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森の中にいる

作者: Aoi Lia

「こんばんは」と久美子が僕に挨拶をした。僕は、軽く会釈をし、「どうぞ」と言って、彼女を席に座らせた。部屋の壁や天井は白に統一され、蛍光灯の照明は明るかった。僕らの身体には色の濃い影があった。

「宗孝先生に会うようになってから、人生が変わりました。前向きになったというか、負の部分を見つめなおすことができるようになりました」

「それは良かった」僕は笑顔を作った。「僕は心理カウンセラーではないから、最初はこの申し出に戸惑ったけど、依頼を受けて良かったと思っている」

「先生はカウンセラーに向いていると思います。実直だし、優しいし、人の話をよく聞くし」

「大学で心理学をかじっただけだよ。実際は、人の心などまるで分かっていない。雑誌の編集の仕事も向いているかどうか分からないけどね」

「先生の書く文章は好きです」

「ありがとう」僕は笑った。窓の外を見やると、東京の明かりがぱっと広がっていた。久美子は出会った当初、人に不信を抱いていて、世間の何もかもに冷たくされていたという感じだった。不登校の女子高生で、今までに本職のカウンセラーと対面したことも何度かあったが関係は続かなかった。彼女は大学時代の友人の姪だった。彼の紹介で僕と知り合った。

「東京には人がいないの」しばらくすると、久美子は呟くように言った。

「東京には人がいない?」僕はその言葉を繰り返した。

 彼女はゆっくりと頷くと、テーブルの上のコーヒーを飲み、膝を揃えた。

「私は趣味で絵を描くけど、どうしても人物が描けない。建物ばかり」

「どうしてだい?」

「人がいないから」

「なるほどね」

 僕は表情を取り繕った。「だったら、僕も人じゃないのだろうか?」

「先生は人よ。だから、私は安心している。学校のクラスメートは、人ではないわ。何か別の種類の生き物。私は心を通わすことができないでいる。彼らのことは苦手だし、嫌いなの」

 久美子は白い指を確かめるように伸ばし、苦く笑った。

「長い洞窟の中を灯かりもなしに、歩いている日々だった。先生は灯なのよ。周りを明るく照らし出し、すべてのものを露わにするような」

「そういったことは、初めて言われたね」僕は長袖シャツの裾を引っ張った。「来週から学校には行けそうかい?」

「なんとか」

 僕は嬉しくなった。久美子は壁にあるスイッチを切って、蛍光灯を消した。代わりに、タッチ式のデスクライトを付けた。仄かな灯かりが部屋の一部分に光を投げかけた。彼女の身体にはより深い陰影が浮かび上がり、その細い体躯は静けさを含んでいた。

「いつまでもこのままじゃいけないと思って」

「確かに、学校へ行かないことには前進しないよね。君は、芸大に行きたいんだよね? だったら、やっぱり高校を卒業することが手っ取り早いよ」

「そうよ。油をするの。高校を卒業して、芸大の試験を受ける」

 彼女は寝静まったような表情をした。デスクライトの淡い光が、彼女の周りを薄い雲のように漂っていた。

「どうしたんだい?」僕はきょとんとした目で、彼女を見た。

「先生には、どうして恋人がいないの? ずいぶんと魅力的なのに」

「どうしてだろうね? 五年前に妻と別れて以降、女性と付き合ったことがない」

「奥さんはどんな人だった?」

 僕はその質問を空中に浮かべたまま、少しばかり思い出してみた。

「明るい女性だったよ」

「ふうん」

「僕たちは求め合って結婚に至った。しかし、結局は駄目になった。ある日、家に帰ってみると、妻の姿はなかった。手紙と離婚届けがあった。彼女は山形の実家に戻っていた。数回、手紙のやり取りをして、僕は離婚を決意した。僕たちのあいだにある海の底のような深い溝は手紙なんかでは埋まらなかったし、会うことは叶わなかった。彼女の意思は固かったし、信念みたいなものを感じた」

