中に。(2/2)
彼の期待に反して、少女が窓を叩いたのは、それから二日も経った午後だった。夜の騒ぎを聞いて、すぐにも飛んできてくれると思っていたのに、押し入れの向こうの隣室は、しんと静まり返っていた。
「毎日来るって言ったのにね。大丈夫だった?」
うなずく彼に安心したような微笑みを力なく浮かべると、少女は腰を下ろすのも辛そうに、やっとのことで畳に足を投げ出した。彼女がママさんのことを心配して尋ねたのなら、昨日に限ってママさんは彼の保護者を演じていた。二度と来るなと男を追い返した夜が明けると、ママさんは憑き物が落ちたように彼を泣きながらかき抱き、風呂場で彼の体を丁寧に洗った。口を開けば「ごめんねごめんね」とつぶやくばかり。ひょっとして泣いていたのかもしれないが、シャワーで濡れたママさんの顔に涙を見分けることはできなかった。この日、ママさんは一度も彼に手を挙げることはなかった。日が暮れて男が残していった紙袋のことを思い出し、彼を呼ぶとハサミを持たせて封を開けるのを手伝った。
「腰のそれ、変身ベルト? おかあさんに買ってもらったんだ。良かったね」
少女は、彼の玩具への興味もそこそこに、じっとしていても体が痛むのか、顔色は生気に乏しい。ママさんは、「ったく、あいつテレビ映んないの知ってるくせに、見てるわけねえじゃん」と、ぶつくさ愚痴をこぼしこそすれ、ピカピカ電飾が光る玩具を彼の腰につけてやると、まんざら悪くない格好いいじゃんとおどけてみせた。出かける前、寝癖で屹立した彼の髪を撫でつけて、「早く帰ってDVD借りてきてやるから。ライダー一緒に見よ」そう言うママさんの声は、酒を飲んでなくても穏やかだった。
「ひどい格好でしょ、私」
少女がブラウスから着替えたTシャツは、色こそ同じだったけれど、彼の着古したランニングと変わらない、肌が透けて見えるような薄っぺらだった。日射しを受けて目に痛いほど白く映えた生地が、その向こうでより数を増して露わになった生傷を、残酷にほのめかす。下の見覚えあるスカートも、貧弱な上着に引きずられるように、折り目が消えかかってだらしなく太ももにまとわりついていた。少女はそんな有様を恥ずかしがるように目を伏せると、畳の上に丸まった、ブラウスだったものを彼に示した。しわくちゃで、あちこちが裂かれ汚された布きれの中に、繕い糸の端が見える。
「破かれちゃった。最後の一枚だったのに、もう着れないよ」
大したことないように振る舞っていても、大事なものを失った悲しみが自暴自棄な諦めを呼んで、震える声を抑えきれない。手すりの上で髪や制服を風になびかせ、高らかに宣言してみせた彼女はどこへ行ったんだろう。押し入れの彼まで壁を越えて伝わってきた、あの怖くて痛い、有無を言わせない力が、ブラウスと一緒に天使を顕す羽根さえも、雑草のように摘み取ってしまったようだ。二度と生えてこないように、根っこごと引き抜いてしまったようだった。
「きのうだって来るつもりだったんだよ。このお菓子だって、きのう買ったんだし。でもね、わかってほしいんだけど、おねえさんだってほら、例えば体の調子が悪かったり、ほかにもいろいろ、大変なんだよね。君には、わからないかもしれないけどさ。まだ小さいし」
奮い立たせるように張った声が、どんどん弱々しくなっていき、やがて漏れ出るような吐息に消える。少女が手を目元に何度もあてがって、彼ははじめて泣いているんだと気づいた。
「言い訳ばっかり、全然ダメだよね。いつもこうなんだ、私。絶対って決めたことも、少し時間が経つとすぐに……。忘れてるわけじゃないのに、気持ちに嘘はついてないと思うのに。気がついたら、いつもの嫌な自分になっちゃってる。こんななのに君の前で偉そうに天使だなんて、バカみたい」
話しかけてくるようでいて、声の行き先を逆戻りさせている少女は、シャワーに打たれる昨日のママさんをそのままなぞっているようだった。あの時も、彼は、ママさんにどう応えるべきかわからずに、ただすがるように伸びてくるママさんの手の体温を感じていた。
