葛藤
リサが部屋を去ってからはなんとか眠りにつき、俺は過度な寝不足になることもなく翌朝を迎えることとなった。
月曜日、一週間の始まり。どこか新鮮な心持ちで、沙耶お手製の朝食を頬張る。今日は一限から授業が詰まっていることもあり、気持ち多めに白米を胃袋へ放り込む。
俺以外のメンツはさほど授業に追われているわけでもないらしい。今朝は集合率が低く、食卓に集まっているのは俺、芦屋さん、沙耶の三人であった。
「ごちそうさま。じゃ、俺はそろそろ行くから」
「お粗末様です。いってらっしゃい」
「い、いってらっしゃいです!」
二人に軽く手を振り、そそくさと玄関先に向かう。今日の一限は必修科目だ。遅れると何かと面倒なので、念のため早めに家を出ることにした。
「よし、行くか」
と、玄関扉に手をかけた瞬間のことである。
「い、岩崎さん!!」
急に背後から声がしたかと思うと、芦屋さんが俺の元へ駆け寄ってきた。
「ん? 芦屋さん、どうした?」
さして急いでいるわけでもないので、振り向いて彼女に問いかける。
「え、えっと……今夜、少し時間をください! お話したいことがあります!」
が、振り向いたのも束の間。芦屋さんはそれだけ言うと、こちらの返答を待たずしてドタドタとリビングの方へ戻っていた。
「な、なんだったんだ、一体……?」
あ、今日は授業に集中できないな。
悲しいことに、登校前にして、そう確信する俺であった。
◆
朝方の確信通り、俺は全くもって授業内容を頭に入れることなく昼休みを迎えた。帰宅後に待っているであろう芦屋さんのお話とやらが気になって授業どころではなかったのである。
しかし悲しきかな、頭が回りっぱなしではあるので腹は減る。今日は珍しくシオンが体調不良で大学に来ていないため、俺は一人で食堂に足を運ぶことにした。
窓側の席に陣取り、なんとなく選んだA定食に手を伸ばす。今日はステーキ定食だ。学食の割には豪勢な肉塊にフォークを突き刺し、無心で口元に運ぶ。
休み時、食堂の喧騒。別段関りのない学生たちの会話をBGMに、ただひたすらにカロリーを摂取する。
「すみません。隣、良いですか?」
「ほへ?」
なので、いきなり背後から声を掛けられた時。この空間に居る人間は自分と関係が無いと決めつけていた俺は、不意を突かれて大層アホそうな返事をしてしまった。咀嚼中だったので仕方が無い。
「ふふ、こうして大学で会うのは初めてですね?」
誰かと思って振り向けば、声を掛けてきた人物の正体は沙耶だった。
「あー、そっか。そういや同じ大学だったっけ?」
漆原沙耶、東都大学二年生。シェアハウス初日の自己紹介を記憶の底から引っ張り出す。大人びた雰囲気、魔女ハウスのお世話役。普段の立ち回りを見ると忘れそうになるが、そういえば沙耶は大学の後輩であった。
「学科が違うし、普段は会わないから忘れかけちゃいますよね。隣、良いです?」
「ああ、もちろん」
「やったっ、ありがとうございます!」
嬉しそうに微笑みながら、沙耶が隣に腰掛ける。一瞬、周囲の視線がこちらに集中する。昨日のリサもそうだが、改めて同居人たちのスペックの高さを感じさせられた。
沙耶の手元にあるのは、お手頃価格のB定食。今日は野菜炒めだ。なりふりかまわずカロリーを摂取する俺とは違い、健康志向の高さが伺える。
「私、実は憧れだったんです。こういう風に、大学で誰かとおしゃべりしながらランチするの」
「へぇ、そりゃ意外だな。てっきり、いつもは大人数で過ごしてるもんだと思ってたけど」
おしとやかで、おだやかで、色気があり、それでいて包容力もある。沙耶なら男女問わず人を集めそうなものだが。
「違います、真逆ですよ。大学ではいつも一人です。あはは、入学当初は友達もいたんですけどね……」
恥ずかしそうに頬を掻きながら、沙耶は窓外に視線を移す。
「でも、なんて言えばいいんでしょう。ある瞬間に、ちょっぴり人付き合いが面倒になっちゃったんです。男の子の下心とか、女の子の嫉妬とか。そういうのが、少し透けて見えたというか。そういうのがヤになっちゃって」
「あー、そういう……」
舞華ほどではないにせよ、沙耶も人間関係に多少は苦労があったのだろう。才色兼備な彼女のことだ。良い意味でも悪い意味でも注目を集めてしまい、それに辟易するというのは理解できる。
「でも、大学で楽しく過ごしたいなぁって願望は心のどこかにあって。今日はそれが叶って、すごく嬉しいんです」
「はは、光栄な限りだ」
意外だな。率直に言えば、俺が抱いたのはそんな感想だった。
昼休み、何気なく会話を交わすキャンパスライフ。取るに足らないように思えるが、それは彼女にとって憧れの時間だったのである。
色んなものを持っている彼女が、なんでもない日常に憧れている。なんとも意外な、ないものねだりだ。
「だから、魔女ハウスでの生活もすごく楽しかったんです。今までに経験したことがない時間でした。みんなかわいいから、私のことをヘンな色眼鏡で見ることもありません。あの場所に居る動機は不純かもしれないけど、お互いにフラットでいられるのは確かだったんです。……それだけは、嘘じゃないって信じてます」
憂いを含んだ瞳で、沙耶はぼんやりと虚空を見つめ続ける。その横顔を見ると、魔女ハウスは単なる騙し合いの空間でもなかったのだなと思えてくる。
持つ者ならではの苦悩というのはこの世に確実に存在していて、持たざる者には理解できないソレにストレスを抱える人間は一定数いる。だからこそ、”持つ者“ばかりが集められた魔女ハウスは、そういったストレスを抱えずに過ごせる空間だったのかもしれない。
そんな、希望的観測を抱く。
「でも、最近は少しだけ寂しい気持ちもあります。舞華ちゃんが居なくなって、他の子たちは現実を見始めて……みんなで居る時の会話が、前よりも随分減っちゃいました」
そう言うと沙耶は瞳を光らせながら、視線をこちらに向けてきて、
「また、あの楽しい時間をもう一度──そんな風に思ってしまう私は、間違っているんでしょうか?」
魔女、あるいは“あの子”らしからぬ葛藤。
その一端から生まれた疑問を、ありのままに吐露していた。