第6話 覚悟
「んっ……」
リオはゆっくりと目を開ける。背中に当たる固い感触から、すぐに檻の中にいると分かった。
「起きたかい。なら、とっとと『シャワー』とかいう代物で体を洗ってきな」
視界の外からエゲンの声が聴こえる。自身を老いぼれ呼ばわりしたところで、自身のふた回り以上も小さな生き物が目を開けたことを瞬時に感じ取れるのだから、彼女も自虐が下手だ。
上半身を起こし、左手で右の腕をなぞる。まとわりついている体液の乾き具合から、普段より一時間ほど遅く目が覚めたと分かる。物心ついた頃からエゲンと暮らし、いまだ彼女以外の胃袋に収まったことのないリオにとって、その体内は決して恐怖の対象ではない。まして、呑み込まれる瞬間を「苦しい」と感じたこともないが、胃の中は空気が薄く、毎回、どうしても意識を失ってしまうのだ。
あえて恐怖をひり出すなら、呑み込まれている間、エゲンの身にもしものことがあった場合、リオの体もそのまま消化されてしまうくらいか。まさにその例で先日、撃たれて意識不明に陥ったエゲンの体内で、一人の男が犠牲となった。
「怖いなあ」
「何が?」
「何でもない」
立ち上がり、鉄格子の間をするりと抜けて外に出る。
穏やかな風が吹き抜ける中庭は、とても午前中と同じ場所とは思えない。いや、午前中も風は吹いていただろうが、あの時は到底それどころではなかった。毎週日曜日の正午から一時間、人間を火あぶりにする太陽から逃れようと、屋敷の周りに殺到した人々の悲鳴や怒声が、それ以外の音をすべて掻き消していたからだ。
「エゲン、ここにいる竜達のことだけど」
リオが振り返ると、すぐに「何だい」と無愛想な声が返ってくる。
「エゲンはさっき、ここの竜はみんな『本心から人間を助けたいと思っている』って言ってたよね。昼前、大勢の人達がここに詰めかけていたのは、まさにその『助け』が欲しかったからだと思うんだけど……その間、彼らはじっとしてたの?」
「じっとするも何も、こうも塀に囲まれてたんじゃ、外にいる連中の姿なんか見えないだろう」
「でも、悲鳴は聞こえるでしょ? 私ですらうるさいくらいだったんだから」
竜の耳に、救いを求める彼らの声が聞こえなかったはずはない。
「それがどうしたんだい? 人間を助けるためなら、この鉄の檻を破壊してでも外に出ろと?」
「別にそうじゃないけど……助けたくても助けられない状況なのに、どうしてみんな平然としてるんだろうって思ったの」
「そうだねぇ……平然としていられなかった奴もいるよ。ああいう風にね」
エゲンが鼻を突き出した方を見て、リオは驚いた。中庭の隅に近い檻のひとつに四人ほどの係員が集まり、中で苦しそうに身を捩らせる竜と格闘している。
「ちょっと、何してるの!」
リオは駆け出していた。エゲンより若そうな赤紫色の竜が、歯を食いしばりながら全身に取りつく人間を振り払おうとする姿に、俄然怒りがこみ上げてくる。
「お前、ロット様を助けたとかいうガキか。危ないから引っ込んでろ!」
「うるさい! 何でこんなこと……」
リオは竜に近づこうとしたが、四人のうち唯一、檻の外に立っていた華奢な男に行く手を阻まれる。
しかしその時間がかえって、リオに状況を観察する隙を与えた。一人が竜の背中にまたがり、手綱を引く騎手のように太い縄をその首に巻きつけている傍ら、残る二人が上顎と下顎をそれぞれ押さえつけ、無理やり口を開かせている。どう見てもただ事ではない。
「この竜が人を呑んだんだよ。正午になる直前、塀をよじ登って中庭に侵入してきた女をな。そんな物、吐き出されたら困るだろう?」
「何言ってるの、もうとっくに一時間を過ぎてるじゃない! これ以上、こんな若い竜のお腹にいたら……」
「はぁ? お前こそ何言ってやがる。一度人を呑んで吐き出されたら最後、この竜が『使用済み』になっちまうだろうが」
