あんま、ここでそういう事言わんほうがええで。研究室って奥に教授の机あるからさ」

「げっ。……その、今は奥にいらっしゃる? 挨拶とかした方がいいの?」

 集中しているのか、アザミは中々答えてくれない。私がしびれを切らして肩辺りをちょんちょんとつつくと、ニヤリと笑った。やっぱり、わざとだ。

「特に用事もないなら、仕事の邪魔になるだけやからいらんよ。それに残念ながら、今日はもう帰りはった。ウチは一時期けっこう休んでたから、自主的に残業してるだけー」

 彼女の言葉に、私は胸を撫で下ろした。

「そうだ、アザミは文化祭忙しいの? 良かったら、今年の文化祭一緒に回ろうよ」

「ええよー。研究室の展示物の案内あるけど、午後からはいけると思うわ。文芸サークルは模擬店とかやんの?」

 私は忘れないように、スマートフォンのメモ帳に書き込みながら、返事をする。

「午後、ね。文芸サークルはね、食べ物を売るとかじゃなくて、部誌書くの。サークルのメンバーが書いた短編小説をまとめた冊子を毎年配布してて。ただ、この調子じゃ間に合いそうにないんだよね」

 それに、松永先輩とも、まだ拗れたままだ。何度か謝ろうとしたけど、結局きちんと話せていない。あれから、先輩には露骨に避けられている気がして、とても気まずい。私が大きなため息を吐くと、アザミの手が止まる。

「別に絶対に書かなあかんわけちゃうやろ? 幹事とか上級生も学科によっては忙しい時期やって分かってるやろうし」

「そうだけど。文化祭用の短編すら苦戦してる私がプロになんてなれるのかなって。それこそ、世間の吸血鬼に対する認知を変えるような作品なんて本当に書けるのかなって思っちゃうよ、やっぱり」

「ふうん?」

 彼女はシャーレを数枚塗り終わると、白金耳をガスバーナーの炎に潜らせた。ジュっという音と共に白金耳の先がすぐに赤くなる。その間、アザミはしばらく黙っていた。

「やる事が全部うまくいくなら、そりゃ理想的でええけどさ。実際そうはいかへんよ。ウチの研究だって、訳わからんデータ出て頭抱えることあるし。でも、原因を考えて、実験方法見直したりして、次に繋げるわけ。夏帆だって、夏休み前は料理凄かったけど、困ったらカレールーぶち込むのやめて、味見するようになって、包丁の使い方も上手なって、食べれるレベルにはなってきたやん。小説書くのも、それと一緒ちゃう?」

 私が彼女の言葉を消化しようと唸っている横で、アザミは後片づけを始めた。クリーンベンチ内のガスバーナーの火を消して、画線塗抹したシャーレを何処かに持っていく。そして、すぐに戻ってきた。

「……まぁ、落ち込んでるだけじゃ変わらないよね」

 そういえば、電話で松永先輩も似たような事を言っていたような。

「せやね。失敗したらしたで、次に生かせばええんよ」

 アザミはエタノールを染みこませた紙タオルで作業スペースを拭きながら、にっこりと笑う。

「ありがと。ちょっと元気出た。ねぇ、なんか手伝う事ある?」

「ううん。ええよ。もう終わりやし」

 クリーンベンチのライトをUVに切り替えて、彼女は大きく伸びをした。おへそがちらっと見えたのでつつこうとするけど、華麗に避けられて笑ってしまう。

「帰ろか。今からご飯作るのめんどくさいし、どっか食べにいかん?」

「いいね! アザミは何食べたい?」

「せやなぁ」

 私たちは薬品棚や窓の施錠を確認してから部屋の照明を消して、青白いUVランプだけが静かに光る研究室を後にした。


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