15.開始地点
「瑠璃さんや、そろそろ休憩にしようかね」
先代に声をかけられて、読んでいた資料から目を上げる。
いつもなら窓際にある低い机の上にお茶とお菓子の用意がしてあるけれど、今日は何も置かれていない。
その代わり、なぜか部屋の真ん中にある畳が半分だけなくなっていて、小さな囲炉裏になっていた。
資料を棚に戻して戻ってくると、先代がいたずらっぽい顔で笑いかけてくる。
「今日は瑠璃さんが茶を点ててみないかね?」
さらっと言われた言葉に、
「……おじい様。お茶を点てるのは当主の役割ですよね?」
私は先代に向かってひきつった笑みを返した。
青柳家では季節ごとに色々な会合や催し物が開かれるのだが、その中に『おふるまい』というお茶会がある。当主 (この場合は先代だ)がお茶を点てて客人にふるまうというものだが、この茶会、席順で流血沙汰が起きたりするくらい重要かつ物騒なものなのだ。
色々頑張るとは決めたけれど、そんな危険な所に飛び込まされるのは勘弁してもらいたい。
私の考えていることが分かりやすかったのか、先代は目じりを下げて苦笑して、私の頭をくしゃりとなでた。
「そんなに肩肘張って考えるこたあないさね。茶ってえのは相手ををねぎらう意味もあるんだ。
上にねぎらわれれば箔もつく。月草や蛍のためにも覚えておいても損はないだろうよ」
先代はにやりと笑う。
……言っていることは分かるんだけど、私がねぎらったからって箔なんてつくんだろうか。
「こういうのは二人の主である司の役割じゃないんですか?」
「司はこういうことはどうにもからっきしでね」
小さなため息まじりの言葉に思わずうなずいてしまう。
たしかに司はほめたりねぎらったりにはあまり気が回らなさそうだ。
「覚えておいて損になるもんでもあるまいよ」
にやりと笑う先代に押し切られて、お茶の点て方を身につけることになってしまった。
*
「茶碗、茶筅 に茶杓 と棗 。柄杓 に蓋置 、建水 に水指 。あとは帛紗に茶巾 だあな。
流派や茶会の趣向によって多少の差はあるが、まあ、これくらいありゃ茶は点てられるってなもんよ」
ずらずらずらっと並んだ道具の名前を言われるけど、どれがどれだかさっぱりだ。
見慣れないものがほとんどで、正直使いこなせる気がしない。
「とまあ、細かいところを言えばキリがないが、最低限必要なのはこのあたりだな」
明らかに顔が引きつっている私に気が付いたのか、先代は並んだ道具の中からいくつかをよけて私の前に置いていく。
「本来は道具の運び入れから清めまでってのが手順だがね。まずは気楽に点ててみようじゃないか」
安心させるように笑いかけられるけど、ちっとも安心できない。
……気楽にって言われても、何もわからない状態でどうしろと。
お茶の道具ってものすごく高価なものもあるらしいし、汚したり落としたりしそうで怖い。
私の前に置かれた道具たちに手を出さずに見ていると、先代は目を細めて説明を始めた。
「こいつが棗。茶入れだな。まあ開けてごらん。両手で丁寧に持ちゃあ、そうそう落としたりしないから安心おし」
先代に手渡されたオレンジ色のころんとした器のふたを開けると、中にはあざやかな緑色の抹茶が入っていた。
「……なんでなつめっていう名前なんですか?」
「形が棗の実に似てるからってえ話だねえ。で、こっちのでっかい耳かきみたいな竹の棒が茶杓。まあ要するに茶をすくうための計量スプーンってえところだ」
ふたをした棗を置いて茶杓を手に取ってみると、本当に耳かきみたいな形をしている。
こんなものでお茶が本当にすくえるんだろうか?
