37.始まる前の一時
「遅くなりました」
着物のすそが乱れないよう早足で目的の部屋の前まで行くと、すでに先代と司が準備万端という様子で立っていた。
「いんや。ちょうどいいくらいさ」
にやりと笑う先代の姿は、貫禄のある黒の羽織に灰色の袴に変わっている。
「格好いいですね」
思わずつぶやくと、
「お嬢さんも別嬪さんじゃねえの」
手を取ってさらっとウインクされた。
「黙ってろよじじい。なんで俺より先に言うわけ」
「そりゃあお前が鈍くさいからさ。見惚れて声も出ねえなんて男としては三流だぜ?」
「うるさいな。いいかげん手を放せよ色ボケじじい」
「負け惜しみは見苦しいぜ?それに女性に対する賛辞は大盤振る舞いくらいがちょうどいいってもんさ」
……司が完全に押されている。
二人とも楽しそうなので割って入るべきかどうか悩んでいると、すっとダークスーツを着た月草さんが隣に立った。
「急にこんなことになってしまい申し訳ありません。手順は先代が言いますから大丈夫だとは思いますが、困ったら次代に任せてください」
「わかりました」
「オレは進行があるので先に入ります。あとは彼がタイミングを指示しますので」
「よろしくお願いします」
こちらもダークスーツを着た男子が頭を下げる。
おお!敬語初めて聞いた。仕事モードだね。
「こちらこそ」
軽く頭を下げるとにやりと笑われた。
「化けたな」
「耳と尻尾が出てなきゃいいけどね」
「その辺は青柳が何とかすんだろ。……っと。そろそろだな。お前ら中から見えないように横によけろよ。
先代、どうぞ前へ」
「あいよ」
先代が閉じた障子の前に立つ。
「三、二、一……時間です」
「媒酌人、入場」
男子の声と同時に張りのある月草さんの声が中から聞こえた。
音もなく障子が左右にすっと開く。
気負いもなく颯爽と先代が部屋の中に消え、障子が閉まる。
先代が立っていた位置まで移動して、意識して息を長くはいた。
次にこの障子が開いたら私たちの番だ。
緊張で胃がせりあがってくるような気分になっていると、そっと手を握られた。
「手、冷たいね」
「……緊張してるから」
「大丈夫だよ。ただの親戚の集まりだから」
「司にとってはそうかもしれないけど……」
続ける言葉に困って司を見上げたら、司が困ったように笑った。
「かわいすぎてどこ見ていいかわからなくなるね」
「……ありがと」
あいかわらずタイミングが微妙だけど、かわいいって言ってくれるのは素直に嬉しい。
「あとさ、じじいが格好いいからって見とれないでよ。俺だってあと六十年もすればあれよりずっと格好良くなるんだから」
……気にするところはそこなの?変な笑いが出て、緊張がほぐれる。
「司と先代では格好良さの方向性が違う気がするけど。それに司は今でも格好いいよ」
先代と同じ黒の羽織に灰色の袴姿だが、立ち姿がびっくりするほどさまになっている。私みたいに着物に着られてる感がまったくない。
「司はこういうの着慣れてるの?」
「まあ、正月とか親戚の集まりの時はこれだからね」
「すごいね」
小声で話してたら、男子がすっと手を上げて合図してきた。
「おいもうすぐだぞ。三、二、一」
「誓言人、入場」
月草さんの声とともに障子が開く。
……さあ、始まりだ。