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暗い日曜日  作者: ろん
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第3話 誤解




 雄々しい戦士の銅像が右手に持っている盾から、その上を一歩踏みしめるごとに申し訳なさを感じる豪華絢爛なカーペットまで、邸内のあらゆる場所にあしらわれている奇妙な記号こそ、ロット少年の姓の一文字目に違いない。

 字が読めないなりにそんな事を考えながら、リオは先行するドヌーグの背中についていった。後ろでは、ロットが沈鬱な表情でぼそぼそと口を動かしている。ドヌーグに言われた通り、自分が迷惑をかけた人々への謝罪の言葉を練習しているようだ。


「ドヌーグさん、この窓、穴が空いてるよ」


 左右に広い中央の階段を登りきった後、リオが目の前にそびえるステンドグラスの右下を指して言った。ステンドグラスは、天から舞い降りた悪魔らしき姿が人々を槍で刺し殺している様子を素朴な白黒で描いているが、右下の部分だけ、奥にある中庭の芝生が不自然に覗いている。


「いいえ、そこは普通のガラスです。触ってみてください」


 ドヌーグが答える。

 リオが言われるがままに疑惑の地点に指先を近づけていくと、確かに見えない壁に爪がコツンと突き当たる。

 

「ここだけ色を塗ってないの?」


 その問いに、ドヌーグは少し神妙な面持ちになった。


「ええ。この作品の元になった絵が、たった今リオ様が触れているのと同じ場所に色を塗っていなかったからです。その作者というのが……」


 ドヌーグは頭を傾け、リオの肩越しにロットの表情をうかがう。


「エイラ・クレイグ。僕の母です」


 ロットが言葉を引き継ぐ。


「僕は正直覚えてないけど……一旦絵にのめり込むと食事も摂らないような人だった、という風に父からは聞いてます。この絵は元々『死の一時間』という題名なんですけど、月曜日にいきなり描き始めて、そのまま日曜日の昼になっても描くのをやめなかったって……」

「……亡くなったの?」

「はい。だから、その絵はもともと未完成なんです」


 つまりこのステンドグラスに残る不自然な空白は、原画を忠実に再現した結果ということだ。透明なガラス越しの景色にもやもやとした感情を抱えたまま、リオは個人の住いとは思えないほど長い廊下へと案内される。


 ドヌーグは黒い扉の前で立ち止まると、手の甲で扉を三度叩いた。

 タイミングを見計らっていたかのように、初老の男性が中から飛び出してくる。


「息子は!」

「ご無事です。こちらの方が助けてくださいました」


 ロットと同じ、淡いグリーンの瞳が我が子の姿を捉える。

 その後、歓喜の叫びと熱烈な抱擁に彩られた父子の再会劇は、いかにも教師らしいドヌーグの咳払いによって終幕を迎えた。


「いや、失礼」


 さして崩れてもいない口髭を念入りに指先でなぞり、男性はリオの方を向く。


「自己紹介させて頂くとしよう。私はロットの父のエドモント・クレイグだ。この度はなんとお礼を言っていいか……」

「実は、お礼はもう決まってるの」


 エドモントとドヌーグが顔を見合わせる中、その内容を理解するロットだけが一人頷く。


「森の中で偶然ロット君を見つけた後、一緒に町の真ん中にある避難所に向かったんだけど、その時かなり急いでて、大事なペンダントを街のどこかに落としちゃったの。だから、それを一緒に探してほしい」


 リオの言葉を聞いた瞬間、お安い御用だ、と父親が口を綻ばせる隣で、ロットは大いなる戸惑いを顔に貼り付けていた。リオの口から「竜の薬が欲しい」という本来の願いが出てこないだけなら、さぞかし気が変わったのだろう、と彼も柔軟に判断したかもしれないが、明らかに彼女は嘘をついている。言うまでもなく、二人が向かった先は町の避難所などではなく、エゲンが住む洞窟だった。


