15.わけがわかりません
「あれ、生きてる?」
完全に死んだと思ったのに。
目が覚めて驚く。
固いベッドに白くて薄い仕切りのカーテン。……ここは保健室、かな?
ぼんやりと現状を把握していると、
「やっと起きた?」
おそろしく不機嫌な声がした。
見たくないけど、見たくないけど、声のした方にそーっと視線を向ける。
予想通り不機嫌を隠しもしない青柳が、なぜか保健室の真ん中で丸椅子に座っていた。
「熱中症だって」
寝起きに不機嫌な青柳は心臓に悪い。
ああでも熱中症……。
「てっきり薬でも盛られたのかと」
とんだ誤解をしてしまった。
いつもなら心の中にとどめておく言葉が出ているのにも気づかずにぼんやりしていると、
「俺の前で何も飲み食いしないのってそれが理由?でも、水分はとらないとだめでしょ。ただでさえ弱っちいんだから」
……返す言葉もない。
でも、最低限の警戒はしておきたいんだよね。
なんとなくだけど心配は本当だと思う。
だけど気が変わった瞬間、笑顔のままさっくり殺す人だからなあ。
「まあ、信じられないよね?」
苦笑して言うから素直に答える。
「いつ気が変わるかわからないので」
「……とりあえず水飲んで」
青柳が指差したのは手洗い用の水道の蛇口。
……なんで水道?
じっと見てくる目が怖いので、まだちょっと気持ち悪いけどベッドから降りて手洗い場に向かう。
思ったより足に力が入らなくてひざから崩れそうになった。
前のめりに倒れかけたところに、床と自分の間に何かが入り込んでくる。
ごわっとした毛皮の感触。
支えてくれた相手を確認して、しずかに硬直する。私が動物だったら思いっきり毛が逆立っているところだ。
私よりずっと大きい藍色の狼。青柳の使役獣だ。
藍色の狼はまっすぐに私を見て、首を手洗い場の方に向けた。
まるで早く行けとせかすように。
青柳は……丸椅子に座ったままだ。動いていない。
とりあえず今すぐ殺されることはないらしい。ぎくしゃくと立ち上がり、手洗い場で蛇口をひねる。コップがそばにないので仕方なく両手に水をためて飲む。
カルキの薬くさい味が口の中に広がる。おいしくはないが、気づけば結構な量を飲んでいた。体は水分を欲しがっていたらしい。
ひと心地ついて、蛇口を閉めた。手の甲で口をぬぐう。
さて振り返って、これからどうしよう。
真横には使役獣。部屋の真ん中には青柳。保健室の出入り口はその向こう側だ。今の私には、はるかに遠い。
無言で青柳と見つめ合ってふと気づく。
そういえば倒れた私を運んでくれたのにお礼も言っていない。
ありがとうを言おうと口をあけた瞬間に、
「俺の使役獣で守らせてほしいんだけど」
意味のわからないことを言われて口があけっぱなしになってしまったのは、仕方のないことだと思う。
*
「俺の使役獣で守らせてほしいんだけど」
考えたあげくの提案に、彼女は口をあけたまま固まった。
しばらく言葉の意味を咀嚼するように沈黙して、ふと首を傾げた。
「それは自分の獲物を他の人たちに取られたくないとかいう?」
……違う。いや、違わないのか?
群衆が色付きに殺されるのはよくあることだ。彼女が他の色付きに殺されたらと思うと、抑えきれないほどの苛つきが腹の底からわきあがってくる。
……ああだめだ。俺の苛立ちに気づいて彼女が怯え始めている。
大きく息を吐いて無理やり苛立ちを押し込める。できるだけ安心させられるような笑顔を作って浮かべた。
「君を殺すかもしれないのは俺だけじゃないでしょ?そういうのから守られるっていうだけでもお得じゃない?」
「……気が変わったら怖いので、やっぱりいいです」
想像通りの答えに笑ってしまう。たしかに彼女の恐れは完全に正しい。
今の状況でも、ふとした瞬間に殺す方に傾かないとも言えないし、一度興味を無くしてしまえばたとえ目の前で誰かに殺されたとしても何も感じないだろう。
「だったら誓言すれば少しは安心できる?」
誓言は魔力を使って約束に拘束力を持たせるものだ。強度にもよるが、誓言を破れば苦痛を伴うため、日常生活では普通行わない。まあ、他人にとっての普通なんてどうでもいいことだけど。
「……誓言?」
「そう。誓言。俺はこの一生涯において君を殺さないし殺させない。青柳司の名において誓言するよ」
誓言の言葉とともに出現した薄青い魔方陣に、指先を噛み裂いて血を垂らす。
「ちょっとごめんね」
呆然としている彼女の手を取って、血が固まりかけた傷口を魔方陣に触れさせる。
「完全誓言」
俺の言葉と同時に、ぱしっと軽い音を立てて魔方陣がコインくらいの大きさまで縮小した。蒼く輝くそれはまっすぐに俺の心臓の上に焼き付く。
「……っつう」
引きつるようにちりちりと痛むが、無事完了したようだ。本来はもう少し面倒な手順が必要なのだが、まあなんとかなってよかった。
「か、完全誓言って!一人にしかできないはずでしょ。なんでピンクちゃんにしてないの!」
われに返ったらしい彼女が蒼白になって叫ぶ。
「あれ、よく知ってるね」
誓言の中でも一番重い完全誓言は命をかける性質上、一人としか行うことができない。群衆の彼女が知っているのは意外だったが、説明の手間が省けたのはいいことだ。
「これなら安心でしょ?」
「安心って……こんなのモブに使って良いものじゃないでしょっ?」
「うん?だってこれくらいしないとうっかり殺しちゃうよ。完全誓言なら間違いないから君も怯えないでいられると思うし」
そう、これくらいしないと彼女は起こり得る可能性に目をつぶることができない。
俺に殺されることに彼女が怯えている限り近づけもしないなんて、考えただけで苛々する。
「だからさっきの話の続きだけど。使役獣は君につけるからね。誰かに殺させないのも誓言だから」
「え、えぇぇ……」
彼女が反論を考え付く前に使役獣を向かわせる。
大きな藍色の狼に彼女は一瞬びくっとするが、すうっと自分の影に使役獣が入ってしまうときょろきょろと不安そうにあたりを見回す。
「呼ばない限り出てこないから大丈夫だよ」
「……この子の名前は?」
「さあ?好きに呼んでいいよ」
契約したときに名前は与えたはずだけど、普段使役獣としか呼ばないからなあ。
「……じゃあ……アオイ?」
おそるおそる口にした彼女に使役獣が影から半身だけを出した。
ぺろりと彼女の手をなめる。
いつの間にか擦り傷が消えているのに彼女は多分気づいていない。
「気に入ったらしいね」
「あの、エサとかは?」
「……いや、それはこっちで用意するから気にしないで」
使役獣の主食は主人の魔力だけど、おやつの生肉は彼女が用意するのは大変だろう。
基本的に彼女のそばに常駐させるつもりだけど、時々息抜きさせてやらないといけないだろうな。
「それじゃこれからもよろしくね」
にこりと笑うと、彼女は引きつったような笑みを返してきた。
それだけでもなんだか楽しい気がするから自分でも不思議だ。
俺の横をすりぬけて走っていく彼女を見送っていると、なぜだか視界が急激に黒く塗りつぶされた。
受け身も取れずに保健室の床に倒れる。
……あーちょっとやりすぎたかな。まあいいか。
開けていても何も見えないまぶたを閉じて、俺は意識を手放した。