リベンジ勉強会(後編)
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俺は眠りから覚めるという行為を、あまり好ましいと思ったことはない。頭はボーッとするし、これから長い1日が始まるかと思うと、少しだけ鬱になってしまうのである。意識がちゃんと覚醒するまでの間に訪れる、あのフワフワとした妙な感覚があまり好きではない。要するに、俺は寝起きがそこまで良くないという話である。
──だが今日この瞬間に限っては、普段は寝起きが悪い俺の意識も、ほんの一瞬で覚醒することとなった。
「にゃはは、おはよー岩崎っち」
フワリと漂う柔軟剤の匂い。それでいて俺の頭はなにやら弾力がありつつもスベスベしている太ももに支えられており、目の前ではどういうわけか、うっすら頬を上気させた舞華がニコニコ笑いながら俺の方を見ている。
なるほど。コレが俗に言う膝枕というやつか。
「あー、うん。舞華、ちょっと待って。なんか色々急過ぎて頭追いつかないんだけど」
「あ、もしかして岩崎っちって女の子に膝枕されるの初めてだったりする?」
「初めてに決まってんだろ。童貞ナメんなよ」
「なにそれ、ウケる。でも、普通に岩崎っちが起きてくれてホッとしたよ。急に倒れちゃったから心配だったんだよね」
あー、思い出した。そういや勉強会の途中で意識がプッツンしたんだった。まあ、寝不足極め過ぎて、スイッチが切れたように寝ただけっぽいが。
「ごめんな、舞華。結局ちゃんと勉強教えてやれなかったし、余計な心配までかけることになっちまった」
なにが『期待に応えるために舞華に勉強を教える』だよ。結局何もできてないじゃないか。しかもブっ倒れた挙句、女の子に膝枕してもらうなんてよ。ダサ過ぎるにもほどがある。
「いや、マジでごめんな。俺から誘ったくせにほとんど勉強教えられなかった」
「……プッ! あはははは! やっぱ岩崎っちって変わってるよ!! あはははは!!!」
なぜ真面目に謝ってんのに全力で笑い飛ばされなきゃならんのだ。
「あ、あのー、舞華さん? 俺、今なんかおかしなこと言いました?」
「うん、おかしなこと言った」
「まったく心当たりがないんだが」
「いやいや、岩崎っち。よく考えてみて? あんまりこんなことは言いたくないけど、私って魔女かもしれないんだよ? しかも私と岩崎っちがやってる勉強って分野が全然違うんだよ? だから岩崎っちが私に勉強を教える義理もないし、そもそも岩崎っちが勉強を教えること自体が無理難題みたいなもんじゃん?」
「まあ、それはそうかもしれないが」
「でしょ? だから岩崎っちが責任を感じる必要もないわけじゃん? それなのに岩崎っちったら、いつになく真面目な顔して謝るんだもん。そりゃあ、おかしくて笑えてきちゃうよ」
そう言って「ニッシッシ」と悪戯な笑みを浮かべる舞華。
「ねぇ、どうして岩崎っちは私のために頑張ってくれたの? どうして魔女かもしれない女の子のために必死になれるの?」
「いや、急にそんなこと聞かれてもな」
確かに舞華の言うとおり、まだマトモな関係性を築けていない彼女のために俺が勉強するのはおかしなことだと思うし、それは最初から自覚していた。自分でもバカげたことをしたと思うし、よくよく考えてみれば舞華に笑われるのも仕方がないことかもしれない。まあ、結果だけ見れば俺はなにもできていないわけだが。
ただ、それでも敢えて俺が彼女のために動いた理由を挙げるとするなら──
「多分、俺は自分のプライドを保っていたかっただけなんだと思う」
「ん? どういうこと?」
「はは、簡単な話だよ。きっと俺はただ信じたかっただけなんだ。『岩崎家の御曹司であり東大生であるこの俺が、失敗なんてするはずがない』ってさ」
俺は"岩崎家"という大きな看板に似合うほどの天才なんかじゃない。必死に努力して、それを周りに悟らせないようにして。結局のところ、俺は『ハイスペックな大企業の御曹司』を演じているだけなのだ。
