13.新しい名前
着替えてしばらくゆっくりしてから正門まで行ったら、男子と月草さんが先に来て待っていた。
「あ、すごい。涼しげになってるね」
二人ともいつものスーツじゃなくてシャツとベストになっている。
「だろ?前のスーツだと暑かったからな」
「熱中症になったら大変だもんね」
「お前が言うとシャレにならないんだよ」
話しながら全員でいつもの高級車に乗って、市役所に向かう。
着いたのは……本当に普通の役所っていう感じの灰色の建物だった。
月草さんが先頭に立って、自動ドアを入ってすぐの市民課の窓口に近づいていく。
しばらく職員さんと話してから、こっちに戻ってきた。
「名前の登録は総務課だそうです」
場所も聞いたらしく、迷いのない足取りで奥へと向かっていく月草さんの後をみんなでついていく。
『総務課』というプレートがつり下げられたカウンターが見えてきた。
カウンターの前には順番待ちの人が座る椅子がいくつも並んでいるけれど、タイミングが良かったのか今は誰もいないみたいだ。
「群衆の名前の登録をお願いします」
月草さんが窓口で言うと、奥に座っていた職員さんが立ち上がって棚にあった濃い赤色の分厚いファイルを取りに行った。
そのままファイルを持って来て、カウンターの向こう側できっちりした礼をする。
「登録担当の東雲と申します。
今回ご登録されるのはお二人、ということでよろしいでしょうか?」
「はい。それぞれ一人ずつです」
月草さんが言い終わる前に司がカウンター前の椅子に座る。じゃあその隣に座ろうかと椅子の背に手を伸ばしかけたところで月草さんが無駄のない動きで椅子を引いてくれる。
椅子くらい自分で座れるけど……こういうことにも慣れないといけないんだろうな。
出そうになったため息を飲み込んでお礼を言う。
「……ありがとうございます」
「当然のことですから」
私が腰を落とすのと同時に椅子が自然にすべり込んでくる。
……こういうのって、どこかで練習するんだろうか?
考えていると、ひそかに月草さんの動きをエアーでまねしている男子と目が合った。
「……なんだよ」
ちょっとバツが悪そうな男子が面白い。
「こういうのも従者の基本技なの?」
「まあ、一応な」
「覚えておいて損はありませんから」
二人が答えてきて、月草さんがさらっと男子の椅子も引いてみせる。
「……って、なんでおれまで」
「される側を体験しておくのも重要ですから」
言いながら月草さんは断ろうとした男子を自然に誘導して座らせる。
……おおっ!たしかに熟練の技を感じる。
最後に月草さんが座って、担当の人……東雲さんに軽く頭を下げた。
「お待たせして申し訳ありません。始めてください」
「かしこまりました」
東雲さんはファイルから厚めのクリーム色の紙を取り出した。
「それではまず、群衆のお二人はこちらの用紙に手をかざしてください」
言われた通りに何も書かれていない紙に手をかざそうとすると、司に手をにぎられてやんわりと止められる。
「彼女はもう決まってるからいらないよ」
「左様でしたか。失礼いたしました」
私の前にあった紙は、元のファイルの中にしまわれてしまった。
……一体なんなんだろう?
私の横で男子が手をかざしている紙を見ると、じわじわと何かの文字が浮かび上がってくる。
『従者』『ピアス』『ペンケース』『例の』『彼』
……なんだろう?
単語ばかりで文章にもならない感じだし。
意味が分からなくて首をかしげていると、司が説明してくれる。
「あれが世界に認識されてる呼び名だね。
群衆はあの紙に出てきた文字に関わる名前しか付けられないんだよ」
「え、じゃあ私は?」
「もう登録する名前は決まってるでしょ?」
……まあ、たしかにおじい様とか司の家の人たちには瑠璃って呼ばれてるけど。
「こちらが登録用紙です」
次に東雲さんがファイルから出してきたのは、いくつかの枠が印刷されている複写式の紙だった。
月草さんからペンを渡された司が、『後見人』と印刷された欄にさらさらと自分の名前と住所、連絡先を書いていく。
『対象者』の欄には青柳瑠璃の文字が書き込まれる。
「えっ?」
「どうかした?」
思わず声を出してしまうと、司が手をとめてこっちを見てくる。
「どうって、これ、名字が青柳とか……書式も婚姻届けっぽいっていうか……」
婚姻届けの実物なんて見たことないけど、こんな感じだった気がする。
ただの名前の登録だし意識しすぎだと思うけど……でも同じ名字ってそういうこと?
でも『後見人』だし、結婚して相手の姓に変わるっていうのとは多分違うよね?
……え?これってどうなの?
一人で混乱していると、私の様子を見ていた司が月草さんに向かって声をかけた。
「月草。二人で内緒の話するから」
「わかりました」
月草さんが軽く手を振った途端、まわりの音が消えた。
「これで外には聞こえなくなったけど、一応口の動きを読み取られないように注意してね」
何かを確認して軽くうなずいた後で、司は内緒話をするように私の耳に手を添えて聞いてくる。
「……もしかして、君のところでは結婚すると相手の名字に変わるの?」
「えっ?」
その言い方だと、こっちでは結婚しても名字は変わらないんだろうか?