少女は、顔を合わせようともしない彼に苛立つような視線をぶつけていたが、ふと着ているシャツに手をかけた。「見て」彼に背中を向けると、裾を両手でめいっぱい引き上げる。「ちゃんと見て」
むき出しの背中を縦横に走る無数の傷痕が、彼の視界いっぱいに突きつけられた。治りかけた上から更に新しい打擲が加わって、ひとつひとつの線をたどることも難しい。まるで網の上で焼かれたように赤黒く腫れ上がった肌の上を、じゅくじゅくした黄色い膿が、新しい傷から滲み出す血と混じって、吐きたくなるような臭気が鼻を打つ。全てが、悪い夢を見ているような鮮烈さで、彼の感覚をなぶるように訴えてきていた。
「ねえ、この背中のどこに羽根があるの、翼があるの? 傷の中に隠れてたりするのかな? 痛いけど指でほじくったら出てきてくれたりするのかな? 自分じゃできないから、君やってみてくれない? 血だらけで臭くて、そんなんでとても空飛べるなんて思えないけど。だって、君には見えたんでしょ? 私の翼が」
彼は、少女の出し抜けの激情に怯えて後じさる。少女は向き直ると、逃がさないとばかりに詰め寄った。
「それに知ってた? 私、高いところダメなんだよ。ここに来るのにベランダまたぐのだって、足ガクガクだったし、落ちるんじゃないかって怖くて泣きそうだったんだよ? 翼があったって怖くて飛べないかもしれない。笑っちゃうよね」
彼の背中が押し入れの襖にぶつかる。中に逃げようとしたが、素早く回り込んだ少女に阻まれた。少女は、しゃっくりのように喉を鳴らして、容赦のない蔑むような視線を彼にぶつける。
「私こんなんだよ? こんな汚い格好で傷だらけで、みんなから馬鹿にされて、こんなのが天使なの? そんなわけないじゃない。みんなの幸せとか笑顔なんて、自分のだってどうにもできてないのに。君だって、最初からそう思ってたんでしょ? この前だってさ、翼があるフリをしてれば君が困った顔するのを笑って、なあんちゃってそんなのあるわけないじゃんって言うつもりだったのに。君、何なの? どうして、あんなこと言ったわけ? 天使なんだってありもしない翼を自慢してるのに話を合わせて、からかってやろうと思っただけ? 頭のおかしいかわいそうな奴だからって同情してくれたのかな? 君だって、私とおんなじ何もできない子どものくせに、偉そうにしないでよ」
ママさんが言ったことは正しかった。彼には、絵本の子どものように見たままを叫ぶことはできなかった。でも、それは口にする勇気がなかったからとは思いたくない。さかしらにその場の空気を読んだつもりもなかった。だって、少女は確かに天使だと、そう思えたのだから。
「何も言ってくれないけど、私わかってるよ。君、おかあさんにひどいことされてるんでしょ? あごのそのケガ、おとといはそんなのなかったじゃない。ごはんだって、おかあさん、ちゃんと食べさせてくれてる? おとうさんは? おかあさんに言える人、誰もいないの?」
彼は少女の声がほとんど聞こえなかった。いや、聞きたくなかった。彼女がベランダの手すりに立ったあの時から、彼はその背中に何も見つけることはできなかったけれど、それは少女の思いとは何も関係ない。ママさんにも同じように見えたとしても、たとえ世界中の誰からも相手にされなくたって、私は天使なんだと誇る少女の意志がある限り。それは、バカと思われることが怖くて、存在しない服を着ている道化を演じた絵本の王さまなんかとはまるで違う。まして、ぬいぐるみ同然にママさんから「かわいい」と思われることだけに汲汲としている彼自身なんて。だから彼も、思ったままを伝えた。それなのに、彼の信じた少女を彼女自身が否定してしまうなんて。
「こんなに小さいのに、私とおんなじくらい辛い目にあってるなんて、お隣さんなのにずっと気づけなかった。ねえどうして何も言ってくれないの? おねえさんに教えてよ。きっと君の力になってあげられるから」
