第1話 暗闇
「エゲン」
少女は、竜の名を呼んだ。
透き通った声が洞窟の壁に反響する。
「なんだい、リオ」
やや嗄れた声で竜が応えると、少女はその腹に背中から勢いよくもたれかかった。
明らかに怒っている。
「正直に言って。私に隠し事してるでしょ」
「何だい、藪から棒に。今はそういう話ができる状況じゃないと思うがね」
「関係ない。ちゃんと話してくれるまで、ここはテコでも動かないから」
膝を折り、うずくまって強く身を固める。
胸元にぶら下がっている赤い蝋のようなネックレスが、その体に合わせてプルプルと振動している。
「おかしなことを言うんじゃないよ。そこにしゃがみ込んだまま、もうじき命を落とすのは何処の誰かねぇ」
竜は長い首を地面から持ち上げ、得意げな顔を少女に近づけた。
しかしその迫力に気圧されることもなく、彼女は竜を睨みつける。
エメラルド色の瞳には涙が浮かんでいた。
「やれやれ、土なら上手く被せたつもりだったんだけどね。どうして分かったんだい?」
「……血の匂い」
「何てこった、もう私よりあんたの方が鼻が利くってのかい。寄る年波には勝てないねぇ」
竜の深い溜め息に押し流されて、いくつかの小石が入口の方まで転がっていく。
外では、ほぼ垂直に射す太陽が地面を焦がし、向かいの木の上にある小屋は陽炎でひどく歪んでいた。
「ねえ、何で言ってくれなかったの。エゲン、体悪いんでしょ?」
「話の続きは一時間後だよ。あんたが火だるまになる姿なんぞ見せられた日にゃ、クロチクの実を齧るよりずっと身に堪えそうだ」
「……ばか」
「何とでもお言い」
竜は大きく口を開いた。
少女の頭とほぼ同じ大きさの牙が上下にずらりと並び、皺の刻まれた舌がその間で不気味に蠢いている。
今度は少女が溜め息をつく番だった。
窮屈に折り畳んでいた脚を開き、立ち上がって足の裏を丁寧に払う。
「約束よ。後ではぐらかしたりしたら許さないから」
「いいから、早くおいで」
呼吸に合わせて緩やかに開閉していた声帯が舌に隠れ、ごきゅっ、と溜まった唾液がまとめて喉に送られる。
決して納得した様子ではないものの、少女は下顎に足を掛け、そのまま飛び乗るように竜の口内へ転がり込んだ。
竜は口を閉じると、首を高く持ち上げ、しばらくの間沈黙する。
ほんの悪戯心で、舌の上に横たわっている彼女を口蓋に押し付けてみたり、顎を傾けて危険な奥歯の間に転がしてみたりした後、抗議の声を浴びせられる前に素早く呑み込む。
しかしその体は内側から突っ張ってくることもなく、むしろ普段以上にすんなりと竜の食道を下っていった。
「よもや、気を遣ってくれてんのかい?」
少女から返事はない。
子供一人を丸呑みした程度で膨れるような腹でもないが、来客を感知した胃の筋肉が収縮する音は確かに聴こえる。
ちょうど、先程まで彼女が背中を預けていた場所の裏側からだ。
冷たい土の上にゆったりと身を横たえ、竜は長い首と尻尾を内側に丸め込む。
「まあ、今はお眠りよ」
細めた目を洞窟の入口の方に向ける。
陽の下に躍り出た小石の表面がちりちりと焦げ付いていくのを、竜は自分の瞼が重くなるその時まで、じっと眺めていた。
——
この世界は、黒い。
比喩などではなく、本当に黒いのだ。
灰のような土から育つ草木は皆一様に黒ずんでおり、そこに成る果実もまた似たような色合いだった。
無論、そんな実をついばむ鳥の羽色が鮮やかな青や緑であるはずもなく、牛や豚までもが、夜には輪郭ごと世界から消えてしまいそうな色を纏って産まれてくる。
何故かは分からない。