「お嬢さん、名前は?」

「リオ」

「リオ、君のご両親と連絡を取りたいのだが。良ければ苗字も教えてもらえるかな」

「ないよ。私、親いないもん」


 その困惑の表情は息子にそっくりだった。


「では、君は孤児だというのかね。ならばどうやって……」

「エドモント様」


 間髪入れず、ドヌーグの注意が飛ぶ。


「失礼、無用な詮索だった。お望み通り、ペンダントの捜索は我々が責任を持って行うとしよう。どういったペンダントなのかね?」


 リオはペンダントの見た目や素材などの情報を彼に伝えた。


「……承知した。ドヌーグ、このことを執事に通しておいてくれ。それから、ロット捜索に関わった者達に彼の生存報告を。何なら本人も連れていくといい」

「無論、そのつもりです」


 父親と顔を合わせるまで両肩に気怠さを満載にしていたロットだが、いつの間にか背筋を正し、先ほどの嘘の説明を求めるようにリオの方を見ている。彼女はそれを一瞥することなく、ドヌーグがロットを連れていくまで、邸内の各所にある物と同じイニシャルをバックルにあしらったエドモントのベルトを凝視していた。


「さて、とりあえず中に入ってくれ。改めてお礼を言いたい」


 二人が去った後、エドモントは黒い扉の内側でくるりと踵を返し、腕を上げてリオを迎え入れる。

 足より先に鼻が出るリオ。


「なんか、変な匂い」

「本の匂いだろう。ここは書斎だからね」

「しょさい?」


 本、ひいては文字という概念とおよそ関わりなく生きてきたリオにとって、その室内に充満するインクとカビの匂いはかなり新鮮に感じられた。好奇心から踏み出した一歩目を通じて伝わってくるカーペットの柔らかい感触が、この空間が屋敷の他の場所よりいささか「上質」なものであることを教えてくる。

 そんな部屋の中で唯一見覚えがあるものといえば、貴重なマガジン材で作られた本棚の稲妻のような木目くらいだ。


「さて、お茶を出す前に、君にいくつか聞きたいことがある」


 背後でぱたんと扉を閉めた後、エドモントはリオを追い越して窓際まで歩いていった。ドヌーグほどではないものの年齢の割に筋肉質な両腕が、デスクに折り重なった書類の上にまっすぐ突き立てられる。


「いったい、どうやってロットを助けたのかね。私の聞き違いでなければ先程、君は町の中心にある一般避難所に逃げ込んだと言っていたね」

「聞き違いじゃないよ。私もそう言った」

「なるほど、きっと大変だったはずだ。あそこはかなり混み合っていただろう?」

「そりゃあ、ね」


 それを聞いたエドモントは口先を尖らせる。


「ではつかぬことを聞くが、君は『あおぞらの家』という施設を知っているかね」


 リオは口を噤んだままかぶりを振った。


「『あおぞらの家』は、町の中心から少し東にある孤児専用の避難所だ。彼らの世界にもそれなりに情報網はあると思うんだが……君はそれを知らずに今日まで過ごしてきたのかね? 毎週日曜には、わざわざ混み合う一般の避難所に行っていたと?」

「知らなかった。じゃあ、来週からはそこに行くよ。今度は人ごみで窮屈な思いしなくていいって、ロット君にも伝えておいて」


 何を聞いても梨の礫。エドモントにしてみればそんな感覚だろう。


「君は、本当に孤児なのかね」

「喉乾いた」


 切り札のように放たれたその一言に、エドモントの口から溜め息が漏れる。


「分かった……なら、最後にひとつだけ答えてほしい。『はい』か『いいえ』のどちらかだけで結構だ」


 その願い自体に、リオは『はい』も『いいえ』の姿勢も見せなかった。


「屋敷の構造上、玄関からこの部屋に繋がる道は二つある。中央の大きな階段を通ってくる道と、西側の小さな階段を通ってくる道だ。君はドヌーグの案内で、中央の大きな階段の方を通ってここにやって来た。違うかね?」


