36.恋は何より強いのよ
月草さんに連れてこられた部屋では、次々に女性たちが出入りしては丈夫そうな紙に包まれた着物や、帯や小道具を広げていた。
その中心に立つ、鮮やかな海みたいな色の着物を着た女性に月草さんが声をかけた。
「大変お待たせして申し訳ありません。彼女を連れてまいりました」
「あら、それほど待ってはいなくてよ。まあ、かわいらしいお嬢さんだこと!」
振り向いた女性はゆるくうねる空色の髪をした美女だった。
……なんというか、非常に迫力がある。
「こちらは青井和子様。先代のご長女で次代の伯母にあたります。
和子様、お手数をおかけいたしますが、なにとぞよろしくお願いいたします」
短い紹介だけを残して月草さんは即座に去っていく。
私はわけがわからないままでとにかく頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「よろしくてよ。お父様も急に言うから困ってしまうわね。もう少し時間があればあなたに合わせて仕立てさせるのに」
仕立てるってなにそれ怖い。この人も間違いなく青柳家の人間だ。
「まだ若いんだから青じゃなくてピンクのほうが似合いそうね」
いくつかある着物を合わせながら和子様がつぶやく。
「あなたが小柄でよかったわ。着丈が長い分には調整できるもの」
差し出された着物を羽織ったらそでの長さが余ったので、和子様が侍女の人たちに長さを調節するように指示を出す。
「今のうちにこれを着てくださる?」
渡されたのは足袋と、スポーツブラみたいな下着と、薄くて長い着物。どうやらこれが着物の下着になるらしい。
言われるままにワンピースを脱いで着物用の下着を着ていると、不意に和子様がこちらを向いて微笑んだ。
「綺麗に咲いていること。司と、想いを交わしてくれてありがとう」
何のことかわからず首をかしげると、
「あら、聞いていないの?完全誓言はね、お互いの想いとともに成長するのよ。最初は無機質な円だったものが変化して、二人だけの花の形に変わるの。あなたたちの花は紫陽花ね」
お風呂場での疑問がこんなところで解決してしまった。
「あ、あの。完全誓言ってなんなんですか?私、誓言の、命をかける最上級のものだって思ってたんですけど違うんでしょうか。さっき司がプロポーズって言っていて。私、何か思い違いをしてるんでしょうか?」
さっきから続く混乱を和子様に打ち明けると、彼女はこぼれ落ちそうに目を丸くした。
「まあ!そんなことも伝えずに司はあなたに完全誓言を捧げたの?」
薄い着物のえりやそでをピシッと整えてくれながら和子様が教えてくれる。
「あなたの解釈も間違ってはいないわ。ただ完全誓言はね、命を捧げて生涯を誓うものでしょう。ですからパートナーに捧げる場合はプロポーズになるし、主従で行えば忠誠の証になるのよ」
「全然知りませんでした」
プロポーズのつもりで誓言して曲がりなりにも成立してたら、それはほぼ婚約状態と言っていいんじゃないだろうか。
その状態で私は完全誓言の解除の方法を必死に探していたわけで。
そりゃあ『司の一生涯の誓言なんて信じられない』と言った私に月草さんが絶句するわけだ。
今になって知る衝撃の事実に呆然としている間にも着付けはてきぱきと進む。
直しの終わった着物を着せ掛けられ、すその長さを調節し、ひもでぎゅっと締められる。和子様の指示で邪魔な着物のそでを持ち上げたり小道具を渡していた侍女さんたちが思わずと言うように口を開いた。
「わたしは司様が意外と古風で驚きました」
「……近頃は完全誓言をする方のほうが珍しいですものね」
和子様がうなずく。
「そうですよ。完全誓言なんかしたら離婚もできませんから。別れても付きまとわれるなんて気持ち悪いですし」
……完全誓言に対する感覚ってそんな感じなんだ。
話しながらも和子様はえりを整え、クリップのついたベルトで固定し、前後ろの布を調節する。幅の狭い薄い帯で腰の回りをぎゅっとされるとあちこち持っていなくても着物がずれてこなくなった。
よくわからないけどすごい早業だ。
「……わたくしは、あの子に完全誓言をするだけの感性が残っていたことに驚きましたわ」
侍女さんが二人がかりで持ってきた長くて重い帯を巻きつけられる。
「司は力ゆえに誰とも関わらず、誰と心通わせることもなく生きていくのかと思っていたのですけれど。あなたという人にめぐり合えたのね」
後ろで帯の形を整えられ、硬いひもでぎゅっと帯の上から締められる。
「司と出会ってくれて、心を通わせてくれてありがとう」
全体の形を整えて、和子様はにっこりと笑う。
「この着物はお父様とわたくしからの贈り物よ。きっとあなたの役に立つわ」
座るように言われて、肩にバスタオルがかけられる。
「夜会巻きでいいわ」
和子様の言葉で侍女さんたちが私の髪の毛を結っていく。
「軽くお化粧をしますから目を閉じていらして」
目を閉じると色々塗られて、描かれて、色を乗せられる感触がする。
閉じたまぶたの向こうで和子様の声がする。
「あなた恋を、しているのでしょう?」
「はい」
「だったらそんな不安そうな顔はおよしなさい。誰より艶やかに笑ってお見せなさい」
唇を、紅筆がすべっていく。
「恋は何より強いのよ」
肩にかけられたバスタオルが取り払われる。
目を開くと、和子様の紅い唇が弧を描いて魔法をかける。
「恋をしているあなたは誰よりも強いわ。
馬鹿な男共の頭なんて吹き飛ばしておしまいなさい」
「吹き飛ばすんですか?」
「ええそうよ。吹き飛ばすの」
くすりと笑って和子様は綺麗な所作で立ち上がった。
「付け焼き刃で構いませんから、見て、覚えて、実践なさい」
それから時間ぎりぎりまで着物での立ち方、歩き方、座り方を教えてくれた。
今できることはやった。
あとはもう、向かうだけだ。