ママさんとは違うものを少女に期待していた気持ちが、風船のように萎んでいく。そしてそれを知られれば、きっと余計に彼女を悲しませてしまうだろうことが怖かった。彼は、いっそ、ママさんが帰ってきてくれたらとさえ思った。明日はまた元に戻っていても、とりあえず今日のママさんの方が心地良い。少女の手が腰のベルトに触れて、彼の総身に怖気が走った。揺すって振り払おうとすると、少女は追い詰められたように声を高めた。指が玩具を固定するスイッチを見つけて、彼はベルトを脱ぎ捨てた。
「どうして? ほんとのことを話してよ。君の役に立たせて。私に君を助けさせてよ。ねえ、何とか言ってよ!」
彼は耳を押さえてうずくまり、少女はそれを呆然と見つめる。堂々巡りで同じところへ帰ってきたことを認め合うには十分な沈黙が訪れた。
「ごめんね、怒鳴ったりして。天使なんて言って君を困らせたのは私なのに、君は何にも悪くないのに」
盛っていた火が消えたように、少女の声が重く沈む。彼は、ふてくされたように身をすくませていた。畳に散らばった駄菓子を指でもてあそぶ。この前は気持ちを明るく導いてくれた彩りが、どうして今日に限って控えめに色褪せて見えるのか、憎らしくさえ思えた。
少女は彼の玩具を手に持って、表面のゴテゴテした造形やボタンを眺めていたが、やがて「君も、いつか変わりたいって思う時が来るよ」とつぶやいた。
「私、小さい頃から何にもちゃんとできたことなくて、いつも役立たずって怒られてばっかりだった。でも、こんな私だって天使になれば、それだけでみんなの役に立てる力を持てる。そしたら、生きていてもいいんだって思える。そう教えてくれたんだ、あの人が。君は、もう信じてくれないかもしれないけど、天使は、ほんとにいるんだよ。だって、私のところに、来てくれたんだもん」
少女はふいに、「アケルナ」の向こういっぱいに広がる、夕暮れに淡くなりつつある青を仰いだ。
「あの空から降りてきたんだ、天使のあの人。きのうのことみたいに、はっきり覚えてる。言葉を話すふしぎなネコの夢から覚めたばかりで、さっきの君みたいに窓の外を見てた。そしたら、空が真っ白な光で包まれて、全然まぶしくない、やわらかくてあたたかい光……。きれいだった。これ以上きれいなものなんてどこにもないくらい澄みきってた。その中に、あの人がいるのがわかる。ううん、あの光があの人そのものなんだと思う」
少女は、胸に手を当てて、体の内側に耳をすませるように、肩を上下させて息を吐いた。
「あの人は言ったよ。翼が欲しければ、現実を飛び越えなさいって。苦しいことに負けちゃダメ。この世界のどんな痛いことや嫌なこと辛いことも体に受け止めて、でもそれでも、泣かないで跳ね返しちゃうくらいに強く、強く……そうすれば、私も本当の翼を持てる。みんなを、君を救える、天使に変われる」
少女の言葉を真に受けようにも一笑に付そうにも、幼い彼の未熟な想像力では追いつくことさえ難しかった。それっきり少女の声は途絶えた。
ひとりで過ごす彼の静かな午後が戻ってきたようだった。耳を傾けると、窓にぶつかる風の音に混じって、少女がハサミで何かを切っているサクサクという音が聞こえる。少し前、「ねえ。ここにハサミあるんだけど、使っていいかな」と気遣うような少女の声が背中を打った。玩具の包みを開けた時、ママさんは危ないからと言って彼からハサミを取り上げたくせに、片付けるのを忘れていた。何も応えない彼に、少女は「ちょっと借りるね、すぐ戻すから」と言葉を重ねると、そっと彼から離れた。何をしているのか気にはなったが、変に意固地になってしまった気持ちは、振り向くことを拒んでいた。
どれくらい経ったろうか、彼の火照った体と悶々とした頭を、一吹きの風が薙いだ。西日で熱がこもった部屋に爽やかな空気が吹き込んで、彼は目を覚まされたように体を捻った。窓の開いたベランダを、そこで彼が起き上がるまで待っていたように立つ少女を見た。