 リオがおっかなびっくり首を縦に振るのを見て、エドモントは待ちかねたように手を打った。


「なるほど、君が嘘をついてまで私を警戒する理由が分かったよ。二つのルートのうち、窓から中庭が見えるのは中央階段の踊り場だけだ。どうやらそこから見える光景は、君のお気に召すものではなかったようだね」

「……何なの、あれ」

「あれが、私の仕事なのだ」


 エドモントは背後にある窓を上に押し上げ、リオを自分の隣へ誘った。

 そこからおそるおそる中庭を見下ろした途端、リオは口元を手で覆い絶句する。

 その目に映ったのは、分厚い鉄の檻に入れられた十数匹の竜だった。


「君は、インフラという言葉を知っているかね」


 知らない、とリオが食い気味に答える。


「つい最近できた言葉だよ。水道やランプオイルの販売といった、市民の生活に欠かせない仕事のことだ。私の仕事もこれに含まれるんだが、どうもこの手の職業は人々に毛嫌いされる傾向にあってね。なくては困るものなのに、華がない、臭そう、給料が安そう……そんな理由で敬遠されてしまうんだ」

「あの、本当に、喉が乾いたんだけど」


 何かを恐れるように語気を強めるリオに対し、エドモントは窓枠にもたれたまま不動を保っている。


「無論、ロットを助けてくれたことには感謝している。ただ、それで『ああ良かった』と肩の力をすべて抜けるほど私は単純な人間ではない。ロットの父として、そして竜を扱う仕事をしている者の一人として、私には今回の顛末を正確に把握する義務がある。そして直感を言わせてもらえば……」


 長い沈黙が書斎の中に漂う。


「リオ君、君は竜と……」

「違う!」


 早口で言い切ろうとしたエドモントの言葉を遮り、リオは部屋から立ち去ろうとした。しかし直後、その足は一歩目から石のように動かなくなる。

 エドモントに背後から腕を掴まれた訳でも、ましてや彼との会話に未練がある訳でもない。


 その目はまっすぐ、黒い扉の裏側に掛けられた一枚の絵に注がれていた。

 一瞬、それが廊下で見たステンドグラスのモデルであるとリオが理解できなかったのは、決して彼女の察しの悪さが原因では無かった。特徴的な右下の空白こそ、あのステンドグラスの配置と一致しているものの、目の前の絵は全体的に絵の具が搔きむしられ、表面にはキャンバス全体に覆いかぶさるような人型の焦げ付きが生々しく残っている。


「1144人、これがどういう数字か分かるかね」


 いつの間にかエドモントは彼女の背後に移動していた。

 この男、やたらと会話の初めに質問を置きたがる。


「去年一年間、この街で竜の腹に逃げ込むことができずに亡くなった人間の数だ。こうして把握できているだけでも、日曜ごとに22人のペースで人が死んでいる。君も知っての通り、避難所が飼っている竜の数には限りがあるし、彼らの胃袋の大きさにも限りがある」


 両手を後ろ手に組み、エドモントはリオの周囲をゆっくりと回り始めた。


「言うまでもなく、不運な1144人のうち、大半は公営の避難所に入りきらなかった人々なんだが、野生の竜の中には狡猾な奴もいてね。そうやって取り残された者達の前に現れ、親切にも腹の中にかくまおうとするんだが、実際は吐き出さずにそのまま消化してしまうんだ。最近はその被害も続出している」


 そう言われた途端、リオはママラヤ橋近くの倉庫から命からがら逃げ出した後、森の中で自分を押しのけて竜に呑み込まれたスキンヘッドの男を思い出した。不慣れな人語を口にしながら近づいてきたあの竜が、もしエドモントの言う通り、人間を捕食する目的だったとしたら——


 人攫いが竜に攫われ、世の中が少し綺麗になった?

