名を継ぐ者。
此処は、とある異国の地――
風情ある石造りの家々が建ち並び、その下を青や緑色の目をした人々が行き交っている。
本日もこの街は、大勢の人々で賑わいを見せているのであった。
そんな忙しない街並みを、とある一人の若者が、眺めている。
少し日焼けした肌に、この地では珍しい猫っ毛の黒髪と黒い瞳。そして人よりも少し目立つ鼻が、この国に生息する動物、子守熊を思わせる。
皺一つない黒い制服に身を包んだ、人の良さそうなこの若者は、警官だ。
――といっても、この春、入管したばかりの新人だが。
「Fu wa~a……」
若者はふと大きな欠伸を零した
職務中にも関わらず、完全に気を抜いている様子の若者。
実は彼がこの街に就任してからというもの、それらしい事件は一度も起こっていなかったのである。
元々、この街は治安が良いのだ。だからこそ、新人の彼でも任せられるわけだが。
しかし、若者はこの平凡な日常に、早くも飽き飽きしていたのだった。
(I read the novel which I purchased yesterday today if I return ⦅今日帰ったら、昨日購入した新作の小説でも読むか⦆)
そんなことを思い浮かべていた、その時――
「――kjaer (キャー)!!」
突然、遠くから悲鳴が聞こえてきて、若者は急いで声のする方へ走り出した――
若者が現場に到着すると、辺りは何やら騒然としていた。
「――The horse-drawn runaway (馬車が暴走したぞ)!!」
「Stop anyone (誰か止めろ)!!」
見ると道の大通りを馬車を引いた馬が暴走している――
「――Stop the horse (誰かその馬を止めてくれ)!!」
発狂した馬に振り落とされたらしい騎士が叫んだ。
その暴走する馬車の向かう先には――転んだらしく泣きじゃくる子供が居た。
「Dangerous (危ない)――!!!!」
人々が叫ぶ。
(Damn, this is the only way to shoot a horse ⦅くそっ、これは馬を撃つしかない⦆!!)
若者は懐に忍ばせていた拳銃を取り出すと、震える手で銃口を馬に向けた――
しかし、緊迫した状況で手が震え中々狙いが定まらない。
――その時、
「Hey (おい)! You are in danger (あんた危ないぞ)!」
(what ⦅なんだ⦆――?)
若者が目を向けると、先程倒れていた子供を庇うように長身の男が立ちはだかったのだった。
男はその鋭い眼差しを馬に向けると、迫り来る馬を見据えながら、ゆっくりとその腰のものを引き抜いた。
それは見るからに尋常ではない巨大な刃物だ。
(Indeed do you intend to cut it in that ⦅まさかあれで斬るつもりか⦆?)
いくら暴走しているとはいえ可哀想な気もする。しかし今の自分には止められる自信が無い。
ここはやはり彼に任せた方が賢明? だが、そもそも斬れるのか?
いくらなんでも相手は馬車だ。
やはりここは自分が止めるしか――
若者が躊躇してる間にも、馬車は男の目前まで迫っていた――
「Dangerous (危ない)――!!!!」
――バン!!
男が刃物を振るうのと、若者が拳銃を放ったのは同時だった――
人々が悲鳴をあげ、目を覆う。
若者は衝撃で腰を抜かし、地面にへたり込んでしまった。
しかしいつの間にやら、あれ程暴走していた馬車は全く傷付くことなく、その動きを止めていたのである。
その馬車の目の前には、煉瓦造りの道に深く突き刺さる刃物があった――
男はその刃物を振るうことなく、馬の目の前でそれを突き立てたのだった。
因みに若者の放った拳銃は的を外し、馬車の窓を貫いていた。
「Oh my gosh (なんてことだ)……」
あまりの衝撃に、若者は呆然としてしまった。
その時、体重百キロオーバーは堅いスキンヘッドの巨漢を揺らしながら、若者と同じく黒い制服に身を包んだ警官が息を切らせて走ってきた。
「Ryo (リョウ)! It would be dangerous if you shoot handguns indefinitely (無闇に拳銃をぶっぱなしたら危ないだろう)!!」
若者の上司らしき警官が顔を真っ赤にして怒鳴り散らすも、若者にその声は殆ど届いていない。
ふと若者は思い出したかのように、もう一度先程の場所を見た。
そこには子供の母親らしき人が、子供を抱きしめて泣いている姿。
片手で馬を撫でながらも、警官に事情聴取を受ける騎士の姿。
