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暗い日曜日  作者: ろん
2/6

第2話 救出


 歯型だらけのエイの皮は、もはや完全に味がしなくなっている。

 木箱の中に入っていた水甕の中身も、一昨日の時点で底をついてしまっている。


 足元には七日目を意味する七本の線が描かれているが、そこに八本目が付け足されることは絶対にない。


 脱出か死か、未来は二つしかないのだ。


 陽が昇り、倉庫の中も徐々に暖かくなっていく。

 射し込んできた光は退屈な室内を金色と灰色に二分し、空中を漂う粉塵や、割れた窓の破片をきらきらと輝かせる。

 空になった水甕を窓に投げつけるという発想は悪くなかったものの、声を張り上げたところで誰かが来てくれる気配もなく、雑誌のページを矢のように折って飛ばしてみても意味はなかった。

 さらにそこから、雑誌から切り取った文字に唾をつけて矢に貼るという発想に至ったときの恐怖は忘れない——そのとき確かに、リオは自分が文字を読めないことを忘れ果てていた。


 折った膝の上に肘を置き、丸めた背中をぬるい壁に押し付けながら時を過ごす。

 だらしなく口を開けても唾一滴垂れてこない。

 砂埃によるざらつきと皮脂のぬめりが熾烈な争いを繰り広げている髪に触れてようやく、リオは自らの性別を思い出すことができた。


 ふと、貴重な水分が涙となって目尻からこぼれる。


 これほど切羽詰まった状況だというのに、リオは竜の薬にだけは手をつけることができなかった。

 決して人の体に毒という訳ではないが、自分にとって母親も同然の彼女の顔がまぶたの裏に映ると、『それを食べたら負けだ』という妙なプライドが込み上げてくる。


 力尽きては元も子もないと分かっているのに。


 此の期に及んで、自分が街へ下りてきた理由を失うことが怖かった。



 ——



 突然のことだった。


 ドゴッ、と硬い物がさらに硬い何かにぶつかる音がした後、小屋の中の光量が急増する。

 直後、蝶番のちぎれた扉とともにリオの前に倒れ込んできたのは、見覚えのあるスキンヘッドの男だった。


「間抜けめ。盗むなら物以上に相手を選びな」


 逆光の中、野太い声が辛辣な言葉を放つ。

 目の前に横たわる男をはるかに上回る体格の持ち主は、その隆々とした体を鉄の扉の代替とするかのごとく、がらんとした入口に立っていた。


「お前さん、誰だ」


 何が人生最後の言葉になるんだろう……そんなことを考えていたのは何時間前だったか。

 その答えは少なくとも「こっちの台詞よ」という言葉ではなさそうだ。

 リオは足腰を震わせながら立ち上がり、火虫のようにゆらゆらと光に向かって歩く。


 その体は、男と壁の間の僅かな隙間を難なく通り抜けることができた。



 ——



 街の中心はとんだ喧騒に包まれていた。


「押すな!」「うちの子がいない」「割り込むな!」


 役場の隣にある施設の前を通り過ぎるとき、リオの耳に飛び込んできたのはそのような言葉ばかりだった。

 

 十対ほどある門に列をなす人々の肌は一様に浅黒く、老若男女問わずの押し合いへし合いが繰り広げられているが、彼らを焦らせる原因が役場の上に掲げられている巨大な時計であることは明白で、短針は十一時を回り、長針もまもなく地を指そうとしているというのに、肝心の列はまるで牛の歩みのようだった。


