1.我が黒き春
夏の暑さに彩られ、青い春はうつつを抜かす。私は思うのだ。鳥であること、それはすなわち、飛ばなければならないことなのだと。故に、若人は、堕ちねばならぬのだ。
1:我が黒き春
一之瀬という立派な名前を持っている。しかし、その名で呼ばれたことなど、一度もない。嘘である。毎朝点呼で呼ばれている。其の度に私は右手をピンと立て、元気に返事をするのだ。
「はいっ!」
銀縁眼鏡に刈り上げおかっぱ。顔は頬が張り、あだ名はメスゴリラを略してメスラ。学友共は私の名など疾うに失念しているに違いない。こんな私にとって、学校とは、学友と楽しく過ごす場所ではなく、ただ義務で通う場に過ぎなかった。そんな私は、青春などにうつつを抜かす怠け者とは違い、勉学に励み、試験は常に首席、その座を、一度たりとも譲ったことは無かった。それだけが、私の誇りであり、存在意義であり、自我そのものと言っても過言では無い。全国模試では首席を逃しているが、私よりも黒き春を送る兵がこの世に存在しないとも限らない。きっと私よりも上位の者たちは、私の同類であり、戦友であると確信している。失った分の対価は得られる。それが私の中核であり、救いなのだ。
だが、私の世界を土足で踏みにじり、あまつさえ、その光で我が影を更に黒々と染める悪魔の様な輩が居た。
奴の名は・・・口に出すのもおぞましい。クズと呼称しよう。そのクズは、二学年の初夏、梅雨が明けたころに転校してきた。
「よろしくお願いします」
転校当日、自己紹介が終わり、学級委員長であった私の隣の席をあてがわれたその男は、私にさわやかな笑顔を向けた。
「よろしく」
私はとっさに手を差し出して握手を求めてしまったが、男はその手を握り返してきた。その時の私は、未熟であったのだろう。その男が、魅力的に見えてしまった。彼の見てくれは良く、性格も人に好かれる類のものであった。現に、次の休み時間ともなれば、クラスの有象無象、魑魅魍魎どもは彼に群がり、質問攻めにしていたのだ。私は教師より男が学校生活に慣れるまでの補佐を任されていたにもかかわらず、その役は同クラスのアバズレ共が勝手に代わってくれていた。
この男の恐ろしい所は、私と接したところで、その優位性を保ち続けられるところである。。学友共は皆、私を見れば嘲笑するか無視するかのどちらかだ。私自身の社会性には問題は無いはずだが、彼らは私の地位を最底辺に定め、私と関わることで自分たちの順位を落としてしまうと考えているのだろう。しかし幸いなことにイジメなどは無く、私はメスラなどという怪奇なあだ名で呼ばれ、男子に近づけば蹴り飛ばされ、トイレに行けば違う場所を使えと促されたりする程度だ。そう、私が彼らに近寄らなければ、何も起きはしないのである。
にも拘わらず、この男は私に頻繁に話しかけてきた。
ある日のことだ。
「委員長、教科書まだなんだけど、見せてもらえない?」
男の席は壁側で、隣は私しかいない。
「え?う、うん、いいよ・・・」
当然、現状では私以外に彼の支援は出来ないのだが、それが仇となり、アバズレ共の反感を買ってしまった。
昼休み、野外にある殆ど使われていないトイレで用を足そうと靴を履き替えていた時だ。クラスのアバズレ共が私の周囲を取り囲んだ。
「ねえ、メスラ。ひどくない?彼、絶対嫌がってたよ」
「先生に言って席変わってもらいなよ。私たちが代わってあげるから」
「さっき肩くっついてたよね。絶対嫌な思いしてたよ、かわいそう」
このような不毛な時間は心を空にしてやり過ごす。開け放たれたままの扉から風がそよぎ、心地が良い。空は青いし雲は白い。下駄箱は臭い。早くトイレに行きたい。
「ねぇ聞いてんの?」
肩を小突かれた。男子からは当然のごとく蹴りを食らっていた私は、その程度の衝撃など造作も無い筈だったが、その時は女子が相手であったからか、油断をしていた。
「きゃっ」と、女々しい声を上げ、バランスを崩して倒れてしまったのだ。
「ちょっと、大げさ」
「やめてよ、虐めてるみたいじゃん」
取り囲んでいた女子たちが、けらけらと笑っていた。隙さえ突かれなければこんなもの・・・。気を緩めていた自分の未熟さが悔しく、唇を噛んだ。