 実際に彼らに襲われたリオでさえ、流石にそう考えることはできなかった。


「それで……何が言いたいの」


 人間の上半身の焦げ跡がくっきりと残る絵の前に立ち、エドモントは口を開いた。


「今、この街は深刻な竜不足に陥っている。『日曜日』に妻を失っている私はね、この仕事を通じて、一人でも多くの人間を守りたいと思っているんだ。だからもし君の身近に竜がいるなら、我々にその居場所を教えてはくれないかね」

「私の知り合いに、店で物を売ってるおじさんがいるんだけど、結構愚痴が多いの。良い商品が入ってこないとか、在庫がどうとか」

「ほう」

「……あなたからは、嫌な意味であの人と同じ匂いがする」


 濁りのないエメラルド色の目がエドモントを射抜く。互いに視線を外そうとしない数秒が陽をわずかに西に傾けた後、彼は降参したように部屋の端に移動し、伏せてあった黒磁のティーカップにお茶を淹れ始めた。


「今夜は泊まっていってくれたまえ。いや、何泊でも」


 リオはしまったと思った。字面通りの「家なき子」であれば、このような有り難い申し出を断るはずがない。此の期に及んで、ネックレスを一緒に探してほしいなどと言ったことを後悔する。それでも唇を結び、その場は首を縦に振るしかなかった。


「よろしい。寝室は後でドヌーグに案内させよう。夕食までまだ時間があるが、他に何かご要望はあるかね」


 リオが立っている側のデスクに茶を置くと、エドモントは巨大な肘掛けのついた椅子にゆったりと腰を落とした。


「じゃあ、ひとつ聞くけど」

「なんなりと」

「シャワー、って……本当にあるの?」


 年頃の少女の好奇心を含む声に反応し、エドモントは口元を緩める。


「最新式だ。使ってみるかね?」




——




 自分が「客」としてもてなされていることをリオが実感したのは、お湯で火照った体で脱衣所の扉を開いた後、そこに先程まではなかった足拭き用の布と、清潔なタオルが丁寧に折り畳まれて置いてあるのを見つけた時だった。入浴前の服は既に持ち去られていて、代わりに三角形の模様が随所にちりばめられた麻製の衣類が、その右の棚に残されていた。

 タオルに顔をうずめ、その上に香るスズランの匂いを胸一杯に吸い込む。それもまた驚きだが、風呂場に入って大きいネジのような取っ手を捻った直後、頭上に設けられた無数の穴から降り注ぐ冷水に身を打たれた瞬間には及ばない。あれを罠と呼ばずに何と呼ぼうか。


「はぁ」


 若い肌に弾かれた水滴が、肘や耳たぶから大量にこぼれ落ちていることも忘れ、リオはその場にしゃがみ込んだ。

 毎週四肢にまとわりついていたエゲンの唾液を除けば、こうして人肌より温かいお湯に身を通したのは産湯以来かもしれない。とはいえ産まれた頃の記憶もなく、そのことを語ってくれる母親の顔も知らない以上、それも比喩だ。


「おか、あ、さん」


 自分の頭の中に浮かぶ言葉は、漠然と全てエゲンが教えてくれたものだと思っていた。しかしスズランの空気を消費して呟いたその言葉は、おそらく違う。町の路肩で暮らしている本物の孤児ですら人生で最初に学ぶ五文字が、今のリオにはひどく難解に感じられた。


 体を拭き、肌触りの良いリネンの下にロングスカートを穿く。首回りにネックレスが無い違和感さえ別にすれば、文句なしに爽快だ。

 脱いだ服を脇に抱えて脱衣所を出ると、壁際に二人の人間が立っていた。埃一つないジャケットに上半身を包んだロットと、リオが玄関で最初に会った使用人の女性だ。


「リオ様、お召し物をお預かりします」


 こういうのを猫撫で声というのだろうか。表情も、玄関口でリオの風体を目の当たりにした時とは別人のようだ。

 リオが笑いを堪えながら彼女に服を手渡すと、ロットが前に進み出た。


「食堂まで案内します。お手をどうぞ」


 かなり練習したのだろう。その台詞に淀みはない。ただ、歳上で、しかも薄着の女子を

相手に緊張しているのか、若い紳士の両手は自分の太ももに貼りついたままだった。かくいうリオもエスコートの経験はないため、言われるがまま片手を差し出したとき、彼の表情がショックに歪んだ理由が分からなかった。