 行列から押し出されて戻れなくなる者も散見される中、ついに自らの意思で列を離れる者が現れ始める。

 彼らは街の中心から離れていくリオを追い越し、全員が揃って森の中へと疾走していった。


 その後、いつか身を清めたことが大昔に感じられるセレナ川を横目に遡りながら、リオは確かに人々の叫び声を聞いた。

 悲鳴ではなく、明らかに嘆願の声だ。

 右から左から、まるで教会に迷い込んだと錯覚するような嘆きの言葉が木々の間を飛び交っている。


「うっ」


 突然、足元がふらつく。

 視界がガクンと下がり、膝に砂粒が食い込むのを感じたのも束の間、頭上に巨大な影が現れる。


「ナント、アワレナ」


 影は左右に延びた翼を羽ばたかせ、落下の勢いを相殺してからリオの前にどすんと着地した。


 もはや、顔に降りかかる砂埃に不快感を抱く気力もない。


 自身の数倍以上もある体格を見上げる力もなく、目の前で揺れる、細かい皮膜が折り重なった腹部の重量感から、リオはようやく自分が竜と相対していることを知る。


「ニンゲン、タスケタイ。アト、モウイッピキクライナラ、クエル」

「……いい」

「エ」

「私はいい……エゲンが……いるから……」


 上半身を壊れた羅針のように揺らしながらリオは答える。


 その直後、やせ細った四肢はいとも簡単に藪の中へ突き飛ばされた。


「どけ!」


 息を切らしながら走ってきたスキンヘッドの男が、まるで玉突きのごとくリオと場所を取って代わる。

 後頭部には凹み傷があり、顔面は生々しく腫れ上がっているが、その表情はそびえ立つ竜を前に異様なほど爛々としていた。


「聞いてくれ、そのガキはもう助からない。助けたいなら俺を……俺を食ってくれ!」

「アア、モチロン」


 気のせいか。

 単純な善意とは不釣り合いに唾液をすすり上げる音に、茂みの中にいるリオは違和感を覚えた。


 その後、男の口からしばらくの間繰り返されていた感謝の言葉は、ごくん、という音を最後に途切れ、竜が地を蹴って飛び上がったと思われる衝撃から、リオは地面にごろんと転がった。


