【エピローグ】涙の契約
日が沈み始めると、講義棟の屋上では寒気がより一層強まってきた。
冬はもう目の前まで来ていて、これからは年の瀬までまっしぐらに時が流れていくんだろう。
そんな感傷に浸りつつ、私は一人、扉の前で彼を待つ。「ちょっと話してくる」と言って、取立人たちと共に連れ立っていった彼のことを、ひたすらに待つ。
魔女ハウスでの時間は夢みたいにあっという間だったのに、今は一秒一秒がたまらなく長く感じて仕方がない。ゆっくり流れる時間とは裏腹に、脈打つ鼓動は速まるばかりで、身体が心を置いていってしまいそうだ。
迷う心は強まるばかり。
そして、この期に及んでもまだ悩んでいる自分が、嫌いになってしまいそう。
きっと彼は今、どうにか私を助けてくれようとしていて。
けれど私は、そうしてもらえる資格なんてあるはずもなくて。
その厚意に甘えるなんて、許されるはずがないのに。
心のどこかで、私は彼に期待してしまっている。
──大河さんなら、私のヒーローになってくれるんじゃないか。
そんなことを考えてしまう自分が、どうしようもなく嫌になる。
魔女の身分で救いを求めている私自身が、嫌いで嫌いで仕方がない。
「……はぁ」
私は、どうすればよかったんだろう。
これから、どうしていけばいいんだろう。
◆
「あはは、ごめん沙耶。結構待たせちゃった?」
しばらくすると、彼は何事もなかったかのように笑いながら屋上へと戻って来た。
あまりにもいつも通りの笑顔で、かえって罪悪感が増してくる。
あの人たちと何を話してきたんですか?
これから私はどうなるんでしょうか?
許してもらえなくてもかまいませんから、誠心誠意謝らせてくれませんか?
あなたは今、私のことをどう思ってるんですか?
「え、えっと、大河さん、その……!」
あなたに聞きたいことが、溢れそうなくらいたくさんある。
たくさんあり過ぎるから、どれから話せばいいのか分からなくて、言葉が喉元でつっかえた。
「はは、そんな焦らなくてもいいって。順番に、ゆっくり、ひとつずつ話していこう。もうしばらくは、そばに居るからさ」
言って彼は、屋上のフェンスを指差した。
落ち着いて、座りながら話そう。たぶん、そういうニュアンスだと思う。
「はい、ありがとう、ございます……」
断る理由なんてあるはずもなかったから、私は彼と隣り合ってフェンスに寄りかかった。
あんなことがあったのに、まだ彼は陽だまりのように優しくて。
ふと夕暮れ空を見上げると、茜色の雲が少しだけボヤけて見えた。
「夏休みのデート以来……でしょうか。こうして二人きりで話すのは」
はやく本題に入って、彼とは決別するべきだ。
頭では分かってるのに、共に過ごす時間が名残惜しくて、その場しのぎの話題が口をつく。
「あー、たしかにそうかも。大学の食堂では喋ったけど、あの時はなんだかんだ周りがガヤガヤしてたからなぁ」
一貫して、彼の態度はいつも通りだ。私を糾弾する様子も、憎む様子も全く感じない。
「……これまで、色々ありましたよね」
いつまでも、その優しさに甘えてはいけない。
でも、せめて最後にこれまでの思い出を共有して、笑い合いたくて。
彼と別れる前に、私は過去を振り返ることにした。
「はは、まったくだよ。落ち着く暇がなかった」
「ふふ、大河さんは特にそうでしょうね」
「いやいや、他人事みたいに言ってるけど沙耶のせいで落ち着かなかった時もあるんだからな?」
「えへへ、それは光栄です!」
「褒めたわけじゃないんだけどな……」
向き合わなきゃいけないことから目を逸らしている。
それを分かった上で、彼と笑い合う。
素敵な、とても楽しい時間。
永遠に続いてほしいと思うほどに。
「でも、落ち着いてなかったのは大河さんだけじゃないですよ? 私だって、本当はすごくドキドキしてたんです。こう見えて、あんまり異性と関わった経験がありませんから」
けれど、永遠なんて無いから、私は少しずつ本音をさらけ出す。
最後に、本当の私を知ってもらうために。
「お姉さんっぽく振る舞うのも、実は結構恥ずかしかったんです。色々考えてこういうキャラにしてみましたけど、正解だったかは自分でもよく分かっていません。頑張ってあなたを誘惑してみたけど、他の子たちの方が魅力的なんじゃないか、って。いつも、不安でした」
