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S.A.K.U.R.A.~蒼の魂~  作者: 猫人間
【番外編】三代目は愉快だな
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野良猫。

 これは、まだ俺が六つくらいの時の記憶だ。


 幼い頃の記憶など殆ど曖昧だが、これだけは今でもはっきりと脳裏に焼き付いている。


 真っ暗な闇。

 息苦しくて、何度も助けを求めようと声を上げたが、その声は篭って届かない。

 誰も、助けには来ない――


 俺は一人だった。

 この世に生を受けた、その瞬間から。

 ずっとずっと。

 独りだったんだ――


 ――あの時までは。


 ボキボキッと骨の折れる嫌な音と、男の絶叫が響く。


「首の骨を折られるよりも、腕の骨が折れた方がマシでしょう」


 その声は、明らかにまだ子供だ。


「今度、弟に手を出したら容赦しませんよ――」


 それを聞き、俺に因縁を付けてきた男は情けない声を上げて去っていった。

 その時、その子供の姿は悪魔のように見えたに違いない。


 だが、俺には。俺の瞳に映るその背中は。

 英雄のように思えたのだった――


 ***


「――ゴホッゴホッ……」


 外で降り注ぐ雨に混じって咳が聞こえてくる。狭い小屋の中に響く、奥に詰まった何かを出すような苦しげな咳。何度も何度も咳は続き、止むことがない。

 その声が雨漏りする音にかき消されるくらい、日に日に弱まっていくのを、俺は痛い程に感じていた。


「兄さん……」


 俺は床に伏せる兄さんの手をそっと握りしめる。

 あの武士櫻を巡る戦い――衣笠龍二との死闘で持病の喘息を引き起こし、兄さんはそれ以来ずっと熱が下がらずに寝込んでいたのだった。


(こうなったのも、あの衣笠って男のせいだ)


 いや、本当は分かってる。自業自得なのは。

 でも、誰かのせいにしなければ、この気持ちはどうにも収まりがつかなかった。


 俺は兄さんの敵討ちに、刀を持ち飛び出して行こうとした。

 だがそれを止めたのは、他ならぬ兄さんだった。


「待ちなさい……これは拙者の責任です……それに……」


 兄さんは上体を起こし、力ない手で俺の手を掴むと、隈の刻まれた瞳でこちらを見た。


「お前まで、失いたくはありません……だから、これは拙者の我儘なのですが……どうか側に居てくれませんか……?」

「兄さん! 横にならないと、身体が……!」


 俺は兄さんを寝かせると、その手を今度は強く握りしめる。

 すると兄さんは、焦点の合っていない瞳で、咳混じりに話し始めた。


「拙者達は……多くの者を利用し、巻き込み、そして多くの命を犠牲にした……本来なら、あの場で拙者達は斬られてもおかしくない状況だった……しかしあの者達は……拙者達を生かしてくれた……」

「兄さん……! あまり喋ったら……!」


 それでも兄さんは、俺を見つめながら話を続ける。


「正孝。お前まで巻き込んでしまって……本当にすまなかった」

「兄さん!! そんな……謝らないで下さい! 俺はっ……兄さんのおかげで今日まで生きてこられた! 兄さんは俺の命を救ってくれたんだ! だから俺は、兄さんの側にいるよ」


 俺の言葉に兄さんは右手を伸ばし、そっと俺の頬に触れた。頬に触れた手は冷たかったが、それは細くて綺麗な指だった。


「有難う……良き弟を持てたよ……」


 そう言って兄さんは僅かに微笑み、そのまま眠りについた。

 この頃、発作でろくに眠りにつけていない兄さん。妨げになってはいけないと思い、俺はそっと外へ出て行った。


 此処はとある山奥の、忘れ去られたように佇む空き小屋。

 そして、ここに住む俺達もそうやって忘れ去られた人間だ。


 降り注ぐ雨の下、俺は濡れるのも構わずに空を見上げた。


 この雨はこうやって何もかもを、かき消していく――

 俺達の存在さえも。


 もしこのまま消えてしまえたら、楽になれるのかも知れない。


 だけど俺は、兄さんの側にずっと居る。

 いつか、兄さんが俺にそうしてくれたように。


 兄さんは俺にとって、一生の恩人だ。

 俺は兄さんの為なら何だってする。

 あの日から、そう決めたんだ。


 ***


 俺は劣悪な環境の下で育てられた。

 いや。育ててもらったというよりも、勝手に育ったという方が正しいかも知れない。


 母親はよく酒の匂いをさせては、取っかえ引っ変え男を家に連れ込んでいた。何日も帰ってこないなんて日も当たり前だった。そんな母親だから、父親に関しては何処の誰なのかも分からない。