「こっちでは使役獣との契約があるから名前を変えることはまずないんだよ」
「あっ、そっか」
契約に名前を使ってるから、結婚したからって変えるわけにはいかないんだ。
……じゃあ、私の場合はどうなんだろう。
不安が顔に出ていたのか、司が私を落ち着かせるように背中をゆっくりとなでてくれる。
「君の場合は使役獣と契約した名前が変わるわけじゃないから大丈夫。
他の人間が呼べる名前がないと不便だから、登録するだけだから」
……そういうことなら納得だ。
ほっとして、知らないうちにこわばっていた体から力が抜ける。
とん、とん、と私の軽く背中に触れて、司が何もない空中を片手でなぎ払う。
何もないはずなのに『ぱきん』と何かが割れる音がして、急に周囲の音が聞こえてきた。
「結界を素手で破壊しないでくださいよ」
あきれたように月草さんが言って、
「用が済んだからいいじゃない」
何の問題があるのかわからないという様子で司が首をかしげる。
さっきまわりの音が急に消えたのは、結界が張られていたかららしい。
別の世界についての会話を他の人に聞かせないためだろうけど、本当にこれに関しては司は徹底している。
「俺と同じ名字になるのは『君に何かあったら俺が黙っていない』って他の人間に分からせるためなんだよね」
「……そうなんだ」
自分の勘違いがちょっと恥ずかしいけど、ここはなかったことにして流してしまおう。
顔が赤くならないように気を付けながら笑みを浮かべると、なぜか顔を赤くした司が私の両手をにぎってきた。
「でも、君がいいならこのまま婚姻届けも」
「できませんからね?」
司の言葉をさえぎるように月草さんがひらりと手を振って、またまわりの音が聞こえなくなった。
多分結界を張りなおしたんだろう。
「あんただって知ってるでしょう。
色付きと群衆は結婚できないって法律で決まってるんですよ」
月草さんの言葉に不快そうに口の端を曲げた司は、
「……どれに圧力かけるのが一番早いかな」
なんだか不穏なことを言い始めた。
「各界への根回しと世論操作が先ですよ。
無理に推し進めても反発を一番に受けるのは瑠璃様ですからね?」
いつも通りの表情の月草さんは、司を落ち着かせてくれるのかと期待したが……どうも雲行きが怪しい。
「いや、法律で決まってるなら無理しなくても……」
思わず二人をとめようと声を出したら、
「……結婚してくれないの?」
司がへにゃりと泣きそうな顔になる。
……そういうわけじゃないけど。
思わず答えようとして、言葉がのどの奥で固まった。
司のそばにいたい、とは思う。
……でも。
さっき月草さんが色付きと群衆が結婚できないって言った時。
私は……ほっとしてしまった。
最近読み始めた調停関係の資料。
色々な立場の人がいて、それぞれの考え方があって。
調停に名前が出てくる人の向こうにもたくさんの人たちがいて、それぞれの生活がある。
そんな何人いるのかもわからない大勢の人たちを、一番上で束ねているのが先代だ。
そして……司はその跡取りだ。
司の隣にいるということは、青柳家やその向こうにいる大勢の人たちの上に立つということだ。
……正直に言って、人の上に立つ覚悟も心構えも私にはない。
月草さんや男子に対して『使用人と仕えられる者』として接することすら抵抗があるくらいだ。
完全誓言の時に来ていたような貫禄たっぷりの人たちを先代のように従わせ、まとめて、方向を指し示すなんて、できるとも思えない。
……だけど。
司の隣にいるつもりなら、そういうこともできるようになっていかないといけない。
正直、できる気がしない。
だけど……期待されているのはわかる。
そうでなければ、調停の資料なんて見せてもらえることなんてないだろうし、先代がわざわざ時間を作って教えてくれるはずもない。
返事ができないでいる私の様子に何かを感じ取ったのか、司が私の両手を包むこむようににぎってきた。
「もし君が嫌だって言うなら、跡継ぎの座なんて今すぐ捨てるよ?」
何の迷いもなく、私だけを見て言われた言葉に泣きそうになる。
多分、司は私が怖いとかやりたくないと言えば、大変なことは一切見せずに関わらせずにいてくれるだろう。
「……でも。それじゃ駄目なんだよ。
私は、もう司に何も捨てさせないって……決めたの」
司が私のためにって先回りして全部やるんじゃ、司に代償を払わせっぱなしだった頃と何も変わらない。
「だから、結婚はできないよ。
今のままじゃ、足手まといにしかなれない。
ちゃんと司を支えられるようにならないといけないから」
司の目を見て断ったら、
「……ありがとう」
どうしてか司は泣きそうな顔で、にじむように笑った。
「え?なんでありがとう?」
私、ちゃんと断ったよね?なんでこんな嬉しそうなの?
「俺のこと……真剣に考えてくれてるから。
だから、ありがとう」
司は泣きそうな顔のままで私を抱きしめて、肩口に頭を乗せてきた。
「俺も……頑張るから」
少しだけ震える声が私の鼓膜に小さく届く。
……司が今、何を考えているのかは私にはわからないけれど。
それでも一緒にいたいから。
手を伸ばして司の背中をぎゅっと抱きしめる。
「私も頑張る」
何ができるか、どこまでできるのかわからないけれど。
できることを、やるんだ。