 使用人の女性と別れ、二人並んで廊下を歩く。リオが途中で口を開いた。


「ねえ、ロット君」

「ロットでいいです」

「じゃあ、ロット。お願いをひとつ聞いてくれる?」

「え? もちろん」


 首を縦に振ったロットの耳に口を近づけ、リオはその内容を囁いた。

 この時世でその白さに比肩するのは雲くらいだと言ってもいいロットの顔が、冬場の空のように急激に暗く、沈鬱になっていく。リオが耳元から離れたとき、ロットは視線を彼女と合わせることなく、同じくらいの小声で「わかりました」と呟いた。


「本当に……僕の父がそう言ったんですか?」

「私の勘違いならいいんだけど。一応ね」


 しばらく歩いた後、ロットが先んじて食堂の扉を開ける。鼻孔から直接脳に流れ込んでくるような香ばしい肉の匂いに、普段、魚と山菜しか食べないリオも思わず喉を鳴らした。

 部屋の大きさと不釣り合いなほど小さなテーブルが中央に置かれ、奥の席にロットの父が座っている。

 ただ、手前に並んでいる椅子は二つだけだった。




——




 暗闇の中ではっと目を見開く。蒸し暑い毛布から顔を出すと、枕元に置いてある銀の水差しが月明りの下で光っているのが見えた。洞窟と違い、突き出した岩の先端がいつ落ちてくるかと気にする必要もない天井には、入り組んだ模様が丁寧に彫り込まれている。薄いカーテンの谷間には十字に仕切られた窓があるが、暖かい夜は星空の下で寝ることもあるリオにとっては、身近な景色がたった4ピースのパズルに封印されてしまったような、やや不思議な感覚だった。


 リオは再び毛布の中にもぐり、夕食の場でクレイグ親子と話したことを思い出す。この家は先代から受け継いだ物ではなく、一代、それも四十過ぎという若さで富を築き上げたエドモントが自分で建てた物らしい。彼は元々遠方の国で採掘の仕事をしていたが、画家だった妻が「暗い日曜日」に命を落としたことをきっかけに、人々を救う竜を各地に斡旋する事業を興したのだという。






 ——相当、疲れていたらしい。

 瞬きをしただけのつもりが、朝になっていた。


 朦朧とした意識のままベッドを抜け出し、まだ暗い西側の廊下を歩く。使用人は既に起きているのか、階段の踊り場の壁に掛かっているランプにはもう灯が入っている。眠い目を擦りながら二階に下りると、正面玄関を見下ろすような位置に例のステンドグラスがそびえ、黒く煤付けされたガラスに濾された太陽が、リオの足元にぼんやりと斜光を落としている。


 昨日と同じように、色が塗られていない絵の右下部分から中庭を見下ろす。光と水分が調和した朝の世界は美しいが、しっとりと夜露が降りた芝生を囲うように並ぶ立方体の檻の中では、体色も体格も異なる竜達が体を丸めて眠り込んでいる。その果てしなく澄んだ空と対比せざるを得ないほど窮屈な佇まいに、リオは思わず唇を噛んだ。あんな場所で過ごしていたら、彼らはいずれ、自分の背中に生えている翼の意味すら忘れてしまうだろう。


 ——そこまでは昨日と同じ感想だ。


 今日の違和感はその光景の中心にあった。黒い芝生と同化していて分かりづらいが、確かに厚い革衣に身を包んだ男達が、中庭の真ん中に集まって何やら話し込んでいる。しばらくしてその中の一人が全体を指揮するように拳を突き上げると、おおっ、と各自が声を張り上げて応える。


 その後、集団がステンドグラスの方へと近付いてきたため、リオは窓際から急いで顔を遠ざけた。床を一枚隔てた下で扉が開く音が聞こえ、同じエントランス内に現れた一団はぞろぞろと玄関の方に向かう。


 ふと鼻孔をくすぐる胡椒のような臭いに、リオは覚えがあった。専用の刃物以外では傷をつけることも難しく、この世では竜の皮膚に次いで高い防護性を誇る「アタラ大鳥」の革の臭いだ。


