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2.白き花の赤い密(劇毒)

ある花の青さ


 我が半身は女神であり、その半身は泥である。肉体はその二つに別れ、片方は秘密の園へ、もう片方は戦場へと向かった。そうだ、泥である私は、戦士にならなければならない。楽園で戯れる、我が半身から逃げる為に。


2:白き花の赤い蜜(劇毒)


 超高級住宅地に囲まれた高台の上にある学校は全寮制の女子高である。偏差値は80を超え、生徒の定員も驚くほど少ない。私立であるにも関わらず、寄付金次第で無条件に入れるような特別推薦枠も無く、まさに清廉潔白なお嬢様校であった。学費も驚くほど高いのだが、私は試験の結果、学園生活で必要な全ての費用が免除になる特待生の枠を勝ち取ることができた。が、その名誉と特権を投げ捨て、私はしがない公立の高校への進学を決めたのだ。


「お姉ちゃん、ただいまぁ」

 玄関を開け、我が妹が最初に言い放った言葉がそれだ。ドタドタと廊下を走る音が響いたかと思えば、母が居るであろう居間は素通りし、私の部屋の扉を思いっきり開いて、「ただいまっていってるでしょ!」と癇癪を起す。長いクリーム色の髪は地毛で、肌や目も色素が薄い。体は華奢で、背格好だけは私に似て小さかった。だが、その見てくれは別だ。顔は母親似で美しく、ひいき目無しに見ても妹よりも綺麗な女など、見たことが無かった。妹を嫌悪する私が言うのだから、間違いなくひいき目など無いと誓おう。

 そう、私は、私の劣等感を刺激し続けるこの半身が嫌いなのだ。

「静かにしなさい、千歳。姉は勉強中だぞ」

 扉の前で仁王立ちする妹を一瞥し、そう言い放つと、妹はきょとんとした顔で私の方を見つめていた。

「どうしたのお姉ちゃん・・・その喋り方」

 足を内股に、両手をグーのまま口に当て、

「でらカッコいい!」

 と、一言。机に向かっていた私に勢いよく抱き着くと、「ねぇねぇ、どうしたの、ねぇ!なんで今日はそんな男前なの、ねぇ!」と頬を擦り付け捲し立てる。


 千歳は私の双子の妹である。容姿が全く違う点から、二卵性だと容易に推測出来るであろう。


 一之瀬千歳は過度の姉狂いである。その片鱗は幼いころより見て取れた。物心もまだ付く以前、記憶も定かでは無いが、母の証言によれば、我々がまだ乳離れも済んでいない幼き頃、薄い栗毛の赤子は、常に私の耳たぶをしゃぶっていたらしい。止めさせようと母が引き離すと、妹は決まって泣きじゃくり、私の耳たぶは常に妹のおしゃぶり代わりと化し、いつかふやけて取れてしまうんじゃないかと思ったと可笑しそうに語っていた。他人事だと思って気楽なものだ。


 一之瀬千歳は重度の姉狂いである。物心がついたころから常に妹は私の傍らに居り、私のマネをしていた。水泳、ピアノ、英会話と、様々な習い事で私が良い成績を残せば、妹は負けじと努力し、私に迫る成績を残した。

 そして、それは私の容姿が揶揄われはじめた、小学校第三学年の頃に起きた。スイミングスクールのプールで自分が泳ぐ順番を待って並んでいると、プールサイドの隅の方で千歳が泣いているのが見えた。周りには数人の同世代の男女がいる。妹に駆け寄ると、それに気付いた妹は、私に抱き着てきた。

「おねぇちゃぁん・・・」

私の肩に涙と鼻水を擦り付けながら、千歳はそう言った。私は妹の頭に、そっと手をやると、「千歳になにしたの」と、彼らを問いただした。

「でたっブサイクなねえちゃん」

 それは、衝撃だった。快晴の空に走る稲妻と轟く雷鳴である。

 勘違いはしてほしくないのだが、まだ幼かった当時でさえ、自分の容姿が真面などとは毛ほども思っては居なかった。客観的に見て、彼の言う通り、私の容姿は一般的には醜いのである。これは、自負する事実であり、否定するつもりなど微塵も無い。しかし、それでも衝撃を受けたのは、その所為で、妹が虐められた、という不条理に因るものだ。可愛さを感じる感性は本能に刻み込まれたものである為に、子供にも容易に判断がつくものだが、美しさとなると、また別なのだ。美しさを理解しようとするなら素養が必要であり、子供とは往々にしてそれがまだ未発達なものである。だからこそ、我々の周りにいる子供は、妹の美しさには鈍感であった。それでも周りの大人の反応を感じ取り、妹が大人に一目置かれる存在であることを理解し、ある程度の敬意というものを妹へと抱くものだが、子供というのはあざといものである。実姉の容姿を利用し、高々と聳え出る杭であった妹に槌を打ち付けたのだ。