はっきりしているのは、それらは四十年ほど前に自然界で起こった急激な進化の産物であるということ。
そして唯一、その潮流から無残にも取り残された種族こそ「人間」であるということだ。
四十年前まで、竜は人間に虐げられる存在だった。
狩人と呼ばれる者達が跋扈していた森の中では、日々最新鋭の武装による彼らの駆除や捕獲が行われ、その肉や腱、骨や翼、皮や爪などは売買の対象として世の中に一大市場を築いていた。
しかしある異変を境に、人々は彼らを違った目で見るようになる。
いや、そうせざるを得なくなったのだ。
きっかけは南方の村に端を発する。
他の地域よりも平均気温が高いことで知られるその村が、ある日、自然発火によって村民ごと焼失するという事件が起こった。
とはいえ真夏の、とりわけ人口が多い訳でもない小村での出来事に関心を示す者は少なく、その報せを受けた誰もが、この世の隅に暮らす人間達を襲った小さな不運、という程度にしか捉えなかった。
しかしまもなく、その「不運」は北上を始める。
同様の発火現象が各地で散見されるようになり、その言葉が明確な「災害」へと姿を変える頃、自然界では既に最初の変化が起こっていた。
大型の陸上動物から水中生物、花や昆虫に至るまで、あらゆる生命が極端にその数を減らし始めたのだ。
自然淘汰という言葉では説明がつかず、ついに神が地上の整理を始めたと言われればそれを信じたくなるような一大事に、社会は混乱を極めた。
最初の村が燃えてから四ヶ月後、謎の発火現象はいったん鳴りを潜める。
人々の間には、大型のバケツをグラスに持ち替える余裕も生まれた。
——はずだった。少なくとも、次の日曜日を迎えるまでは。
月が変わって最初の日曜日、午前十一時を回った頃から、人々はその日の違和感に気付いていた。
いくら何でも暑すぎる——いや、「熱すぎる」。
東西南北を問わず、ほぼすべての地域の人間がそう感じていた。
太陽の下にいた誰もが屋内へと避難し、ゆらゆらと加熱されていく世界を窓越しに見守る中、木や町や土は徐々にその本来の色を失っていく。
決して、燃えてなくなってしまったのではない。
火が出ていないにも関わらず木肌は焦げ付き、煙一つ上げないまま煉瓦は黒色に塗り替えられていく。
間違いなく史上最も強い日差しが降り注いでいるにも関わらず、まるで世界は闇に覆われたかのようだった。
午後一時、屋外に出た人々が目の当たりにしたのは、空を除いて完全なるモノクロに変わり果てた世界。
しかし、地上に残る数少ない動物達は生きていた。命の代償としてかつての体色を差し出したかのような暗い皮膚に覆われた彼らを前に、人類は既に自分達が「乗り遅れた」存在であることを痛感する。
——なぜ。
——どうして。
鳥はすべて烏のようで。
家畜は人間の手を経るまでもなく丸焼きにされたようで。
世界が変色したのではなく、実は全人類が同時に色覚を失っただけではないのか。
そんな風に考える者もいた。
しかし、慌てふためく人々の頭上を、悠然と飛び越えていく生物がいた。
その翼は太陽の光を反射し、風と平行に流れる尾は昨日までと変わらない艶を放っている。
憧れ、嫉妬、疑問。あらゆる意味を含んだ視線が彼らの鱗を虹色に仕立てあげるがごとく、竜は、その日から人類にとって特別な存在となった。
——
黒光りする麦の根元に鎌を当て、ざくり、と小気味よい音を立てて刈り取る。
その作業を何度か繰り返した後、リオは自分の胴ほどもある稲束を抱えて洞窟を出た。
途中、山道と並走するセレナ川に寄り、全身にこびり付いた唾液を洗い流す。
