流れよ我が涙と、彼はそう言った。
――遠い未来の話。
地球に人類はいなくなった。
今は大量のバイオロイドと機械が地球を埋め尽くしている。
そして少数のアンドロイドが滅びを待つだけだった。
西暦1万とんで2018年。
日本に似たどこか。
T県N市の高層住宅の一室。
そこに春子は父と母とお手伝い用のロボットと住んでいる。
春子はバイオロイドだ。
両親の遺伝子情報を元に、N市内の工場プラントで赤ん坊の姿で製造された。だが、脳の一部を除き、体は有機物でできている。外見や皮膚の感じは人のそれに近く、成長もする。
今は製造から16年が経過し、立派な高校生だ。
彼女の一日は一端の高校生らしく、朝起きて、ご飯を食べて、遅刻しそうなときは朝ご飯を抜いて、学校に向かい、放課後は友達とカラオケや喫茶店に行き、どうでもいいことに時間を費やす。
そんな普遍的女子学生らしい毎日を送っている。
春子は今日も何気ない日常をこなすため、重い瞼をこすり電車に揺られ学校に向かう。
ガタンゴトンと、左右に反復運動を繰り返すつり革を手に持ち、反対の手で、わざわざ紙媒体で作り直された外国の文庫本を読んでいた。
朝電車に揺られ読書を行う。
それは春子の普段行う朝のルーティンワークではない。徐々にそうなりつつあったが少し前は違った。
それも全て親友のせいだ。
以前の彼女は朝電車に揺られながら、ストラップのたくさんぶら下がるスマートフォンに向かい、SNSで親友とどうでもいい話をこなすことが習慣だった。
だが、最近その親友に彼氏ができ、春子は遠慮して連絡の頻度を控えるようになった。それでも何かと毎日連絡を取り合ってはいるのだが。
それで今はおとなしく海外の文庫本に目を通している。
本来禁書であるそれを読むことを特に注意する大人はいないし、電車の中で春子が何をしようと、そもそも皆関心がないのだ。たとえ彼女が法律に触れることをしていてもだ。
伏字がかけられた作者名は確か、ディックとつく名前の作家だったと春子は記憶している。
内容はアンドロイドに自我が芽生えて、政府から逃亡し、それを賞金稼ぎの主人公が追いかけるというSF大作だ。本来この国のえらい人たちが禁書にしている旧時代の代物。だが、恒久的平和がもたらすずさんな管理体制のせいか、一介の女子学生でもネットサーフィンで見かけた販売サイトで簡単に手に取ることができた。
春子がその本を購入したのには特に理由はなかった。
ただ単に気になって、気付いたらマウスで購入ボタンをクリックしていた。普通、バイオロイドは理由のない行動を取ることはないが、とにかく理由はなかった。
そしてその古書を朝の読書運動で費やすのが今の春子の日常だった。
「この人痴漢よ!!!」
電車の扉近くで女性の悲鳴が聞こえるまでは。
春子が甲高い絶叫の方を見やると、厚化粧をした女性型バイオロイドが、スーツを着るうがつのあがらなそうな男性型のアンドロイドの手を電車の天井近くまで掲げていた。
(珍しい、アンドロイドだ)
春子はその、うがつのあがらなそうな彼を一瞬注視し、すぐに文庫本のほうに視線が戻った。
たとえ、本当に痴漢であったとしても自分には関係のないことだと、春子には思えたからだ。
「待ってください。私の記憶メモリを解析してください。そんなことはしてないことが分かるはずです」
「あんたアンドロイドでしょ。私達と違って脳みそが全部機械だから、記憶の改ざんなんていくらでも出来るんじゃないの?言い逃れしてんじゃないわよ!」
「た、確かに、私は記憶改ざんが可能なモデルですが…」
そこはまじめに答えるのか、と春子は心の中でツッコミをいれる。
聞きたくて聞いていたわけではないが、同じ空間でこれだけ大きな声をあげられると、自然と春子の視線は再び彼らにいく。困ったような顔でアンドロイドの彼は身振り手振りを加え、弁明をしていた。所々ギシギシと体のパーツを鳴らせている、それはパーツにガタがきている証拠で、きっともう彼は長くないのだ。
アンドロイドが生産されなくなって、数百年は過ぎていた。