その時だ。
「やめなよ」
クズの声がした。それと同時に、アバズレ共が青ざめる。
「ち、ちがうの」
と、否定するも、この状況でどんな言い訳が出来るというのだろうか。
「こ、転んでたから助けてあげようと思って」
なるほど、だがそれは、一部始終をこの男が見ていれば成立しない。そしてやはり、この男はそれを目撃していた。
「突き飛ばしたの、見たよ」
「こ、この子がやったことでしょ、私知らない」
友人の裏切りに、小突いてきたアバズレが、悲愴な顔を見せる。そんなことより、早く用を足したい。こんな茶番に付き合っていられるか。私はことを治める事に尽力した。
「大丈夫だから。ちょっとふざけてただけなの」
尿意にもじもじとする私を見て、この男はきっと何か勘違いをしたのだろう。なんとも悲しそうな顔をして、私を見つめていた。それはさしずめ、虐められたカメを見つけた太郎さんと同じ心境だったに違いない。だが待ってほしい、私は、竜宮城などには連れてはいけないのだ。いや、ここでややこしくなってこそ、私の膀胱が窮地に陥るのである。
「だめだよ、逃げちゃ」
否、逃げるべき時もある。逃げなければならない時もあるのだ。
「本当に、大丈夫だから・・・」
そして私は走った。トイレへ。
それからというもの、この男はことあるごとに私に近づいてきてはお節介を焼いた。 例えばある日の昼休みの事だ。私はいつも、昼食は学食を利用していた。その日も食堂は混雑を極め、出遅れた私は食券を買うために延々と続く列へと並ぶ羽目になってしまった。やっと購入する順が回ってきても、食券は殆どは売り切れてしまい、残っているのは煮魚定食のみであった。しかし問題はない。好物である。煮魚定食の食券を購入して向かった受け取り口は三つあり、幸いにも煮魚定食を受け取れる列は他よりも短かった。昼休みも半分が過ぎたころだろう。やっと料理の並ぶ盆を受け取り、空いている席を探して腰を掛けた。
「委員長、奇遇だね」
そこに現れたのがあの男である。
「俺もこれから弁当なんだ。前、いいかな」
普段、この男が教室で学友たちと和やかに食事をとっているところを何度も目撃している。そんな奴が、昼休みが半分も過ぎた食堂に弁当持参で現れるなど、確かに奇遇である。しかし断る理由も無い為、私は頷くことでそれを了承した。
「それ、美味そうだね」
弁当の包みを開きながら、その男は言った。タラの煮つけは身が丸々と太り、油も乗っている。中年のおばちゃんが調理しているからこそ、和食の味付けも間違いないだろう。確かにこれは美味そうだ。
「これしか余ってなかったんだけど、ほんとに美味しそう」
「なんだっけ、余り物の法則?」などと、男はわざとらしく間違えて見せる。
「ことわざじゃないかな」と、私が訂正すれば、これ見よがしに「それ!」と喜んで見せた。
「良かったら一口どうぞ」
きっと裾分けの催促だったのだろうと踏んだ私は、この男に味見を勧める。
「いいの?ありがとう」
男は持参した箸入れから箸を取り出すと、手を伸ばして魚の身を少しだけつまんで口に運んだ。
「うっま、今度頼んでみようかな」などと大げさに喜んでいる。そんなに美味いのかと、私も一口頬張ってみるが、はしゃぐほどでは無かった。
「ねえ委員長、お返しにどれか食べない?」
男は自分の弁当を差し出してきた。他人の食事に興味など持たなかったが、返礼を忘れぬことには好感が持てた。ならばと、その厚意を甘んじて受けることにした。卵焼きにミートボール、サラダに、端には付け合わせに炒めたホウレンソウが付いていた。大して興味も無いし、美味そうなものに手を出すのも手が引ける。付け合わせでよいだろうと、箸でホウレンソウを突っつくと、それを口に運んだ。一噛みして驚いた。美味いのだ。それこそ、はしゃぎだしたいほどに。
「それ美味いでしょ。自信作。さすがお目が高いね」
自信作、ということは、自作ということだろうか。顔は整い、性格も良好、その上料理も出来るとは恐れ入る。