 だから俺は自分の年齢すらも、正確には把握していない。


 だけど、それを寂しいとも、普通じゃないとも思ったことはない。

 もはや俺には感情など存在しなかったのかも知れない。


 何せ物心ついた頃から、一度も抱きしめられたことも、手を握ってもらったことも無かったのだから。


 そんな生活がしばらく続いたある日のこと。俺がおよそ六つくらいの頃だったと思う。

 突然だった。

 母親が、忽然と姿を消したのだ。

 そして、二度と帰ってこなかった。


 出ていく前に置いていったらしき僅かな金が、哀れな息子へのせめてもの慈悲だったのか、自らの罪悪感を和らげるためだけのものだったのかは定かじゃない。だけど、そもそも金の使い方など知らなかった俺には、それは意味のない物に過ぎなかった。家の中に残る僅かな食い物で空腹を凌いでいたが、いつまでも保つものじゃない。

 俺は空腹のあまり、家から飛び出した。


 食い物から食い物へ、ただ空腹を埋めるためだけに、さ迷い続けた。

 盗みも働いた。時に殴られそうにもなったが、生きていく為には手段を選ばなかった。


 そうして、幾日もさ迷った末だ。

 俺は夜の街で働く母親を見つけた。

 綺麗な化粧と綺麗な着物を召して別人のようになっているが、間違いなく俺の母親だった。


 すぐさま俺は母親に駆け寄っていった。

 自分でも意外な行動だった。

 あんな女でも、俺はまだ母親を求めていたんだ。


 だが、そんな甘い考えはすぐに打ち砕かれる。


「なんだあ? この汚ぇ餓鬼は! おい! これお前の子か? 」


 母親の隣に居た男に行く手を阻まれた。

 男の声でようやく俺に気付いた母親は、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに冷たい表情へと変わった。


「馬鹿言うんじゃないよ! こんな餓鬼、あたしゃ"知らない"よ!」


 その瞬間、谷底に突き落とされた――

 まさに、そんな感覚だった。


「とっとと出てけ! 此処はおめェみてぇなのが来るとこじゃねぇんだ! せめてあと十年して、金稼ぐようになったら出直してきな!」


 男は馬鹿にした表情を浮かべ笑い声を上げると、母親の肩を抱いて、店に入っていった。


 俺は咄嗟に踵を返し、走り去った。


(馬鹿だ、俺はっ……)


 分かっていた。

 俺の母親はあんな女だ。

 最初から、期待なんかしてなかった。

 だから、悲しくはない。

 ただ、空虚だった。

 それを埋めたいとでも言うように、腹の虫が泣き叫ぶ。

 止まらない。

 とにかく腹は、空腹を訴え続けた。

 街を徘徊する内に、見つけたものは烏が漁っていた残飯。

 果物の皮に、野菜の切れ端。

 とても人の食べられるものではない。

 それでも手当り次第に貪った。

 汚い。そんなことは微塵も考えなかった。

 ただ、生きることで精一杯だった。


「――哀れですね……食糧を求め地を這いずり回る様は。まるで野良猫のようだ……」


 突然、頭上から聞こえる子供の声。

 いつの間にそこにいたのか、目の前に現れたそいつは、俺を見下ろして言った。


「だ、誰だてめぇ!? 失せろ!」


 俺はすぐさま残飯の山から顔を上げ、警戒心剥き出しの猫の如き形相で、そいつの顔を睨み付けた。


「おやおや、おまけに口の利き方も知らないようですね……」


 そいつは苦笑しながら俺を見た。

 いけ好かない奴だ。そう思った。

 ――でも。

 その出会いこそが、俺の人生を大きく変えるだなんて。

 その時は、まだ想像だにしていなかった――


 ***


 ――なんだこいつ。


 そいつは、俺と大して年の変わらぬ子供だった。

 だが、子供にしてはその丁寧で静かな物言いが鼻につく。

 蒼い着物を身に纏い、腰にはこれまた子供にしては長い筒状の物を携えている。

 それが何なのかは、外の世界を知らない俺にとっては知る由もなかった。


(こいつ一体、何者なんだ?)