その単語に、リオは耳を疑った。
「お前がエゲンと呼んでるあの竜だけだよ。この中庭で、自由に人を呑んだり吐いたりできる『中古品』はな。それも、エドモント様がお前のために特別に許可しているからだ。他の『高価』な竜は全員、どこぞの富豪に購入されるまで人を呑むことは許されない。価値がぐんと下がるからな」
エゲンを侮辱されたことすら耳を素通りするほど、リオは焦っていた。
「それでも、呑んじゃったものは仕方ないじゃない!」
「ああ、仕方ない。仕方ないから、呑み込まれた女にはこのまま消化されてもらう。吐き出しさえしなければ、こいつはただ『人の形をした餌』を食べた竜に過ぎないからな」
彼らにそんなルールを課したであろうエドモント本人は、とうに自分と息子専用の『バロンド』なる竜の胃から出て、口直しに紅茶でも飲んでいる頃だ。
あまりにも露骨な格差に、リオは次の言葉をふるいにかける余裕も失っていた。
「ふざけないで! 問題があるとしたらこの竜の善意じゃなくて、あなた達の警備の方でしょ!」
細身なら神経も細いのか、男を逆上させるにはその言葉で十分だった。
人を殴り慣れたスピードで飛んでくる拳。顎に強い痛みが走り、リオは視界がひっくり返るのを感じた。
——最近、ものすごい頻度で意識を失っている気がする。一度エゲンのお腹の中で眠るように気絶した後は、次の日曜日まで何事もなく過ごすというのが、これまでの日常だったのに。
はっきり言えることは一つ。エゲンの体内以外の場所で気を失うことは、こんなにも痛く、苦しい。
——
次に目を開けた時、リオの視界は最悪だった。天窓から挿し込む光が照らし出す、大量の煙。
天井から列を組んで吊り下げられている数十本の豚の足は、まだどことなく赤みを帯びている。
「あちっ!」
ふらふらと立ち上がる途中、リオは手をついた鉄製の壁から弾けるように飛び退く。結果、手の腹がほんのり赤くなる程度で済んだものの、息をつく余裕はない。この空間そのものが、日曜日の正午前にも匹敵する異様な暑さだったからだ。瞬く間に全身から汗が噴き出してくる。
「……リオさん」
先ほどの大声でリオが目覚めたことに気がついたのか、反対側の壁に取り付けられている小窓から、ロットが苦々しい表情を覗かせる。激しく咳き込み出したリオの気持ちに寄り添うためか、その顔は限りなく小窓に近づけられていた。
「ロット、ここは」
「燻煙室です。隣で氷竜を飼っている冷凍庫と同じ仕組みで、この部屋も横で火竜を飼っているんです。基本、餌用のハムを燻製するためにしか使わないけど……」
「かたや、お仕置き部屋ってことね」
ごくりと唾を飲み、ロットは重く頷く。
「僕も、よく入れられてました。おねしょした時とか、同じ問題を何回も間違えた時とか」
「……厳しいお父さんだね」
「元来、愛情とは厳しいものだ。私も寝小便がひどかった頃、溶けた蝋を手の甲に落とされたり、黒蛇の巣に放り込まれたりしたよ」
低い声と、質のいい革靴が床を叩くコツコツという音が通路内に響く。
ハンカチで口元を覆ったエドモントは、煙に耐えながらも小窓の前に立っている息子の、さらに一メートル後方の壁に背中を預けた。
「さて、リオ。君にはそろそろ理解してほしい」
「クレイグ家の膀胱が代々ゆるゆるだってこと?」
「……アドバイスだ。嫌味にキレを持たせたいなら、『あんまり』咳をしない方がいい」
何とか言い返したが、頬に涙を伝わせながらも勝ち気を崩していないリオの表情を見て、エドモントはほとほと呆れていた。
二の句が目の前の息子に向けられたのも、彼女が想定より「ほぐれて」いなかったからだろう。
「ロット、すまなかったな。私自身がそうだったがゆえ、教育方針という大義名分のもと、お前には散々辛い思いをさせてきた。これは私が父を信奉していたからではなく、こんな古い指導法を打ち砕く勇気を持てなかったからだ。だから将来、君が親になったとき、子供に同じことをしろとは絶対に言わない。良いも悪いも、自分で決めなさい」