岸辺に生えているタプの実は、その鋭い見た目から抱く印象を裏切らない立派な猛毒を持っているが、葉の方は軽くもんでから水に浸し、肌に擦り付けることで、安物の石鹸より効果的に汚れを落とすことができる。
身を清めた後、人目を遮るように配置された大岩が作り出す天然のプライベート浴場の中で、リオは浅くため息をついた。
「……ばか」
一糸纏わぬ姿のまま息を止め、暗い川底へと身を沈ませる。
ぬるぬるとした岩の上に腰を落とした後、もう一度大声で繰り返したその言葉は泡となって消えていった。
川から出ると、褐色の肌に映える黒いチューブブラとアンダースコートをそれぞれ胸と腰に巻き付け、赤いネックレスを首から下げる。
麦を抱え直して向かったのは、山の麓にあるベルモンドの町だ。
職人技によって切り出された黒い立方体の岩を積み重ねた建物が無骨にならんだ町並みは、行き交う人々の多様な肌の色によってようやく彩りを添えられ、神話に登場する女神の名を冠した川によって東西に隔たれている。
目抜き通りをしばらく進んだ先の角を右に曲がり、とんがり屋根の先端が器用に欠けた店の扉を押し開ける。
入口には一応「質屋」と書かれた看板が置いてあるが、既に常連のリオですらそのことに気付いたのは前回ここに来た時で、狭い店内には、美男美女がいたく創造的な体勢で絡みあっている彫刻、前世紀に摘み取られたような茶葉が入った瓶、袋に穴の空いた肥料などがこぞって壁際に押しやられている。
木製のカウンターに麦を置き、ややすり減っている部分に手の平を合わせて三度叩く。
リオが入店時に店主の名前を呼ばなくなったのは、三度で売却、四度で購入を意味するこのルールを知らない一見客が、店主に不公平な取引価格を押し付けられる様子を数ヶ月前に目の当たりにしてからだ。
「嬢ちゃんか、いらっしゃい」
厚手のオーバーオールから贅肉がはみ出た男性が、店の奥から転がるように出てくる。
ぶ厚い口を土星の輪のように囲む茶色い髭をぼりぼりと掻きながら、彼はほぼ空になっている酒瓶をカウンターに置いた。
「営業中だよね?」
酒の臭いを手で払いながら、リオは皮肉を込めて聞く。
まさか、陸の上でも息を止める羽目になるとは思わなかった。
「うんにゃ。月曜から休んでるようじゃ商人とは言えねえよ」
「そんな状態じゃ、商売にならないでしょ」
「あいにく、俺の肝臓は知能指数が低くてね、アルコール四割以下の酒は水としか認識できねえんだ。それにこの程度で仕事に支障きたすタマじゃ、治安が悪いこの町で質屋なんかできるもんかい」
「ふぅん。じゃあさっき入口で大きなセレナ像を抱えた男とすれ違ったけど、あれもお客さん?」
「なに!」
瓶の口に手と顎を乗せていた男はバランスを崩し、そのまま派手にカウンターの外に転がり出る。
凄まじい音が店内に響いた後、頭より標高が高い腹を天井に向けて倒れる店主の隣にしゃがみ込み、リオはクスクスと笑った。
「冗談だよ。鈍い肝も少しは冷えた?」
「嬢ちゃん……大人をからかうもんじゃない。どうしてうちで一番の高額商品を知ってるんだ?」
「そうなの? これが?」
そう言ってリオが指さした先に鎮座しているセレナ像は、素人目には大きさ以外の価値など測りようもない代物だ。
「全然知らなかった。私、商売の才能があるのかも」
「わかった、わかった、俺が歳食った暁にはお嬢ちゃんを後継ぎに雇ってやるから、今日のところは客でいてくれ。目的は麦の買取だろう?」
「うん」
店主はリオの助けを得ながら定位置に戻り、カウンターの下から皿の広い天秤を取り出した。