 灼熱の陽射しが木漏れ日となって肌を焦がす。



 しかし、あまりの眩しさから顔を横に傾けたその先で、リオは別の違和感を覚える。


 厳めしい太陽の下、父の怒りを避けるべく存在感を薄める術を覚えた子供達のような植物の中で、その頭は不器用な黄金色に煌めいていた。

 リオと同じく横たわっている体はもぞもぞと動き、真新しい磁器を思わせる肌には、その場で長時間同じことを繰り返したことを証明するように多くの土が付いている。


 その姿はまるで「何らかの」不快感から逃れようとしているようだ。

 飢えと渇きを筆頭に、ありとあらゆる不快感を身の内に湛えている今のリオにとって、その答えを直感することは造作もなかった。


 すすり泣く声に確信を得ながら、手を伸ばす。


 目と目が合い、向こうも手を一杯まで伸ばしてくる。

 色の異なる中指同士が絡まり、互いの手の平の感触を確かめたところで、リオは彼が自分より歳下の少年だと気づく。


 しかし、引っ張るつもりが逆に引っ張られる。


 意思、そしてプライドという火の熱を数日ぶりに感じたのは、まさにその瞬間だった。



 ——



 洞窟まで戻ったとき、少年の体はリオの背中からずり落ち、地面をこする靴の先が馬車の轍のような跡を後ろに残していた。

 もはや、日向と大差ない温度まで熱せられた洞内に転がり込んだところで、ずしん、ずしんと大きな音が奥から近づいて来る。


「この、バカ娘!」


 頭上から砂粒が降ってくるほどの怒鳴り声を聞き、リオは弱々しい笑みを浮かべる。

 ごつごつとした岩肌に前のめりに倒れ込むと、まるでそうしてくれることを信じていたかのように、竜の分厚い前足がその体を受け止めた。


「いったい今日までどこに……いや、話は後だね」


 その巨体には似つかわしくない焦燥感。

 にも関わらずリオの身を持ち上げた瞬間、竜の動きが一瞬止まったのは、つい一週間前とは比べ物にならない彼女の体重に驚きと哀しみを覚えたからだ。

 打って変わって慎重にリオを舌の上に乗せ、肉の防空壕へと続く滑り台をゆっくりと傾けていく。

 興奮した鼻先がちょうど洞窟の天井に触れたとき、力を最大限まで抑えたような「コクッ」という音とともに、リオの体は運ばれていった。


「さて」


 竜——エゲンは少年を見つめた。

 淡いグリーンの瞳は逸れることなく、彼女の顎の奥に生じた膨らみが蜃気楼のように消えていく様子を見つめている。


「あんたも呑んでほしいかい? もちろん一等旅客とはいかないがね。後でリオの一切合切を世話してくれるっていうなら、まあ、多少は腹に隙間を作ってやるよ」


 少年は首を縦に振り、その場で靴や服を脱ぎ始める。

 靴は壁際に揃え、衣類は慣れた手つきで畳み、下着一枚になったところで巨大な腹の前へと歩み寄るが、地面は既にかなりの熱を帯びており、彼は絶えず足踏みしていた。


「フフ、若い自分に感謝しな。あんたがもう三、四年も歳を取っていたら、間違ってもリオと同じ腹に入れる訳にはいかないからね」


 ——どうして?


 そんな返事が返って来なければ、エゲンは彼を置き去りにして洞窟の奥に身を退いていたかもしれない。

 老獪な関門を無垢な瞳で突破した少年は、リオと同じように前足で高く持ち上げられた後、その喉に押し込まれるように「ゴクン」と呑み下された。




 ——






 俵でも載せたように重い目蓋を開ける。

 視界の大半を覆い尽くしているのは天井ではなく、下腹部に向かうにつれて蛇腹の間隔が太くなっている薄桃色の長い首だ。

 パチパチと小気味の良い音が聞こえる方に顔を向けると、丁寧に組み上げられた枝木を包み込む炎と、その手前で背中を丸めている金髪の少年の姿が見える。


「あっ、起き」


 ——た。


 最後の一音を口にする直前まで、少年の顔には強い安堵の色が浮かんでいた。

 リオという命の恩人の安否もさることながら、見知らぬ竜と水入らずで過ごす一秒一秒に相当難儀していたのだろう。


 しかし次の瞬間、気を失っていたのが嘘のような素早さで立ち上がり、自分めがけて矢のように突進してくるリオの姿を見て、彼の恐怖の矛先はそちらに向かう。

 わあっ、と身を翻した少年をさらなる不安に陥れるように、リオは揺らめく炎の中に腕を入れると、口から尾を一本の枝に貫かれた魚を取り出し、その場でむしゃむしゃと食べ始める。