しかし何処を探しても、あの巨大な刃物も男の姿もなかった――
「Is that a samurai (あれはサムライ)?」
若者が呟いた。
サムライ――それはとある異国の地に存在する最強の人物。
そしてその者達が持っている刃物――それは刀と呼ばれる代物だ。
その刀を振るうことも誰一人傷つけることなく、事態を収めた。
それは隻腕の侍だった――
***
時は神代曙歴二三二二年――
此処は各国の強豪な侍達の集う、市原虎の尾。
つい先週まで美しく咲き誇っていた桜並木も、今や緑色へと姿を変えていた。
その並木の下を、息を切らせながら、朝霧綾人は走っていた――
汗でその前髪は張り付いて見え、そのせいで視界が充分でないのか、時折躓きそうにもなっているのだった。
それでも綾人はその足を全く緩めることはなかった。
何故ならば、この村の総長である鴛鴦丈芳からの銘により、内密な書状を異国へと届ける為、遠征に出ていた相棒が本日、数週間振りに戻ってくるからだ。
一刻も早く相棒の顔を見たい。
その一心で、一瞬の休息さえも、もどかしく感じてしまうのだった。
こうして普段の半分以下の時間で目的の家に辿り着くと、綾人はようやく一息ついた。
その時ふと、庭邸から威勢の良い声が聞こえてきた――
もしや。と思った綾人は急いで庭へ回ると、そこには予想通り右半分だけ着物をはだけさせた相棒、金剛直樹が愛刀である「車駐」を一心不乱に振りかぶっているのだった。
「直樹!?」
「おお! 綾人か!」
綾人に気付いた直樹が、その顔を向けて破顔した。
「何してるんだよ!」
直樹の元に近寄りながらも、若干怒ったように言う綾人。
「何って、見れば分かるだろ? 修行だ」
何を今更というように、困惑の表情を浮かべる直樹。
「いや、そうじゃなくて。長旅の後くらいゆっくり休めって」
綾人の言葉に、そういうことか。とようやく理解した直樹は苦笑いするも続けて言った。
「向こうにいる間も移動中も、ろくに修行できなかったからな。身体がなまっちまう」
「まったく……」
真面目な直己らしいや。と困ったように笑う綾人。
「折角来てもらった所すまないが、あと素振り百回程残っているんだ。終わるまで、そこに座って待っててくれないか?」
「おう」
直樹に言われるがままに、綾人は縁側に腰掛ける。
それを確認した直樹は、再び車駐を振り始めた。
刀を持つ右腕の筋肉が、振るう度にうなりをあげる様を、綾人はただ呆然と見守っていた。
しかし、直樹の振りかぶる動きは、時折乱れが表れるのだった。
やはり片腕では車駐を扱うのには、骨が折れるようだ。
直樹は「武士櫻の闘い」にて左腕を失くしていたのだった。
そして、それは他ならぬ綾人を庇った為であった――
車駐を十分には扱えない。
他の刀に変える提案もあったが、直樹はそれを頑なに断っていたのだった。
刀は侍にとって、命の次に大切なもの。
そう簡単に変えられるものではないことも、綾人は重々承知の上だった。
だからこそ、自分のせいでこんな身体になってしまったことを、綾人は未だ罪悪感を抱えたまま過ごしていたのだった。
「ふぅ……」
ようやく修行を終えた直樹は汗を拭うと、綾人の隣に腰掛けた。
「直樹、刀を変えようとは思わなかったのか……?」
突如、綾人が呟いた。
突然のことに直樹は驚いたように、綾人の顔を見た。
「あっ、すまない! 変なこと聞いちゃって。別に直樹に対してとかじゃないんだ……」
慌てて綾人が両手を振り誤魔化した。
そんな綾人を真面目な顔で見つめる直樹。
すると、再び直樹は立ち上がると、立てかけてあった車駐を持ち綾人の元へやって来た。
「綾人。この刀、持ってみるか?」
「えっ? いいのか?」
同じ仲間といえど、他人の刀を持ったことはなかった。
刀は侍にとって自分の分身のようなもの。
そう易々と触れていいものではないのだ。
斯く言う綾人も、車駐を持つのは初めてだった。
綾人は緊張で震えながらも、直樹の手から渡されたそれをしっかりと受け取った。
「重っ……!?」
重さにして人一人分程もあるそれは、想像以上に綾人の両手にずっしりと、のしかかる。
両手で持つことさえやっとなのに、これを更に片手で振るうなんて。
直樹だからこそ、出来る技だろう。
「どうだ? 重いだろう?」
「ああ、予想以上に……」
直樹は微笑むと、綾人から車駐を受け取った。
そして車駐をかざして見せると話を続けた。
「確かに俺は以前のようには、こいつを扱うことは難しくなった……刀を変える方が賢明だということもな……」