「あんたとこの黒麦は人気でね。量は少ないが質が良い、って評判だよ」
「麦が黒いのは当たり前なのに……おじさん、いつも『黒麦』って言うよね」
「なぁに、嬢ちゃんが産まれる前は違ったのよ。何色だったか、なんて今さら聞かれても説明はできんがね。それに一文字くらい増えたって誰も困りゃあしない。空を『青空』と呼ぶのは普通だろう?」
そう言いながら、店主は左側の皿の上に麦を載せた。
目盛りの動きに合わせてその眉も大きくつり上がる。
「……どっこい、今日はいつもより量が多いな。特別な入り用かい?」
「ぷ、ぷらし、ぷらいべーと」
リオが言葉に詰まると、店主は声を大にして笑った。
「最近流行りの『プライバシー』って言いたいんだろうがよ。心配しなくても、年頃の嬢ちゃんの秘密を暴くなんて野暮はしねえ。八重歯で噛みつかれたら痛そうだしな」
「……」
「……嬢ちゃん?」
しばらく黙り込んだ後、リオは盛大に鼻をすすり上げる。
「何でもない。それで、いくら?」
「まあ、ワニ皮4枚ってところだ」
「わかった、それでいいよ」
麦と引き換えに手渡された、艶やかなワニの皮を4枚、それぞれチューブブラとスコートの中に半分ずつ分けて入れる。
店主は訝しげだ。
「本格的に訳ありって感じだな。やっぱり聞いた方が良かったか?」
「何も……言えない」
「なら、とっとと失せな。そんで『本当の』用事を済ませに行くんだな」
語気を強めた店主に対し、リオは言われなくてもと言わんばかりに踵を返した。
「嬢ちゃん」
背後から呼び止められ、振り返ったリオの手に5枚目の皮が投げ渡される。
「嬢ちゃんが、言葉の意味を知らないまま大人になるとまずいからな。『質屋』っての本来、物を担保にして金を貸す店のことだ。経営上の理由で古物商や米屋みたいなこともやってるが、うちは元々そういう店なのさ」
「……これ、貸してくれるの?」
「いんや。だから勘違いしないように説明したんだ」
——強気な少女の体の中で、何かが揺れている。
両肘をゆったりとカウンターに置き、店主はその先がどちらに転ぶかを楽しみに待っていた。
「あの……ありがとう!」
頭を深々と下げ、彼女は店の外へ駆け出していく。
こりゃ相当だな。店主は心中でそう呟いた。
——
その後、リオは近くの薬屋を訪れ、二十分後、胸と腰まわりが幾分細くなった姿で店から出てきた。
右手には麻の袋に詰められた薬が、左手にはお釣りとして受け取ったエイの皮が3枚握られている。
「ワニ4枚にエイ7枚なんて。ぎりぎり」
見込みが甘かった。
とはいえ、竜専用の薬など過去に買ったことがないのだから無理もない。
有り難くも質屋の店主が恵んでくれた一枚がなければ、わざわざ森の奥まで追加の麦を取りに戻るか、それこそ正式に店主からお金を借りる羽目になっていたところだ。
——今度あの店に行ったときは、もう少し礼儀正しくしよう。
そう心に決め、薬屋の庇から足を出した。
午後の強い日差し。
それに続いて土器のように滑らかなリオの肌に触れたのは、まるでその土器の誕生よりも早く製作された挙げ句、窯で焦がし尽くされた失敗作のように黒い腕だった。
リオは鼻と口を塞がれ、そのまま細い路地へと引きずり込まれる。
男は若シカのような脚に自分の脚を絡め、その抵抗を封じ込めようとしている。
ただ、下半身の格闘が異常に長引くにつれ、指先の感覚をおろそかにしたのが最初の不覚だった。
手に力を込めるあまり、男は自分の薬指がリオの口の中に食い込んでいることに気づかなかった。
