外から。(3/3)
再びベランダを「飛んだ」少女は、いっぱいに膨らんだスーパーの袋を片手に戻ってきた。
「じゃじゃーん。とっときのカップラーメン」を取り出して、それでももじもじしている彼を見ると、みなまで言わせず封を開け、台所のヤカンで湯を沸かすと「三分待って」フォークで蓋して彼の前に置いた。最後の十秒を少女のカウントダウンで迎えると、彼は熱いスープに舌がビクつくのももどかしく、あっという間に平らげた。ラーメンをすすっている間中、彼は袋に入ったスナック菓子の色とりどりな包装に目を奪われていた。ママさんのおこぼれじゃないおやつを食べたのは、いつのことだったろう。スーパーの菓子売場を最後に歩いた記憶も、はるか遠すぎて夢に近しい出来事のようだった。チーズ味の駄菓子は袋に数え切れないくらい入っていて、食べても食べても底が見えなかった。
少女は、「もっとお行儀よくしないとダメだよ」と言いつつ感心していたが、次第にママさんが彼にどんな食事を与えていたのか疑わずにいられなくなり、その表情に陰が差した。
「明日も、ううん、いつでも持ってきてあげる。天使は、何でもできるんだから」
その言葉を口にすると、少女の顔は憂いから解放される。それどころか、ひときわ明るく輝きを増すようにさえ、彼には思えた。──テンシ。彼は、そっと口の中で転がしてみる。
「もしかして、天使って知らないの」
少女の問いかけに、彼は困惑を顔に浮かべる。
「本やテレビで、見たことない?」
少女は尋ねてから、ぬいぐるみだけが満ち足りているこの部屋を見渡して、「そっか、わかんないよね」と、つぶやいた。「そんな恥ずかしがらなくていいよ。教えてあげる」と、床に座り直すと、えへんと喉を鳴らして、物語を読み聞かせるように、ゆっくり言葉を接いでいく。
「天使はね、神様のお使いなんだ。背中には鳥みたいに、真っ白な羽根の翼が生えててね。自由に空を飛ぶことができるの。世界中の困ってる人や苦しんでる人を助けて、みんなの笑顔や幸せを守るために、がんばってるんだよ。どう? 私の翼、君には見えてるかなあ?」
少女は、おちょくるように跳ねた声音で尋ねると、胸を張って肩を上下に動かすような身振りをする。確かに、さっき手すりの上に立った少女の姿に、彼はまっさきに思った。──鳥みたい、と。でも彼が今、どんなにためつすがめつしたところで、彼女が背中でたおやかに広げては折りたたもうとしているらしいものの影さえ、見えはしない。少女の答えを促すような表情が、彼に迫る。まるで、押し入れの絵本の話だ。職人が王さまに語る。『さぁどうです、王さまにぴったりな、たいそうりっぱな布でしょう?』彼は、救いを求めるように顔を上げた。
少女は吐息に埋もれかかった声で「……ほんと?」と、言ったきり声を詰まらせた。口を開きかけたまま、信じられないものを見るように眼差しを固まらせる。あらかじめ言おうとしていたことが、彼の短い一言で意味を見失ってしまったように。その内で、彼の応えを何度も反芻するように。深呼吸するような長い瞬きの後、彼を見つめる瞳は、それまでになく優しかった。
「ううん、そうでしょ、そうだよね。だって、この翼があればさ、どこまでだって自由に飛べるんだよ。今度、一緒に外、出てみようよ。君だって、いつも部屋の中でお留守番してるだけじゃ退屈でしょ? どこか行ってみたいところとか、ない?」
少女が沈黙を埋め合わせるように口走った何気ない質問が、彼の心に大きな重しのようにのしかかった。行きたいところと聞かれれば、その答えはずっと前から決まっている。けれどその場所は、ママさんにビイビイ泣くんじゃねえ忘れろと怒鳴られ血の味で封じられている。ほっぽらかしてあんたを一人で遊ばせてた糞女のことなんか忘れろ今日からあたしがお前のママなんだよわかるまで殴るぞわかったか。涙の塩辛さと血の鉄臭さに塗れたあの日から、彼は理解した。おまえはおかあさんなんかじゃない、おまえはママさんだ。
「おかあさんとこ? そうだよね、一人ぼっちだと寂しいもんね」
彼がただ一度だけ「おかあさん」と口にしたこの時が、少女が彼の保護者と信じて疑わなかったママさんの正体に気づきえた、最初で最後の機会だった。「私のうちは、おかあさんいないから。うらやましいよ」しかし、あまりにも屈託なく微笑む少女を前に、彼もまた、とっさにそうだとも違うとも取れる曖昧な表情でしか応えられなかった。もう一言、言葉を足そうと顔を上げた時には、もう遅かった。望んでいた眼差しは消え、少女は和室を向いてそちらにじっと注意を注いでいる。彼はちっとも気づかなかったけれど、彼女は話している間も聞き耳を立てていたに違いない。彼の押し入れのそのまた向こうで、さざめく気配を、ずっと。大きな体の重みを受けた、ミシリという床鳴りを。
「お兄ちゃん、何でもう起きたんだろ……帰らなきゃ」
少女は、食べ散らかしたラーメンの容器や菓子の袋を手早くかき集めると、窓の引き戸に手をかけた。心細そうに少女を仰いでいる彼に気づくと、振り返って、安心してとばかりに胸を叩いた。
「大丈夫、天使は絶対、君の味方だからね」
午後の日差しが運んできた、ほんの一時のあたたかな夢だったように、部屋はまた彼ひとりを残して黄昏に包まれていく。腕を伸ばせば、少女を迎え入れるために外した窓の鍵に触れる。戻しておかないと、ママさんは帰ってきたらすぐに気づくだろう。掛け金を半回転させ、引き戸に手をかけ、開かないことを確認する。これで、全て元通り。
彼は押し入れにこもって、耳を壁板にぴたりと密着させた。ほどなく、昨日をそっくりなぞるようなやり取りが始まった。
「破っちゃやだ! もうやめて学校行けなくなっちゃうよ!」
「どの口が言ってんだ、ろくに行ってもねえくせに! 制服なんかいらねえだろうが、さっさと脱げよ! おまえは俺の看病だけしてりゃいいんだよ!」
「病気なら病院行けばいいじゃない! 助けて!」
「俺は病人だぞ! 妹のくせになんて薄情な奴だ、この役立たず!」
「……そんな、役立たずじゃない! 私は……」
「うるさい口答えしやがって!」
もう他人事には聞こえなかった。精一杯、喉を張り上げて抗おうとする声の主を知ってしまったから。ドスンドスンと唸る壁の向こうで、力なく沈黙していく少女を想像せずにはいられない。どうして大きな声は心を震え上がらせ、その先に泣きたくなるほど痛くて、逃げ出したいほど怖い力はわきおこるのか、全然分からない。彼女は一体、どんなドアを、窓を開けてしまったのか。はぁはぁと荒く吐き出される彼の息の合間に、少女の消え入るような泣き声は、いつまでも止まない。
彼はおもむろに起き上がると、窓の鍵を、もう一度、元に戻した。




