30.顔が上げられません
次の日。何事もなく目が覚めて、着替えて教室に向かう。
「おはよう」
声をかけられて驚く。いつもはもっと遅いのに、青柳がもう席にいた。
「おはよう。早いね」
「うん。君の顔が早く見たくて」
にこにこ笑う青柳の後ろに、ばっさばっさと振られる尻尾が見える気がする。
くっ……かわいいと思ったら負け……でもないのか。
ついつい、気持ちをなかったことにしようとしてた時の反応をしそうになるけど、もうそんな必要がないんだった。
だけどここで『私もよ』とか言うのはハードルが高い。
中途半端にへろっと笑ったら、青柳がものすごく嬉しそうになった。
自分の席に行きながら、思わず犬にするようにくしゃくしゃっと頭をなでてしまう。
……さらっさらだなあ。何のシャンプー使ってるんだろう?
青柳の髪はひっかかりのない直毛でうらやましい。私の髪はすぐ絡まるから乾かさずに寝たりすると大変なことになるのだ。この違いはやっぱりシャンプーの違いというより髪質の問題かな。
考えながらなで続けていると、
「何これ嬉しすぎて心臓が痛い」
くぐもった声が聞こえてきた。
見ると、青柳が大きな両手に顔をうずめている。よく見たら青柳の耳がものすごく赤い。熱そうだなと思ってなんとなくさわったら、青柳が机の上に崩れ落ちた。
「うわ、ごめん」
あわてて手を引っ込める。しかもここ教室だった。見ないふりをしてくれてるクラスメイトの視線がものすごく生ぬるい。
……だめだ。嬉しくてふわふわしてるのは青柳だけじゃないらしい。
*
昼休み。今日もご飯に誘われた。
一緒に食堂前まで行くと、
「今日は俺が払うよ」
意気揚々と自分のカードを出す青柳。どうやら昨日はこれをやりたかったらしい。
「いつも購買で買って屋上行くから、こっちのやり方がわかんなくて……」
眉を下げて笑う青柳の背中をぽんぽんと叩く。
「昼になるといなくなるのは屋上行ってたからなんだ?でも屋上って行けたっけ?」
立ち入り禁止だったような気がするんだけど。
「いつも鍵かかってるし、校旗あげるときしか鍵は貸してくれないよ」
「じゃあどうやって行ってるの?」
「三階の雨樋伝って」
まさかの力業だった。
「もしよかったら今度一緒に」
「それは遠慮する!」
「落としたりしないのに……」
話しながら日替わりの食券を二枚買ってカウンターに並ぶ。料理を受けとると、青柳は食堂内の空席を確認もせずにすたすたと外に向かって歩いていく。
「え、どこ行くの」
「いつものテラス」
……それはちょっと。昨日の今日だしなあ……。
料理の載ったトレイを持ったまま足が止まる。
振り返った青柳が首をかしげた。
「やっぱり怖い?」
……怖くないといえば嘘になる。
昨日寮に帰ってベッドでひとりになったとき、本当に死にかけたんだって実感が急に襲ってきて体が震えた。きれいに傷は治ったけど、あんまり思い出したいものじゃない。
小さくうなずいて、自然と視線が下を向く。
「大丈夫。昨日みたいな怖いことはもう起こさないから」
青柳の声が、ざわざわと騒がしい食堂の中でもまっすぐに届いた。
ゆっくりと顔を上げると、青柳の笑顔があった。
「大丈夫だよ」
怯えて縮こまっていた心臓までゆっくりと、声が届く。
床に張り付いたみたいに動かなかった足が自然に前に出た。
青柳はほっとした顔をして私が追いつくのを待っている。
「行こう」
青柳が歩き出す。私はその背中を追いかける。足はもう、止まらなかった。
*
テラスに出ると、今日は他の人たちが誰もいなかった。
食堂の中とは別世界みたいに静かなテラスのいつもの席に、今日は給仕の人みたいに月草さんが立っている。
テーブルの上にトレイを置いて、向かい合って椅子に座る。
「使役獣も出しといて」
「え、うん。アオイ出てきて」
大きな藍色の狼が影から出てきて足元に伏せた。
「ここけっこう気に入ってるんだよね。ケチついたまま嫌な場所になっちゃうの嫌じゃない。……だからもう一回、初めてのランチデートやりなおそう?」