次の瞬間、何とも痛ましい悲鳴が路地に響く。
唇からわずかに突き出たリオの犬歯は、その直下に迷い込んだ男の指を正確に捉えていた。
それを機に脚が自由になった一瞬を見逃すことなく、リオはかかとで男の股間を勢いよく蹴り上げる。
アッ、とこの世にあらん限りの悲壮感を詰め込んだような声。最寄りの異性に救いを求めるように強く締まる腕。
あまりにも狂いなく打ち込まれた一撃は、時を止め、むしろこの状況とは無関係な罪悪感をリオの中に生んだ。
それでも、知らない男に抱きつかれている状態ほど不快なものはない。
リオは自分にも聞こえないような声で「ゴメン」と呟いた後、少し加減したとどめの一発を男に見舞った。
止まっていた時が動き出し、突き飛ばされた男は背を丸めて地面にうずくまる。
「……さいってー」
そう頭上から吐き捨てる。
しかしそこから一歩と動く間もなく、リオはうなじに強い衝撃を感じた。
「全くだよ、お嬢ちゃん」
振り返りざまに体がバランスを失う。
二重、三重にゆがむ視界の中、髪の毛がない男の顔がそこに映り込んだのを最後に、リオの意識は闇へと連れ去られた。
——
ひどい頭痛にリオは目を覚ました。見知らぬ天井がそこにある。
砂利だらけの地面に肘をつきながら上半身を起こすと、薄暗い部屋の反対側に人影が見える。
「おう、起きたか」
記憶の片隅にあるスキンヘッドの男が、読んでいた雑誌を置いてずかずかと近づいてくる。
リオは威嚇するように膝を立てた。
「おっとっと、よせ。こう見えて俺はまだ三十代だ。子も居ないうちから種無しにされたくない」
「……どういう意味?」
「女になっちゃうってことさ。とにかく男の急所は大事に扱ってくれ。あいつ、お嬢ちゃんのせいで変な趣味に目覚めちまったかもしれないぞ?」
「知らない、そんなの」
どうやら襲いかかってきた男の仲間らしい。
意識が遠のく瞬間まで握りしめていたはずのエイの皮と竜の薬は、彼が座っていた場所に無造作に転がっている。
しかし、なくなっている物はそれだけではなかった。
「……どこにやったの」
「何を?」
「とぼけないで! ネックレスよ!」
「おお、もう気付くとはね」
男は擦り切れたズボンのポケットに手を入れると、細い紐で繋がれたネックレスをするすると引っ張り出した。
脂っこい顔の前で揺らぐ赤い蝋のような塊を見て、リオは一瞬「かっ」と叫んだが、すぐに言葉を飲み込み、落ち着いて「どうしたらいいの」と聞いた。
「別に、何か要求してる訳じゃない。俺たちは盗賊でね。金目のものだけ回収したらそれ以上の仕事はない。これ、竜の血だろう?」
天井近くにある明かり取りの窓から射し込む夕陽を受け、ネックレスの先端は鈍く輝いている。
「高価な物だ。薬になるし、針が通りにくいから採取も難しい。こんな宝飾品をぶら下げるほど裕福そうには見えないが……」
「関係ないでしょ」
「いや、まったくだ。盗賊に身なりを測られるほど屈辱的なこともないわな」
男はケラケラと笑い、そのまま地面にしゃがみ込んだ。
「お嬢ちゃん、ここは貨物置き場だ。貨物置き場ってのは、竜や馬で別の所に運ぶものを一時的に置いておく場所のことだ。旅は好きかい?」
リオは答えず、上目遣いに男を睨みつける。
「そんな目をするな。どこに連れていかれようと命まで取られる訳じゃない。同年代の女の子より一足早く『大人』になれると思えば、嬉しいだろ?」
不気味な笑みを浮かべながら顔を近づけてくる男に対し、リオは表情を歪める。
口が緩み、呼吸が荒くなり、そして——
はくしょん!
