28.君のおかげ
目が覚めるとものすごく至近距離に青柳の顔があった。
近すぎて焦点が合わない。今、鼻と鼻がぶつかったんだけど!近い近い!
いきなりの衝撃にわたわたしていると、青柳の顔がふっと離れてこっちをのぞきこんできた。
「…………」
目が赤いよ青柳。
……っていうことはあれからそんなに時間は経ってないのかな。
青柳の顔が離れたおかげで周りが少しだけど見える。
白くて穴の開いた天井に、薄い仕切りのカーテン。ここは保健室……かな。
ただおかしいのは私が今いるのが硬いベッドの上じゃないということだ。なんで私、青柳に抱きしめられているんだろうか。
混乱が行き過ぎたのか妙に冷静に考えて首をかしげる。
そういえば私、ナイフに刺されたんじゃなかったっけ。
もぞもぞ体を動かして青柳の体との間に隙間を作り、手のひらでお腹をさわってみる。
痛くもないし傷もない。
……あれ?夢だったとかいう話?
でも、ああ、お腹のところ服が思いっきり破れてるっぽい。
「治ってる……?」
半信半疑でつぶやくと、急に私を抱きしめる青柳の力が強くなった。
「……起きたの?」
小さい声で聞かれてうなずく。
「起きたよ。でもとりあえず放してくれないと身動きが取れないんだけど」
がっちりと私をホールドする腕をぱしぱし叩くと、耳元で大きなため息が聞こえた。
「よかった……起きなかったらどうしようかと……」
「うん。心配かけたみたいだねごめん。でもそろそろ放そうか?」
あ。心の中の声がそのまま出てしまった。
……まあいいか。ため息をついて青柳の腕をもう一度叩く。
青柳が私を放してくれたのは、それからしばらくたってから。
月草さんといつもの男子が保健室に入ってきて、それでようやく青柳の腕の中から抜け出ることができたのだった。
*
「こんなの、本当になんでもないんだよ。刺してみて」
「刺してって……」
やっと放してもらったと思ったら、いきなり無茶なことを言われてただただ困惑する。
今、私は保健室のベッドの上に青柳と並んで腰掛けている。
大きくお腹と背中の部分が切れた制服はさすがにもう着られないので、いつもの男子がクラスメイトに借りてきてくれた予備の制服に着替えた。
……こういうとき群衆同士はサイズがほぼ一緒だから助かるんだよね。
ちなみに保健室に入ってきた二人からは、『無茶なことすんな』と怒られたり『まさか次代をかばうとは予測できず、お守りできなくて申し訳ありません』と平謝りされたりした。
こちらこそ、考えなしの行動でご迷惑おかけしてすみません。と、反省中だった私に青柳が一本のナイフを渡してきたのだ。
青柳に手渡された一本のナイフ(多分これ黄樹君が投げてきたやつだ)をもてあましていると、青柳が小さくため息をついて私の手からナイフを取り上げた。
「見てて」
右手にナイフを持ち、ベッドの上に置いた左手の甲に向かって鋭い切っ先を向ける。
「ちょっ、待っ……」
止めるひまもなく、何のためらいもなく青柳は自分の手にナイフを思いっ切り振り下ろした。
ガツンと大きな音がして、
「見て」
普段どおりの青柳の声がした。おそるおそる閉じていた目を開ける。
……ナイフが、折れていた。
「えぇ?」
思わず青柳の手を取って確認してしまう。
ナイフが刺さったはずの手の甲は赤くもなっていない。
さわればやわらかいのに、つねれば伸びるのに不思議でならない。
「……くすぐったいよ」
きゅっと指先を握りこまれて我に返る。
「うわ、ごめん」
あわてて青柳の手から指を引っこ抜いて胸元に抱え込む。
「次は目を閉じずに見ててね」
……まだ次があるの?