だから、不甲斐ない自分を許せなかった俺は、わざわざ自分から"リベンジ勉強会"なんてものを舞華に提案したんだろう。
「ダサいとこ見られちまったし、もう白状するよ。俺は才能が無いってだけで自分が家の名前に負けてしまうのが許せなかっただけなんだ。『勉強を教えてほしい』っていう、たった1人の女の子の頼みさえ叶えてやれない無力な自分が許せなかっただけなんだ。別に舞華が魔女かどうか、なんて関係ない。これは俺自身の、俺だけの問題だったんだ」
ああ、面倒だ。なんて面倒なんだ。こんな家に生まれなければ、完璧人間を演じる必要なんてなかったのに。こんな家に生まれなければ、もう少し自分に甘い人間でいられたかもしれないのに。
こんな家に生まれなければ、彼女たちとも違った形で出会えたかもしれないのに。
「うん、やっぱ岩崎っちって変わってるよ。普段はふざけてるように見えて、意外と真面目でお人好しなんだもん」
「いやいや、多分俺は真面目なんかじゃないぞ。ちょっと童貞拗らせて、ちょっと歪んじゃってるだけだ」
「ふふ、まあ何はともあれ、岩崎っちがよく頑張ったってことはなんとなく分かったよ。よしよし、えらいえらい。良い子、良い子」
いきなり母性を感じさせるセリフを言い放ち、なぜか俺の頭を撫で始める舞華。
「ふふふ、えらい、えらい」
「ねぇ、ちょっと待って、舞華。さすがにその母性の出され方は抵抗ある」
赤ちゃんプレイに目覚めかねない。本当にやめてほしい。
「ねぇねぇ、なんか今日の岩崎っちっていつもより冷静じゃない? いつもの岩崎っちなら私に膝枕されてる時点でアワアワしてると思うんだけど」
「フッ、舞華よ。俺をナメてもらっては困るな。人間とは日々成長するものなのだ。俺がいつまでも5人相手にドギマギしていると思うなよ」
「へぇー、じゃあ岩崎っちは今全然ドキドキしてないんだぁ」
「お、おう、もちろんだとも」
「ふぅーん? へぇ、そうなんだぁ?」
なんだろう。嫌な予感がする。舞華がめっちゃニヤニヤしながら見つめてくる。表情が小悪魔過ぎて、黒い尻尾の幻覚が見える。
「じゃあさ、岩崎っちは私に何をされても平気なんだよね?」
「いやいや、別にそういうわけではないって。とりあえず舞華さん、一旦落ち着こう」
と、なぜか小悪魔モードになっている舞華を宥めようとした、その瞬間──
「えいっ」
──何を思ったか、彼女は俺の額に口づけをした。
「な、ななななな!? 急に何を!?」
「ふふふ、私みたいな可愛い女の子と2人きりなのに『ドキドキしてない』って言った岩崎っちが悪いんだよ? そんなの聞いたら意地でもドキドキさせたくなるに決まってるじゃん」
「だ、だからってお前! 急に額にキスはないだろ……!」
「えへへ、無防備に私の脚の上に頭置いてる岩崎っちが悪いんだよ? それでどう、岩崎っち? ドキドキした? ねぇ、ドキドキした?」
「べ、別に言わなくても、今の俺の表情見てりゃ分かるだろ」
「ふふふ、やっぱりドギマギしてる岩崎っちを見るのは面白いなぁ」
「チクショウ。好き放題からかいやがって……」
ああ、ダメだ。やはり俺は美女に弱い。ちょっと迫られただけで心臓飛び出しそうになっちまうし、油断してたら心を奪われそうになってしまいそうだ。今まで勉強ばっかでロクに恋愛してこなかった弊害だな。美女耐性が低すぎる。
「えへへ、明日からも岩崎っちをドキドキさせるために頑張っちゃうんだから。気をつけてないと、私に夢中になっちゃうかもよ?」
最後に破顔しながら、そう囁いてきた舞華。その口端をよく見ると、そこにはいつもと違って、キラリと八重歯が光っていて。
この瞬間。舞華の笑った顔なんて今まで何度でも見てきたはずなのに、俺は初めて彼女が偽りのない本当の笑顔を見せてくれたような気がした。