「おねえちゃんかっこいいもん・・・」

 妹のその一言が、ふり絞ってこぼれ落ちたその一滴が、沸々と煮え滾る私の心に落ちると波紋が広がり、その水面は鏡の様に静まり返って行く。

 救いは、幼い私にも可能なほど、問題を解決する方法が明瞭であった事だ。私が去れば、それだけでよいのである。しかし誤算もあった。私は水泳などに未練など無かったのだが、、妹も私のマネをして、水泳を辞めてしまった。ピアノも、英会話も、私が辞めると、妹も倣うように辞めてしまう。全ての習い事を止めてしまい、暇だった私は元から得意だった勉学に尽力するようになった。すると妹も例が如く、私を真似て勉学に勤しむ様になった。


 一ノ瀬千歳は極度の姉狂いである。中学校へ上がる頃には、勉学は私にとっての拠り所となり、その成績は同世代の中でも群を抜くほどになっていた。その頃になると、愚かだった子供たちも成長を遂げ、妹の美しさがこの世の奇跡であることを理解するに至っていた。もう妹を虐げる輩は存在しないどころか、男女問わず同世代の有財無財の餓鬼共からは崇め奉られる神の如き扱いを受けていたが、相変わらず私の後をベッタリとくっ付いていた妹には友人というものが一人もいなかった。

「千歳ちゃん、私とばっかり一緒じゃなくてさ、友達を作って遊んだほうがいいと思うの」

と、一度助言をしたことがあったのだが、「お姉ちゃんは作らないの?」と、痛いところを突かれてしまった。

「千歳ちゃんみたいに人気者じゃないから、私には友達はできないの」と、恥を忍んで説得を試みるも、「お姉ちゃんが一番だもん。お姉ちゃんと一緒にいる時間を削ってまでほかの人と仲良くなんてしたくないもん」などと、宣う始末である。

 私にとっても、妹にとっても、この状況は芳しくは無い筈だ。そう結論付け、私は、なんとか妹と距離を置く為に思案を巡らせてはいたのだが、同じ家に住む家族であり、同じ学校に通う姉妹であるなどの物理的な理由で難儀する羽目に陥っていた。

 そこで、私は母にある事を嘆願した。

 ある日の夕食の後、普段であれば私と妹はすぐに部屋へと戻り、勉学へといそしむのだが、私はダイニングテーブルに着席すると、母を呼んだ。

「お母さん、ちょっと話があるんだけど」

 食器を洗おうと袖を捲っていた母は、キョトンとした顔で私を見た。

「どうしたの、改まって・・・」

「私ね、私立の高校に行きたい」

「へーそうなの」と、言いながら、母は私の目の前の席へと腰を下ろした。

「で、どこなの?」と、母が尋ねると、「私もそこにする!」と、妹が割って入ってきた。

「はいはい、千歳もそこね」と、母は慣れた様子で軽くあしらっていた。

「で、どこなのよ。まあ、あなた達ならどこでも入れるでしょうけど」

 母に促されるまま、私は丘の上にある全寮制のお嬢様学校の名前を挙げた。ちなみに、母の母校でもある。

「え?選りにも選ってそこなの?!」

 母は頭を抱えた。父は最高学府の研究室に勤めていたが、所詮はしがない研究員、母は人気の結婚コンサルタント会社を経営していたが、儲けよりも理想に走っていたが為に、年収はその辺のサラリーマンと変わらない程度であった。両親の懐具合から、二人分の学費を出す余裕がない事など理解した上での提案であった。