「ふうん。結婚生活って難しいのね。私は簡単に考えている節があるけど、そんな話を聞くと怖くなってしまう」

 僕は立ち上がって、ズボンのポケットに手を突っ込んでゆっくりと歩いた。久美子は座ったままだった。

「また、チャンスはあるわよ。きっと」

「ありがとう」

「雑誌社の仕事は忙しい?」

「それなりに」

「多忙の中、カウンセリングを行ってくれてありがとう。私は、宗孝先生がいなかったら、もう学校を辞めていたかもしれない。本当に、感謝しているのよ。心の底から」

 僕は久美子の明るい表情を見て取った。ひとつ、安心をした。

「今日が最後の面談にした方が良いようだね。表情もずいぶん良くなったし、話し方も変わった。二ヵ月前とは、まるで別人みたいだ。もちろん、このまま続けることもありだけど、何事にも区切りは必要だよ」

「先生は、私のことが好きでしょう?」

「好きだね。ライクだけど」

「ライクか……」彼女は動きを止めると、かなり残念そうな顔をした。「面談、もう少し延長しない? 一人で学校へ通えるか不安だし、先生は東京でやっと出会った人間だもの。私はこの縁を大事にしたい」

僕は少し考えてから述べた。「良いよ」

「今度はカウンセリングルームじゃなくて、街で会いたい。映画へ行ったりとか、ショッピングへ行ったりとか、カフェで談笑したりとか」

 僕はその申し出に戸惑った。久美子は僕に向かってにっこりと笑った。

「先生とはフィーリングが合うのよ」

 彼女は小さな手を打った。音がカウンセリングルームに響いた。

 その言葉は、僕にとって魔法のように届いた。鼓膜を打ち、脳の隅々までに至った。

「それはカウンセラーに対する恋愛感情の転移と言ってね……」

 彼女はその左手で、僕の膝をズボンの上からゆっくりとさすった。

「怖いものはもうないの」と彼女は小さな声で呟いた。「東京は怖いものだらけだった。建物も、街並みも響き渡るそれぞれの音楽も」

 久美子はゆっくりと嗚咽した。頬には透明な涙が光り、とめどなく流れる。やがて、うつむいた。身体を小刻みに震わせ、ほっそりとした指を組んだ。僕はそんな彼女の様子を眺めているうちに、彼女ともうしばらく付き合っても良いかなと感じた。本当に心細いのだ。この東京という街に、そこに関わっている人々に対して、不信感と嫌悪感を抱いている。僕はそんなふうに思った。

「最初のデートはどこが良い?」僕は久美子に優しく訊いた。

「さて、どこかしら? 映画館とか」

「来週の日曜日空いている?」

「空いている」

「また、ラインで連絡する」

「ありがとう」

「どういたしまして」僕は笑った。彼女は泣くことをやめ、表情を取り戻した。怖いものなんてもうないの、と彼女は先ほど言った。その言葉の鋭角的な響き方は、不可思議な感触だった。僕は何故だろうか、あの日の恐怖を思い出していた。由紀子の置手紙を読んだとき、急に身の回りのすべてが怖くなった。凍り付いたみたいに、僕自身、動くことができなかった。僕はあの日、酒に酔って帰ってきて、朗らかな気分だったが、一瞬にしてすべてがどこかに吹き飛んだ。夜も眠らずに、彼女の帰りを待った。その手紙には、二度と帰ることはないと書いてあった。それにもかかわらず、僕は待ち続けた。三度、長い手紙を送った。しかし、返事はにべもなく、取って付けたようなものだった。妻を失って、僕の心境と行動は変化した。周りの人々に、透明な壁を張り巡らし、孤独を好み、孤独に慣れ親しみ、自分自身を嫌った。どのような女性も抱くことはなかった。妻が懐かしいとか、忘れることができないというわけではなく、ただ単に事実を事実として受け止めることに、多大な時間が掛かるということだった。

 僕はそのようにして五年間を生きてきた。少なからずの人々と出会い、いろいろな物が流れ、長い時間が経過した。僕の人格の中身は、大幅に変化した。その変化についていくのは、苦しい作業だった。僕は何かを求めながら、一方で別の何かを諦めるようになっていた。そのことは、僕の心をしばしば愕然とさせた。長い時間は、忘却の為に多くを費やした。僕はその現実を忘れたかった。記憶から焼き払い、消去したかった。僕は前の妻のことを思い出すと、目立たないようにため息をついた。  