自分の顔がひきつるのがわかる。
「次代……本当にやるんですか?」
月草さんが本当に嫌そうな顔で言う。その手にチェーンソーが握られているのは、嫌な予感しかしない。
……っていうか保健室の中でチェーンソーって。違和感がものすごいんだけど。
「うん。俺の事知ってもらうには見てもらうのが一番だから」
言いながら青柳はさっさとシャツを脱いで上半身裸になってしまう。
ベッドから降りて数歩離れ、月草さんに背中を向ける。
「やって」
端的に命令した。
ため息をついて月草さんがチェーンソーについているひもを引っ張る。
ブルルルンとエンジンのかかる音がして、刃が回り始める。
嫌そうな顔をしたまま、チェーンソーを月草さんが青柳の背中に近づけていく。
「えっ、ちょっ、やめっ……!」
「アホか。近づくなよ」
ベッドから降りようとしたところを、いつもの男子に止められる。
硬直して、目を見開いて見ていると、青柳の背中に触れたチェーンソーは肌を……切り裂かなかった。
月草さんはかなり強く押し付けているらしく、空転するチェーンソーがヴヴヴヴヴと苦しそうな音を上げる。激しく回転するエンジンの排気のにおいが保健室の中に充満していく。
「ええええっ?」
轟音で自分の声も聞こえない。
「もういいでしょう」
月草さんがチェーンソーを止めてあたりが急に静かになる。
まだわんわん耳鳴りしている中で、青柳が近づいてくる。
「ここまでしても傷も付かないんだよ」
言われて見た青柳の背中は、よく見ると少し赤くなっているかなという程度で、血も出ていなければ傷にもなっていなかった。
「力だってね」
親指と人差し指で軽くはさんでひねっただけに見えたのに、チェーンソーの刃がぐにゃりと曲がってぱきんと折れる。
「あんたこれ学園の備品っ!」
「あーあー大丈夫。こうなると思って用務員のおっちゃんに買い替えになったら嬉しい一番ぼろいの貸してもらったから」
「手際がいいですね……」
月草さんと男子が話している横で、青柳がシャツを着ながら困ったように笑う。
「……この通り。かなり力を緩めてもこういうことができちゃう。君とはまったく違う人間なんだよ」
色付きと群衆が全然違うのはわかっていたつもりだったけど、改めて見せられると驚きしかない。
「色付きってすごい……」
思わずつぶやくと、
「ここまで無茶苦茶なのは次代だけですよ。普通はあの勢いでナイフを刺せば切れますし、チェーンソーで切られれば血も出ます」
あれが普通だと思わないでくださいと月草さんが換気のために窓を開けながら釘をさす。
「まあそうだね。俺は他の色付きと比べてもかなり強い。だからね、もう、かばったりしちゃ駄目だよ」
真剣に言われる。
今回は思わず体が動いちゃったけど、自分がこういうところで何の役にも立たないのはよくわかった。
無意識の行動までは約束できないけど、ここまで青柳が丈夫だって印象に残ればむやみに飛び出して行こうとは思えないはずだ。
「わかった。余計なことしてごめん」
「心配してくれたのはすごく嬉しい。でも、君が血まみれで動かなかった時、心臓が……すごく痛くて。君が目を覚ますまで息の仕方もわからなくなりそうだった。……もう絶対に……あんなことしないで」
そっと、壊れ物を扱うように慎重に抱きしめられる。
誰より強いはずの青柳の手は震えていた。
「君が、好きなんだ。手の届かない、遠いところになんか行かないで」
耳元でささやかれて、胸の奥が火でもついたように明るくなって熱くなる。
なんだろう。熱が体中に広がって、なんだかあふれて飛び出しそうだ。
「ピンク女に言われてたときは、ずっと気持ち悪い言葉だと思ってたけど。好きって嬉しい言葉だったんだね。それがわかったのも君のおかげ」
「……へ?」
思いがけない言葉に思わず声が出た。
おかげって何?覚えがないんだけど。
「好きだって、言ってくれたでしょ?」
そういえばナイフで刺されて意識がなくなる前にそんなことを言ったような気もする……いや、違う!
「好きって伝えなくてよかったって言っただけで、好きって言ったわけじゃ……あ!」
言いながら気づいて口を閉じる。
言ったも同然だ。しかも今!
私の顔は真っ赤になっているだろう。穴があったら入りたいってこういう心境だ。
「君が、大好き」
本当に嬉しそうな青柳の声に顔を上げられなくなって、青柳の胸に顔をうずめる。
恥ずかしすぎて何も言えない。
だからそーっと手をのばして気づかれないように青柳のシャツの背中をつかんだ。
どくどくと早い心臓の音が聞こえたけど、青柳の心臓の音なのか自分の中から聞こえる音なのかももうわからなかった。