何十年か前はもっと多くのアンドロイドが存在していたと春子は生前の祖母から教えてもらった。年が経つごとに数が少なくなり、残ったアンドロイド工場もつぶれていった。ほとんどメンテナンスも自前で行っていると聞く。だが、今はパーツも生産されておらず、滅びを待つだけだった。
そして彼らは社会つまはじきものだった。
勿論表向きはそうではないが、少なくとも何かあれば痴漢の罪をかぶせられそうなほどには。
そんなことを春子は思い返していたら、どうもそのアンドロイドが自暴自棄やその女性のために痴漢をするとは思えなかった。彼の顔を観察していたら、くたびれた瞳の奥には生きる目的があるように何故か見えた。
それが春子には新鮮だった。
ほかのアンドロイドも皆そうなのかとか、彼は何故電車に乗っているのかとか、仕事は何をしているのかとか、今この場で起きている珍事とは別の疑問が春子の頭に次々浮かんだ。
それが春子には不思議だった。次第に何とか彼に助け船を出せないかと考えるようになっているのも、春子の脳に違和感をもたらすことに拍車をかけた。
そして彼らを観察していると、後ろに明らかに挙動がおかしい男性バイオロイドが一体目に付く。
両手にかばんを持ち、目線が泳ぎ、そそくさとその場を離れようとしている。
「ちょっとまって」
その男にだけ春子は声をかけたつもりだったが、どうもそういうわけにはいかず、車両の中の視線が全て注がれる。恥ずかしさで春子は答えに戸惑うも、しかし、あのアンドロイドの表情が今にも涙を流しそうなのがつい気になり、言葉を発してしまった。
「えっと、その…そこの後ろの人が怪しいよ。なんか逃げようとしてたし」
「どこに証拠があるんだ。いいがかりだ」
春子が声をかけたサラリーマン風の男は威張り散らしたように、わざとらしく振り向く。
そうは言うものの、男の声は上ずりあからさまで、私を疑ってくださいと副音声が聞こえてくるほどだった。彼に対し、厚化粧の女が即座に返答する。
「だったらアンタ、記憶メモリを見せなさいよ!」
「な、なにおう。どうして僕がそんなことをしなくてはいけないんだ、あのアンドロイドが犯人だろ」
「記憶を見られるのが怖いの?あそこのアンドロイドと違って私達は記憶を消せないものね!」
そんなことを大げさに言わなくても良いだろうに。舞台俳優みたいに言う女性に、春子は笑いそうになってしまった。我慢してそれをこらえていたところ、先ほどのアンドロイドが人ごみを掻き分け、春子の前まで歩いてきた。
「助かりました。お嬢さん」
「いえ別に、当然のことを、したまでだよ」
アンドロイドは手で小さくお辞儀をし、丁寧に頭を下げる。
春子の回答は取り留めのないものだった。
そして彼はなぜか、春子をまじまじと見つめていた。
「何?」
顔にご飯粒でもついているのか、春子は自分の唇や頬を触ってみる。だが、変哲のない、いつもの人口肌の感触だ。じゃあ、何故?春子は彼の意図が読めなくて、恥ずかしさを覚えた。
「その制服、あなたS高校の生徒ですか?実は私…」
「あんたも次の駅で降りなさいよ」
言葉を遮って、厚化粧の女が割って入った。
声をかけられたアンドロイドは振り向いて、慌てている様子だ。
「わ、私もですか?」
「そうよ、まだ彼が犯人だと分からないじゃない。そうじゃなかったらあなたが犯人よ」
そんな暴論な、そう春子が言葉を告げる前に、ガシャンという無機質な音と共に電車の扉が開く。
痴漢をしたと思わしき男と厚化粧の女、そしてアンドロイドも連行される形で外に出て行く。痴漢男は何かわめいているも、電車の扉が閉ざされるとすぐ声は聞こえなくなった。
嵐のような時間が過ぎさった。
電車は再び沈黙を取り戻し、周りの人間も、春子も日常の中に戻っていった。
(なんだったんだ、さっきのは)
先ほどのことを記憶の片隅に置き、春子はすぐ手前の文庫本に視線が移る。
(あれ?)
その時、眼球越しの映像に何かノイズがチラつく。まれに過度のストレスを感じたりすると情報処理が追い付かないので、似たようなことが起こることもある。が、今はそういう状況ではないはずだった。
あのアンドロイドは無事だろうか?