真剣な顔で言われて思わず笑ってしまう。
「あれってデートだったの?」
「そうだよ。俺にとってはね」
ふてくされたように言うから笑いが止まらない。
「俺とランチデートしてもらえませんか?」
そういうことは一緒に教室を出る時点で言うものじゃないのかな。こんな今からさあ食べるぞっていうタイミングで言われても。
……まあいいか。ちぐはぐだけど青柳らしい。
「はい。よろこんで」
笑いながら返事をしたら、青柳もふわりと笑顔になった。
*
日替わりのハンバーグをお箸で切り分けながら聞いてみる。
「でもさ、昨日のお昼の時点って、私好きとも言ってないはずなんだけどなんでデート扱いだったの?朝から様子もおかしかったし」
「それは……」
動揺したのか青柳のお箸からプチトマトがころんと落ちる。
「それは?」
こっちまで転がってきたプチトマトをお皿に返しながら聞くと、青柳は口を押さえて上のほうを向いた。困ったようにうろうろと視線をさまよわせてから、観念したようにため息をついた。
「……一昨日、月草と話してるのを見ていいなあって思って。月草月草言うのに俺の名前は呼ばないなって気づいてなんだか苛々して。君の声で名前呼ばれたらどんなだろうとか思ってたら、なんだか急にそうなんだって自覚したというか」
「そ、そうなんだ」
自分で聞いといてなんだけど恥ずかしいな。
「……君は?ずっと怯えてたのにいつから好きになってくれたの?」
今度は私が困る番だった。
「ええと……」
これ話さないといけないの?と青柳を見るとものすごく期待のこもった目でにこにこされた。無言の圧力に負けて言葉を続ける。
「完全誓言してから近くで話すようになって。私なんか簡単に殺せるくせに扱いがすごく丁寧だって気づいて。……誓言で痛くても顔色悪くても気にするのは私のことばっかりで。青柳にも放っておかれてる青柳のこと大事にしたいなって思ったのが、きっかけ……」
しゃべっているうちに正気に戻ってきた。
恥ずかしいしいたたまれない。自分も聞いといてなんだけど、こういうこと口にするのって思ってたよりダメージ大きい。
「ごめんもう無理」
両手で顔を覆ってトレイをよけて机に突っ伏す。顔が熱い。
ふわふわ髪をなでられて、
「大好き」
嬉しそうな声が降ってくるけど、顔が上げられません。
*
なんとかご飯を全部食べ終えて一息ついたとき、突然青柳が改まった口調で言った。
「俺の家に来てほしいんだけど」
「……はい?」
突然すぎてよくわからないんだけど。なんでいきなり青柳の家に行かないといけないの?
「もう今回みたいなことにならないように使役獣との契約をするのにじじいの許可が要るから。だから一緒に来てほしいんだ。あと、完全誓言もやり直させてほしい。前は自覚もなしに一方的に誓約したから。今思えばひどかったしケチも付いたし、やり直しさせて。今度は絶対大事にするから」
「え、えーっと、とりあえずわかんないことだらけなんだけど。群衆って使役獣と契約できなくなかった?」
「……できる方法があるんだ」
「そうなの?あと完全誓言のやり直しって何の意味があるの?」
昨日お風呂で見たら心臓の上に蒼い魔方陣がしっかりついてたんだけど。たしか誰かが成立したって言ってなかったっけ?
「誓言をやり直すこと自体に契約的意味はほとんどありません。今回の場合は、けじめやお披露目に近いところがありますね。本来完全誓言は当主の認可を得て、立会いの下で行うものですから」
今までずっと黙っていた月草さんが説明してくれる。
まあ、命をかける誓言をあんなに簡単にしてもいいはずはないよね。
「先代は三日後なら空きがあるそうです」
「三日後……月曜日か」
「明日から土日月と三連休ですし、早めに行ってもいいんじゃないですか。客間用意させますよ」
「じゃあそれで」
あっという間に青柳の家に行くことに決まってしまった。
「じゃあ、明日九時半に寮の入り口まで迎えに行くね」
私に拒否権はなさそうだ。