 分からない。

 俺はより一層、警戒の色を強めた。

 すると、そいつは柔和な細い瞳を浮かべてしゃがみ込み、俺と目線を合わせて、ゆっくりと手を伸ばしてきた。


「その目、見込みがありますね……どうです? 拙者と共に来ませんか……?」

「……は?」


 こいつは、何を言っているんだ?

 俺が哀れにでも見えたのだろうか? 同情?


(そんなものっ!)


 いらない。


「馬鹿にッ……馬鹿にするなッ!」


 俺はそいつの腕を思いっきり引っ掻いてやると、弾丸の如くその場を立ち去った。


「おやおや、本当に野良猫だ……」


 なにが面白いのか。そいつはふっと微笑みながら腕の傷には目もくれず、立ち去る俺の姿を見送った。


 俺は走った。走った。そいつから遠ざかるように。孤独という名の逃げ道を、夢中になって走り続けた。


(どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがってッ!! 俺は一人でも生き抜いてやるんだ!)


 どれだけ走っただろう。どこをどう通ってきたか、自分でも分からない程に走り続け、路地裏に入った瞬間――


「――痛てッ!!」


 俺は何かにぶつかり、倒れ込んだ。


「ちっ! なん……あ……?」


 顔を上げると、見るからに柄の悪い男達が、こちらを睨んでいる。

 最悪だ。よりにもよって、こんな奴らに。


「こんの糞餓鬼! 親分のお召し物を汚しやがって……!!」


 男達がにじり寄ってくるのを、俺は尻餅をついたまま、ずるずると後ずさった。


「まあ待て――」


 凄みのある声。

 顔面に刻まれた傷が、その男の迫力を倍増させている。


「ですが、親分!」

「黙れ!!」


 その男に睨まれ、子分らしき男が引き下がった。


「――こいつ、よくよく見たら割と可愛い顔をしてるじゃねぇか?」


 親分と呼ばれた傷の男が、俺の顔をまじまじと見て、顎に手を当てる。


「だけど、こいつ男ですぜ?」

「そんなもんは、どうとでもなる――」


 傷の男はそう言って不吉な笑みを浮かべると、おもむろに手を伸ばしてきた。

 瞬間、肌が粟立つ。

 嫌だ! 嫌だ! 触るなっ!


 俺は咄嗟に立ち上がると、傷の男に体当たりした。

 思わぬ反撃を受けた男が倒れるのを確認して、俺は反対方向に逃げ出した。


「――くそっ……あの餓鬼ッ!! 逃がすな!!」


 背中越しに男の声が聞こえた。


(絶対に捕まってたまるか!!)


 俺は必死に走った。が、


「うわぁっ!!」


 先回りしていた男達にぶつかり、いとも簡単に捕えられる。

 俺は手足を縛られると、猿ぐつわを噛まされ、麻袋の中に放り込まれた。


 真っ暗な闇。


(出せっ!! 出せっ!!)


 息苦しい。

 何度も助けを求めて声をあげようとしたが、その声は篭って届かない。

 袋の中で暴れるも、それは全く意味をなさなかった。


「おら! さっさと運ぶぞ!」


 外で男達の声が聞こえる。

 だが、今何処にいるのかも、何処に向かっているのかも分からない。


(ああ……)


 もう、終わりだ。誰も助けには来ない。俺は一体、どうなるのか?

