第4話 銃声
竜の口の中にいる男は、かろうじて体外にある足先を上顎に引っかけて抵抗している。少しでも上下に首が振られれば、あっという間に呑み込まれてしまう状況だが、やがてリオはその竜の残忍さに気付いた。
竜は、男が足を攣るのを待っているのだ。紫色の瞳を乗せた半月型の目が求めているのは、単なる朝食ではなく、ぼんやりと漂う眠気を打ち払ってくれる「余興」のようで、それは人間をおびき寄せてから実際に口の中に収めるまで、獲物の行動を知り尽くした竜の、見るに堪えない好奇心の発露だった。
「あいつが時間を稼いでくれている、今のうちだ!」
リーダー格の男が叫ぶ。呑み込まれまいと必死に抗う部下の姿も、彼の目にはチームプレーの一部として映っているらしい。
地上で最も恐るべき生物の口内で奮闘する仲間を思い、他の者達も槍を握り直すと、竜に向かって一斉に走り始める。
その瞬間、リオは竜が笑ったような気がした。
宙を舞う体と、地面を湿らせる大量の飛沫。竜が口の中に留めていた人間を吐き出した時、一同が叫んだのは仲間の生還を喜ぶ声ではなく、飛び散った唾液が自分達に降りかかることへの不快感だった。
まるで、そんな反応すら見透かしたかのように。
竜は最前列にいた別の男をむんずと掴むと、身長の倍ほどの翼を広げ、既に太陽が全貌を表している東の空へ飛び立った。
「た、助けっ……」
連れ去られていく男の叫びは、竜が羽ばたく音にほとんど掻き消されている。
彼にとって悲しむべきは、新たに竜の朝食代わりとなる者の運命から目を逸らそうと、仲間がそれぞれ無関係な行動を取り始めたことだ。砂煙で前が見えないふりをする者。竜が飛翔した時の衝撃で転倒し、「今はそれどころではない」ことをアピールする者。数秒前まで嫌悪感を剥き出しにしていたのに、突然、吐き出された仲間の体を自分の袖で拭う気になった者。特に良いアイデアが浮かばず、とりあえずその場で脚を痛がってみる者。
とにかく竜が地面を離れたことで、仲間を救い出すことへの絶望感は、最初の一人が食われかけた時の比ではなくなっていた。
ついにいたたまれなくなったのか、リーダー格の男は砂煙の中を走り、竜が飛び去った地点からジャンプすると、もはや切っ先が届くはずもない高さにいる竜めがけて槍を突き上げる。傍目には何の意味もない、部下を救おうとする形だけでも取り繕うようなその動きは、自分自身への慰めか、あるいは、文字通り天に召されつつある仲間への追悼の儀式か。
森の中では何匹か鳥が鳴いているが、彼らはそれも少なく感じているだろう。遠い東の空から響く叫び声を完全に聞こえなくするために、もう十羽は野に放ちたいところだ。
「お前たち、顔を上げるんだ! あそこにもう一匹いる! あいつの死を無駄にしないためにも、今度は必ず捕まえるんだ!」
一歩間違えば上空にいる彼の耳にも届きかねない声量で、男が叫ぶ。
しかしそのおかげで、リオははっと現実に引き戻される。竜と人間の(ほぼ一方的な)攻防を高い場所から見下ろしていたせいで忘れていたが、彼らの標的にはエゲンも含まれているのだ。
「エゲン、大丈夫? 飛べる?」
「何十年ぶりか分からないからね。くれぐれも期待するんじゃないよ」
心配そうに顔を上げるリオに対し、エゲンは唸るように答える。
彼女の背中にある溝がぱっくりと割れ、長年折り畳まれていた桃色の翼が露わになるのを見て、リオは驚いた。
「……その溝、ただの模様じゃなかったんだね」
「何の話だい。とっとと乗りな」
急かされるまま背中によじ登り、翼の付け根にしがみつく。筋肉や皮膜はひどく湿っており、つい先程まで体内に収納されていた折り目からは、これまでに嗅ぎ取ったどの部位よりも強烈な臭いが漂っている。安定した場所に跨ろうと、より彼女の体に食い込んだ位置に手を持っていくと、粘ついた何かが指に付着した。
「あまり弄り返すんじゃないよ……汚いだろう」
「気にしないで。私も気にしない」
そう言った後、リオはエゲンが後脚に力を込めるのを感じた。
彼女が翼を羽ばたかせるたび、一段、また一段と空が近づいてくる。