冷たくなったコーヒーを飲み、今夜のカウンセリングは終了した。僕と久美子はカウンセリングルームを引き上げた。秋の夜の風は、冷たかった。僕はコートのポケットに、両手を突っ込んだ。彼女は携帯電話で家に連絡を入れた。しばらくすると、黒塗りのロールスロイスが迎えにきて、僕たちはその車に乗った。車内では白い手袋をした運転手が重厚な雰囲気で運転し、僕と久美子は終始無言だった。車窓からは、東京の夜景が流れていった。美しく、きらびやかなネオンの点在は、まるで記号のように僕の脳裏に映った。

 港区のある区画で久美子を下ろすと、運転手は僕の家まで送った。車内には弦楽器と男性のヴォーカルが響いていた。ジャズだった。街の外には静寂と止まった人々の姿があった。

「水上様とお会いするようになって、お嬢様は本当に明るくなりました。性格がより良い方向に変わったのです」

 丁寧にハンドルを切りながら、初老の運転手は言った。「まるで、見違えるみたいですね」

「そうですか」僕は短く返答をした。

「私は鈴木家にお世話になって、二十年になります。久美子お嬢様が生まれる前から、私は鈴木家のことを知っていますし、ご主人様には深い畏敬の念を抱いております。水上様がこの依頼を引き受けてくださる以前、鈴木家は不幸の底でした。久美子お嬢様は一人娘です。ご両親は手塩にかけ、大きな愛情を持って、育てられた。ところで、人はトンネルに入ったとき、その出口が存在しないと知ったら、いったいどのような気持ちになるでしょうね? 真に、そういった鉛のような重たい心境だったのです」

「察するに余りあります」

「久美子お嬢様は、おそらくあなたのことを愛しています。顔つきを見ると、私には分かります」

「僕は……」返答に窮すると、運転手はルームミラー越しに笑った。「年頃の女の子には、よくあることです」

「そうですよね」

 僕たちはまた黙った。彼は自宅まで送り届けると、深々と頭を下げた。

「久美子お嬢様をこれからもよろしくお願いします」

「分かりました。今夜はどうもありがとう」僕は笑った。

 ロールスロイスは南の方へ向かって、走り去っていった。僕はオートロックのドアを開け、エレベーターに乗って部屋に帰った。そこでは、雑誌社の仕事が待っていた。キッチンでコーヒーを作り、煙草を一本吸った。紫煙が立ち昇っていった。ポケットに入っていたスマートフォンをテーブルの上に置いて、深く煙を吸って吐いた。


 時間の経過だけが哀しみを癒してくれると何かの本に書いてあった。どの本だったか、今では思い出すことができないでいる。僕はそんなに読書をするほうではないので、探そうと思えば探すことができるのかもしれない。しかし、僕にはそんなことはどうでも良かった。とにかく、そのことは事実だし、真実だった。時間が過ぎ去っていくことによって、僕の哀しみは少しずつ、心の後ろ側の影の方へ下がっていった。

 妻と離婚して五年が過ぎた。僕にとって、この世の災厄を詰め込んだような出来事だったが、今では事実を事実としてありのままに認識することができる。

 由紀子はこの世界の現実が、不確かだったのだ。いったい、何が原因なのかは分からない。たぶん、僕との生活のすべてが原因だったのだろう、と僕は推察している。我々の結婚生活の輪郭は揺らぎ、やがて薄らぎ、幻滅が加わって、最終的に彼女は放棄した。

僕が最初に由紀子のことを好きになった。素敵な女性だった。軽やかで、ファッションセンスがあり、知的だった。学生時代のことだ。結婚生活の始まりは希望に満ちていたが、終盤は焦燥感と深い絶望に満ちていた。

 今では、仕方ないよな、と僕は思う。そう、仕方なかった。離婚する以外に方法がなく、二人で別々の道を歩むことが、妥当で合理的なことのように感じた。

 五年間の空白。長いようで短かった。僕は映画を観て、インターネットをし、読書をした。外国語の個人レッスンを受けたこともあった。数人の女性と仲良くなり、デートへ出掛けた。しかし、うわべだけで付き合うというところまでいかず、部屋に戻るといつも孤独だった。いつの間にか、孤独を愛するようになった。由紀子のことをときどき思い出すが、感傷的にはならないでいた。時間の経過がそうさせたのだ。本に書いてあるとおりだった。

 僕は後退すると同時に、少しずつ前の方へ歩いていった。


 デートの日まで、久美子とラインでやり取りをし、昼間は仕事をこなした。ライター業は淡々とした作業だ。また、人とのネットワークは重要だし、人付き合いもある程度はしないといけない。しかし、僕は事務的に人付き合いをしているだけで、相変わらず腹を割ったような関係になっていなかった。