「今はいくら掛かるか知らないけど、二人分どころか、一人分の学費だって怪しいわよ。ほかにして」

「その学校ね、入試の結果が優秀だったら学費も生活費も全部免除してくれる特待生制度があるんだって」

 私の提案を聞くと、母は呆れながら答えた。

「創立以来一度も受けられた子がいないっていうアレでしょ、さすがにお姉ちゃんでも無理よ。千歳ならなおさら・・・」

「受けてみて、もし特待生になれたら通ってもいい?」

「受けるだけなら・・・」

「なら私も受ける!」と、いつの間にか今にも泣き出しそうに目に涙を貯めた千歳が横やりを入れた。

 それから、母と妹の押し問答が深夜にまで続き、「他は受けないもん!」という妹の宣言で、母は折れるしかなかった。

「はぁ・・・二人分の学費かぁ」と、母は深くうなだれていた。

 私の計画は、あとは千歳さえ無事に合格してくれれば、すべてが完遂される。私は、自分の勉強の時間を惜しんで、妹の勉強を見てやることにした。いつもは個別に勉強をしていた為、妹はそれを大いに喜んでいたが、もし私の計画の所為で妹が高校浪人でもしたらと、私には苦心惨憺の日々であった。

 自業自得である。


 秋の終わり、冬の始まり、吐く息も白く染まる頃に、我々は受験の日を迎えた。仮病を使って見たり、わざと低い点数を取り、私だけが落ちるという手段もあったはずだが、私にとって勉学とは唯一であり、根源を成す存在意義である。手を抜くわけにはなかったのだ。

 そんな士気高揚、活溌溌地な私とは対照的に、千歳は鼻を赤くし、鼻水を啜っていた。

「千歳、大丈夫?」

 想定外の事態であった。睡眠時間、栄養摂取をはじめ、妹の健康管理には万全を期していたはずだが、やはり、何事にも絶対などは存在しない。妹の額に手を当てると、仄かに熱を帯びている様に感じた。

「大丈夫だよ、お姉ちゃん。ちょっと鼻水が出てるだけだもん」

 私がティッシュを鼻に当ててやると、チーンと可愛く鼻をかんだ。私はそれを捨て、妹の頭を撫でてやった。

「がんばろうね」と、優しく励ますと、妹は笑った。

 


 そして私は史上初の特待生、妹も無事に合格を果たし、私は母に計画を打ち明けた。

「あんたねぇ・・・頭は良いけどほんとにバカね」

 私は特待生を辞退し、先に滑り止めとして受けて合格をしていた公立の進学校への進学を決めた。

 納得がいかないのは千歳である。

「なんでよ!お姉ちゃんが行くっていうから私も受けたのに!私もお姉ちゃんと一緒の学校行く!」

 ボロボロと両方の眼から涙を流している。

「ごめんね、千歳ちゃん、でもね、私たちは少し距離を置いたほうがいいと思うの」

「良くないもん!」

 イヤイヤと顔を振ると、千歳の目から涙の雫が飛び散り、薄いクリーム色の髪がそれでも美しく靡いた。

「聞いて。千歳ちゃんにはね、私以外の誰かとも繋がりを持ってほしいの。お姉ちゃん、このままじゃ千歳のことが心配で仕方がないの」

 肩を掴み、そう訴えると、千歳は俯いて涙だけをポロポロと滴らせていた。

「お姉ちゃんを、安心させて。お願い」

 千歳が、私に勢いよく抱き着いてきた。

「ずるい・・・」

 そう言って、千歳は私の肩に涙と鼻水を擦り付けた。


 だが、すべては偽りである。母も、妹も、私を買いかぶりすぎている。私は重荷を捨てたかっただけなのだ。進んでこの容姿を選択したわけではないが、私の容姿の所為で、肉親を傷つけてしまう不条理。落ち度が無いのにもかかわらず感じなければいけない罪悪感。妹とかけ離れた自らの容姿に対する劣等感。輝く妹の元で闇に紛れ、誰からも認識されない疎外感。私は、大っ嫌いな妹を、楽園へと投げ捨て、戦場へと逃げたのだ。しかし罪悪感は無い。在るのはただ、憫然たる安らぎのみ。


 そして現在、妹は私を安心させるために、たくさんの友人を作り、学校の生徒会にも参加し、立派に社交性を養っている。その功績が認められ、2学年から、創立以来初となる、学費はおろか、私服類から学園外での食事、交友費に至るまで、すべての費用が全額免除となる特待生となっていた。もちろん、現在は生徒会長である。