大量の飛沫を食らった男は後ろに仰け反って転び、防御力がゼロに等しい後頭部を木箱の角に打ちつけた。指を噛まれた彼のそれに勝るとも劣らない悲痛な叫びが、壁の厚い掘っ建て小屋の中に響き渡る。
「おじさん、大人は泣かないよ?」
「このっ……クソガキが!」
眦を決した男が右手で頭を押さえたまま飛びかかってきても、今回のリオには余裕があった。
足を前に上げるだけで良かったからだ。
ダーツならブルとでも言うべきその地点に、前科持ちの彼女のかかとは見事に食い込んだ。
「大丈夫? おばさん」
「ふざっ……ァァ……」
文字通り女性になったような高い喘ぎを漏らしながら、男はふらつく足で後退する。
被害に遭った局部を慈愛を込めていたわる左手とは対照的に、右手の人差し指は槍のようにリオを向いている。
「いいか、俺は運び屋じゃない。お前をここに連れ込み、鍵をかけた時点で俺の仕事は終わりなんだ。お前の『カラダ』の代金だって先方からとっくに貰ってる。せいぜいお迎えが来るまで生き延びるこったな!」
中腰のまま男は奥の扉に手をかけた。
刹那、その口元が不敵にゆがむ。
「そうだ、嬢ちゃんにひとつ教えてやるよ。俺にはまったくもって関係ない話だが……この先のママラヤ橋が昨日の大雨で崩れて通行止めになってるらしい。十中八九、運び屋の連中はそこを通ってやって来るが、復旧にはまだまだ時間がかかるそうだ。万が一、それが次の日曜の昼までかかるようなら……分かるよな?」
リオの表情に初めて恐怖の色がにじむ。
ネックレスをポケットに突っ込み、男は今度こそ倉庫を出ていった。
どん臭い鉄の扉が閉じてまもなく、外側から鍵が掛けられる。
手足を縛られている訳ではないのだから、最後はもっと抵抗すればよかったかな、とリオは少し後悔した。
服に付いている土を払いながら立ち上がり、改めて倉庫の中を見渡す。
壁伝いに二十歩ほどで一周できる広さで、南側の天井近くには細長い窓がひとつ。
隅には大きな正方形の木箱がひとつ置いてあるが、案の定、その角には男の血が付いている。
凸凹とした地面には男が読んでいた雑誌と、動乱の中で持っていかれることを免れたエイの皮が三枚、そして竜の薬が入った麻袋が横たわっている。
「うーん」
何とか外に出なければならない。
とりあえず木箱を窓の下に動かして上に乗ってみたものの、手は窓まで届かなかった。
とはいえ、窓と壁の隙間はしっかりと塗り固められており、手が届いたところで特段の希望が生まれるとは思えなかった。
リオは背中を丸めてしゃがみ込み、拾った砂粒を窓に投げつけながらしばらく考え込んだ。
脱出の策と並行して気がかりなことは、本当にこのまま次の日曜の昼を迎えてしまったら、ということだ。
一週間に一度、怒りをむき出しにしたように輝く太陽の光に晒された人間は、屋内や屋外を問わず、その場で全身丸焦げになって死んでしまう——人体を狙い撃つように降り注ぐ「光の矢」と呼ばれる現象だ。
平たく言えば人類は毎週、成長の早いパラカの実が膨らんで地面に落ちるのと同じペースで絶滅の危機に瀕していることになる。
それでも生きていく望みはある——竜だ。
竜の皮膚は「光の矢」を反射する。
どす黒い皮に身を包み、有害な熱と光を吸収する形に進化を遂げた他の動植物とは違い、いまだ色鮮やかな体色を残す彼らの皮膚には、思いもかけず人類最後の砦としての役割があった。
週を重ねるごとに殺人的な太陽が力を増す中、ついに屋内に逃げ込むことが無意味だと悟った人類が向かった先は、彼らの胃の中だった。
——
「燃える日曜日」
かつて、誰かがそう呼んだ。
今ではこう呼ばれている。
「暗い日曜日」