しかし三度目の上昇が終わった後、ふわっ、と上向きの風が頬を撫でる。その感触が重力の勝利を意味することに気付いた瞬間、リオの体はエゲンと離れ、大小が異なるリンゴのように地面に落ちていった。
ほぼ垂直に落下したリオに対し、エゲンは気休めのような滑空を経て男達の中に墜落する。大地をごっそり削り取るほどの衝撃は、かろうじて地面と平行を保っていた前脚と、最後まで仲間に「避けろ!」と呼びかけていた英雄をクッションにして分散される。
「いやはや……無茶はするもんじゃない」
「こいつは老体だ! 仕留められるぞ!」
「おや、そうかい?」
砂煙が舞う中、顔面めがけて突き出された槍を易々と噛みちぎり、唾液に濡れた刃を男達の足元にブッと吐き捨てる。
「野暮をするんじゃない。私は座ってる時の方が強いのさ」
「後ろだ! 半分は回り込め!」
「話を聞く気もないのかい……しょうがない奴だ」
目を細め、下半身から掬い上げるようにして男を咥え込む。あまりに素早く手慣れた芸当に、男は反応するのが一瞬遅れる。喉を傷付けないために最低限の唾液をすり込み、余計な抵抗を生む足先を歯列の内側に入れるという「一瞬」 に。
「あ、ああっ……⁉︎」
狭い口内で虚空を蹴ることしかできない男は、その動きによって自ら舌の上を滑り落ちていく。脱出の是非がかかった分岐点を過ぎた以上、もはや彼が取りうる最良の選択肢は「何もしない」ことだが、獲物にとってその行動が不可能に近いことを知っているエゲンは、重力と、前進以外の道を失った彼自身の運動に任せ、対象を効率よく喉まで落とし込む。
——ごくり。
老いた喉の筋肉に楽な仕事を与え、顔を元の位置まで戻す。獲物の抵抗が生々しく浮き出るほど引き伸ばされていた首の蛇腹は収縮し、顎の下で幾重ものシワとなる。
「無視をされると傷つくものさ。これで、私の声もよく聞こえるだろう?」
腹の膨らみにそう語りかけた後、エゲンは上目遣いにじっと他の男達を睨みつける。彼らは一歩退き、続く舌舐めずりを見てもう一歩退いた。
「……来るならおいで。老いぼれなりに、とことん愛してやるよ」
そのずっと後方で、リオは地面に倒れたまま顔を上げる。
エゲンの顔を直接見ることはできないものの、血の気を失っている男達の様子から察するに、それは未だリオも見たことがないほど恐ろしい形相のようだ。岩のごとく凝り固まった表情筋だけで成人男性と同じ重さになりかねない、彼女の渾身の威嚇がどんな物か、若干の興味も抱きながらゆっくりと立ち上がり、落下の時に打った肘を押さえながら歩き出す。
エゲンの背中まで、あと十歩。
そのとき突然、リオは耳が聞こえなくなった。鼓膜が震えているのは確かなのに、その音の高さや大きさがまるで掴めない。普段どんなに不審な人物も通してしまう名ばかりの関所が、こんな時に限って、門を堅く閉ざしたかのように。
聞きたくない音。聞いたことがない音。しかし聞けば一瞬でそれと分かる音。
二発目の銃声がした直後のことだ。脳が可聴域の外に追いやったはずのエゲンの悲鳴が、激しい耳鳴りのように頭を貫く。
エゲンは横向きに倒れた。彼女の腹の形を写し取ったような地面には、先ほどその巨体の下敷きになった男が、指の間まで見事にめり込んだ状態で突っ伏している。
ひんやりとした朝の風が、硝煙の匂いを鼻まで運んだ。三発目の銃声が轟いた後、蟻の巣のような穴が足元に空くのを見て、リオはようやくその方角を知る。
背の低い息子に腕を掴まれ、標的から逸れた地点に銃口を向けたエドモントが、そこに立っていた。
「何を……あっ」
怒りのマッチを擦っている暇はない。
リオはエゲンのそばに駆け寄った。血溜まりが傷の深さを物語っているが、すぐに見当たる物はなく、倒れた体の下から出血しているようだ。
「ばか!」
動かない家族に、なぜそんな罵声を浴びせるのか。エゲンなら、助けに来る自分のことを思い、わざわざ全ての傷が隠れる方向に倒れてもおかしくはない。それがとんだ勘違いや思い上がりだったとしても、リオはその言葉を取り消すつもりはなかった。
膝をつき、スカートを這い上がる血の温もりを感じながら、手がすっぽりと入りそうな鼻に顔を近づける。出血に伴う波が膝に伝わり、大まかな傷の位置が把握できる。
