万里の長城
目を覚ました直後に感じたのは、俺の後頭部を包み込むような柔らかい感触。
弾力がしっかりとありつつも、まるで俺の頭が沈み込んでいってしまうような。そんな、矛盾を感じるような感覚。
「あ、おはよう大河くん。どう? 体調は大丈夫?」
──言うまでもなく、千春さんの膝枕であった。
「あー、まあ。体調は大丈夫かな」
そう返事をしつつ、俺は千春さんの顔を見上げようと試みる。
すると、その瞬間。俺は同じ膝枕でも、千春さんの膝枕と、舞華の膝枕の間に1つ大きな違いがあることに気づいた。
その違いとは、単純にして明白。舞華から膝枕された時は、しっかり顔を見ながら会話できたにも関わらず、千春さんに膝枕されている今現在は、とある"壁"に阻まれて全く千春さんの顔が見えないのである。
──彼女たちの違い。それ即ちおっぱいであった。
舞華の慎ましやかな丘では、俺の視線をブロックする壁にはなりえない。しかし、一般的なサイズよりも豊かな千春さんの胸は、今こうして確かに俺の視線を遮ぎる壁になっているのである。
ああ、なんと恐ろしいことだ。乳房は人と人を隔てる万里の長城にもなりえるのか。
「ん、大河くん? どうしたの? 急に黙り込んじゃって」
あ、おっぱいが喋った。
いや、違う。胸越しに千春さんが喋っただけだった
「あー、いや、別になんでもないよ。ちょっと人と人の隔たりについて考えてただけさ」
「ず、随分と壮大な物思いだね?」
まあ、目の前に壮大な2つの山がありますしね。
「ごめんね、大河くん。そ、その......私のせいでこんなことになっちゃって」
品性下劣な思考を繰り広げていると、千春さんが申し訳なさそうに声を掛けてきた。
「いや、悪気は無いんだろうし、別に気にしなくても良いよ。意識飛んだけど死んだわけじゃないから。生きてりゃセーフセーフ」
「いや、それでも申し訳ないよ。私の意地のせいで大河くんをこんな目に遭わせちゃったわけだし……」
「ん、意地? どういうこと?」
「えっと、なんていうか、さ。私って凪沙とか沙耶とか舞華みたいに積極的になれないんだよね。なんか、こう、どうしても恥ずかしくなっちゃって。それで、いつも一歩引いて大河くん達を見てるだけになっちゃうの」
「なるほど?」
むしろ俺はあの3人が特別なだけで千春さんが普通な気がするんだけどな。はて、それは俺の気のせいだろうか。
「だからさ、今回はチャンスだって思ったの。大河くんと2人きりだし、今日は私も頑張れるんじゃないかなーって。料理なんて今まで全然やったことなかったけど、それでも手料理を振る舞えば、地味な私でも少しは大河くんの心を掴めるんじゃないかなって」
赤裸々に語る千春さんの表情を窺うことはできない。しかし2人きりのリビングに反響する彼女の声色を聞いていれば、彼女が落ち込んでいるであろうことを推察をするのは容易かった。
いつもはクールに振る舞っていて、どこか落ち着いている彼女。しかし、この時に限っては、周囲と自分との違いを気にしてしまうような。そんな、どこにでもいる普通の女の子のように見えた。
「ふふ、笑っちゃうよね。張り切ったところで、フタを開けてみれば失敗なんだもん。私、昔からずっとこうなんだよねぇ。唯一大河くんより歳上なのに、お姉さんっぽい振る舞いもできないしさ。ホント、なんだかなーって感じだよ」
「……」
「あ、なんかごめんね! 暗い話になっちゃって! よ、よーし! じゃあ大河くんの目も覚めたことだし、私は胃薬でも買ってこようかなぁ!」
明らかに取り繕った態度をとりつつ、優しい手つきで俺の頭を膝から降ろし、千春さんは立ち上がる。
その時、ようやく俺の目に入った彼女の表情は、どこかAIを彷彿させるような、機械的な笑顔で。けれど、眼鏡越しに見える彼女の瞳は潤んでいて。
「待って、千春さん」
たとえその表情が魔女によって作られたニセモノだったとしても。こちらに背を向けて立ち去ろうとする彼女を無視できるほど、俺はドライな人間ではなかった。
「なに、大河くん?」
こちらに背を向けたまま、彼女がリビングの出口へ向かう足を止める。
