32.帰りたい
……ぜんぜん大丈夫じゃなかった。
青柳の家は、とんでもない規模の日本家屋だった。
だって、家のまわりの塀の端が見えない。入り口がお寺とかお城にあるみたいな一枚板の大きくて重そうな木の門だ。
「普段はこちらから入るんですよ」
月草さんが門の横にある小さな戸を示す。たしかにこっちは普通の大きさだ。
月草さんがインターホンを押す。
「月草です。次代とお客様をお連れしました」
言葉が終わるのと同時に、ガチャっと音がして門がゆっくりと開いていく。
門が開ききって、そこにあった光景に私は硬直した。
門から伸びる石畳の道の上、左右にそれぞれ十人以上の人たちが並んで頭を下げている。
「おかえりなさいませ」
全員が声をそろえて言ってきて、正直怖い。
「物見高い……」
青柳がぼそっと言う。
「いいからそれぞれの持ち場に戻って」
青柳が言うのと同時に使用人だと思われる人たちはさっと散っていく。
……ちらちら見られるのはもう仕方ないと思うけど、妙に視線が熱い気がする。大きな木の向こうでは年配の渋いおじさんがこぶしを握り締めてガッツポーズをして若い人に引きずられて行っている……?
なにこれ反応がよくわからない。
「今のは気にしないで」
青柳は普通に言うけど……気になるよ?
とりあえず歩き出したけど、建物が遠い。
立派な日本庭園だけど、これもう観光地のレベルでしょ。
個人宅の庭に池やら川やら小さな山まであるってどういうこと?
池にかけられた石の橋を渡っているとぱしゃんと鯉が跳ねた。
「あの鯉も何千万とかするやつ……?」
「それほどでもありませんよ。こちらの池にいるのは三百万程度だと聞いています」
うん。さらっと言ったけど桁が違うよね。だってちらっと見た感じでも十匹以上いるよ?
三千万円あったら家が建つからね?
……もうそろそろ本気で帰りたいんだけど。
やっと着いた建物も玄関から立派。よく手入れされた飴色に光る梁とか高そうな置物とか。通された客間も広くてとにかく落ち着かない。
「ちょっともう無理」
青柳の服のそでを握り締めたまま半泣きになる。
「えっ、どうしたの?気持ち悪いの?トイレ行く?」
「そうじゃなくて広いし豪華だし落ち着かない。もうやだ家に帰りたい」
朝から全部で許容量がパンパンだ。思わず小声で叫んだら、青柳が目に見えて動揺した。
「え、ちょっと待って帰らないで。俺もついてくから待って」
青柳がぎゅうぎゅう抱きしめてくる。力加減ができなくなってるのかけっこう痛い。
「ちょっ、待っ……」
「落ち着けそこのバカップル」
男子がいきなり、本で青柳の頭をスパンと叩いた。
「こんな馬鹿でかい家、庶民には刺激が強いんだよ。もうちょっと狭くて飾りとかないとこねえの?」
「え、それだったら俺の部屋とか?」
「あんな殺風景なところに女性を通したら引かれますよ」
「もうそこでいいからとりあえず落ち着いてこい。お前もほら、何冊か借りてきてやったから」
あいかわらず青柳に抱きしめられているが、ゆるんだ隙間から手を出して本を受け取る。
「あ、ありがと」
「まあビビるのはわかるけどな。……ほらとっとと行けよ」
前半は私に、後半は青柳に向かって言って男子が部屋の外を指差す。
「わかった」
意外とあっさり言うことを聞く青柳がちょっと面白い。
私を抱きしめたまま立ち上がって、そのまま庭に出て行く。
「え、ちょっ、靴とかは」
「後でお届けしますから」
月草さんと男子に見送られて、青柳は靴下のまま庭をざかざか進んでいく。
「着いたよ。戸を開けるからちょっとごめんね」
私の背中を支えていた手が離れて、ガラガラと音がする。
「……ここが青柳の部屋?」
「うん。そう」
部屋っていうかもうこれ小さい一軒家だよね。
こぢんまりした玄関を上がって、すぐにある畳の部屋にそっと下ろされた。それでも青柳の手は私の腕をつかんで放さない。
「さっきはごめん。……痛かった?」
「すぐ力緩めてくれたから大丈夫」
心配ないよって笑ってみせたけど、青柳の表情は晴れない。
「……帰りたいの?」
「さっきはね。今はそうでもないけど」