その後は、男が他愛もない話を一人で続け、私はたまに相槌を打っていた。転校前はサッカー部に所属していたが、体育会系の部活はノリについていけず、もうこりごりだとか、ラーメンは醤油よりも豚骨派だとか、転校の理由が両親の離婚だとか、どうでも良い軟弱な話を延々と続けられた。だが、彼の友人が全寮制の名門女子高の生徒に恋をしたが、実はその少女が同性愛者の上に別の高校に通う双子の姉が好きだったという話に、失笑してしまい、それを男に気取られてしまった気恥ずかしさから顔を伏せると、奴は満足げに微笑んでいた。不覚である。
ほかにも、放課後の教室に残り、学級委員の仕事を全て一人でこなしていると、やはり、男は現れた。
「委員長、頑張りすぎじゃない?」
などとぬかして、集計していたプリントを半分奪い、自分の席に着いて勝手に手伝いを始めた。頼んでもいない事だが、義理というものがある。
「ありがとう、でも一人で大丈夫だから」
礼と、そこはかとなく手伝いが不要であることを伝えたつもりだが、彼は「いいからいいから、どうせ暇だしさ」などと、聞く耳すら持たなかった。仕方なく、奴の好きなようにさせてやることにした。すると、私が何も言わない事を幸いに、放課後に居残っていると、奴は必ずと言っていい頻度で手伝いに現れるようになったのである。
不思議に思った私は、奴に尋ねたことがある。
「なんで毎回毎回手伝ってくれるの?」
その疑問は当然だ。まさか、義務でも無い者が放課後の貴重な時間を潰し、何の利益も無い学級委員の仕事を手伝うことが趣味などという奇特な人間も居るまい。
「んー・・・?」
と、唸りながら、男は右を向き、左を向き、上を向き、人と通り考慮を巡らせて正面を向くと、
「趣味かな?」
と、奇特なことを言い出した。そんな奴も広い世の中一人くらいは居るのだろうと、私は追求を保留することにした。他人の趣味をとやかく言うほど私は野暮では無いし、そもそもこのころの私はこいつに興味の欠片も無かったからだ。
さらに私が校内のトイレを使えないことを知ったらしく、それを是正するためにアバズレ共を説得したりもしたらしい。物好きなものだ。されど私も人の子である。彼には恩義というものを、多少なりのとも持っていた。借りは返さねばならない。私は、彼に贈り物を進呈することに決めた。
「あの、これ」
放課後、いつものように私の手伝いをする男に、私は手編みの腹巻を渡した。最初、男はそれが何か分からなかったのだろう。不思議そうな顔をしながら、礼を私に述べた。
「ありがとう、でも何で俺に?」
「いつも私の事を気にかけてくれているから、お礼です。手編み腹巻。夏でも冷やさない様にと思って」
昨今の男子高校生が腹巻など付けていると知られては気恥ずかしいだろうと、目立たぬよう、ベージュの毛糸で織るという気の利かせようだ。我ながらなんという気遣いなのだろう。
しかし男の顔は浮かなかった。一瞬、贈り物の選択を間違えたのだろうかという考えが過ったが、そうではなかったようだ。
「委員長に比べたら、俺なんて何もしてないのと一緒だよ。酷い事をされてもこうやってクラスの為にがんばっているし、嫌な顔なんて全然しないし」
私は誰かに褒められる為に何かをしたことなど一度もない。義務を果たしているにすぎないのだ。だからこの男が私に同情し、健気に手助けなどをする必要など微塵も無いのである。この男は狡猾にも、あの靴箱での事件で私と関わった後でさえ、そのヒエラルキーを落とすことなく維持していた。男女問わず人気者で、あの件にかかわったアバズレ共にも分け隔てなく接していた。私の様に孤立し、私しか頼るものが居ないというわけでは無い。私としても、これ以上借りを作るのも迷惑であり、借りを返した今が潮時なのだ。
「好きでやっている事だから。私の事、そんなに気にかけてくれなくても大丈夫だよ。放課後も私の手伝いより、部活とか委員会なんかに入ってみたらどうかな」
「俺も、別に嫌々やっているわけじゃ・・・」
男は食い下がる。面倒な奴だ。
「はい、話はおしまい。自分の時間を大切にしてね」
そう無理やり締めくくり、私は教室から立ち去り、今日の作業分を職員室へと届けた。
次の日のことだ。毎朝行っている日直の仕事を片づけ、一人静かに勉学に励んでいると、男は教室に入ってきた。
「おーっす」
「おーう」
「おはよー」
一層と活気づく教室。