 そんな考えが頭をよぎった時――


「なんだ? このがっ……」


 ――突然、俺は地面に叩きつけられた。


「な、にが…………っ!?」


 絶句する。

 袋から這い出した俺が目にした光景は、あまりにも現実離れしたものだった。

 惨劇。

 目の前には白目をむいて横たわる先程の男達。既に絶命していることは明らかだ。

 立ち込める血の匂いに、思わず吐き気を催した。


(なん、だよ。これ……)


 不意に、呻き声が聞こえた。どうやら生存者がいるらしい。

 見れば、それは傷の男。確か……周りの連中から親分とか呼ばれていた奴だ。

 が、そいつも両足を無惨に斬られ、動けずにいる。


「あれは……」


 その側に立っていたのは、先程の少年――あいつだった。

 そして手にしているものは、血に染まり赤く光る代物。

 後に知るが、それは刀と呼ばれるものだった。


(まさかあれで、全員斬ったのか? あいつ、一人で!?)


 そいつは動けずにいる親分の元へゆっくりと歩み寄ると、冷酷な瞳を向けて言った。


「その汚れた手なら……必要ないですよね?」


 そして何気ない動作で男の右腕を掴むと――


 ――ぎゃあああァァァァァァ!!


 ボキボキッと骨の折れる嫌な音。

 いかな力を込めたのか、見れば男の右腕は、ありえない方向に曲がっている。


「首の骨を折られるよりも、腕の骨が折れた方がマシでしょう?」


 冷淡な声。自分に向けてのものじゃないと分かっていても、俺は全身に冷水を浴びせられたような感覚に陥った。


「今度、"弟"に手を出したら容赦しませんよ――」


 その時、その子供の姿は悪魔のように見えたに違いない。


 だがその時、俺には。

 俺の瞳に映るその背中は。

 英雄のように思えたのだった。


「さて、行きましょうか……」


 そいつは、俺の方を見て言った――


 ***


 自分でも何故かは分からないが、言われるがままに俺はそいつの後を着いて行った。

 途中、会話はない。ただ黙々と、俺達は進んだ。


(どこまで……?)


 とうに街からは離れている。人気のない平原で俺が僅かな不安を覚えた時、そいつはようやく足を止めた。


「ここまで来れば、いいでしょう……」


 そう言って汚れた着物の裾を払うそいつには、傷一つ、返り血すらも付いていなかった。


(只者じゃねえ……)


 素人目に見ても分かる。

 俺はいささか戦慄しながら、その様子を黙って見ていた。

 いや、本来ならば、助けて貰ったお礼を述べるべきなのだろう。

 だがどうにも、その五文字を口に出すことが出来なかった。

 そもそも、こいつを完全に信用しきった訳でもない。


「さっき……なんで、俺のこと"弟"なんて……」

「さて……なんででしょう? 拙者にも分かりません」


 言葉に迷った挙句の質問だったが、そいつは意味深な笑みを浮かべて、さらりとかわしたように見えた。


「…………強いて言うなら、拙者も貴方と同じ、"野良猫"だからでしょうか」

「えっ(どういう事だ?)」


「拙者も、貴方と同じ年の頃に両親を亡くし、そしてそれ以来、ずっと一人で生きてきました……」


(こいつも、俺と同じ? 親が居ない……"独り"なのか?)