「いくよ、まばたきしないで!」
手すりを越えた七階の中空に、吹き上がる風を受けてほんの一瞬、無数の白く、小さな欠片が舞い上がる。彼の瞳はカメラがシャッターを切るように、まるで羽根のようなそれらが、少女の手のひらから青い空と下界の風景との狭間へと、解き放たれていく瞬間を収めていた。足が窓の縁で何かに触れる。見ると、落ちているハサミのそばに、型抜くように裁断されたブラウスが散らばっていた。
「落ちてくよ。こっち出て来て、見てみない?」
いつにも増して強い風に髪をかき回されながら、少女の声が彼を誘う。サッシを踏み越えようとした足が、ギリギリのところで「アケルナ」に気づいて引っ込んだ。少女は彼の慌てように、くすりと微笑んだ。手の中に残っていた最後のひとかけらを、風に放ろうと離しかけたところでぎゅっと握りしめる。ベランダと部屋の境界を越えて、少女の手が彼へ伸びた。「これ、君に持っててほしいんだ。私が、ほんとの天使になるまで」少女は言った。
「とっても嬉しかったんだよ。君が私のこと、天使だって認めてくれて。でも、そんな君を裏切ってる自分が情けなくて、恥ずかしかったんだ」
彼は、半ズボンの陰に隠していた手を差し出した。二人の手は、触れ合う一歩手前のところで互いを求めぬまま静止する。少女が手を広げると、白いかけらは彼の手のひらに落ちた。布地には、黄ばんだ染みのような汚れがついていた。
「今、君にあげられるのは、こんなブラウスの切れっぱしだけ。でも、私、必ずなってみせるからね。あの人に負けない、強くてかっこよくて、すてきな天使に。そしたら、君のために、本物の羽根で飛んで見せるよ。それまでは君が、持っていて。おねがい」
少女の瞳が、彼がドアを開けて出会った時のように、ベランダを越えて彼を訪れた時のように、彼が天使と信じた力を取り戻して、またたいた。彼は、少女の背にどこまでも広がるベランダの先の空を見た。その虚空を、翼をはためかせて自由に舞う少女の姿が、思い描けるように。視界の隅に、団地の歩道が望める。道端の植え込みを踏みつけながら、この建物の一階の入口へ向かう人影が見える。派手な色の髪と服が、夕陽を跳ね返している。──ママさん。彼がそう気づいた時には、ママさんは顔を上向けベランダの二人を見紛うことなく捉えた。一拍遅れて少女が何気なく振り返ったが、下にはもう誰の姿もない。エレベーターに乗っているか、降りてくるのを待つのももどかしく階段を駆け上がっているか。聞こえるはずもないのに、ママさんの足音が彼の耳に直接ハンマーで打つように響いて痛い。どうすればいい。二階を三階をあっという間に、ママさんはこの部屋に迫ってくる。少女を逃がさないと。彼女が手すりを越えるだけの時間があるかどうか。隠れる、押し入れか風呂場か。でも、既に二人一緒のところを見られているのに。ママさんを説得できるどんな方法があるのか。コツコツコツと早い聞き覚えのある靴音は空耳じゃない。ダメだ。間に合わない。音がどんどん大きくなり、外のドアの前で止まった。回転するノブ。開かない。少女が玄関のドアを見やった。鍵穴に鍵が刺さる。錠が外れた。彼は叫ばずにいられなかった。
──ここから、外へ、連れてって。
ドアが開いた。同時に、少女の腕が背中に回る。彼は、信じられないほど強い力で少女の方へと引
っ張られた。彼と同じ、汗と垢と血の混じった臭いに抱きしめられる。
「言ったでしょ。天使は絶対、君の味方だからね」
最後に、そう耳元で囁くと、少女は彼の頭をがっしりとつかんだ。何をするのか問うより早く、彼女の唇が彼の言葉を塞いだ。息が、できなかった。
玄関を入ってすぐの床に、ママさんのバッグと一緒にレンタルショップの袋が落ちた。勢いで、中の透明なDVDケースが、転がり出る。ディスクは虹色の光を揺らめかせるが、誰の目にも留まらない。




