39.名前は大切です
「使役獣を出してくれる?」
「アオイ出てきて」
するりと私の影から藍色の狼が出てくる。
鼻面を押し付けてくるからなめらかな毛並みをそっとなでる。
アオイは私と司に体をすりつけてから、さっきまで先代がいた位置に座った。
「道を開いて」
司の言葉に、つややかな長い尻尾を一振りして、アオイは高らかにひと鳴きした。
瞬間、目の前の空気がぐにゃりと歪んだ。
「え……?」
目がかすんだのかと思った。向こう側は見えているのに、私と司の前だけ空気の厚みが違う。
「使役獣の世界の入り口だよ。行こうか」
そっと手を取られて足を踏み出す。
空気の層を抜けたとたん、景色が変わった。
*
乳白色の霧の中に木のシルエットがいくつも浮かんでいた。
一瞬前まで畳敷きの室内にいたのに、突然の屋外で驚く。
「なっ、なんでいきなり外?」
「ここ基本的に建物がないんだよね」
のんびりした司の声に力が抜けつつ足元を見ると、二人とも足袋のままだった。
「どうしよう借り物なのに」
「大丈夫だよ。ここは異界だから、汚れたりけがしたりしないから」
異界ってなに。今までいたところとは違うのはわかるけど。
とりあえず足袋を脱いでおくかどうか悩んでいると、
「まったく、仕様のない子だねえ。そこはお姫様抱っこをする場面じゃないのかえ?」
艶やかな女の人の声がした。
「着物でそんなことしたら着崩れるよ。せっかく綺麗なのにもったいない」
司は普通にしゃべってるけど。
「えぇっ?アオイがしゃべった!」
「ほほ。愛い反応よのう」
明らかに藍色の狼から色っぽい系のお姉さんの声がする。
「どっ、どういうこと?」
「使役獣は本来神様の一部だからね。話すくらいはするよ」
……なんだろう。神様っていう言葉にぞわっと嫌な感じがする。
「神っていう言葉にはあんまりいいイメージがないんだけど」
なんとなく、じりっと後ずさると司が苦笑した。
「多分彩音が想像してる神とは違うと思う。もっと……神霊というか精霊というか……」
「この世界に根ざしたものという言い方が良いのではないかえ?」
「うん。そんな感じ。あの気持ち悪いのとは根本から違うものだから安心して」
よくわからないけど、アオイからは嫌な感じはしない。
「あちらでは喋れぬよう制約がかけられておるからのう。ここは狭間がゆえ、話すこともできるのじゃ」
アオイが機嫌よさそうに長い尻尾をぱたりぱたりと揺らす。
「お主には礼を言わねばと思っておったから、ちょうど良い。善き名を与えてくれたこと、感謝しておる」
鼻面を押し付けてくるけど、いつもみたいになでていいんだろうか。
「彩音のくれた名前、そんなに気に入ったんだ?」
「お主の寄越した名に比べれば珠玉の如くよ。まったく、幼子だったゆえ仕様がないにしても『あいいろおおかみ』はなかろうよ」
「あーそんな名前だったっけ?」
「お主は普段から名を呼ばぬから良かったがの。今はアオイじゃ。お主もそう呼ぶが良いぞ?」
尻尾ではたかれて司が迷惑そうに顔をしかめる。
「なんかイメージが違うんだけど。もっと使役獣と主の関係って主の力が絶対なのかと思ってた」
見ている感じ、どちらかというとアオイの方が上に見える。
「元々あっちの方が高位の存在だから。契約してこっちの世界に来れるようにする代わりに、力を貸してくれるっていう感じなんだよ。
だからこそしっかり主をやってないと、見放されたり食い殺されたりするから。使役獣っていうけど、使役されてるのは人間の方っていう気もするね」
「主を食い殺すなどよほどのことがなければありえぬわ。とかくこちらの世界は退屈でならぬ。儚き人の子に多少の手助けをするくらいの価値は充分にあろうよ。
……ほら、ついておいで」
ひらりと身をひるがえしたアオイに先導されて、霧の中を歩いていく。
光源も見えないのに明るい世界は、風の音さえしない。自分の足音さえ聞こえなくて思わず身震いしたら、司が手をつないでくれた。
大きな手のあたたかさにほっとする。
しばらく歩くと、大きな石がいくつか転がる広場に出た。
真ん中に、ひときわ大きな石がある。私と司が並んで両手を広げても端に届かないくらいで、高さは私の胸くらい。
灰色のごつごつした石の前でアオイが立ち止まり、こちらを振り向いた。
ふと視線を感じて見回すと、明るい霧の中、鳥や獣や蛇など数え切れないくらいの生き物が集まってきていた。こんなにいるのに鳴き声ひとつしない。
……不思議と怖いとは思わなかった。
ただ背すじが伸びるような、厳粛な気持ちになる。
司と二人、手をつないだままアオイの前に立つ。
「こちらに」
アオイが呼ぶと一羽の白い鳥が飛んできて石の上にとまった。
頭の上のふわふわした毛と長い尾羽が特徴的だ。
「此度契約を結ぶのは彼者じゃ。名を授けておあげ」
言われて白い鳥を見る。近くで見るとけっこう大きい。
「じゃあ……雪柳」
尾羽の感じが春先に咲く白い花に印象が似ている。
「あるじさまのお名前を教えてくださいな」
澄んだ声で聞かれて答える。
「佐原彩音です」
「依り代はここに。魔力は俺のを好きに使っていいよ」
「……まあ。違う人間でここまで魔力が似通うなんて。いったい何をしたのかしら?」
「誓言とか色々。これなら文句ないでしょ?」
「ええそうね。これほどなら同じと断じてもいいでしょう。わたくし雪柳は佐原彩音様と契約をいたしますわ」
雪柳がふわりと重さを感じさせない動きで司の持つ枝にとまると、すうっと吸い込まれるように姿が消える。
「名と依り代と魔力をもって契約を結ぶ。この縁がいと末永く続かんことを」
アオイが言うのと同時に枝が青白く光って小さな輪になる。
指輪くらいの大きさのそれは、ゆっくりと私の胸元に飛んできてそのまま消えた。
「ええ?今のなに?」
「契約の指輪。昔は普通に身につけてたらしいけど、奪われたり壊されたりすることがあったらしくて、今は主の中に収納することにしてるんだって」
「収納って……」
もう色々、突っ込みが追いつかないんだけど。
「まあ、これで無事終了だね。アオイ、送って」
「やれやれ。もう少しゆっくりしていけばよいものを。まあよい。またスイーツを楽しみにしておるぞ?」
ぱたり、ぱたりと尻尾を揺らすと、まわりの景色が歪んでいく。
めまいがして目を閉じて、開けるともう元の畳敷きの部屋だった。