「ですから貴方と出会い、その目を見た時、何か自分と近しいものを感じたのかもしれません。同情ではなく、同類を見付けたことが、嬉しくて……」


 そう言って、そいつは俺と目線を合わせると、手を伸ばして頭を撫でてきた。

 動けなかった……。

 その瞳、その掌は、俺が今まで見てきた人間の誰よりも、優しいものだったから。


「辛かったでしょう? 苦しかったでしょう? もう、いいんですよ? 今まで……よく頑張りましたね」

「あ……」


 次の瞬間、俺の体を包む今まで感じたことのない感触。微かな温もり。

 俺は、衝撃でしばらく何が起こったのか理解出来なかった。

 気が付けば、俺はそいつの腕の中にいた。


「これからは、拙者があなたをを守ります……兄として、この命に代えても」


 それは今までの穏やかな口調とは違い、力強い言葉だった。


「うるさいっ! お前なんか居なくたって……お前なんか……お前なんかっ……」


 ふと我に返って、俺は暴れた。無理に引き剥がそうとすれば簡単に出来た筈だ。

 だけど、出来なかった。初めて触れた温もりが心地良くて優しくて。出来ればこのままずっと包まれて居たい。そう思ったんだ。

 何せ今まで、抱き締めてもらった事など無かったのだから。


「うわぁぁぁん!!」


 俺は泣いた。力の限り泣いた。今まで失っていた感情が全て爆発したように。

 そいつの――いや、"兄さん"の腕の中で、初めて泣き叫んだのだった。


 兄さんは黙ってそんな俺の全てを受け止めるように、ぎゅっと力強く抱き締めてくれた。

 俺は何度も泣き叫び、やがて疲れ果てて眠ってしまった。


 一体どれだけ眠っていたのだろうか。気が付くと俺は兄さんの腕の中に包まれたままになっていた。


「おや、目が覚めましたか……」


 兄さんが、優しい眼差しを向けて言った。

 急に気恥しくなった俺は、俯いて兄さんの腕の中から飛び出した。


「さて、行きましょうか。弟よ」


 そう言って、兄さんは俺を背に歩き出した。


「待って!」


 兄さんの背中が遠くなる。

 また置いていかれる。

 ――もう一人は嫌だ!


 怖くなった俺は、咄嗟に兄さんの手を掴んだ。

 兄さんは少し驚いた様子で俺の方を向いた。


(怒られる……)


 俺は首を竦めて、恐る恐る兄さんの方を見た。


「ふっ……」


 すると、兄さんは僅かに笑みを零すと、俺の手を優しく握り返して、その手を引いて歩き出した。


 生まれて初めて感じる人の手の温もりだった。


 こうして母親を失った日、俺には兄が出来たのだった――


 ***


 それから俺達は、ずっと二人で生きてきた。

 呼ばれ方がいつの間にか「お前」に変わって、その後もずっと一緒だった。

 兄さんが俺にくれたものは沢山ある。

 その中でも、最初にくれたものは――"名前"だった。


 変だと思うだろうが、俺には名が無かった。

 いや、元々は母親が付けたであろう名があったのだろう。

 だが、その名で呼ばれた事など一度も無かったのだ。


 名前など、一生必要のないものだと思っていた。

 だってそれは、独りでいる限り、絶対に必要のないものだったから。


 しかしそれだと何かと不便だと、兄さんは言った。


「……じゃあ、兄さんが決めてよ。俺は、それで良い」


 そうしたら、兄さんは顎に手を当て、しばらく何かを思慮した後、俺の顔をじっと見つめて口を開いた。


「そうですね……苗字は……お前と出会った街の名から、"日暮"。そして、名前は――」


 一呼吸置いて、兄さんは優しい眼差しを浮かべると、俺の頭をぽんと撫でた。


「――匡孝」

「まさたか……?」


 馴染みのない名前に戸惑う俺。

 正直、ここに来て尚、名前を貰うことに実感が湧かないのだった。


「人や物を大切に。そういう意味が込められています……」

「な、何言って……! 俺は母親に捨てられ――」

「ええ、ですが、その母親が居なければ、お前は此処には居ませんでした。拙者と出逢うことも、兄弟になることもなかった……。憎むべき相手と言えど、親です。お前が生まれてきた意味を、御先祖様を大切にして下さいね」