「…………」
直樹の言葉に綾人は、何も返す事が出来ない。
「だが、俺はこいつを手放すことは出来ない。簡単に手放しちゃいけねぇんだ」
ふと、直樹がいつになく真面目な顔になった。
「こいつは先祖から代々受け継がれてきたもので、俺の故郷の宝刀でもあるんだ。だから、俺は故郷の名も背負っている」
そして、直樹はゆっくりと上げていた腕を下ろすと、再び車駐を柱に立てかけ、語り出した。
「なぁ綾人……この刀の由来を知っているか――?」
***
時は神代曙歴一六七年。
空にはまだ天を翔る龍が飛んでいた頃。
見渡す限りの山々に囲まれた窪地には、僅かながら人の住む集落があった。
しかし、この地には名が無い。
此処は度重なる災害と凶作続きで、滅びるのは時間の問題とされていたからである。
そしてこの災害はこの山の頂に居る、この地の主である"龍"によるものだと言われていた。
龍相手には到底及ばない人々は、ただ終焉の時をじっと待つことしか出来なかった。
そんな絶望の淵にいる村を救おうと、ある時、一人の青年が立ち上がったのである。
青年は村の職人に頼み込み、刀を作らせた。
龍の鱗をも一刀両断にするような刀をと。
この地で一番硬いとされる鉱物を幾つも重ね幾日にもかけて完成したそれは、長さ四尺五寸。見るからに尋常ではない強靭な大刀だった。
青年は早速、それを片手に山道を登った。
登れば登る程、霧は濃くなり、一方で空気は薄くなる。
それでも青年は進む足を止めることはなかった。
そして、ようやく雲をも越す程の山頂へ辿り着いたのである。
着いて早々、その目に飛び込んできたものは――山を覆い尽くす程の巨大な龍だった。
その瞳は獰猛で、睨み殺されそうであった。
龍はすぐさま侵入者に気が付くと、その体をうねらせ、青年目掛けて突進してきた――
青年は飛躍の動きを見せ、龍の突進を避ける。
すぐさま龍は蛇の如く、その巨体をうねらせ体制を立て直すと、今度は口を大きく開き、炎を吹いた。
青年はすぐさま、その大刀を振りかぶった。
その大刀から放たれた斬波は炎を斬り裂き、更には龍の体をも斬り裂いたのだ――
――ぎゃあああああああああ!!
地に響く程の悲鳴をあげ、龍の体が真っ二つに裂けた――
その瞬間、血の雨が降り注いだ。
青年と大刀は、その雨を全身に浴び、赤く染まったのだった。
***
その後、主の居なくなった村では、以前とは打って変わったように豊作続きで、人々の暮らしは豊かになった。
村を救った青年は人々から称えられ、村一番の美しい娘との将来も約束されていた。
しかし、その幸せも長くは続かなかった――
暫く経つと、再び田んぼや畑は枯れ果て、度重なる大雨や山崩れ、落雷による山火事などに見舞われた。
中でも一番深刻だったのが、原因不明の病により、老若男女問わず何人もの人がその生命を奪われていたのだった。
そして青年もまた、その病により短い生涯を終えたのだ。
"村を頼む"。そう一人の"親友"に言い遺して――
村の人々はこの事態を、龍の祟りだとして、龍の返り血を浴びた青年の大刀は、呪われし妖刀とされ封印された。
そんな不幸な事態が続く中、遂に村を崩壊させる程の大洪水が襲ったのである――
龍の祟りを収めるために、人々は唯一の希望を掛けた。
それは村一番の美しい娘。かつて青年との仲を約束していた娘を、生贄に捧げることにしたのだ。
純白の布を身を纏った娘は、その手足を木の杭に縛られ、その身は氾濫する河川に晒された。
激しく氾濫する河川は、まるで龍の怒りのようだった。
娘の身体が徐々に増していく水位に沈んでいく――
徐々に身体が冷たくなっていくのを感じながら――娘は最期にあの青年のことを想った。
――もうすぐ、私もそっちへ逝きます……
娘の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。
「――おい! 何してる!」
その時、村人の忠告を無視して、氾濫する川の中に飛び込んで行く一人の青年の姿。
「止めろ!! 龍の祟りが来るぞ!! その娘から離れろ!!」
しかし、村人の言葉など耳も貸さずに、青年は娘の元へ近付いて行き、その縄を切った。
「ああっ! なんて事を!! 祟りが来るぞ! この村はもうおしめぇだぁ〜!!」
「見ろ!! 大洪水だぁ!!」
目の前には、迫り来る大洪水――
しかし青年は一歩も動くことなく、手のものを振り上げる。
それはあの青年の大刀だった――
そして、青年はその大刀を、深く地面に突き刺したのである――
――バキバキッッッ!!!!