「委員長」
男は席にカバンを掛け、私に話しかけてきた。
「俺、部活入ることにしたよ」
「そうなんだ、よかった」
私は解放感から満面の笑みを浮かべていたに違いない。男も、私に笑い返してきた。
それからも、男は頻繁に話しかけては来たが、放課後の作業は私一人で行うようになった。仕事の量は倍に戻ったが、人に貸しを作るよりかは遥かにマシである。
そして束の間の平和は続いた。そう、あの日までは。
事件が起きたのは夏休みも間近に迫ったある日の事だ。慧眼を持つ貴兄らなら、もう気づいているだろう。そう、その日は期末試験の順位発表の日である。
私は勉強が好きな訳ではない。ただ、それしか選択肢が無かった。様々な選択肢の中から選んだような、生易しい秀才どもとは、覚悟も意気込みも何もかもが違うのである。我思うため、我在るために、私は勉学に打ち込んでいたのだ。その成果により、たった一つの教科を除いて、私の順位は全ての教科で一位であった。当然だ。全て満点なのだから。しかし、どうだろう。たった一問、それだけのミスで、私はその教科の一位と、総合一位を逃したのだ。具体的に言えば、あのクズが全ての教科で満点を取り、私を下したのだ。
顔が良く、人当たりも良く、部活に入り、料理も出来、青い春を謳歌するその男が、学力でさえ私を上回るとはどういう事だろう。私の人格全てを否定し、存在意義を踏みにじった男である。私を殺した男である。私が生き返るために、殺さなければならない男である。
私はその日、体調不良を訴え、学校を早退した。親には心配されてしまったが、ちょっと風邪気味なのだと言ってごまかし、部屋へと戻ると、枕を噛みしめて声を押し殺して、泣いた。むせび泣いた。絶望などという生易しい言葉では片づけられない。それこそ、頭が狂いそうなほどに、堕ちて行った。奴の光で私は真っ黒に焼かれ、灰燼と化した。故に、決めなければならないのだ。狂うのか、立ち上がるのか。だから私は、その両方を選んだ。
運命の日から終業式まで、私は学校を休んでしまった。その間、私は良く食べ、良く寝て、良く運動し、良く学んだ。両親には、「すべきことがあるのだ」と言って納得しては貰ったが、何か怪訝な顔をされてしまった。
「だ、大丈夫なのか、千代」
私にそっくりな父が、昼食を囲む席で私を気遣い、声をかけてきた。
「問題ない。心配するな、父よ」
そう言って、栄養を体にため込むために良く食べた。
「なんなの、その話し方。病院行く?」
私を生んだとは到底思えないほど美人な母が、訳の分からないことを口走る。
「大丈夫だ。夏休みが明けたら学校へは通う」
「そういう事じゃなくて・・・」
「心配いらん」
そう言い切ると、両親とも納得はしていない様子ではあったが、もう何も言わなかった。
昼食を食べ終え、居間のソファーで30分ほどの仮眠を取り、部屋へ戻って勉強を再開しようと思っていた時、インターフォンが鳴った。両親とも仕事へと戻り、家には私一人しか居ない。客人を出迎えるために、玄関へと向かい、ドアを開けた。
「久しぶり、委員長」
そこには、我が宿敵が居た。全身から一瞬で吹きだす汗、怒りが理性を喰らっていくのが分かる。頭が痺れ、意識が朦朧としていく。
「まだ調子悪そうだね、委員長」
ここで怒りに任せてこの男を殺害したとしても、私に残るのは永遠の敗北と惨めな人生だけだろう。まずは学力で勝利し、人としての尊厳を、このクズから取り返さなければならない。冷静になることこそが、勝利への第一歩なのである。
「何か用か」
「え?ええと、今日が終業式だから、必要なプリントなんかを届けに」
「難儀なことだな。家は近いのか?」
「う、ううん。そんなことは無いけど」
「ならばなぜ届けに?」
「長く休んでいたから心配で、プリントを届けるついでに会いにきたんだ」
「そうか。私は元気だ。手間を掛けたな。礼を言おう」
プリントを受け取り、ドアを閉めようとすると、男はドアに手をかけてそれを止めた。
「ほ、本当に大丈夫?」
尋常ではない形相で、そう聞いてきた。一体どうしたというのだろう。
「至って息災だ。では失礼する」
閉まる扉から覗く男の表情は、何故か驚愕している様に見えた。