 正直、意外だった。

 兄さんがこんな事を言うなんて。

 だけど、兄さんから貰った名前。

 それは、かけがえのない大切なもの。言葉に表せない程、嬉しかった。

 初めて知ったんだ。

 誰かに名前を呼んでもらうことが、こんなにも幸せなんだって。


「出来ればお前は、拙者とは反対の道を……いえ、もはや遅いですかね……」


 印象的な言葉だった。

 兄さんは、きっと本心では、自分と同じ道を歩ませたくなかったのかも知れない。

 だけどまだ幼かった俺には、その時の兄さんの心情は分からなった。

 結局、俺は兄さんの想いとは正反対の道を歩むことになるのだが……。


 それから、兄さんは生きる術を教えてくれた。


 周りの大人には一切頼らなかった。

 兄さんも大人は信用出来ないと言っていたし、俺自身もそのことは重々承知だった。


 だが、子供が二人で生きていくには、世界は甘くない。

 自らが生きるため、時には人を欺き、生命を殺めたりもした。決して人に誇れるような生き方はしていない。

 だけど、この時代を生き抜く為には手段を選ぶ余裕などなかった。


 その為、俺達は人目のつかない山奥を住処とし、時々人里に下りて来ては盗みを働いた。

 俺達はいつしか“山猫”と呼ばれ、人々から忌み嫌われる存在になっていったのだった――


 そんな生活を送り続けてどれほどの時間が経っただろう。

 元々、身体の弱かった兄さんは、度々喘息を引き起こすようになっていた。


 勿論、医者に見せに行く金など無い。

 何も出来ない無力な俺は、ただ兄さんの手を握ることしか出来なかった。


 そのこともあって、俺は兄さんから剣術も学んだ。

 この時代を生き抜く為。例え兄さんが側に居なくても自分の身を守る為。何よりも今度は俺が兄さんを守る為だ。


 だけど俺は兄さんのように上手く出来ず、力むとどうしても猿のような声が出てしまう。

 それでも兄さんは、それもお前の個性の一つだ。と認めてくれた。


 兄さんのような瞬発力には劣るとも、ならばその一刀一刀に全力を注ぐ。これが俺の戦い方だ。


 こうして、生きる為に剣を振るう俺達は、いつしかその辺の侍に引けを取らない程の腕へと成長したのだった。


 侍といえば、俺はともかく兄さんは元々、侍の家系のようだったみたいだ。

 だけど兄さんは、自分の身の上話をあまりしなかった。

 俺も、兄さんの過去のことには触れなかった。

 話したくないことを無理に聞き出す必要もない。

 それに、兄さんがどんな過去を持っていようが、俺には関係ない。

 兄さんが俺を受け入れてくれたように、俺も兄さんの全てを受け入れる。

 俺は一生、兄さんについて行くって決めたのだから。


 そんな生活が八年も続いた。


 兄さんは持病を抱えたまま、日に日にその身体が衰弱していった。


 そんなある日のことだった。

 久しぶりに人里に下りてきた時、目の前で無邪気に戯れる子供を横目に兄さんがおもむろに、口を開いた。


「人は生まれながらにして、皆、"平等ではない"。それは分かっています」


 そういう兄さんの目はいつになく真剣で、どことなく哀しげにも見えた。


「では大人が見せる、名も知らぬ子供に向ける笑顔と、拙者達に向ける蔑んだ目は何が違うのでしょう? 一体あの子供と拙者達の、何が違うというのでしょうか……?」


 いつもと違う雰囲気。

 兄さんの言葉に俺は何も返すことが出来なかった。


「匡孝……」


 ふと兄さんに呼ばれて、俺は顔を上げた。

 その後告げられた一言は今でも、この胸に焼き付いている。


「この世の中を、終わりにしましょうか――」


 そう言われた時も、俺はただ兄さんに従っただけだった。

 だけどあの時、兄さんは一体、何を思っていたのか。


 俺達を野良猫の如く扱った世の中に復讐がしたかったのか。自分の生命の残り火を感じて、何かこの世に自分の存在を知らしめたかったのか。

 それは兄さんにしか分からない。


 それが、後に起こる大きな闘いの根源となるのは、また別の話だ――


 ***


「みぃ……みぃ……」


 ふと、足元から聞こえてくる鳴き声に、俺は自己の世界より引き戻された。

 見れば、小さな子猫が足元に擦り寄って来ていた。

 まだやっと歩けるようになったくらいだろう。

 しかし、近くに母猫らしき姿は見当たらなかった。


「お前も、孤児なのか……?」


 俺は子猫をそっと抱き上げた。

 真っ黒な毛並みは雨に濡れて、その硝子のような灰色の瞳は、心做しか泣いているように思えた。


「俺達と一緒だな……」


 それはまるで、あの頃の自分を映し出しているかのように見えた。


「みぃ!! みぃ!!」


 子猫はお腹が空いているのか、更に激しく鳴き喚いた。

 しかしここの所、自分も兄さんもろくに食べていない。


「すまないな。何も食わせてやるものがなくて」


 俺には子猫をただ抱き締めてやることしか出来ない。


(強くなりたい。兄さんみたいに、もっと強くなりたい……)


 少年の心の声は、雨の音と共にかき消されていくのだった――

果たしてこの少年達に救いの手はあるのか――


***


これにて、番外編を完結致します(^_ _^)

そして、次回より物語は新章に突入します!!

そうご期待!!

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