みんなで流れ星を見た時、少しだけあなたにくっついてみた。
けれど、緊張しているのはむしろ私の方だった。
みんなで海の家に行った時、水浸しになって体調を崩したあなたに『風邪はうつせば治る』なんてワケのわからないことを言って、口づけを迫ってみた。
けれど、顔が熱くてどうにかなりそうだったのは私の方だった。
夏休みにデートした時、「いつか好きだと言わせる」って柄にもなく宣言してみた。
けれど、本当は自信なんてなかった。
そもそも私にとってはあの日が初デートで、誘惑する余裕なんてなかった。
「異性に慣れてなくて、緊張しやすくて。それをひた隠しにして、目的のためにあなたへ近づいた。それが私、漆原沙耶の正体なんです」
ようやく本性をさらけ出した私は、コンクリートの床から立ち上がる。
いつまでもこうしてはいられないから、別れを告げるべく彼と向かい合う。
そして──
「──えへへ、どうです? 私、上手に魔女をやれてましたか?」
最後に、サヨナラ代わりに。
ずっと言えなかった真実を伝えた。
「はい! そういうわけで、私と大河さんはここでお別れです! ごめんなさい! そして、おめでとうございます! 魔女三人目、発見ですね!」
これでいい。そう、これでいいんだ。
取立人と何を話したかはわからないけど、彼らには後で連絡しておこう。
私の借金に彼は関係ない。そう言って、全ての責任を自分で取れるようにしよう。
救われる資格なんてないんだから、悲しい別れで構わない。
そう自分に言い聞かせながら、踵を返して屋上の出口へと向かう。
ああ。これで、なにもかもおしまいだ──
「本当に、沙耶はそれでいいのか?」
──そう思ってたはずなのに、またしても彼は私を迷わせてくる。
「……っ……ぐすっ……どうして、そんなこと言うんですかっ……」
ああ。やっぱり、私は弱い。弱すぎて、そんな自分が嫌になる。
決意を固めたつもりだったのに、呼び止められただけで足がすくんでしまった。
流れる涙がとめどなくて、膝から崩れ落ちてしまった。
「あなたは……あなたは、ズルい人です! こんな終わりで、いいわけないじゃないですかっ! みんなに、ちゃんとお別れも言えてないっ! お金だって、どうやって返せばいいかもわからないっ! お先真っ暗で、私の未来に希望なんてない! そんな状態で大切な人と会えなくなるなんて……耐えられるわけ、ないじゃないですかっ!!」
気づけば、私は幼子のように声を上げて泣いていた。
先行きが見えなくて、大事なものまでなくなってしまう。
ただただそれが怖くて、溢れる涙が止まらない。
「うん、ちゃんと言ってくれて良かった」
彼の足音が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
「俺だって、こんな別れ方は嫌だからさ」
優しい声が、耳元で囁かれる。
うずくまる私の肩に、そっと手が置かれる。
「俺、ずっと考えてたんだよ。このシェアハウスはどうやって終わらせるべきなのか。どんな結末を迎えるのが最善なのか、ってさ」
呼吸が乱れる私の背中をさすりつつ、彼は言葉を続ける。
「“あの子”を見つけたら、魔女とはオサラバ。最初は、それで良いと思ってた。俺をダマす奴らに気を遣う必要なんてない。さっさとこんな生活終わらせてやる。それくらいの感覚だったよ」
それは、至極真っ当な言葉だった。
「でもさ。舞華と沙耶を見てたら、それは違うような気がしてきたんだ」
けれど次の瞬間、彼はその当たり前の感覚を否定していた。
「舞華も沙耶も、キツい過去を抱えているから魔女になった。だったら、このシェアハウス生活を通して、そのキツい過去を克服できればいいな、って。この日々が終わった時、俺も“あの子”も魔女も胸を張って、未来に進めるようになれたらいいなと思ったんだ」
すると彼は、私の背から手を離して──
「君たちと真正面から向き合って、対等な関係になる。この関係を、魔女ハウスだけで終わるものにしない。それが最善だと信じて、俺は残された日々を過ごすつもりだよ」
──覚悟を決めたように、そう宣言した。
「だから、ごめん。俺は君が困っていても、助けることはできない。俺が一方的に君の借金を肩代わりしてしまったら、対等な関係じゃなくなってしまうからさ」
「そ、そんなの当たり前ですっ……!」