ちょっとパニック起こしたけど、男子に言われてるうちに色々吹き飛んでしまった。多分もうちょっとしたら落ち着けると思う。
「他の世界から来たって聞いた。家に……前にいた世界に帰りたい?」
「え……」
聞き間違いかと思った。だってそんなこと青柳が知ってるはずがないから。
「君の家は、ここにはないんだよね」
言われて、さっきから続く青柳の動揺の理由を知る。
「家ってそういう意味で言ったんじゃなくて」
確実に死んだって思える状態でいきなりこっちに来て、とにかく生き延びようってがむしゃらにやってきた。家に、元の世界に帰りたいなんて考えもしなかった。
「こんな、すぐ死んじゃうようなところに来て。怖かったでしょう」
しぼりだすような声で言われて。
ぽろりと、涙がこぼれ落ちた。
「あ……」
一粒こぼれたら、とまらなかった。
次から次に、流れて落ちる。
……ずっとずっと本当は怖かった。似ているけれど知らない世界。名前もない自分。与えられた知識と自分の知識が矛盾して、自分が合っているのか間違っているのかもわからない。
だけどそんなこと誰にも言えないから、ただ前を向くことにした。死なないように、生き延びることに集中することでふたをした。
「あ、ああ……うあああ……」
あふれ出したものが胸の中で暴れまわる。
のどの奥から獣みたいな声がする。ばたばたと流れ出る涙で前も見えない。全身が勝手に震えて、息の仕方もわからない。
自分がどこにいるのかもわからない恐怖に叫びだしそうになったとき、痛いくらい強く抱きしめられた。
「ごめん……ごめんね。ごめんなさい」
なぜか謝る青柳の声が降ってくる。
闇の中で見つけた光にすがるように、青柳の背中に手を回した。離さないように、こぼれ落ちないようにしがみつく。
……そうしてしばらくたつと、胸の中で暴れていたものは潮が引くように去っていった。
時々名残のようにのどが震えてヒュッとひきつったような声が出る。
すぐ近くから青柳の心臓の音だけが聞こえる。
とても静かだ。
「……帰りたい?」
そっと聞かれてゆるく首を振る。
「ううん。ここがいい」
「君の、名前を教えて」
もう誰も、呼んでくれることはないと思っていた。
「彩音。佐原彩音っていうの」
「佐原彩音……彩音」
青柳の声で名前を呼ばれて、また涙があふれてきた。
青柳の長い指が涙をぬぐってくれる。
ずっとあったふわふわと頼りないものから、やっと地面に足が着いたような、不思議な安心感があった。
あたたかい腕に包まれて、力が入らない。
「眠いの?」
うん、と言えたのかどうか。
この人がいるから大丈夫と、安心して意識を手放した。
*
「大丈夫ですか?」
「……うん。落ち着いて、今寝たところ」
「何があったんです?」
先ほど靴を持ってきた自分が聞いたのは慟哭と言うのがふさわしいような泣き声だった。
とっさに誰も来ないように、外に声がもれないようにと結界を張ったが、一体何があれば彼女があんな泣き方をすることになるのかわからない。
「俺がやらかしたことで巻き込んだんだ。多分……ずっと泣けてなかったんだと思う」
「何やらかしたんですかあんた」
今度はどんな片付けをしないといけないのかと思いながら聞くと、
「取り返しがつかないこと」
青柳は途方にくれたような、泣きそうな顔で、いびつに笑った。
どうやら自分に内容を話す気はないらしいと、ため息をつく。
「何したのかは聞きませんが、それでも取り返していくしかないでしょう。あんたも彼女も生きてるんですから。お互い生きていれば大抵のことは何とかしていけます」
「……そんなもの?」
「意外とそんなものですよ。面倒くさがったり諦めたりしない限りは」
しばらく考えていた青柳は、何かを覚悟したように顔を上げて唇を引き結んだ。
「とりあえず布団敷いてくれる?彼女を寝かせたい」
「……ここにですか?」
「なにもしないよ。彼女が起きた時にひとりにしたくないから」
「……夕食はここに運びますね」
「お願い」
客間に布団を取りに戻りながら、飛び交うだろううわさをどう処理するのが適切か、月草は思案するのだった。