「お次は茶筅。こいつは見たことがあるんじゃないかい?」
これは先代が使っているのを見たことがある。お茶をシャカシャカかき回すやつだ。
片方だけをほうきみたいに細く裂いた竹を、丸く内側にカーブさせたみたいな形をしている。近くで見るのは初めてだけど、本当に一本一本が細くて細かい。
「あとは茶碗と、建水だあな」
よく見る抹茶用の茶碗と、茶碗よりも大きくて分厚い器が目の前に置かれる。
「この建水ってのは、茶碗や茶筅をすすいだ後の湯を入れておくもんだ。
室内だと汚れた水を捨てる場所がないから、専用の器があるってえわけだね」
……なるほど。たしかにその辺りに捨てるわけにもいかないもんなあ。
「とまあ、説明が済んだところで、早速やってみるかい。見ながらの方がわかりやすいだろうから、横にお座り」
言われて囲炉裏の前に座っている先代の隣に移動する。
正座したところで、ひざの前に茶碗と棗が置かれる。
「さて、まずは茶碗に湯を入れる。こいつが茶釜。湯が入っているから、ちいとばかし熱いぞ」
囲炉裏の中に埋め込まれるように置いてある、黒くてごつごつした釜のふたを開けるとむわっと熱気が立ち昇る。
「本来ならこの季節は持ち運びができる釜の方を使うんだがね。理由は分かるかい?」
「……わからないです」
そもそも移動できる釜があるっていうことすら今知ったくらいだ。使い分けの理由なんてさっぱりわからない。
「熱いからさ。寒い時期は客の近くに釜がある方があたたかい。逆に暑い時期は釜は客人から遠い場所に置けるように移動式のものを使うってえわけだ」
神社で手を洗うときに使いそうな竹の柄杓で釜から湯をすくい取って、先代は自分の分と私の分、両方の茶碗にお湯をそそぎ入れた。
「埋め込み式の釜の方が位置が低くて見えやすいんで今回は炉を使ったがね。普段使いなら電気ポットの湯でも別に構いやしない。温度は高い方がいいがね。
まずは、茶を点てる前の下準備だ。こうやって茶碗をあたためつつ、湯が冷めないうちに茶筅の先をひたして、穂先に折れや欠けがないかないか確認していく。瑠璃さんもやってみな」
「はい」
先代の動きを見ながら、見よう見まねでやっていく。
軽く湯にひたして持ち上げて確認。少し回してまたひたして確認だ。
「親指、人差し指、中指の三本の指で軽く持って、お次は湯の中で軽く前後に振ってやる。
こうすることで茶筅をやわらかくして、折れにくくするわけだな」
シャカシャカと湯の中で振った茶筅を置いて、汚れた水を入れる器に湯を捨てる。渡されたやわらかいガーゼで茶碗の水分を拭きとって、これで準備は完了らしい。
「棗のふたを開けて、茶杓二杯分を茶碗に入れる」
言われた通りに抹茶をすくうと、思っていたより山盛りになった。先代も同じくらいの量だから大丈夫だとは思うんだけど、こんなに入れるものなんだろうか。
「湯を入れて、冷めないうちに手早く点てていく」
入れたお湯は茶碗の四分の一くらい?意外と少ない。
「力を入れすぎずに手首と肘をやわらかく使って、さっき湯の中で動かした時みたいに茶筅を前後に動かしていく。湯が冷めないうちにとにかく手早く、ってえのが鉄則だ」
言いながら先代はいつものようにシャカシャカとお茶を混ぜていく。
私も同じようにやろうとして、全然できないことに気が付いた。
……え、ちょっと待って待って。先代の手の動き早すぎない?私そんなに高速で動かせないんだけど。
「そらそら、茶碗の端から端まで届くくらいもっと大きくだ。それに茶は底に沈んでるから、穂先がたわむくらい深くまで入れないと混ざらないぞ?」
大きく動かせって、こぼしそうで怖いんだけど。それにちょ、早い早い!手首がつりそう。
え、え、お茶を点てるのってこんなにキツいものなの?