「お、お腹空いてるなら……言ってくれれば……」


 リオは振り返らなかった。

 程よく焦げ目が付いた物から、まだ火の通っていない物まで、骨の一片も落とすことなく平らげていく。


 かなりの時間が経った。

 しばらくして、少年がその背中に話しかける正当な理由を得たのは、腕を火傷していることに気付いた彼女が「いたっ」と声を上げた時だった。


「だ、大丈夫ですか!」

「ごめん……水、ある?」

「はい、川で汲んできました!」


 自信ありげに縁の欠けた水甕を壁際から引き寄せた少年は、両手で水をすくい上げ、およそ半分近い量をこぼしながらリオの腕にかける。

 懸命にして非効率なその行為が三回ほど繰り返されたところで、リオは苦笑いとともに甕に腕を突っ込んだ。


「あっ……ごめんなさい」

「ううん、ありがとう」


 新米看護師と負傷兵のような会話に割って入ったのは、文字どおり天からの声だった。


「リオ、聞きたいことは山ほどあるよ」


 ただでさえ桁違いに響くというのに、その声は明らかに怒気を帯びている。

 リオは金髪の彼が自分の背後に隠れようとするのを目の端で捉え、腕を甕に入れたまま竜の方に向き直った。


「エゲン、ごめん。竜の薬、持って帰るの忘れちゃった」

「本気で言ってるのかい?」

「うん」

「……言い直してやるよ。お前は私がそんなことで怒っていると『本気で』思ってるのかい?」


 乾いた鼻息がリオの前髪を反り返らせる。

 リオは少しばかり佇まいを整えると、一週間も帰ってこれなかった経緯をその口で丁寧に説明した。



 ——



「ね? いろいろあったんだよ……ものすごーく暇だったけど」

「笑い事で済むもんかい。私がもう二百年も若けりゃ、街へ繰り出してその連中を血祭りに上げてやるところさ」


 腹部よりも細かい蛇腹に覆われた尻尾が、砥石に刃をあてがうように岩壁へと擦り付けられる。

 内側に湾曲した爪もガリガリと不満そうに地面を掻いている。


「で、その子はどうしたんだい。詫びの印に連れてくるなら、私はもう少し肉付きのいい男の方が……」

「そんな訳ないでしょ。ほら、おいで」


 リオは青ざめた顔で逃走を図ろうとする少年の腕をつかみ、自分の隣に座らせる。


「帰る途中に偶然会ったんだよ。カラマリ草に足が取られてたから、助けたの」

「つまり、あんたは命の恩人って訳かい」

「そんな感じ。君、名前は?」


 リオとエゲンの顔を上下に見比べた後、少年は絞り出したような声で「ロット」と答える。


「随分と肌の白い子だね。こう言うのも何だが、日曜に山に逃げ込まなきゃならない暮らしをしているようには見えないよ」

「エゲン、見かけで判断しちゃだめ」


 リオが言うと、エゲンはフンと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

 そんな竜の小さな挙動にも怯えている少年の肩に、リオは優しく手を置く。


「ねえ、どうして森の中にいたの?」

「あの……」


 ロットと名乗った彼は目線を下に落とし、もじもじと手を動かす。


「家にはすぐに戻るつもりだったんです。家庭教師と喧嘩して、それで、少し心配させてやろうと思って……」

「君の家は? もしかして、ハルマン地区?」


 白と金——少年の肌と髪を彩る二色がそのままイメージとして定着している街の名前に、彼はこくりと頷く。

 リオが通ってきたような市の中心部とは異なり、多くの権力者や資産家が軒を連ねるハルマン地区は、週末の喧騒とも無縁だ。

 自宅に竜を飼い、炎天下に列を作る必要もない彼らの肌は、白い。


「そっか。じゃあ、別に送らなくてもいいよね」

「え?」


 今度はリオがそっぽを向く番だった。

 ロットとは対照的な色の髪が横に揺れる。


「ちょっと待ってください。僕、帰り道がわからないんです」

「セレナ川に沿っていけば街に着くよ。今の時期はカラマリ草が多いから、あまり森の中には入らないようにね」

「でも……」

「でもとか言わない。男の子でしょ」


 あらゆる反論を封殺するそのセリフを言い放ち、リオは腕組みをする。

 しかし知ってか知らずか、次に少年の口から飛び出した言葉は、彼女の興味を惹くうえで最も効果的なものだった。


「……竜の薬」


 それを聞いた瞬間、リオの顎はすっと斜め下に動く。


「僕の家も竜を飼ってるんです。もし、薬が必要なら……」

「少年」


 口を開いたのはエゲンだ。


「とっとと帰んな。さもなけりゃ食っちまうよ」

「ぼ、僕は恩返しがしたいだけです! 悪いことじゃない! お前なんかに……」


 あっ、と血の気が引いた顔で口を塞ぐ。

 一方で動機を得たと言わんばかりに口角を上げたエゲンは、巨体を揺らしながら少年に近づいていく。


「良いねぇ、年の割に肝が据わっているじゃないか」


 大袈裟な舌なめずりをして、内股でしゃがみ込んだまま首を振る少年を壁面へと追い詰める。

 鎌首をゆっくりと下ろし、小さな顔めがけて生臭い息を吐きかける。


「うっ……」

「おやおや、慣れさせてやろうというのに。ここでもう一度私の腹の中に入るなら、次の日曜はおろか、今日の寝床すら心配する必要はないというものさ。歳を食っても胃酸だけは衰えないもんでねぇ……おっと、おもらしなら中でしな」