 もっとも久美子の甥の鈴木剛だけは別で、彼とは大学の同級生だった。剛は法律学を専攻し、司法書士の資格を在学中に取った。そして、法律事務所に就職した。頭の回転が早く、弁論に秀いて、細身で格好良い。三ヵ月前、二人で飲みに行く機会があって、そこで剛は打ち明けた。姪のことで困ったことになっている、と。

 彼は深刻な表情を浮かべていた。最近は不登校が酷くなり、このままでは進級も難しいとのことだった。社会との接点も少ないし、心理学を学んでいたお前がなんとか力になってくれないだろうか、ということだった。僕は承諾した。彼の力になりたかったのだ。

 新宿のカフェで初の顔合わせをし、世間話を久美子とした。初めて会った彼女の印象は、淡いものだった。久美子は僕のことを大変気に入ったみたいで、あっという間にカウンセリングの時間を設けることになった。久美子の家は資産家だったので、専用のカウンセリングルームをレンタルで用意した。また、報酬は多額だった。

「久美子とデートへ行くことになった」僕はスマートフォンで剛に電話で言った。

「カウンセラーとして、それはありなのかい?」彼はいぶかしげな声色だった。

「駄目だろうね」

 彼ははっはっはと笑った。

「兄は君のことを信頼している。すべてを任せても良いと思っている。すべての裁量は君にある」

「若い女の子とデートをするとか、初めてだから緊張するよ」

「いったい、どこへ行くんだ?」

「映画館」

「良いね」

 僕はその日のことを想像すると、少し心が重たくなった。

「洋服は決めてある?」

「なんとなく」

「それも仕事だろう、きっと」

「報酬は入る」

「久美子の人生において、君は重要な役割を担うようになったのだろうね。紹介したかいがあった」

「だけど、本当の恋心は困る。僕は妻と別れて以来、誰とも付き合わないことにしているし、わりあい独りでいることが好きでね」

「君が離婚してから、独りを好むようになったことは知っている」

「だろうね。君とも滅多に会わなくなった」

「そんなにも孤独で寂しくはないかい?」

「いいや」と僕は否定した。「慣れた」

「由紀子さん、今、東京にいるよ。区立の図書館でばったり会ってね。立ち話をした。アパレルメーカーで働いているそうだ。既婚者になっている。子供が一人いるみたいだ」

 僕はとても驚いた。由紀子が東京に戻っている? 頭が一瞬、白くなった。

「どうして今まで僕にそのことを言わなかった?」

「タイミングが分からなくてね」

 僕は立ち尽くした。しばらく、無言の時間が経過した。

「もしもし」剛が言った。「世界は回っている。時間は流れていく。人は相応の変化をし、好むと好まざると関わらず、それぞれの運命は良きにしろ悪きにしろ時間は前進していく。どうか、久美子の気持ちを大切にしてあげて欲しい」

「そのことは思ったより、難しいかもしれない」

「どうして?」

「上手く伝えることができない」

「そうか」

「じゃ……」

 僕は電話を切ると、冷蔵庫を開けて缶のビールを飲み、壁掛け時計を見た。夜の八時だった。駅前のショットバーへ行って、カクテルを頼み、そこにある緩やかな時間の流れを楽しんだ。軽妙に音楽が掛かり、バーテンダーはカクテルを作るために銀色のシェーカーを振った。店内は、微妙な明るさで客は僕一人だった。

 アルコールを取りながら、由紀子のことを微かに想った。すると、夜はますます深まった。店を出て空を見上げると白い月が真円を描いていた。雲もなく、美しい星空は、世界の果てのことを頭に過らせた。なるほど、世界は回っている。僕は部屋に戻るとウイスキーを何杯か飲み、酔いが回るとベッドに潜った。


 渋谷駅の外で久美子と待ち合わせた。僕は待ち合わせの十分前に行ったが、彼女は既にそこに立っていた。ベージュのオータムコートに、深紅のフレアスカート、プラチナのネックレスを身につけていた。風が強く、少し肌寒い季節だった。集合的な人々の中にあって、久美子のファッションと容姿は目を引いた。