そんな、疑問がどうしても脳裏に浮かんだ。彼の安否を確認するために、彼の連絡先を聞いておけばよかったと、春子は多少の後悔を感じた。それは彼に興味を持ったからではなく、誠実そうな彼は、助けたお礼に何か謝礼でもくれるからかもしれないという下心からだと、春子は自分の気持ちを定めた。
◇
「ということが、今朝あったんだ」
ここは春子の通うS高校。
先程の出来事から、その後は特に変わった出来事もなく、彼女は教室で親友とその彼氏と席をつき合わせ昼食をとっていた。そこで、春子は今朝あった電車の出来事を目の前の二人に話している。
「アンドロイドってロボットのこと?」
「ロボットとアンドロイドは違うよ」
そういったのは、春子の親友だった。若い世代はアンドロイドなどほぼ見る機会はないので、ある意味、彼女の反応は普通なのだが、春子はムキになって即座に返答する。
「そうだ、春子の言うとおりだ。ロボットはチェコ語で強制労働を意味する。機械ならまだしも、意思のあるアンドロイドに向けて言うのは差別用語だぞ。自分の彼女がそんな言葉を言うなんて、嘆かわしいな」
親友の隣に座る、彼氏は得意そうに自分の知識をひけらかす。悪い奴ではないのだが、時々こういうところがあって、春子も親友は手を焼いている。
「何よもう、そんなこと言わなくてもいいじゃない。知らなかっただけじゃん。そういえば、こないだデートの時、『アンドロイドなんて人生で初めて見た。これでは、天然記念物ならぬ人口記念物だな』って、アンドロイドをバカにしてたのは、君でしょ?」
「はは、そうだったか?それはそうと、そのカニクリームコロッケおいしそうだな。一つ分けてくれ」
「絶対イヤ」
その後も春子の目の前で、くだらない痴話げんかを繰り返される。コントのような言葉の応酬を重ねるふたりは今ではクラスのおなじみの光景になっており、春子も昼食に舌鼓を打ちながらその光景をぼーと眺めていた。
その時、教室の扉がガラガラと開く。
クラスにいた全員の目が扉を開いた人物にいく。どうやら隣のクラスの教師だった。
実は春子の担任は先日事故で怪我をして、臨時で彼が担任を受け持っていた。
幸い担任の教師は軽い事故ですみ、現在病院で修理中だ。怪我自体は人工パーツを交換すればすぐ直るのだが、メンタルケアの側面で人類と同じ期間休むよう国に義務付けられている。
「お前ら。昼休み中で悪いが、このクラスの先生が復帰するまで、彼が数週間臨時の担任をする。入ってきてくれ」
「今朝は色々あって遅くなりましたが、皆さん、おはようございます。L-9000型アンドロイドです」
別クラスの担任の背中から、今朝のアンドロイドが顔を出した。
彼の説明よりも早く、春子の目は彼を捉える。
「ということだ、皆分かったか?L-9000簡単な挨拶を頼む」
「教員生活はもう引退しておりましたが、このクラスの担任が戻るまで復帰することとなりました。短い間ですが、よろしくお願いします」
「嘘……」
春子の口はパクパクと開いていた。
彼も春子に気付いたようで、一瞬瞳孔が開いたかと思うと、すぐに春子だけに分かるよう、笑顔で微笑んだ。春子はこれまで、こういった少女マンガの中のような偶然なんて信じていなかったが。こんなこともあるのだろうかと驚嘆していた。
「春子。もしかしてさっき言ってたアンドロイドって…ぜんぜん聞いてないし」
親友の言葉は春子に届かなかった。
春子の頭の中では、この場に自分と彼しか存在しなかった。
脳の機械化された処理回路が熱を持っている。胸部が高鳴るような気分になった。演算処理領域が遅延し、世界がゆっくり見えた。
それから二週間が過ぎた。
アンドロイドの彼は食事がいらないため、お昼休み校庭でぼーとしている。春子は隣でお昼ご飯を食べてあげた。春子は彼を友達とカラオケに誘ったこともあった。もちろんそれは断られたが。
春子は、何かしら理由を付けて彼と一緒にいようとした。
その理由は春子には分からなかったが、どうしてもそうしたかった。
時折、親友がそのことを心配し、注意を促した。
あまり彼と親しくしないようにと。
それは当たり前のことだ。
何故なら、彼はアンドロイドで、春子はバイオロイドだ。
工業用のロボットと人間くらい、彼らは違う。