「で、なんでそんな話し方なの?」

と、しつこく聞いて来る妹に、「話し方が変わっているなどという自覚は無いが心境には変化があった。それが影響しているのだろう」と仮説を述べると、間髪入れず、「心境の変化ってなに?なに?なに?」と、嬉々として詮索を入れる。私は、期末テストでとある男子生徒に僅差で負けた、と、ただ事実だけを述べた。妹は、「ふぅん」と、どこか詰まらなそうに、どこか機嫌の悪そうな表情を見せた。

「でもそれって、たった1点の差でしょ。負けてるとも限らないじゃない」

「それは違うぞ、妹よ。実力の問題ではない。結果の問題なのだ」

 妹の言いたい事は、こういう事だろう。実力が100であるAと、50であるBが30までしか測れないテストを受けた場合、どちらも満点を取る実力はあるが、ケアレスミスによってAが負ける場合もある。しかし、かのベッケンバウアーは言った。強い者が勝つのではないと。

「私は勉学においては常に勝ち続けてきた。それが重要なのだ」

「じゃあ、そいつなんて名前?」

「千歳には関係無い」というと、妹は頬を膨らませて如何にも不満げな表情を作った。

「勉学に励まねばならぬ事情があるのだ。邪魔はしないでくれ」

 そして私は、また机へと向かった。

「・・・私がさ」

 それでも妹は食い下がっった。

「私が、同じテストでお姉ちゃんよりも高い点数を取ったら、私の事も嫌いになるの?」

 私は、元から千歳の事が嫌いである。しかし、それを告げて妹を悲しませる必要は無い。

「なるわけがない。お前は大切な妹なのだから」

 私は妹を嫌っているが、同時に愛してもいる。私の知らないところで、千歳には幸せになってもらいたいのだ。

 諫めようと、妹の方を振り向いた時、彼女の顔に映る表情を、私は一生忘れないだろう。唇を噛みしめ、眉をゆがませて、怒りなのか、泣き出しそうなのか、判断の付かないその表情は、私を怯ませるに至った。

「お姉ちゃんのバカ!」

 そう言って飛び出した妹を追いかけるべきか迷ったが、私は立ち上がると、妹が開けっ放しで飛び出した部屋のドアを閉め、また机へと向かった。

 その日、再び妹が私の部屋を訪れる事はなかった。


 千歳が戻ったその日は、父の帰りが遅かった為、家族全員で久々の食事を摂ったのは、次の日の朝食だった。娘の帰省がよほど嬉しかったのだろう。父は満面の笑みでジャムをたっぷりと塗ったトーストを頬張っている。

「そういえば私、好きな人ができたんだ」

 娘の唐突な告知に、先ほどまでニッコニコだった父の表情は嘘のように凍り付いた。

 対象的に、「あら~あんたもお年頃なのね。一生お姉ちゃん離れ出来ない子だと思ってたわよ」と、母は嬉しそうにほほ笑んでいる。

 しかし、母の見立ては見当が違う。これはブラフである。私に対する、何らかの布石であることは間違いない。

「今日、会いに行くからお昼いらないの」

と、言って、千歳は最後にコーヒーを一口啜り、席を立った。

「ごちそうさま」

 その時、些事に手を焼く暇など無い私に手間を取らせる妹へ、生まれて初めて、憤りを感じた。しかし、今までの私であれば、妹の為なら、私事などを先んじたりは、しなかったはずだ。

 そして私は気付いた。妹よりも、自身を優先する姉に、千歳は切歯扼腕の情を抱いているのだろうか。その当てつけがこれだとしたら、私はどうするべきなのだろうか。

 「ほら、パパも早く食べちゃって」

 母が、パンに噛り付いたまま凍り付いている父を捲し立てるが、父の耳には届いていない様子だった。


 千歳の後を付けるか、私は迷った。しかし、家の前に止まっている黒塗りの高級外車を見かけ、私は否応なしに追跡を断念せざるを得なくなった。

 黒塗りの車は、千歳の学校の送迎用の車である。学校側が足を用意するということは、つまり、千歳は生徒会の用事で、学校へと向かうことになっているということだ。

 態々、思い人との逢瀬を宣言したにも関わらず、生徒会の用事を済ませた後、自宅へ直帰するとは考えにくい。しかし私は、妹の行き先をある程度は予測していた。

 あの男の家だろう。

 私は、あの男を特定させるだけの情報を、妹へと与えていた。そう、学年首席である事だ。妹は私から離れることで沢山の友人を得た。生徒会長として、他校との繋がりも太いはずだ。それだけの情報があれば、あの男を特定することなど造作もないだろう。千歳は、学校で情報を手に入れ、あの男の家へと向かう。間違いない。