って、やべ。なんか落ち込んでるのが見てられなかったから呼び止めてみたけど、なんて声掛けるのかとか全然考えてなかった。アレ、こっからどうしよう。
「ん? どうしたの? 胃薬買ってこなきゃだし、なにもないなら私、もう行くよ?」
「あー、待って! ちょっと待って! ウェイトアミニット、千春さん!!」
なんか言え。なんか言うんだ、俺。ここでなにも言えなかったら多分変な空気になっちまう。
「え、えーっと」
なんでもいい。なんでもいいから、とりあえず適当に何か言うんだ。
そう。なんでもいいから適当に──
「実は俺、街で美人とすれ違ったら三度見くらいしちゃうんだ」
なに言ってんだ、俺。
「えっと、大河くん?」
が、言ってしまったものは仕方ない。このまま押し切るしかなかろう。
「いいかい、千春さん? さっきも言った通り、俺は美人にとてつもなく弱い。それに加えて、日本一の企業の御曹司のくせに全くモテないし、彼女いない歴=年齢の童貞だ。俺は勉強以外はてんでなんもできない、超ド級のロクデナシなんだよ」
「え、どうしたの急に?」
「ま、まあ、つまりアレだよ。要するに俺は『欠点がない人間なんて居ない』って言いたいんだよ」
千春さんを励ますためとは言え、常に会社の期待に応えるために"完璧"になろうとしてる俺が、まさかこんなことを言う日が来ようとは。皮肉なこともあるものだな。
「俺は欠点がない人間なんて居ないと思ってる。個人差はあれど、苦手なこととか、嫌いなものってのは誰にだってあるものだ。それをコンプレックスに感じたり、変に意識したりっていうのも別に珍しいことじゃない」
「それは、そうかもだけど。でも、私は大河くんに迷惑をかけちゃったから……」
「迷惑? 俺はそうは思わなかったよ。むしろ千春さんの意外な一面が見れて嬉しかったくらい。はは、この家のルール上、俺は千春さんの正体を見破らなきゃいけないからさ。今は千春さんのことならなんでも知っておきたいんだよ」
ああ、もしも社長がこのやりとりを聞いていたなら。きっと『甘い』だとか『馴れ合っている』などど言って、俺を糾弾することだろう。
岩崎家の人間は基本的に他人に冷たいからな。『疑わしき者には厳しく』ってのがウチのスタンスだし、無能な人間は平気で切り捨てるし。もし俺が魔女候補を励ましている、なんてことを知られたら、親父様は大層呆れることだろう。
だが、残念なことに俺は親父ほど有能でもなければ、冷徹人間ってわけでもない。
たとえ演技である可能性があるとしても、落ち込んでいる女の子がいれば励ましたくなるし。
人と比べて劣っていると悩んでいる人が居るのなら。誰にだって欠点はあるし、その欠点も魅力になりえるってことを伝えたくなってしまう。
『お人好しだ』と笑われるかもしれない。もしかしたら、俺は数多の従業員を従えるのには向いていないのかもしれない。
だが俺は欠点があるからこそ、それを補うために努力することで人生は豊かになると信じているのだ。欠点があるからこそ、人にはそれぞれ違った魅力があると。そう信じているのである。
だから。
「俺は完璧な人より、ちょっとドジだったりポンコツだったりする人の方が好きなんだ。だって最初から完璧だったら、つまんないじゃん? だから千春さんが料理下手っていうのは、俺的にポイント高い。うん、ギャップがあってグッド」
誰からどう思われようと、俺は"苦手"を持つ人間を全力で応援するのである。
「ふふ、ふふふ、ふふふふ......」
「え、ちょっと待って千春さん。なんで笑ってんの。俺、今メッチャ真面目に喋ったんだけど」
こちらに背を向けたまま、肩を小刻みに震わせて笑う彼女。はて、俺はウケ狙いなどせずに至って真面目に話したつもりなのだが、何かツボに入ったのだろうか。
「え、千春さん? 俺、なんかおかしなこと言った?」
「ふふふ。だ、だって、ふふ……大河くんが真面目に喋ってるんだもん……しかも内容メッチャ重いし、それが面白くて面白くて……ふふ……」
「あれ? もしかしなくても、めっちゃバカにされてる?」
つーか、真面目に話すだけでツボるってなんなの? 俺って常にふざけてなきゃいけないの? なにその拷問?