「こんにちは」と彼女が言ったので、僕は挨拶を返した。突然、久美子は僕の手を取った。

「行きましょう、もうすぐ上映時間だし」

 僕は一瞬どきりとしたが、すぐに平静に戻った。坂を上り、シネマコンプレックスの場所にまで行って、チケットを二枚買った。邦画だった。

 シアタールームに入った。客はまばらで、空間が目立った。僕たちは中央より前よりの席に座り、一息ついた。

「先生と映画に来ることができるなんて夢みたい」

 僕は何も言わなかった。

「これも仕事なのでしょう?」

「報酬は貰っている」

「剛叔父様は、本当に良い人を紹介してくれたわ」

 照明が暗くなり、音が響き、映画の前のコマーシャルが流れた。僕はぼんやりとそれを観ていた。本編が始まると、ストーリーに引き込まれ、不思議な感触がした。まるで、ヴァーチャル・リアリティーみたいな映像だった。恋愛映画だ。決して報われることがない恋愛にまつわるもので、カメラは回り、役者は動いていた。作りは重厚で、情感はたっぷりとあった。僕はこの映画を集中して眺めた。

 報われない恋愛か、と僕は思った。由紀子はこの街のどこかにいる。会ってみたい? と僕は自身に問いかけた。答えはノーだった。彼女は彼女なりの人生を歩んでいるのだから、過去の属性に位置する僕とは会うべきじゃないし、どこかでばったり顔を合わすということも御免だった。

「宗孝先生」映画が終わって、久美子が呼びかけた。「レストランを予約してあるの、ここから歩いてそう遠くはないし、お散歩も兼ねて歩いていかない?」

「良いよ」

 道玄坂から宮益を通って、表参道へ行った。よく晴れた日曜日の午後。人々は秋の装いをしていた。風は強くなく、街は静かだった。まるで、音という音を取り去ったみたいに。青山の小奇麗なイタリアン・レストランで、久美子はウェイターに挨拶をすると名前を告げた。僕たちはシックな木製のテーブル席に案内された。

「このレストランは、よく家族で来たのよ。水が一杯千円もするの。安心して。代金の請求は、お父さんのところへ行くようになっているから、好きなものを食べて良いわよ」

 店内にはクラシック・ミュージックが掛かっていて、客は僕たちの他に二組だった。

「一番安いランチのセットで良いよ。アルコールは要らない」

「分かった」

 彼女はそう述べるとにっこりと笑い、細身のウェイターを呼び、ランチセットを二つ注文した。

「学校は楽しいかい?」

 彼女は頬杖をついて、ひとしきり考え込んだ。

「楽しくはない。私は相変わらず孤独で、自分の人生がいったいどこへ流れつくか分からない」

「友達を作ると良い」

「できっこないわ。二学期の中盤になると、もうグループが出来上がっているもの。私には入る余地がない」

「クラスメートと少しも話さないの?」

「少しも話さない。これっぽっちも」

 彼女は肩を落とした。「相変わらずつまらない。やっぱり学校に人はいないと思う」

 前菜が運ばれてきた。僕はフォークでそれを食べた。甘い野菜だった。ドレッシングは斬新で、さっぱりとしていて美味しかった。

「じゃ、友達はまったくいないの?」

「そんなことないわ。インターネットを通して、少しだけいる。不登校専門のコミュニティがあって、スカイプのビデオ通話で話している。同い年の男女よ」

「インターネット上の付き合いは、所詮インターネットだよ。生身の触れ合いが大事さ。僕は学生時代、多くの友人がいた。テレビゲームをしたり、バーベキューをしたりしたものだ」

「しかし、今は周りに人がいない」久美子は目を細めて、言った。

 幾つかの料理が運ばれてきて、メインディッシュはチキンだった。皮の表面には軽く焦げ目がついていて、肉感があり、美味しかった。僕はミネラルウォーターを飲み干すと、お代わりをした。

「折り入って、話があるの」と久美子は切り出した。

「なんだい?」

「夜、眠ることができないの。また、学校へ行けなくなるのかもしれない。そうすると、再び世間からドロップアウトした生活を送ることになる。私は馬鹿じゃないし、先生との関係が永遠に続くとは思っていないわ。もう、少しのあいだ夢を見ておきたいだけ」