 ここで一つ、大きな問題が立ちふさがった。私はあの男の家を知らないのだ。至極当然であるが、協力者もいない。妹の行き先が分かろうが、私にはそこで待ち伏せをする手段が無いのだ。

 待ち伏せしてどうするのか。妹は、それで満足するはずだ。私がただ、妹の目の前に立ちふさがれば、妹は、私に抱き着き、いつも通り鼻水を私の肩に擦り付けるのだ。

 そう、ここまでが、抜け目のない我が妹の計画なのだ。そして私が、それに全力で答えることも、知っている。この愚妹めが。


 私は制服へと着替え、母校へと向かった。妹の為に、あの男の家の住所を得るためだ。奴からは、部活を始めたと聞いていた。そして、過去にサッカー部であったと、聞いても居ないのにペラペラと宣っていた。復帰している可能性は低くは無い。そうであれば、スポーツなどという何の役にも立たない牛溲馬勃の様なものに貴重な時間を割く不条理な運動部のことだ、きっと夏休み中も弾蹴りなどという無駄な時間を蛙鳴蝉噪と満喫しているに違いない。ならば、その帰路を待ち伏せし、尾行すれば住処を割り出すことなど、造作も無い。

 されど思う。人脈を駆使する妹に対し、我が遣り口はなんと愚鈍なことか。その滑稽さに、無意識に口角が持ち上がったのを感じた。


 学び舎に着くと、グラウンドでは、予測に反せず、サッカー部が懲りもせず球蹴りなどという贅沢な時間を享受している。奴が部活に顔を出しているか確認しなければならないが、あまり近づきすぎると怪しまれてしまうだろう。私の存在が奴に露呈してしまっては今後の行動に支障が出てしまう。それだけは避けなければならない。根気よく、遠巻きに観察していると、部員が一人、グラウンドから離れて行く所が見えた。

 わが校は進学校であるにも関わらず、いや、進学校だからこそかもしれないが、校則が生徒に対して寛容である。頭髪に関する規則は無く、髪色を変える者も少なくは無かった。後を付けている男もその例に漏れず、明るい髪の色をしていた。

 男は校舎の中へと入っていく。人気が無いことを確認し、昇降口で上履きへと履き替える男に、私は意を決して声をかけた。

「そこの君、申し訳ないが」

 男は振り返ると、「なに?」と答えた。

「サッカー部の関係者とお見受けするが、相違ないだろうか」

「うん」

 男は素っ気なく答えた。

「夏休み前に、転校生が入部したと思うのだが」

私が尋ねると、男は不思議そうな顔をした。

「いや、中途入部者は居ないよ。勘違いじゃ・・・」

「そうか、時間を取らせて申し訳ない。感謝する」

 相手の言葉を遮る様に謝罪と感謝を述べ、その場を去った。想定内の事だ。奴は運動部特有の慣習に嫌気がさしていたと供述している。可能性とリスクを考慮した結果、最も合理的な方法が尾行であったに過ぎない。

 私は、リスクは高いが最も確実な代案を実行するために、職員室へと足を運んだ。


 職員室の扉を開けると、中には誰も居ない。当然である。夏休みに出勤している教師の大半は部活動の指導の為だ。職員室は出払っているいる可能性が高い。私は資料室の鍵を拝借する為に、まずは担任の机の引き出しを開けた。施設の鍵は一括で管理されているが、その棚もまたセキュリティー上の関係で施錠されている。開ける為には教員が管理する鍵を使う必要があったが、クラス委員である私は、担任の手伝いの為に何度か鍵を預かる機会があり、保管場所も検討は付いていた。

