ヒーロー
少しずつ大河のことが気になり始めた、八歳の夏休み。
例に漏れずアタシたちは年に一度の再会を果たし、砂浜で一緒に時間を過ごすことになった。
その夏はなぜか、いつもより緊張していたり、気合が入っていたりしていたような気がする。オシャレを意識し始めていた年頃なのもあって、母に相談して大人っぽい服装に仕立ててもらったりなんかもした。
「久しぶり、リサ! その帽子、似合ってるね」
「っ! あ、ありがと……」
誕生日に母から買ってもらった麦わら帽子を『良い』と言ってもらえて、なんだか無性に嬉しくなった記憶は今でも鮮明に残っている。オシャレした自分を見てもらえたことよりも、大事にしていた帽子を褒めてもらえたことが、誇らしくて、喜ばしかった。
「ほら、大河もリサちゃんも並んで並んで! ハイ、チーズ!!」
その時、大河のお母さんから撮ってもらった写真は今でも大切な宝物だ。
恥ずかしそうに麦わら帽子を抱えるアタシと、白い歯を出してニッコリと笑う大河。
幼い日々の青春を切り取った一枚は、いつでも輝かしい記憶を思い出させてくれる。
肌を焼く日差しの温度。
硝子みたいに光を反射して揺れる海。
どこまでも続いているような地平線。
八歳の記憶にある景色はどれも綺麗で、素敵な思い出だ。
──けれど同時に、その一枚はアタシの悲しい記憶も呼び起こしてくる。
アタシと大河の距離が急接近したのは、その夏で。
大人になるまで後悔することになったのも、多分その夏のせいだから。
◇
転機が訪れたきっかけは、特に大それたものでもない。
今までみたいに一緒に砂浜で遊んでる最中に、少しだけ休憩している時のことだった。
「じゃあ俺、一旦部屋の中に戻ってアイス取って来るよ。リサはここで待ってて」
「わかった。待ってるね」
大河がアイスを取りに行って、アタシが海辺でそれを待つ。それは唯一、ほんの少しだけアタシが一人になる時間だった。夏の季節感を気に入っていたアタシたちは、クーラーが効いてる中でカチコチのアイスを食べるよりも、海を見ながら溶けかけのアイスを食べる方が好きだったのである。
──それは、いつものように大河を待ってる間に起きたことだった。
「きゃっ!」
その日はいつもより随分と風が強かった。大河を見送った後、アタシは運の悪いことに突風に吹かれて帽子を海の方へと飛ばされてしまったのである。
「ま、待って……!」
アタシは無我夢中で、風に揺られる麦わら帽子を追いかけた。母から貰った大事なものを取り戻したい一心で、身体が濡れることも気にせず海の方へ駆け出した。
「も、もう少し……!」
そして、めいっぱい手を伸ばして帽子を掴んだ瞬間。
アタシは後先考えずに動いたことを、後悔した。
「っ!?」
帽子を手に取った直後、勢い余ってアタシの身体は転倒。
気づかないうちに胸が水に浸かるところまで来てしまっていたアタシは、思いっきり海の中にダイブしてしまった。
「が、がはっ! ごほっ……!」
浅瀬の方で全然足がつくところだったし、冷静な時だったら溺れるような場所じゃない。けれど、予期せず視界も呼吸も塞がれたアタシは、慌てふためいて水中から起き上がることが出来なかった。
もがいても、もがいても、海の中から出られない。どんどん息が苦しくなって、意識が薄れてくる。もしかしたら、こんなところで、このまま死んじゃうんじゃないか。不安がどんどん大きくなって、余計に手足が動かなくなってくる。
そうして、心が折れかけた瞬間──
「リサ!!」
──水面の上から声がすると、気づいた時には大河から抱きかかえられていた。
「た、大河……?」
何が起きたか理解できず、呆然としたまま問いかける。
「はぁ、はぁっ……! なに、やってんだよ……!」
「あ、えっと、帽子が飛ばされちゃって、それ追いかけてて……」
「なんだ、そういうことか……いきなり変な気起こしたんじゃないかって、心配したじゃん……」
「ご、ごめん……」
その時、大河は珍しく怒っているように見えた。無我夢中だったとはいえ、アタシが自分から危ない目に遭うようなことをしたんだから、当然だと思う。
けれど、アタシは怒っている大河のことを怖いとは思わなかった。心配させた身分でこんなことを考えるのは間違っているかもしれないけど、むしろ喜びの方が大きかった。
本気で心配してくれたのが伝わってきて、嬉しかった。
必死でアタシを助けに来てくれたんだって気づいて、胸が高鳴った。
「ね、ねぇ、大河?」
「ん、どうしたの?」
「……部屋まで、おんぶして」
そして、大河の安心したような表情を見た時。
少しだけ、甘えたくなってしまった。
「え、なんで……?」
「そ、その。腰が抜けちゃって、うまく歩けそうになくて……ダメ、かな?」
「……まあ、そういうことなら仕方ないか」
少し恥ずかしそうに言うと、大河は姿勢を変えてアタシを背に乗せた。
「その。ごめんね、大河。変な心配かけちゃったよね」
暖かな温度を感じつつ、改めて背中越しに謝罪の言葉を伝える。
「いや、別にいいよ。その帽子、大事なものなんでしょ?」
言われて、ふと自分の手の中を確認してみる。
溺れながらも麦わら帽子を掴んで離していなかったかったことに、今更ながら気づく。
「心配はした。でも、無事だったから良いんだよ。……俺の方こそ、怒ったりしてごめんね」
「ふふ、なんで大河が謝ってんのさ。ヘンなのっ!」
「ちょ、いきなり腕の力強めないでよ! 痛いじゃん!」
なんということはない、ありふれた出会いだった。
そして、たぶん。好きになった理由も、ごくごくありふれたものだった。
「助けてくれてありがとね、大河」
アタシが大事なものを好きだと言ってくれる男の子が、ヒーローみたいにアタシのことを救ってくれた。
背中の上で、波のさざめきが聞こえなくなるくらいに鼓動の音が早まった。
「……すごく、カッコよかった」
──たったそれだけの理由で、八歳のアタシは恋に落ちたんだ。