首と、左目だ。
「違うよ! あの竜は違う!」
煙の立った銃をホルダーに収める父の横で、ロットが必死に叫んでいる。エドモントは落ち着いた表情で口を開いた。
「ああ、違うだろう。私が捕獲を命じた竜は、もっと汚泥のような色をしているはずだからね。だがお前も見たはずだ……あの竜は私の目の前で、私が雇ったハンターを丸呑みにした」
自分自身の言葉を疑うように、そのまま首を傾ける。
「いや、『雇っていた』というべきだな」
「え?」
それほど大きな声でもなかったのに、竜の正面にいた男達は、夏の向日葵のように一斉にエドモントの方を向いた。土に埋もれた仲間を引っ張り出そうとしていた男も、その手を止めて表情を凍りつかせている。
「破格の契約金に釣られてみればこの有様だ。隊の士気を熱弁する割に銃の一丁も装備していないから、元々たいした期待はしていなかったがね。『支給品はいらない』『無保険でいい』という連中は簡単に信用するなよ、ロット」
「いいから早く手当てしてよ! あの竜は僕を助けてくれたんだ!」
「そうか……それは、不覚だった。すぐに家まで運ぶとしよう」
エドモントが指を鳴らすと、背後から大きな木製の荷車が進み出る。八つの車輪にスライド式の荷台を備え、両側に巨大なテコが三梃ずつ付いているそれは、明らかに材木や山菜を運ぶ類の物ではない。今しがた「安かろう悪かろう」の烙印を押されたハンター達より、ひと回り体格の豊かな十人程の男達に押され、荷車はエゲンの尾の後ろにぴったりと配置される。
「リオさん!」
血溜まりに踏み込むことに一瞬躊躇したものの、ロットはリオの隣まで駆け寄った。スカートはおろか、その服は胸元まで真っ赤に染め上げられている。
「本当に、本当にごめんなさい! 謝って済むことじゃないけど、今はとにかく……」
「……うん」
それは、あらゆる非難を予想していたロットにとって心底意外な反応だった。「ここは危ないですから」と注意されるのも待たず、リオはゆっくりと立ち上がり、スカートから血を垂らしながらエゲンのそばを離れる。振り払われる覚悟でロットが両手を肩に置いても、その上半身はまるで石像のようだった。
「おい、こっちも運んでくれ!」
エゲンの尾が三人がかりで荷台に乗せられた後、切り株のような後脚の付け根にテコが差し込まれるのを見て、地中からようやく仲間を助け出した男が叫んだ。仲間の方に息はあるようだが、
エドモントが前に進み出る。
「私はもう君らの雇い主ではない。病院への道順を教えるくらいなら構わんが、それ以上の処置は自分達でやってくれ」
「ふざけるな! こっちは二人も食われてるんだぞ!」
「そう……だから普通は保険が下りる。犠牲者一人につき、平均してゾウ皮百枚といったところか。無論、それ以外にも、雇用者には使用者を手厚く保護する責任がある。勝手に解雇するなどもってのほかだ……普通はね」
エドモントは腹の前で両手を組んだ。
「しかし、君らと結んだのは普通の契約ではない。成功報酬を上げる代わりに、支給品や保険は不要、手付金は通常の半分以下、解雇のタイミングも自由。まあそうでもなければ、我がクレイグ商会は君らのようなゴロツ——外部に委託などせんよ」
男の眉間にシワが集まる。
エドモントは先に両手を上げて無抵抗を示した。
「……と、突き放したいところだが、最近は法律も進化していてね。私もつい先日知ったんだが、いかなる契約内容だろうと、雇用者は使用者から異議を唱えられた場合、その雇用関係を最低でも一週間、延長しなくてはならないそうだ。労働者保護のやり方を履き違えた、何とも迷惑極まりないルールだが……君らもこれに倣うかね?」
「も、もちろんだ!」
「では、代表者と話をさせてほしい。申し立ての権利があるのは、契約書に直接サインした者だけなのでね」
その言葉を、男は鼻で笑った。
「代表だと? あんたも見てただろ、リーダーはあいつの腹の中だ!」
ちょうど胃の下の辺りに第二のてこを差し込まれているエゲンを指差して、男は言った。
エドモントの表情が曇る。
「そうか……では残念だ」
「待ってな。まだ呑み込まれて十分も経っちゃいねえ。俺があの腹を今すぐ掻っさばいて……」