 不自然な脚の動きから何かを察したような忠告に、ロットの体はびくんと反応する。


 しかし竜の肉厚な舌は、実際にその上を通った言葉とは裏腹の期待を匂わせながら、彼の頬を撫で、小さな——当人にとってはこの上なく大きな——ダムを決壊させようとする。


「ひっ……んんっ……!」


 分厚い筋肉の塊が、しなやかに、そして執念深くロットの顔を弄ぶ。

 短い首が左を向けば右の頬を、右を向けば左の頬を舐め、反対側で待ち構えると見せかけたかと思えば、とっぷりと濡れた舌先を服の内側に滑り込ませる。

 その舌遣いは、人間の言葉よりよっぽど彼女の老練さを表していた。


「エゲン」


 リオが声を発した途端、舌の動きはぴたりと止まる。

 いやらしい水音が消え、少年の荒い息継ぎだけが洞内に響く。


「なんの、少しからかっただけさ」

「君、大丈夫?」


 リオが聞くと、少年は潤んだ目をこすり「大丈夫です」と答えた。

 命の恩人にこれ以上心配をかけたくない、という意地が声に滲み出ている。


「あのね、私は別にエゲンを『飼ってる』わけじゃないんだ。私達は家族なんだよ」

「家族って……この竜がお母さんなんですか?」

「まさか。でも、私にとってはそれ以上かも」


 そう言った後、リオはロットに小声で何か耳打ちした。

 それを見たエゲンがすぐに反応する。


「リオ、私の聴力をなめてるのかい」

「……衰えてないのは胃酸だけなんでしょ?」

「フン、では老いぼれの空耳かねぇ。たった今あんたの口から、『竜の薬ってどのくらいあるの』なんて情けない言葉が聞こえた気がしたんだが」

「ふぅん、末期だね」


 勢いよく振り上げられた前脚が、リオの隣の岩肌を砕く。

 一個の塊から理不尽な解散を余儀なくされた石達が、そこらじゅうに転がっていく。


「……ところでさ、エゲン。私、もう一度街へ降りなきゃいけない理由があるんだけど」

「許さないよ。しばらくの間、遠出は禁止だ」

「聞いてよ。私、何か足りないと思わない?」


 水甕から腕を抜いて立ち上がったリオを見て、エゲンはフンと鼻を鳴らす。


「そうさね、随分と肉が落ちたんじゃないか?」

「当たり前でしょ。それ以外で!」


 ぎょろりとした黄色い瞳が小さな体を眺め回し、やがてそれは彼女の胸元に留まる。


「何かと思えば……さっき言ってた連中に奪われでもしたのかい」


 長い間共に暮らしているエゲンにとって、その間違い探しはあまりにも簡単だった。

 緩みに緩んだ黒いチューブブラの上、浮き出た鎖骨の間に、本来ぶら下がっているはずの物がない。


「そう、取られたの。だから取り返しに行かなくちゃ」


 黙々と身支度を始めるリオを前に、エゲンがなかなか次の言葉を発しないことを、後ろで見ていたロットは不思議に思ったかもしれない。


「奪われたのは七日前だろう? とっくに売り飛ばされてると思うがね」

「じゃあ、それを確かめに行ってくる」


 一蹴され、竜はグルルルと低く唸った。

 やがて準備を終えたリオはロットの手を取り、洞窟の出口に立ってこう言った。


「少し寄り道するかも。『お土産』に期待しててね、エゲン」