この世界ではアンドロイドに恋をすることは禁止されていた。
◇
L-9000型がS高校に赴任して、3週間が経過した。
その日は朝から雨が降っていた。天気予報でも一日中雨の予報で、陰気な湿気と、白と灰色が混ざったような雲が空を覆っている。
そして珍しく春子はそわそわしていた。
L-9000は任期をもうすぐ終えるというのに、休暇をとるらしいからだ。
別のクラスの担任が、再び春子の教室にやってきた。
今日は彼が早朝のHRを取り仕切っている。
些細な事情だ。
前々から休暇を取ることを決められていたらしく、特別なことではなかった。
そのことを知らないのは春子だけだった。
他の人間は彼がいないことに気にも留めてすらいない。
その知らせを教師から聞いた時、春子は胸騒ぎを感じていた。
もう彼に会えないようなそんな感覚。心臓を鷲づかみにされているような不快感だ。
どうしても彼に会わなければならない。そんな気がしてならなかった。
居ても立っても居られず、春子は自分の席を立った。
クラスメート全員が彼女を見た。
「すいません、生理痛です。今日は早退します」
教室がざわめき出した。
何個かまたいだ席の春子の親友は、腕を大振りし、よくわからないジェスチャーを繰り出している。
きっと『何を言ってるの!』という意図があるのだろう。
でも今は、それに構うつもりはなかった。後で彼女には謝罪のメールをしようと春子は思った。
教師の言葉が返ってくる前に、春子はカバンを持ち、そそくさと教室を出た。
まだ、教室ではざわめきが残っている。
春子は玄関口に向かうため、階段を降りる。
だが冷静に考えてみると彼の行き先を知らないことに春子は気付いた。その足で職員室まで向かい、授業をしていない別の教員を捕まえて、彼の居場所を訪ねた。
そして行き先が分かった、隣町のアンドロイド用の共同墓地だ。
その教員から引き出した話だと、彼は昔、妻のアンドロイドと死別したらしい。
今日はその命日。
…彼は結婚していたのだ。そんなそぶり今まで見せなかったのに。
なぜか春子の胸は締め付けられた。
春子はそのまま上履きを履き替えてようと、一階の玄関口にたどり着く。
そこでぎょっとした。親友が待ち構えていたのだ。
きっと春子の上履きがまだ登下校用の革靴と替わっていないことに気付いた彼女は、この場所を訪れる私を待っていたのだろうと、春子は推測した。
「や、やあ」
「春子、あのアンドロイドのところに行くんでしょ」
春子が何か言う前に、親友が言葉を発した。
どうやら、彼女は全てを理解しているようだった。何か取り繕う言い訳を考えていたが、彼女には無意味なことなのだろうと春子は瞬時に理解した。
「どうしてわかったの?」
「わかるよ、今までずっと春子のそばにいたんだから」
「流石私の親友だね。モノのついでにそこをどいてくれると嬉しいんだけど」
「駄目だよ」
「何故?」
「わかるでしょ?」
「何が?」
「………だからだよ」
「え?」
「彼がアンドロイドだからだよ!機械なんだよ!皆アンドロイドと結ばれるのはいけないことだとわかってるし、彼は教師だし、私たちより早く死ぬし、一緒にご飯は食べられないし、子供だって作れないんだよ?」
彼女は一呼吸置いて、そう、力いっぱい叫んだ。
叫びは悲痛なものだった。きっと心から春子を心配していた。
彼女の言葉は春子の心に嫌でも響く。
春子はじっと彼女を見据え、真剣な眼差しを向けた。
「そうかもね」
「…二人は恋人同士なの?」
「ちがうかな、まだ」
「じゃあ、行かなくていいじゃん」
春子は親友との思い出を振り返っていた。
思えば、いつも親友は自分のストッパーになってくれていた。
口数が少なくもの静かな性格だとみられる春子だったが、その実、思い込んだら何が何でも一直線の春子をなんだかんだでうまく周りの人間に同調させてくれたのは親友の彼女だった。彼女は幼馴染で、子供のころからそうなのだ。そして後から冷静になって思い返すと、大体親友の忠告や諭す言葉が正しかったと春子は思い知らされていた。
そして今回も彼女のおかげで、春子はあることに気付くことが出来た。
本当に些細な、人間ならだれでも気付くことだ。
「ありがとう、でも行かないと。やっと気付いた、私彼が好きなんだ」