「おっと、それは許されない。相手が竜だろうと兎だろうと、最後に仕留めた者に権利があるのは世の常識だ。あの竜に一突きでも喰らわせた者が、君らの中にいるのかね?」
「だからどうした! 人命がかかってるんだぞ!」
「ふむ、君がそう言い切れることが不思議だよ。私も楽観的な人間だが、『暗い日曜日』のために訓練された竜でもない限り、人を無傷で呑むことは難しい。何か根拠があるなら話は別だが……」
その言葉を聞き、リオはふと足を止める。エメラルド色の瞳が、持ち上げられた体に荷台を挿入されているエゲンを経由し、彼女に深手を負わせた張本人の顔を射止める。
エドモントもそれに気付き、二人はしばらくお互いを見つめ合ったが、張り詰めたような空気はすぐに消えた。リオは再び歩き出し、作業員の妨げにならない位置からエゲンを見守る。
「もはや、あの竜は私の資産だ。誰にも傷付けさせはしない」
喚き散らす男にそう突き立て、エドモントは踵を返した。
不条理な陽が照りつける中、遠い鐘の音が午後の到来をリオに伝える。煉瓦造りの壁に四方を囲まれた中庭には、鉄製の巨大なケージが四隅を除く壁際にぎっしりと並び、その中では飼い主である人間に生殺与奪を握られた竜達が、エゲンを載せた荷車のきしむ音に望まぬ起床を強いられている。食事の時間だと思ったのか、目と首筋に傷を負った新顔の搬入に、檻を叩いて不満を露わにする勢力もある。
木製の車輪がぎっしぎっしと唸りを上げ、芝生の上に青臭い轍を残していく。各ケージの前にも同じような跡があるが、一度踏み倒された草の生育具合によって、どの竜がどの順番で運び込まれたかは一目瞭然だ。中でも周りに一切の轍がない、最も古株らしい青い竜の隣に、エゲンはゆっくりと下ろされた。彼女の患部には、既にリオの身長ほどの幅がある包帯が巻きつけられているが、その手当てが終わったのは随分前のことで、移動中の荷台の上で行われた処置の異常なスピードが、この場にいる竜達も同等の経験をしていると物語っていることに、リオは気が付く。
「中に入ってもらって結構だよ」
ケージに鍵がかけられた後、エドモントはリオの背後に立って言った。言われた通り、人間の腕に近い太さの鉄格子をすり抜け、寝息を立てているエゲンの顔の近くにしゃがみ込むと、彼の口が再び開いた。
「感謝する。私があの男と話していた時、君に横から一言『その竜は年寄りだよ』と言われてしまえば、彼が竜の腹を開けようとするのを止める術はなかった。老竜は喉の筋肉が衰えていて、人体が呑み込まれる際にかかる負荷も少ないからね。事実、あの時点では食われた男にも息があったはずだ」
「……そんなこと、私が言うはずない」
その返答に、エドモントは笑顔を隠すように鼻を鳴らした。
「いや、もっともだ。大切な自分の竜がはらわたを引きずり出されるところなど、誰も見たくはないだろう」
そういう意味じゃない、とすぐに反論しなかったのは、また別の違和感をエドモントの言葉の中に見つけたからだ。
「別に、エゲンは『私の』竜じゃない」
「そうか……随分と親しそうに見えたものでね」
リオが黙っていると、エドモントは隣にいる息子に声をかけた。
「ロット、しばらく彼女と一緒にいてあげなさい。まだ精神的なショックが大きいようだ」
作業員が荷車を片付け始めるのを見て、父親はくるりと後ろを向く。
「……すまなかったね」
リオの聴力を見越したような声でそう言い残し、彼は邸内に戻っていく。その姿が見えなくなるや否や、ロットは鉄格子をくぐり、目を虚にしているリオの横に膝をついた。
「リオさん、僕からも……」
「いいよ。もう謝らなくて」
用意されていたような返しに、早速言葉が詰まる。この段階で謝罪を否定されては、次に出てくる台詞は決まったようなものだ。
「えっと、それから……ありがとう」
「何が?」
その声は、理由のない感謝を許さない。
「リオさん、怒らなかったじゃないですか。僕、すごく怖かったんです……リオさんが父に飛びかかるんじゃないかって……」
長い沈黙が訪れる。
しかしロットが話題探しに奮闘していると、リオは突然吹き出し、組んだ腕の中に顔を伏せた。時差の空いた反応に対する驚きは、一瞬の安心を伴い、かつてない恐怖へとロットを引きずり込む。