 ストレスを湛えた竜の堪忍袋の尾を切るには、それで十分だったらしい。

 言語の形を失った咆哮に背中を押されるように、二人は外へ飛び出した。


「だ、大丈夫なんですか、あんなに怒らせちゃって……」

「平気。いつもこんな感じだよ」




 しかし、まもなく森に入るという地点でリオは急に足を止める。


「ど、どうしたんですか?」


 ロットが心配そうに問いかけた彼女の顔には、より大きな不安の色が浮かんでいた。


「エゲン」


 繋いでいた手をほどき、大急ぎで洞窟にとんぼ返りする。

 中は、さっきまでとは全く別の臭いに包まれていた。

 竜の聴覚には及ばずとも、山暮らしの中で培われた耳が捉えた現実は、数秒後の今、今度は視覚を通じてリオの目の前にぐったりと横たわっている。


 その傍には、どろりとした赤い液体が小さな池を作っていた。


「嫌!」


 リオはエゲンのそばに駆け寄り、黄金色の瞳を隠している広い目蓋に向けて叫んだ。

 斜塔の如くそり立っていた首は、嵐に倒れた巨木のように地に伏し、流暢に毒づいていた口は力なく半開きになっている。


「そんな……そんな……」


 次の瞬間、何かがぎらりと光った。

 リオの体は地面に押し倒され、岩を抉り取るほどの鋭い爪によって動きを封じられる。


「……三日だよ」

「え?」


 口を開いてから、エゲンはしばらく咳き込んだ。


「三日以内に帰っておいで。これは約束だ」


 リオは頰に飛び散った生温かい血と、ついでに目元を手で拭い、呟く。


「……カホゴ」

「その通りさ。他に何ができるっていうんだい」


 自嘲にしては幾分勝ち誇ったような声で言った後、エゲンは彼女を解放した。



 ——



 少年の右手を引いて街に向かったリオが目撃したのは、まさに異常と日常が交錯した世界だった。

 リオ自身もその前を通ってきた施設の前には、悲運にも竜の胃袋までたどり着けなかった数名の遺体が転がり、担当の職員と思われる男達がそれを一人ずつ施設内に運び込んでいく。

 その周囲に立ち並ぶ「バスハウス」なる店の一つから出てきた女性に、リオは見覚えがあった。

 あの時、見失った我が子の姿を求めて叫んでいたその顔は、程よく上気しており、その手は再会した子供の手をしっかりと握りしめている。


「あの店、何なんだろう」


 何とないリオの呟きに、ロットはすぐに反応する。


「バスハウス……体を洗う店みたいですよ。みんな肌がつやつやしてる」

「ふーん、川で洗わないんだ。ロット君はああいう店、使わないの?」

「僕は……家にシャワーがあるので……」


 結果「シャワー」とやらが一体どういうものか、リオの容赦ない質問攻めと、それに応えようとするロットの不器用な解説は、街のほぼ反対側に位置するハルマン地区に着くまでの時間つぶしとして最適なものだった。

 手前と奥で手入れ具合が露骨に異なる石橋を渡ってからというもの、家一軒辺りに占める土地の広さは格段に大きくなり、その先も道を進むにつれて世界が拡大していく状況に、リオは自分自身が少しずつ縮んでいくような感覚に襲われた。