その瞬間――地面が真っ二つに裂け、迫り来る洪水はみるみる内にその溝へと流れ落ちていった。
やがて氾濫していた河川は、巨大な滝へと姿を変えたのである。
村人逹が呆気にとられる中、青年は娘をその腕にしっかりと抱き留めていた。
「もう、誰も死なせない」
泣きじゃくる娘に、青年は一言、力強く言ったのだった。
いつの間にか、血で染まった大刀は洪水で洗い流され、元の美しい輝きを放っていた。
大刀を振るうことも、誰一人傷付けることなく。
あの大洪水も、龍の祟りさえも、鎮めたのだ。
青年はその後、娘と夫婦となり、やがてその大刀は子へと受け継がれていく。
その青年の名は――金剛。
そして名の無かった山には、村を救った英雄の名を取り"金剛山"と名付けられた。
一方の大刀は"車駐"と名付けられた。
車駐――それはもう一人の青年、金剛の親友の名である。
この村を救おうとしたもう一人の英雄の名を生涯忘れぬように、その大刀に刻んだのだ。
そうやって車駐は金剛家に、親から子へと代々受け継がれてきた、宝刀なのであった。
***
直樹の話に綾人は言葉を失っていた。
この車駐にそんな逸話があったとは。
「――この刀の重さは、今まで繋いできた先祖逹の"思いの重さ"だと思うんだ。だから、俺もこの刀を引き継いだからには、しっかりとその思いを繋いでいかなければならない」
直樹の凛とした横顔。
「確かに俺は以前のように、こいつを振り回すことは難しくなったし、威力も下がったと思う」
眼差しの奥で光る輝き。
「だが俺の先祖は、こいつを振るうことも誰一人傷付けることなく、人々を救ったのだ。こいつは本来、傷付ける為じゃなく守る為に受け継がれてきたものなのだ」
静かながらも、しっかりと胸に響く声。
「俺はいつの間にか、そんなことも忘れていた。俺はこの身体になって、ようやくそのことに気付けたんだ。全くそんな自分を恥じているよ」
風になびく長髪の黒髪。
「そりゃ俺だって人間だ。初めは悔しかったさ。悔しくて悔しくて、何度も躍起になった。だが、今俺は、この身体になったことに後悔は微塵もしていない」
直樹の話す言葉ひとつひとつに、重みを感じられた。
「お陰で大切なことにも気付くことが出来た。俺は今後もこいつと共に歩んで、いつか後世に繋いでいこうと思っている」
そして、最後に綾人の顔を見ると、優しい眼差しを向けて言った。
「だから俺の為に、自分を責めないでくれよ……」
まるで綾人の気持ちを見透かしているかのように、直樹が優しくその手を綾人の肩に乗せる。
直樹の顔はいつもの優しい表情だったが、その奥の瞳は何処か悲しげであった。
自分を責めるな。
それは仲間達にも散々言われたことだ。
過去はどれだけ悔やんでも戻ることはない。
ただ前に進み続けるしかないのだ。
そして今、直樹は前を向いて進んでいる。
直樹は強い――
「強いな直樹は」
「…………?」
違う。
こんなことを言いたいんじゃない。
だけど困惑しながらも笑う直樹に、それ以上何も言えなくなってしまった。
綾人は突如立ち上がると、無理に笑顔を作って見せた。
「悪いな。つい長居して。ま、何だかんだ言ったって長旅の後だからな。しっかりと身体休めろよな! じゃ、俺は行くわ」
そう言って綾人は踵を返すと、後ろを振り返ることなく立ち去って行った――
帰り道でも、綾人は思いを巡らせている。
直樹は前を向いて歩いている。
それはとても強くて立派なことだ。
後悔しても前には進めない。
そんなことは分かっている――
だけど、俺は。俺は――
ふと綾人は足を止めると、そっと呟いた。
それは誰に聞かせる訳でも、自分自身に向けて言った言葉なのかも分からないものだった。
「俺は直樹のようには、なれない――」
(完)