「パパ……」
数ヶ月前まで今のリオと同じ立場にいたロットにとって、その言葉は枯れ地に降った雨のごとくしみ込んだようだ。
「リオ、聞いての通りだ。私の息子はたった今、こんなお仕置きを受けるような子供から『卒業』した。君は彼より年上なのだから、もう少し言うことを聞いてくれるだろう?」
「私、あなたの娘じゃないんだけど」
「その通りだ。だが今は、我がクレイグ商会の一員としてここにいる。君がここで働くと言った以上、君は雇い主に従う義務があるのだよ」
会心の一撃——少なくともエドモントはそう思っていた。
しかし、リオは我が意を得たりとほくそ笑む。
「ものすっごく勘違いしてるみたいね、社長。私は高額な竜の薬がタダでもらえるから、あなたにエゲンを預けているだけ。彼女の血を吐く病と、あなたが撃ったお腹の傷が癒えたら、私たちはすぐに出ていく。今、エゲンが檻の中で大人しく『商品』を演じているのも、毎朝、私があなたの寝室前のろうそくを取り換えているのも、単なるひまつぶしよ」
こみ上げる咳も、今度は彼女を遮ることができない。
むしろ咳払いに逃げたのはエドモントの方だった。
「我々が一匹でも多くの竜を求めているのは事実だ。だが、誠に勝手な私見で恐縮ながら……君とあのエゲンという竜との関係は、それほど強固なものではないようにも見える。実際、さっき君が気絶させられた時も、彼女は眉一つ動かさなかったそうだ」
「……当たり前でしょ。あそこでエゲンが怒り狂って檻を破りでもしたら、あなた達はまた武器を取る。そうなれば傷が増えるし、下手したら死んでしまう。それに……」
煙の中にいるのが嘘のように、彼女は目を見開く。
「エゲンは、エドモントさんに一番気を遣ってくれたんだよ。自分がこれ以上傷付いたら、『あの子』があなたを殺してしまうってね」
掠れた喉から放たれる、老婆のようにどす黒い声。彼女に首を絞められた感覚がフラッシュバックしたのか、ひっと声を上げるロットの背後で、エドモントは溜め息をついた。
「君はいったい、何が不満なのかね」
「……あなたは、街の人々を助けているのは自分だと思ってる。実際は竜たちの『人間を助けたい』という思いを金儲けに利用しているだけなのに」
あの程度の檻、竜が本気で暴れればひとたまりもない。
彼らの純粋な善意なくして、何があの巨体を鉄格子の中に留められるというのか。
「リオ、君ならとっくに理解してくれていると思っていた。私たちの仕事は、人間と、心優しい竜たちの安全を守るためでもあるのだよ? 野生の竜が人間を助けようと街のあちこちに降り立てば、人々は彼らに群がり、街は今以上のパニックに陥るだろう。場合によっては、竜たちが傷つけられる恐れもある」
父親の一言一言を噛みしめるように、ロットは頷いていた。
「だが……お互い様さ。君も知る通り、竜の中には救いを求める人間たちを騙し、喰らおうとする悪竜もいる。ゆえに清らかな心を持った竜を厳選し、管理する仕事がどうしても必要なのだ」
政治家が自らの価値を喧伝するがごとく、エドモントの声は尻上がりに力んでいった。
しかしあまりに流麗な言い回しが、かえってリオの失笑を誘う。
「エドモントさん。今とまったく同じセリフを、これまで何度ロットに言ってきたの?」
図星。
だが凍り付いたのは、父よりむしろ息子の方だった。
「エドモントさん。私と最初に話した時、言ってたよね。大半の人は公営避難所に逃げ込むのが普通だって。私みたいな孤児を優先的に助けてくれる『あおぞらの家』っていう施設があることも教えてくれた」
エドモントは黙っている。
「さっきの言葉も、そういう施設の人が言うなら理解できるよ。確かに管理は必要だと思う。でもね、一つ私なりに調べて分かったんだけど……『あおぞらの家』は、余った竜の胃に街の人を受け入れてるみたいだよ?」