 エントランスは暗く、一人一人の顔は判別できない。しんがりを務める小柄な姿が玄関の外へと消えるまで、リオはそばに立てかけてある甲冑の陰で息を潜めていた。


 正直、まだ寝ていたいと思った。ここで踵を返して寝室に戻り、一、二時間後に輝きを増した太陽の光を拝むのも悪くない。あの布団もまだ温もりを保っているはずだ。


 それでも足が前に出る。もし彼らが身に纏っていた服の背部にクレイグ家の印がなく、かつ一人一人の手に握られていた物が、巨大な玄関をぎりぎり通過できるほどの長槍でなければ、そんな選択肢はなかっただろう。




 一糸乱れぬ行進とは言わないまでも、彼らは集団としてある程度固まったまま、高級住宅街であるハルマン地区の外に出た。対岸で暮らす庶民に貧富の差を突きつけることを目的に架けられているような石橋は、ちょうど半分を過ぎた辺りから装飾がなくなり、橋桁や欄干には汚れが目立ち始める。


 一行の後を追いながら、自分は何をやっているんだろう、とリオは思った。鳥肌の立った腕を擦り合わせながら、着の身着のまま飛び出してきたことを後悔する。


 嫌な予感が掠めたのは、彼らがセレナ川に沿って歩くようになってからだ。彼らが交差点にさし掛かるたび、漠然と「そっちじゃない方に曲がってほしい」と願い続けていたリオだったが、期待がことごとく裏切られた結果、至ったのはエゲンがいる洞窟へと繋がる一本道だった。


 まさか、という思いと共にロットの顔が頭に浮かぶ。


 迷っている時間はなかった。リオは川沿いを進む一行の横にある森に入り、枝や蔓を掻き分けながら彼らを追い越す。途中、鋭い葉で手の甲に傷を負ったり、ぐにゃりとした太い何かに足を取られて転んだりしながら、前だけではなく横にも距離を取り、川のせせらぎがほとんど聞こえなくなる位置まで移動したところで、胸一杯に息を吸い込む。


 直後、鳥の声と聞き違えるはずもない、れっきとした女子の悲鳴が朝の森にこだました。耳の奥がじんじんとする感覚も忘れ、リオはそのまま洞窟に向かう。あの人達に良心があり、よもや全員が聾人という訳でもない限りは、これで多少は時間が稼げるはずだ。


「エゲン!」


 エゲンは眠っていた。頭と尻尾を洞窟の出口側に向けて寝るのは彼女の癖だが、不自然なほど前に置かれた後足は、その場にいないリオの寝床を確保するようにぴったりと腹に添えられている。


「起きて! 逃げるよ!」


 リオの細い腕ではエゲンの鼻先を揺さぶることで精一杯だったが、それでも敏感な部位に走るむずむずとした違和感は、彼女を目覚めさせるのに十分な刺激だったようだ。エメラルド色のリオの瞳を拡大して薄めたような、淡いグリーンの瞳を覆う瞼がゆっくりと持ち上がる。


「……おや、私は三日も寝ていたのかね」


 たった一日でこの場所にとんぼ返りしてしまった訳だが、そういえば当初は三日間で戻るという約束だった。

 だが事情を説明している暇はない。リオはエゲンを急かし、一も二もなく洞窟から出るように促した。


「エゲン、最後に空飛んだのいつ?」

「覚えてないねぇ……まあ、あんたが産まれる前なのは確かだよ」

「じゃあ、すぐに思い出して」


 仮にも寝起きの相手に「正気かい」と心配されるのは初めての経験だったが、リオはめげずにエゲンを出口まで導いていく。付き合いの長さが幸いしてか、その声のトーンが冗談の類ではないことをエゲンも早々に察し、次第に歩みを加速させていく。


 しかし外に出た途端、リオが目にした光景は予想とはかけ離れたものだった。

 


「おい、もう一匹いるぞ!」


 聞こえたのは男の叫び声だった。

 もう一匹、とはどういうことか。答えは、彼らが握り締める槍の切っ先に示されていた。

 