 資料室まで誰にも会わず、ファイルも比較的簡単に見つかり、奴の住所も記憶した。ここまでは想定以上に順調であったが、その後に問題が起こった。

 鍵を返却する為に職員室へ戻ると、そこには生徒と教師が居た。先ほど話しかけた男子生徒と、おそらくはサッカー部の顧問だろう。入口からは遠い窓際の席で何やら会話をしている二人に気づかれずに資料室の鍵を戻す事は可能であったが、問題はもう一つのカギだ。私のクラスの担任の席も窓際にあり、気づかれずに返すのは事実上不可能だろう。鍵の窃盗が露呈した場合、最も高いリスクは退学である。今後の人生を憂慮した場合、出来ればそれは避けたい事態である。もしも教師が保管していた鍵を紛失してしまった場合の処分を天秤にかけた場合、弁償程度で済むであろうと考慮し、私は鍵を中庭の池に捨てた。中庭の池は整備されたものではなく、自然に近い構造の為、底はコンクリートでは無く泥である。故に、この鍵は二度と人目に触れることは無いだろう。


「あの、何をしているの?委員長」

 当然の疑問である。自分の家の前で、自分のクラスの委員長が腕を組んで足を肩幅に開き、仁王立ちをしていれば、誰でもそう尋ねるだろう。そう、誰もが尋ねる、陳腐な問い掛けである。つまらない男だ。

 しかし、もしも私が同じ状況に置かれた場合、面白おかしく機智に富んだ質疑応答が可能だろうか。否、つまり、同類の問いをするであろう私もまた、つまらない女の類である。

「細事だ。捨て置け」

 一瞥もせずに答えた。奴の顔など見たくも無い。

 奴は、そんな私の心情など推し量ることなく、続けた。

「よかったら、家に上がる?祖母がいるけど」

「捨て置けと言っている。ここで待つことに意義があるのだ」

「誰か待っているの?」

 失態だった。妹とのいざこざは家庭の不始末である。他人に知られて気持ちのいいものではない。その程度の矜持は、私にも持ち合わせていた。沈黙は金とはよく言ったものだ。しかし、無言で立ち尽くしていては警察を呼ばれかねない。銀であっても、私は語らなくてはならない。

「黙秘する理由がある」

 そう答えると、奴は黙って私の隣に立った。

「何故並ぶ」

 と、私は尋ねたわけではない。暗に退けと言ったつもりだった。しかし、男はそれを察することなく続ける。

「ここって、母さんの実家なんだ」

「事情は知っている」

 両親の離婚を機に転校してきたことは、すでに聞いていた。

「そうだね、たしか委員長には話した気がする」

 自分の身の上の不幸を共有することで、学内で多少浮いていた私に寄り添ったつもりなのだろう。そのような同情は、私にとっては偽善である。トイレの遠近など、私にとっては大した問題では無いのだ。だからこそ、この男の同情は、私にとってはお節介に他ならない。

 男は、続けた。

「なんで父さんと母さんが離婚したのか、分からないんだよね。仲は良かったし、喧嘩している素振りなんて一度も見たことが無かったのに」

 だが、私は答えない。興味も無い。

「父さんは浮気なんてするような人じゃ無いし、借金とかもするとは思わない」

「なぜ母に理由を尋ねない」

 言葉が私の口をこじ開けて外へと逃げて行った。私は先ほど学んだはずだ。沈黙は金だと。

「それは・・・」

「父親に原因を求めているが、母親が浮気をしたのかもしれないぞ」

「そんなことしない」

 私の言葉を遮るように、奴にしては語気を強めていった。それが答えなのだ。

「貴様は知りたくないのだ。原因を。それを知れば、どちらかを責めなければならなくなるかもしれないのだから。お前は、父も母も嫌いに成りたくない。だから母に理由を尋ねられない。ならばその原因を推し量る必要もないのだ」

 しかし私は思った。お前の父親なら顔も整っていて性格も良いのだろう。女が寄ってこないわけが無い、と。しかしこの言葉は飲み込んだ。もしも口が裂けるものなら、この言葉が逃げだす前に口を縫い合わせてやる。

「そっか、たしかに知りたくないのかも」

 離婚とは、シュレディンガーの猫である。結果には必ず原因と過程が存在する。知らないからと言って、それらを無かった事には出来ない。それでも、知ることを諦めることで、得られる安寧がある。それを享受することを、是と出来る人種も居る。私は傷つこうが事実を知りたいと思うが、この男にその勇気は無いようだ。

「なんか納得した。そうか」

 何かを咀嚼するかのように、そうつぶやく。だが、私は思う。その噛みしめた物は、呪いなのだと。こいつが覚えた、その堕落は将来間違いなく何らかの汚点になるはずだ。あわよくば、次の試験に影響が出れば御しやすい。