「でも、苦しんでいる君を黙って見過すこともできない。だから、俺なりに考えたんだ。少しでも未来に希望が見えて、なおかつ俺たちが対等な関係であり続ける方法を」
そう言うと、彼は私の前に一切れの紙を差し出した。
「えっと、これは……?」
「まあ一言でいうと、契約書かな。たまたまシオンが野暮用でこの辺に来てたみたいだから、特急で作らせたんだよ」
次いで彼はまくしたてるように、契約書の内容を読み上げていく。
「岩崎グループは漆原沙耶の負債を一時的に肩代わりする。
この契約をもって、漆原沙耶は岩崎グループの一員となる。
よって東都大学卒業後、漆原沙耶に岩崎グループへの入社を義務付ける。
入社後は給与の一部を天引きし、岩崎グループへの返済に充てるものとする」
それは、私の返済先が例の取立人たちから岩崎グループへ変わるという内容だった。
「負債を抱える君は、返済の算段が欲しい。岩崎グループの跡継ぎたる俺としては、優秀な人材は早めに確保しておきたい。だったら先に岩崎グループで返済しておいて、雇った後に君からは給料差し引きって形で会社に返してもらう。はは、合理的で対等じゃないか?」
「そ、それは、たしかに……」
これまで、彼の家柄を強く意識したことはなかった。
けれど、この瞬間、私はやはり彼が岩崎家の御曹司であることを実感させられた。
彼が私の境遇を知ったのは、ほんの数十分前のはず。だというのに、彼はこの短時間で機転を利かせ、現状をひっくり返す手段を提示してみせた。とても常人にできることじゃない。
私が彼をダマすなんて、最初から無理な話だったのかもしれない。
「沙耶は学歴に文句なしだし、ずっと一緒に居て一生懸命な人柄も分かってるからな。取立人たちには、さっき話つけたから問題も無い。それにウチと契約すれば、居なくなったお父さんもシオンあたりが探し出してくれるだろう。はは、悪い条件じゃないだろ?」
悪いどころか、良すぎるくらいだ。
私には、もったいないくらいに。
「どう、して……どうして、そこまでしてくれるんですか?」
だからこそ、彼がこれほどに私を気遣ってくれる理由も分からない。
「理由か。ま、岩崎家の跡継ぎともあろう者が人一人救えないのが嫌だ、とかそんなもんだけど。そうだな、あえて言うなら……」
そこまで言うと、彼は柔和に微笑んで──
「沙耶のメシがおいしかったから、かな」
──取るに足らない理由を、告げていた。
「俺の実家って、シェフが料理作るから味は良いんだけどさ。家庭感というか、なんというか……そういう感じは、あんまなかったんだよ。でも、沙耶の手料理って、そういう温もりがある気がしてさ。それが新鮮で、嬉しかったんだ」
こんな理由じゃダメか?
そう言って悪戯に笑いながら、彼は私を見つめ続ける。
「っ、ぐすっ……ダメなワケ、ないじゃないですか……!」
「はは、それはよかった」
またしても涙が溢れ出す。
けれど、この涙はさっきまでと違って絶望にまみれた涙じゃない。
新たな明日を望んで、輝かしい未来を願う。そんな、嬉し涙だ。
「っと、いっけね。偉そうに契約書とか出したけど、さすがに今サインと押印とかできないよな? どうしたものか……」
「いえ、大丈夫です。よく外で勉強するのでペンは常備してます。ハンコはないですけど、指印なら、すぐ押せるので」
はやる気持ちを胸に、契約書へ自分の名前を書き殴る。
ハンコと朱肉は持ち合わせていない。けれど今すぐこの想いを形にしたかったから、私は口紅を親指につけて契約書に押し付けた。
「だ、大胆だな……」
「ふふ、これで契約成立ですね?」
思いもよらなかった結末。
しかし、これ以上はないであろう最高の結末。
私と彼の関係は今をもってひとつの終わりを迎え、また新たなカタチで始まっていくのだろう。
魔女と攻略対象から、雇用主と従業員へ。
以前よりちょっとだけビジネスライクな関係に、私たちはシフトしていくのである。
それはどこか寂しい気持ちもあるけれど、スッパリ繋がりがなくなってしまうよりは、ずっと幸せなことだ。みんなで過ごす日々も、あと少しだけは続きそうで嬉しい。
「ねぇ、大河さん?」
ああ。でも、少し悔しいな──
「──私を泣かせた責任、とってくださいね?」
なんで今更、この気持ちが恋だって気づいちゃったんだろう。
第五章「涙の契約」(完)