——彼女は笑っていた。嘔吐するように背中を丸め、肩を痙攣させながら。
「私の性格、よくわかってるじゃん」
「えっ?」
始まりと同様、突然笑うのを止めたリオの声が聞き取れず、ロットは身を乗り出した。
カラマリ草、という物騒な植物がある。ユビキリゴケ、オオナミダ睡蓮などと同じく、一般に警戒を促すという目的から、あえて単純な名称を与えられた植物群の代表的存在だ。しかし、そんな学者達の涙ぐましい努力を嘲笑うように、現代のカラマリ草は森の至るところに自生し、他の危険植物を圧倒する規模の犠牲者を生んでいる。
毒はない。棘もない。ただ近くを通りがかった生物が地面の色に同化した根を踏むと、目にも留まらぬ速さでツタが絡まり、動きを封じる。捕食のためでも、受粉のためでもないその生態にどんな意味があるかは分かっていないが、一つ確かな点は、その奇妙な植物による被害の数は、ちょうど一週間ごと、それも日曜日を過ぎる度に増えていく、ということだ。
今、目の前にいる女性は、その不幸な統計の一部となる運命から自分を救ってくれた。極端に疲れている様子だったものの、足首に巻き付いたツタを外す彼女の手捌きは的確で素早く、自由の身にしてくれた後は、なんと竜の棲む洞窟まで自分を背負って行ってくれたのだ。ありがとう、ありがとう——汗と泥にまみれた背中の上で、何度そう呟いたか分からない。
なのに。
首めがけて伸びてくる二本の腕。その動きと重なったのは、むしろ昨日自分を襲ったツタの方だった。勢いに乗せて上半身は押し倒され、冷たい鉄の床に後頭部を打ちつける。
「ちょうどいいや……自分より、自分の子供が死ぬ方がつらいもんね」
そう言いながら、リオは胸の上に跨ってくる。ピンと伸びた腕に体重が加わり、締めるというより押し込まれる形で首が圧迫される。これによって親指以外の指は宙に浮き、暇をもて余した八頭蛇となってうなじに食い込んでくる。鋭い牙を思わせる爪が肉に沈み、じわっとした温もりが首の裏側に広がっていく。
「よくも、よくも」
魔物に声帯を奪われたような声だ。
容赦なく体重を預けてくるリオに対し、ロットは抵抗のしようもなかった。腕は彼女の太ももに完全に組み敷かれており、自分の短い脚をばたつかせたところで状況は好転しない。そもそもこのような体勢に持ち込まれた時点で、歳上の、しかも力も強いリオに敵うはずがないのだ。
徐々に、世界から光が失われていく。喉を覆う手の平は温かいのに、それ以外の部位は、夜に晒されたように寒くなっていく。
意識が限界を迎える直前、ロットは頭の奥深くで、時計の針の音が聴こえたような気がした。
3、2、1——
「ぶぁっ!」
リオの手が離れ、反射的に大きく息を吸い込む。数十秒ぶりの酸素を取り込もうと活動する肺の動きに合わせて、跨っているリオの体も上下に揺れる。
よほど激しかったせいだろうか。
彼女の両頬を伝った涙は、ロットの顔の上でも相当、ずれた位置に落ちていた。
「……ごめんなさい」
リオは馬乗りをやめ、地を這うようにエゲンの腹の前まで移動すると、まるで教会の壁に向かって懺悔する信者のように泣きじゃくり始める。
「私が、私が悪、いの、勝手に勘、違い、して、ロット、が、私達の居、場所を教えて、みん、みんなでエ、ゲンを、捕まえ、に、来た、んじゃ、ないかって」
——きっと、言いたいことはそれだけじゃない。
彼女のむせ返るような「でも」という言葉に、ロットの直感は確信に変わる。
「撃っ、たのは、あいつ。あのくそ、野郎、殴れな、かった」
振り上げられた拳は、よもやエゲンの腹に叩きつけられることもなく、熟れた木の実のように地面に落ち、割れる。
「ねえ、お願い」
鼻をすすり、リオはロットの方を向く。
「君が知ってて、私が知らないこと、全部教えて。ここで働くから」
暴力への衝動を抑えることはできても、内に溜まった怒りを上手く言葉にできない——今までの人生で、彼女は自分自身はもちろん、他人の煮え滾るような怒りにも触れたことがないのだろう。
高い知恵と乏しい知識の間で、その顔は苦しんでいた。