「あれが僕の家です」


 まもなく眩暈がし始めるという寸前で、ロットは左側にある煉瓦造りの家を指す。

 白い門柱と家が同じ大きさに見えるほどの広い庭には、芋を薄く切ったような石畳が配され、周りには人工的な白い芝生が敷き詰められている。


 まぶしい。それが高飛車な門番の代わりとでも言うようなまぶしさだ。


「これ、入っていいんだよね?」


 リオが聞くと、ロットはすっとその背後に隠れた。

 自分の家だというのに、その様子はエゲンを前にした時と全く同じだ。


「どうしたの?」

「あの……先に行ってくれませんか……」


 ——そういえば、家庭教師と喧嘩していたんだっけ。


 リオはロットを引き連れて石畳を渡り、木製の巨大なドアを手の甲で叩く。


 しばらく待ったが、何も反応がない。

 もう一度、強めに叩く。


 「リオさん……あれ……」


 初めて彼女の名前を呼んだロットの指先は、リオが叩いた場所より少し上に取り付けてある金属の輪を指し示している。

 どうしようもない沈黙が流れた後、事態を把握したリオが「あっ」という声を出すのと、重々しい扉の向こうから女性の顔が覗くのと、同時だった。


「……当家に御用ですか?」


 目を合わせた瞬間の顰め面から一転、女性は貼り付けたような笑顔を浮かべる。


 むっとしたリオはロットと素早く位置を替わった。


「私、リオって言います。お宅のロット君を連れてきました」


 使用人と思しき女性のあんぐりとした表情に、リオの溜飲も少しばかり下がる。

 「少々お待ちください」と震える口で伝えた後、その女性は別の誰かの名前を叫びながら奥に消えていった。


 リオはロットの耳に口を近づける。


「ねえ、今の、もう一回やっていい?」

「え?」


 二人は再び位置を交代し、リオが前、ロットが後ろにつく。

 何と言っても、先ほどの女性の驚きっぷりが忘れられない。

 思い出しただけでも口が歪みそうになる。

 何となく気分が高揚するのを感じながら、リオは二人目の犠牲者がやって来るのを待った。



 豪快に開かれた扉が、反対側の壁にぶつかって凄まじい音を立てる。

 そこに現れた巨漢の顔を見た瞬間、リオは一気に血の気が引いていくのを感じた。

 図らずとも前回会った時と似通った状況が、それが決して他人の空似ではないことをリオに確信させる。

 囚われの身のリオの元に踏み込んできた、あの強面の男だ。


 すっ、とロットを前面に押し出す——今度は盾として。


「ロット様」


 物騒な三白眼が少年を見下ろす。

 身長差は倍、年齢差はそれ以上ともなれば、普通、しゃがみ込んで目線を合わせるということをしても良さそうだが、男は仁王立ちを崩すことなく、ロットの口から言葉が返ってくるのを待っていた。


「……ごめんなさい」

「私の靴は喋りませんよ。もう一度」


 ロットは鼻水を啜り上げながら上を向く。

 

「……ごめんなさい、先生」

「宜しい。だがこの場で『はい、許します』と言うつもりはありません。私は勿論、父君から窓拭きのメイドに至るまで、この家にいる全員がぎりぎりまで貴方を探し回ったのです。正午を迎えてやむなくバロンドの腹に入った時、私がどんな心境だったか分かりますか?」


 背後に立っているリオから見れば、ロットが一度上げた顔の角度を維持することに絶大な努力を払っているのがよく分かる。

 まるで彼の頭の上だけ重力が強くなっているかのようだ。


「えっと、ロット君は格闘技でも習ってるの?」


 リオが会話に入ると、先生と呼ばれた男は視線を彼女に向ける。


「あなたが助けてくれたのですか?」

「うん」

「見覚えのあるお顔ですね。もしや午前中、ママラヤ橋近くの倉庫の中にいた方では?」

「うん」

「左様でしたか。是非御礼を」

「そのつもりだったんだけど……最初に助けてもらったのは私なんだよね」

「ロット様を保護して頂いた恩には代えられません。どうぞ中へ」


 男は身を引き、ロットとリオを邸内に招き入れる。

 作法も言葉遣いも、あのとき盗賊の男を扉ごと吹き飛ばした人物とは思えないくらい上品だ。


「失礼ですが、お名前は」

「リオ」

「リオ様ですか。私はロット様の家庭教師を務めております、ドヌーグと申します」

「ドヌーグさん、全然雰囲気違うね」

「いやはや、お恥ずかしい。ロット様を見つけられず、気が立っていた時に運悪く盗賊に目を付けられまして……」

「でも、ドヌーグさんが襲われていなかったら私は外に出られなかったし、多分ロット君も助からなかったと思うよ」

「成程。彼は髪のないキューピッドでしたか」


 リオが白い歯を覗かせて笑う横で、ロットは未だ唇を真一文字に結んでいる。


「ロット様」


 ドヌーグの野太い声に小さな体がびくんと跳ね上がる。


「お父上と話した後、ご自分の足で使用人一人一人に声を掛けて回って頂きます」

「ひ、ひとりで?」

「当然、私がご一緒します。ただし一切助言は致しませんので、何を伝えるかはご自身で考えておいてください」


 黄金色の髪を悩ましげに掻きむしるロットの前を歩く形で、リオは奥へと案内された。



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