先代はいつもさらっといれてくれてたから気付かなかったけど、見るのとやるのとでは大違いだ。
「ある程度泡立ったらゆっくりと表面を穂先でなぞるようにすると泡が整うからね。
最後にまた底に沈めて、ひらがなの『の』を書くように動かして、引き上げる」
一応言われた通りにしたつもりだけど……全然できた気がしない。
いつも飲んでいる抹茶とは見た目からして違う。
大きめの泡がぽこぽこと島みたいにいくつか浮かぶお茶は、見た目的には青汁っぽい色だ。しかも上の方の色が薄くて、もうすでにお茶と湯が分離しかかっているのがわかる。
「まあ、まずは飲んでごらん」
言われて口を付ける。一瞬味がない?って思ったけどすぐにざらっとしたお茶のかたまりが口の中に入ってきた。残すわけにもいかないからなんとか飲み切ったけど……いつもの抹茶とは全然別物だ。
「粉っぽいのに水っぽい……」
思わずつぶやくと、先代は楽しそうにくつくつと笑った。
「まあ最初はそんなもんさね。同じ茶葉だがこっちも飲んでみるかい?」
先代の点てたお茶は細かい泡がきれいにたっていて、飲んでみてもざらつきもない。
お茶の葉とお湯しか入っていないはずなのになぜかクリーミーだ。
「暇なときにでも練習してみるといいさ。
今日使った道具は持ってお帰り。戻ったら司にでも点ててやるといいさね」
飲み終わった茶碗に湯を入れて、茶筅を軽くシャカシャカと動かしてすすぎながら先代が言う。
同じようにまねをしながら、まともに飲めるものができるんだろうかと考えてため息が出る。
「堅っ苦しく考えることもないさね。茶の作法なんてものは、要するにどれだけ相手のことを考えられるかってえことだ。
部屋の温度も茶の手前も道具の一つに至るまで、すべて客をもてなすためのもの。相手のことをよおっく見て、考えてやれば自ずとできるようになるもんさ」
汚れた水を捨てて、先代は笑う。
「ちゃんと見てもらっている人間ってえのは強い。
自分のことを分かっていてくれる相手がいてくれるってえのは、何よりの力になるもんだ」
「はい」
「これは上下の関係でも変わらない。ちゃあんと見てねぎらわれている人間ってえのは働きが違ってくるもんだ。
下の者を生かすも殺すも上の人間次第ってえことだな」
道具を片付け終わった先代が、『できるかい?』と言うように私の目を見て少しだけ首をかしげる。
その瞬間、穏やかだった空気がぴりっと引き締まった。
楽しそうに、面白そうに、少しの挑発も込めてにやりと笑う表情。
一方で細められた目の奥にあるのは、私の内面を見極めようとする冷静な意思だ。
……こういうところが油断ならないんだよなあ。
快活でいたずら好きな個人としての感情と、先代という役割の冷静さが矛盾することなく混ざり合っている。
この油断できなさが、司と同じ血を感じるんだよねえ……。
内心でこっそり思ってため息をつく。
「……頑張ります」
できるかどうかはやってみないと分からない。
今はまだ、勉強と練習の段階だ。
*
「ところで瑠璃さんは犬を飼ったことはあるかい?」
「ええと……はい」
突然変わった話題に戸惑いながら答える。こっちに来てからは犬の姿も見ていないけれど、向こうでは小型犬を飼っていた。
さっきのやりとりで先代の中でどういう評価が下されたのかはわからないけれど、一瞬引き締まった空気は再びいつも通りに戻っている。
「なら話が早い。犬ってえのは序列を気にする生き物だろ?