彼に面と向かい話し始めてからというもの、リオは一度も咳き込んでいなかった。
彼女は今いったい、どこから酸素を取り入れているというのか。
「私にはわかる。あなたの目は自分の竜を買ったり、借りたりしてくれる大富豪の方しか向いていない。だから商品を守るために柵を作り、その柵を越えて何とか竜の胃に逃げ込めた人すら見殺しにできるんだ!」
リオの怒気は燻煙室内の熱風と重なり、親子の前髪をかき上げる。気を失ってからどれだけの時間が経ったのか、リオ自身には知る術もない。
しかし気絶した時点で一時を回っていた以上、竜の腹に閉じ込められた女性は既に蕩けてしまっただろう——安息の地が、ゆっくりと地獄に変わる恐怖に悶えながら。
一方、息子の前で「見殺し」という不穏な言葉が飛び出したにも関わらず、エドモントに動揺の気配はなかった。むしろ小窓に近づき、落ち着かない様子のロットの肩に手を置く。
「しっかりしろ、ロット。彼女にクレイグ商会の社是を教えてあげなさい」
「は、はい」
ところが赤ん坊の頃から叩き込まれてきたであろう、その言葉すら即答できないほど、ロットは困惑を露わにしていた。それでも一秒ごとに重くなる父の手のおかげか、やがて絞り出すように社是を口にする。
「……『川の水は誰の物でもない。しかし一度桶に汲み上げれば、それは『商品』となる』」
「よろしい」
エドモントは肩に置いていた手を、そのまま彼の頭に移動させた。
「リオ、山育ちの君に言っても分からないだろう。この社会で生きる人々には皆、生まれ持った『地位』が存在する。地位が高い者はおしなべて、広い屋敷や多くの使用人、ドレスコード、宝石の類を用いてそれを誇示するが、その心は『命を守る』という究極の状況においても例外ではない。同じ日曜日の一時間でも、富める者が一人につき一匹、消化力が弱い老竜の胃でゆったりと過ごすのに対し、公営避難所の貧民は若い竜の腹にすし詰めにされ、場合によっては胃酸で火傷をする……これが現実だ」
早口でまくし立てる方法が功を奏したのか、リオはようやく視線を切り、ふんと鼻を鳴らす。
「……難しくてよくわからない」
「では簡潔に言おう。私にあの柵を外させたいなら、君が社会を変えるしかない」
見るからに暑苦しい背広の胸ポケットに手を入れ、エドモントは鍵を取り出した。小窓から数メートル離れた位置にある扉にそれを差し込んだ後、灼熱のドアノブにハンカチを巻き、強く引く。
「……出たまえ。そこは熱いだろう」
その沈黙は、リオが自身のプライドを納得させるために必要な沈黙だった。
小さな体がようやく鉄の扉をくぐった時、彼女は顔に汗と涙と鼻水の川を作り、呼吸は荒く、足もふらついていた。まるでその状態を「最低条件」として自らに課していたかのように。
「ロット、彼女をシャワー室まで頼むよ」
口を半開きにして立ち尽くすリオの前で、エドモントは踵を返した。
彼の姿が見えなくなった直後、その身はぐらりと揺れる。
「リオさん!」
とっさにリオを抱きかかえながら、ロットは服に彼女の汗が染み込むのを感じた。吸湿性の高いシルクが一瞬にして限界に達し、彼自身の汗と混じって床に滴る。
「……大丈夫。エゲンのお腹以外の場所で、私はもう二度と気絶しない」
この期に及んで口角を上げる余裕があることに、ロットは脱帽した。
「私ね……感謝することにしたよ、あなたのお父さんに」
「え?」
「あの人、私に答えをくれた。やらなきゃいけないことが分かった。だから……」
ロットの肩ではなく、固い床に手をついて立ち上がるリオ。
「服を汚してごめん。もう、助けないで」
そう言い残し、彼女はその場を後にする。
開け放たれた燻煙室から噴き出す熱気が、その後しばらくロットの頬を焦がしていた。