 そう言うと、目立たないように溜息をついた。

「僕はいったいどうすれば良いかな?」

「少なくとも、高校生のあいだは私の傍にいて欲しい。正式にお付き合いをしてね。私は見た目も悪くないし、性格だって素直よ。先生は前の奥さんの呪縛から、早く解き放たれるべきなの。本当に、忘れ去って欲しいのよ」

僕は少し考えてから「君との関係は、今日で打ち切った方が良さそうだ」と口にした。

久美子の動きが止まった。一瞬で、ぎこちない雰囲気になった。

「どうして?」

「僕とクライアントである君との関係が、最早健全じゃない。君は僕に対して恋愛感情を抱いている。このデートも受けるべきじゃなかったと思う」

 彼女はしばらく黙っていた。僕も沈黙した。

「帰ってよ……」

「分かった」

 僕はウェイターに合図をすると、預けていたコートを手に取って身に着けた。

「今回の報酬は後日、返金しておくね」

「どうぞ、ご勝手に……」久美子は怒りが静まらない様子だった。細い体が小刻みに震えていた。僕はコートを羽織ると、そのレストランを出た。


 夜になってから、久美子の父親に電話を入れた。彼は今までの僕のことをねぎらってくれ、電話の向こう側でおそらく苦笑いを浮かべていた。電話を切ると、スマートフォンを取り出し、久美子のラインを消去しようとしたが、結局そのままにしておいた。いつか困って連絡がくるかもしれない。剛には事の次第をメールに書いて送った。

 僕はキッチンで煙草を一本吸った。僕も孤独だし、久美子も孤独だった。いったい、どうして男性は女性を必要とするのか? などと文学的に考えてみた。少し、昔を思い出す。

「いったい、どうして男性は女性を必要とするの?」

 由紀子は表情を取り去ったまま、僕に質問した。新婚旅行でニューヨークへ行ったときのことで、眼下にはきらびやかな、はなやかな摩天楼が広がっていた。僕はその質問をどうやり過ごしたのかは、よく覚えていない。彼女は幸福な新婚生活に、少しだけ戸惑っていて、少しだけ煩わしく思っているようだった。表情のない表情を見ると、そのことがよく分かった。その戸惑いや煩わしさは、次第に膨れ上がっていった。

 難しい女の子だよ、と周囲の人たちは口を揃えて忠告した。僕は楽観的に捉えていたが、まったくその通りだった。彼女は気難しく、時としてありとあらゆることに臆病だった。

美しく、優雅な側面を持つ一方、悲観的で様々な出来事に打ちひしがれていた。当時僕は、彼女が必要だった。彼女もまた、僕のような人間を必要としていた。それが今では、お互いに必要性が消失し、彼女は違う男性と再婚した。僕はその生活を頭の中で想像してみたが、うまくそうすることができなかった。

 久美子との関係を断って、一ヵ月が過ぎた。久美子はその後もきちんと学校へ通い、勉強に勤しんでいるらしかった。僕は相変わらず、孤独だった。孤独に仕事をし、孤独に酒を飲み、孤独に眠った。

 ある日の土曜日の午後、チャイムが鳴った。ドアを開けてみると、郵便配達人だった。小包で、送り主は鈴木久美子だ。平板で、ずっしりと重たかった。茶色の包装をほどくと、中からは光り輝く油絵が出てきた。建物の絵で、東京スカイツリーと、そこにまつわる人々の絵。大きさはB4サイズくらいで、木製の額縁に入っていた。久美子が描いたものだろう。そこには人が描いてあった。東京には人がいないの、と言って、建物以外は決して描かなかったのに。

 手紙はなく、その絵が一枚入ったきりだった。僕は額縁に付属していた紐を使って、リビングの中央に飾った。

 しばらく、無言でその絵をじっと眺めた。そこには、ある種の輝きが確かにあった。久美子の心の変化が、僕には嬉しかった。その絵には、思いやりが確かにあった。

 ふと、気が付くと、うっすらと涙が出た。涙はやがて大粒になり、カーペットを濡らした。その絵にある温かみと、それを醸成している人々の儚さを眺めていると、自然と感情がこみあがってきたのだ。全身は、脱力していた。僕は左腕で涙を拭くと、ソファに腰を下ろし、ミネラルウォーターを飲んだ。世界は回っている。ここはきっと世界の果てだ。きっと、世界の果てのどこかだ、僕は静かにそう思った。

 




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