飼い主や家族の中はもちろん、何匹も飼ってりゃ犬同士の中でも順位付けが出てくる。飼い主としちゃあどの犬も平等に大事だが、順位を付けなきゃならない時もある。飼い主の考える順位と犬の中での順位が違えば、気に入らねえってんで牙をむく犬もいるってなもんだ」
たしかに。家族の中ではなぜかお父さんだけがものすごく吠えられていた。
「茶会の席順もこれと同じようなもんさね。席順を見れば順位がわかる。
だからこそ、よおっく見て考えて、いい塩梅にしてやらなきゃならねえわけだ」
先代の話を聞きながら、さっきまで見ていた資料を思い返す。
大きな集まりで開かれた茶会での流血沙汰と、その処分についての内容だ。
「ちなみに資料に書いてあった夜光の宴って、五年に一度のものなんですよね?ここでの順位って……」
「まあ、影響力は大きいわな」
「だから流血沙汰……」
「まあ夜光はざっくばらんな集まりだってえのもあるがね。
たとえば正月は親戚衆だけの格式張った会合なもんで、流血沙汰なんて起こる余地もない。
夜光の宴は世話になった相手へのねぎらいが主になるからね。呼ばれる人間も違えば、舟遊びや余興なんてえのもある。人の多い気楽な集まりほど揉め事が増えるってえのは、まあある意味決まり事みたいなもんさね」
仕方ねえなあという感じで笑って言って、先代はふと思いついたというようににやりといつもの笑みを向けてきた。
……あ。嫌な予感。
「秋の観月会が規模は小さいが同じような集まりだあね。司も毎年顔は出してるが、瑠璃さんも今年は出てみるかい?」
さらっと言われるけど、青柳家主催の集まりに私がどんな立ち位置で出るっていうんだろうか。こっそり使用人の一員として、っていうわけにはいかないんだろうしなあ。
「まだ足りないものが多すぎるので、やめておきます」
「そうかい?まあ気が変わったら言っておいで」
私の返答は予想されていたのか、特に何を言われることもなく話題は終わる。
「口直しにどうだい?」
先代が小さな箱から出してきたのは、和三盆というきめ細かい砂糖で作られたお菓子だ。朱塗りの器にのせられた小さなお菓子は、お茶の香りでいっぱいになった口の中に入れるとほんのりと甘さを残してほろりと崩れる。
ほろほろと崩れる食感を楽しんでいると、ちょうど終わりの時間がやってきた。
お茶の道具は後から司の部屋に届けてくれるそうなので、持ち出してもいい資料を借りて先代の部屋を出る。
*
「よく見て、相手を知ること。相手のことを考えること」
司の部屋に戻りながら、先代に言われたことを復習する。
今日の宿題も山盛りだ。
……まずはお茶を点てる練習かな。司に付き合ってもらうにしても、さすがにあれは飲ませられない。
左手に資料を持ち替えて、先代の動きを思い出しながら軽く右の手首を振ってみる。
「こう……もっと軽く……手首のスナップってどうだっけ……」
「…………さま。瑠璃様!」
練習しながら歩いていると、いきなりぐいっと腕を引かれた。
「え?」
「考えごとをしながら歩くと危険ですよ」
「え」
顔を上げるとすぐそばに木の柱があった。
どうやら気付かないうちに柱に向かって突き進んでいたらしい。
「何度か声をお掛けしたんですが気付かれなかったので」
「あ……すみません。ありがとうございます」
困ったような笑みを向けてくるのは先代のお付きの人だ。何回か見たことがある。
「……もしかして、送ってくれてました?」
「先代に命じられましたので」
やっぱりか。偶然にしてはタイミングが良すぎると思った。
過保護というかなんというか。実際に助けられた身としては何も言えないけれど、よく知った道を送られないといけないっていうのはちょっと恥ずかしい。
小さくため息をつくと、お付きの人はしまったという顔をして私の腕をぱっと離した。
「えっと、これは次代には瑠璃様を守るために仕方なく、不可抗力だって伝えてくださいね?」
両手を上げて笑顔のままおどけたように言うお付きの人の目の底に、隠しきれない本物の怯えが見える。
これは……怖がられてるのは私じゃなくて司なんだろうな。
青柳家に長期的に滞在することになって分かったことがいくつかある。
ここにはたくさんの人たちがいるけれど、私たちと先代以外の人は司には近づかないし話しかけることもほとんどない。
話をしてみれば司に対して好意的な人も多いけれど、近づくのは恐ろしいとみんな口をそろえて言う。
多分……司の力が強すぎることに原因があるんだろう。
少しでも気をそこねれば、相手が色付きでも文字通り首を飛ばすことが司にはできる。
自室だけで暮らせそうな設備も引きこもりになれそうなほど至れり尽くせりの環境も、見方を変えれば誰とも顔を合わせずに済むように特化した結果にも思える。
司はこの大きな家の跡取りだけれど……きっと何一つ問題がないわけじゃない。
よく見て相手のことを考えることが力になると、先代は教えてくれた。
……私は、これから何をしていけるだろうか。