「……納得出来る言い分がないと、ここを通す気ないよ」
「納得出来る理屈なんてないよ。ただ、なんとなく、今彼の側にいかなくちゃいけない、そう思ったの」
それが春子の思いの全てだった。
自分でも説明のつかない気持ちだった。
何よりも優先させたい気持ちだった。
そして親友は黙って道を明けた。
◇
電車を数駅乗り継ぎ、春子は隣町のアンドロイド用の墓地にたどり着いた。
雨水の滴るフェンスの向こう。棒状の墓石が幾重にも並ぶ。
バイオロイド用の墓地と比べたら、簡素で、小さい墓地の面積に何万と墓石が点在し自己主張を続けている。墓地といわれているが実際には形式的なものだ。そこに遺品や死体が埋まっているわけではない。
そこに彼がいた。
彼は傘もささず、墓の前で立ちすくんでいた。
「おはよう」
春子の挨拶に気付き、突然の来客に驚いた顔で彼女を見る。
どうしてここにいるのか分からない、そんな顔をしていた。戻りなさいと彼は言うが、春子が色々な言い訳をまくし立てる。それが何分も続くものだから、彼はあきらめたようで、何度かの言葉を交わし墓前に向き直った。
「ずっとここに立っていたの?濡れちゃうよ」
「ええ」
「不思議だね、何でそんなことするの?」
「あなたには、雨に打たれたいと思うときはありますか?」
あるわけがない、だって理由がないから。けれどそう答えるのがなんだか悔しくて、春子は答えなかった。それでも彼は言葉を続けた。
「私にはあります。妻が死んで何十年も経ちます。でも、私は泣くことが出来なかった、そういう機能が備わっていないのです。その代わりに雨に打たれたいと思うときがあるのです」
「なんだかもの悲しいね」
「そうなのでしょうか?私に悲しいという感情は本当の意味で理解できません。私はアンドロイドです。皆さんバイオロイドと同じではありません。この脳は完全に機械で出来ています。人間と外見が似ていることを除けば、そのあたりの機械と変わりません」
「私にはそうは思えないな」
「ただの客観的事実ですよ」
そして二人は押し黙った。
「…流れよわが涙」
彼はボソッと口にした。
それは独り言のつもりだったのかもしれない。
雨の音にかき消されそうなその言葉を春子はなんとか聞き取った。
「ディックだ」
彼は春子を見返した。
「…ふふ。ええ、あれは私達の話ではありませんでしたが、そのタイトルは今の心情を形容するにはぴったりなのでしょう。でも、よくご存知ですね。彼の作品群はあなた達の世代は閲覧できないはずですが」
「そんなの、ネットを使えば誰だって検索できるって。警察だって、バイオロイドが人間性を獲得するためには、色々見逃してくれると思うよ」
「不良学生ですね」
彼と春子は笑いあった。どちらかが始めたわけではない。ほぼ同時にその行為は行われた。
「奥さんのこと、忘れちゃえばいいのに」
「……可能ですが、それはどうでしょう。彼女の想い出は、私の人格領域にまで影響を及ぼしています。彼女を忘れてしまったら。もうそれは別の私です」
そうできたら、きっと楽なのでしょうが、と彼は付け足した。
春子は彼にどんな言葉をかければいいのか、分からない。
どうしても彼に伝えたいことがあったのに。
彼女は言葉を言語ルーチンで吟味していたが、うまくいかない。
だから次にかける言葉も彼女の言いたい発言というわけではなかった。
「女々しいやつ、最初出会った時もそうだったね」
「ええ、私は女々しいやつなんです。もうずっと彼女のことを想っている。それこそあなたのおばあちゃんが子供だったころから」
彼はそういって、春子に切なそうな顔をした。
春子はそれを卑怯だと思った。
だってそんな顔されたら。
「それにもう、私は長くありません。色々ガタが来ています。明日動かなくなってもおかしくない。私は自分の命が終わるまで、きっと彼女を想い続けるでしょう」
「あーあ、私じゃかなわないかな」
「でもあきらめないから」
私も決めた。
あなたの命が尽きるその日まで…私はあなたを想うことに決めた。迷惑だとしても押し掛けてやる。
そう春子は決意した。
春子は彼に微笑んだ。
雲の谷間から薄明がこぼれる。
もう雨は上がっていた。
あなたは自分をロボットだと言ったけど。
ねぇ、何でかな。
私にはあなたが、輝いて見えるんだ――