「ふふ、なんか私も大河くんの意外な一面を知っちゃった気がするよ。まあ、街で美人を三度見しちゃうのはちょっと引いたけど」
「え、ちょっと待って。やっぱ千春さん、さっきからちょいちょい俺のことバカにしてる? だったら俺も言わせてもらうけど、あの黒オムライスはちょっとどうかと思うよ? なにアレ、マジで魔界のランチじゃん。写メ撮っときゃ良かった」
「なっ!? ちょ、ちょっと大河くん!? さっき私が料理下手っぴなのを励ましてくれたばっかだよね!? なんですぐそういうこと言うの!?」
「ハッハッハ。人をバカにするなら、自分もバカにされる覚悟を持たなきゃいけないのさ」
先ほどまで俺に背を向けていた千春さんであったが、今はこちらを振り向き、火が出そうな程に顔を真っ赤にしながら、拗ねた表情で俺を睨んでいる。なぜか急に千春さんが俺をバカにしてきたので少し反撃してみたのだが、どうやら鬼武雷洲に触れられるのは千春さん的にアウトだったらしい。
が、なんか面白いのでもう少しイジってみることにする。
「よっ、ブラックオムライス千春。漆黒のシェフ。魔界の覇者」
「あー、もう! いくらなんでも言い過ぎだからっ! 童貞大河のくせに! バーカ! バーカ!!」
小さな拳をギュッと握り、千春さんはムスッと頬を膨らませながら貧相な語彙力で俺に言い返してくる。その姿には今までの大人しくてクールなイメージなど微塵もなく、まさにどこにでもいるような不機嫌な女の子、といった様子だ。
「なぁーんだ。千春さんも普通に怒るんじゃん。いつもそれくらい表情コロコロ変えてりゃ面白いのに。もったいない」
「……大河くんはこっちの気を知らないからそんなこと言えるんだよ」
「え? それって、どういう……」
「ふぅーんだ。意地悪な大河くんには教えてあげませーん。じゃあ私はそろそろ胃薬買ってきまーす」
「あ、いや、千春さん、ちょっと待って。今の言葉についてもう少し詳しく──」
呼び止めようとしてみたものの、千春さんはそんな俺を無視してパタパタとリビングの出口へと向かうと、
「べぇーだ!」
ペロッと舌を出しながら俺を睨みつけ、そのまま部屋から出て行ってしまった。
「結局最後のはなんだったんだ……」
さっき千春さん、『こっちの気も知らないで』とか言ってたよな? なんだ? アレは魔女として言ってんのか?
それとも、"あの子"として……?
「はぁ、まったく。なんで俺がこんなに悩まなきゃいけないんだか」
やっぱり魔女ハウスなんて嫌いだ。隙あらば駆け引きばっかしやがって。あの子たちは一体俺をなんだと思ってんだよ。金づるだと思ってんのか。あ、そういえば今の俺って金づるでしたね。わーい、死にたーい。
「はぁ。でも、まぁ……」
落ち込んでた千春さんは元気になったみたいだし、今日のところはこれで良しとするか。