 それから少しの沈黙と、男の一人語りが交互に、波の様に押し寄せた。映画が好きで、母親とよく一緒に見に行くとか、体育の50メートル走の記録が良く、同じクラスの野球部員にスカウトされたとか、私を突き飛ばした花房もそれほど悪い奴じゃないとか、どうでも良い情報が脳に蓄積されていく。

まるで重力波の様に弱弱しいその波も静まり、陽が落ちて空が赤く霞む頃、目の前に軽自動車が止まった。

 窓が開くと、目の覚めるような美人がそこにいた。

「ただいま、その子、誰?」

 美女が男に話しかけた。姉だろうか。

「母さん、クラスメイトの一ノ瀬さんだよ。ここで誰かと待ち合わせしているみたいで」

 色々と言いたいことのある説明だが、間違ってはいないので訂正も出来ない。そして、父親の浮気を疑ってしまったが、こんな若くて美人な母親では、そこらの男が放っては置かないだろう。心の中で、会ったことの無い奴の父親に深く謝罪をした。

「ふーん、でも、そろそろ暗くなるわよ」

 確かに、妹の襲来があまりにも遅い。そこで、私は恥を忍んで、「すまないが、電話を貸していただけないか」と、奴の母に電話の借用を頼み込んだ。断じて奴にではない。もちろん断られるはずも無く、私は家に電話を掛けた。

 呼び出し音が数回なり、電話の先から声が聞こえた。

「はい、一ノ瀬です」

 妹の声だ。そっと受話器を置いた。

「邪魔をしたな、私は帰る」

 その終始を眺めていた奴の母が、「あら、暗いし駅まで送るわよ」と、送迎を提案してくれたが、「結構」と、丁寧に断ると、茜差す道すがら、駅までトボトボと歩んだ。

「委員長」

 背中に奴の声が刺さる。この次に続く言葉は、大体が予想できる。駅まで送るとか言うつもりだろう。

「結構」

 先んじて断るも、「いいから、いいから」などと、まるで私が遠慮でもしているかの様な言いぐさで嗜めると、私に並進した。

 男が尋ねる。

「それにしても奇遇だよね、待ち合わせの場所が俺の家の前なんて」

 そんなわけが無い。通常であればストーカー扱いされて通報されても可笑しくない事態だ。それを偶然ですませるこの男は、どこまで楽観的なのだろうか。きっと頭の中は百花繚乱なのだろう。

「学食で出会う奇遇もあるのだ、こういう事もあるだろう」

と、誤魔化しては見たものの、我ながら苦しい弁解で有ることは否めない。

「あれって、実は奇遇じゃないんだ」

 男が自供するも、そんなことは百も承知だ。

「知っている」

「そっか、じゃあ今日も奇遇じゃなかったりして、なんて」

「邪推するな、今日は奇遇の類だ」

 などと下らない会話をしていると、いつの間にか駅についていた。

 身の上話をすることで、こちらが事情の供述を断り辛い状況を作る卑劣な策略かと思っていたが、奴はこれ以上、尋問することは無かった。

「この前、委員長の家に行ってから、様子がおかしいと思っていたんだけど、話してみると委員長はやっぱり委員長だね」

と、男が宣う。

「左様か、では達者でな」

 それは本心である。私が復讐を遂げるまでは、息災であってもらわなくては困る。差し当たっては、二学期の中間テストまで無事を祈ってやることにする。


 家に着くと、上機嫌の妹が抱き着いて来た。

「おかえり、お姉ちゃん」

 昨日の狼狽が嘘のようである。まさか本当に意中の男と逢って来たと言うのか。しかし、「私を差し置いて」などと言う惨憺たる嫉妬などは一片も湧き出る事は無かった。一日という貴重な時間を、無駄にしてしまった自分への憤慨と倦怠だけが泥の様に纏わりつく。

「おかえり、お姉ちゃん」

 と、妹と全く同じ台詞を吐く母だが、その声色は狼狽しきっていた。その調子で、母が続けた。

「あんたも大変ね」

 母は、今日、私に起こった苦行の数々を知る由も無い。ならば、その「大変」とは何を指すものなのだろう。私がその意味を知るのは、夏休みが開けた始業式の日である。


つづく

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