 坂の頂上にいるリオがようやく「見下ろす」ことができる鴻大な生物。エゲンと違い、発達した二本の足で地に立つその姿に、リオは見覚えがあった。日曜日である昨日の昼、倉庫から脱出を果たすも行き倒れていたリオの前に舞い降り、「ニンゲン、タスケタイ」などと拙い人語で救助を申し出てきた竜だ。あの時は逆光と疲労でほとんど全体を捉えられなかったが、いざ俯瞰してみると、改めてその野生的な肉質に覆われた体躯と、エゲンの薄桃色の肌とは似ても似つかない、貪欲な紫色の甲殻に目が吸い寄せられる。


 ただ、甲殻による支配が及んでいない唯一の部位である腹の大きさに、リオはとっさに違和感を覚えた。誰が何と言おうと、あの竜はここまでスリムではなかったはず——


 やはりエドモントの話にあったように、この手の竜は人を騙し、食らうことで生きているようだ。


「リオ、あいつと目を合わせるんじゃないよ」


 突然、エゲンが背後で口を開く。


「何か分かるの?」

「分かるも何も……あそこまで不機嫌そうに体を揺らす雄は初めて見たよ。大方、あそこにいる人間共が寝起きを邪魔したんだろう。近くでどでかい音を立てたり、尻尾を思いきり踏んづけたりしてね」


 そう言って、エゲンは呆れたようにフンと鼻を鳴らした。


「……あの、エゲン」

「何だい。ちなみに朝が苦手なのは私も同じだからね、あまり怒らせないでおくれよ」

「……じゃあ、言わない」

「冗談さ。神妙な顔をしてどうしたんだい?」


 紫の竜に人差し指を向けた後、リオは、その先端をゆっくりと自分の顔に持っていった。


「ごめん、私があいつを起こしちゃったんだ。森の中で大声を出して、多分、その前に尻尾にも蹴つまづいた」


 その発言にエゲンは押し黙り、じっと前を見据える。


「なら尚更だ」


 細く呟く声が隣から聞こえた瞬間、竜が暴れ始めた。手近な位置に立っていた三人の男を隆々とした腕で薙ぎ払い、黒い大地を踏み鳴らして団体の中に突進していく姿を見つめながら、リオは不意にくしゃみを催した。どうやら男達が纏う胡椒の臭いを風と一緒にここまで届かせるほど、その腕の振りは強力なものだったらしい。三人のうち一人は木に打ち付けられて失神し、残る二人も放り投げられた玩具のようにぐったりと地面に転がった。

 しかし、最も不運なのは集団の中心にいた男だった。迫り来る竜を避けようと周りが蜘蛛の子を散らすように散開する中、最後まで四方を人の壁に遮られていたその男が竜に捕らえられるのを見て、リオはごくんと唾を飲む。


 そして、それは竜も同じだった。


「は、離せっ、離してくれ!」


 鉤爪に体を持ち上げられながら男が叫んだ時、リオは、この竜が決して人語を理解している訳ではないことに気付いた。彼が昨日の昼に口にしていたおぼつかない言葉の数々は、あくまで人間を油断させるための手段であり、相手と意思の疎通を図るものではない。九官鳥のように、ただ音を真似ているだけなのだ。


 そんな直感を裏付けるがごとく、竜は喚き続ける男に対し、人間の何百倍も敏いはずの耳を貸すことなく、グバッと口を開いた。


「リオ、こっちにおいで」


 なぜかエゲンに引き寄せられる。


 薄っすら黄ばんだ歯が並ぶ顎よりも、伸縮性のある蛇腹に覆われた喉を最大限に活かした食事風景の生々しさに、リオは呆然としていた。目の前の光景と、善意ある竜が日曜日に人間を「収容」する様子には天地の開きがある。咥えた人を人と思わず、はみ出た二本の脚を左右に振り回しては、遠慮なく唾液を地面にまき散らす姿を見て、リオは毎週、エゲンが自分を呑み込むためにどれほど気を遣ってくれているかを痛感した。





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