外から。(2/3)
少女は、彼の押し入れを覗いたり、畳に放られた絵本を手に取ったり、部屋の中を興味深げに見回していく。そんな彼女をよそに、彼は背中の「アケルナ」を後ろめたい表情で落ち着かなく振り返るばかりだった。
「間取りは同じみたいだけど、やっぱりよその家のにおいがするね。……どうかした?」
少女が心持ち首を傾げただけで、ブラウスはだらりと形崩れてしまう。自分で直そうとしたのか、襟元の繕いは伸びきった布地を留めるには、あまりに拙い出来だった。濃色の糸で縫われた跡は白地に嫌でも浮き立つばかりか、破れ目をとりあえず繋げるためにうねうねと曲がりくねって、少女の首を這う蛇のようだ。服を見つめる彼に気づいてか、少女は襟に手をあてがって、
「ああ、これ? 平気。天使は、これくらいじゃ負けないよ」
と、ことさらに声を張って答えた。
「君こそ大丈夫? さっきドタンバタン聞こえたけど。おかあさんにぶたれたりしたんじゃない?」
口の中の傷に舌が当たってドクンと脈打った。彼は痛みにしかめた顔を気取られないように、はっきりと否定した。そんなことは一度もなかったし、これからだって絶対に起こりっこない。そう思い込もうと、必死で前髪が踊るほど首を振った。
「そう? なら、いいんだけど」
少女は声の端にいぶかしさを含ませながら、隣の部屋へ足を向ける。
「きのうも同じ格好してたよね。お風呂入ってる? 男の子だってフケツにしてると、女の子に嫌われちゃうよ。……すごい、ぬいぐるみがいっぱいだ」
少女はリビングに一歩入るや、浮き足立った嘆声をこぼした。ママさんが店で買ったり、ゲームセンターの景品で手に入れたぬいぐるみは、持ち主がいない時間、彼を押しのけ部屋の主人に成りすましている。それぞれはやわらかな形と色彩を備えていても、未整理に並べられ積み重なると、ひとつひとつでは顕れない無言の圧迫を伝えてくるようだ。少女の足先に、クマのぬいぐるみがうつぶせに転がっている。ママさんがソファに倒れ込んだ勢いで落ちたままになっていた。少女が、拾おうと腕を伸ばす。
──おこられる、ママさんに。
彼は無我夢中のまま少女にしがみついていた。握るに任せた彼の手は、少女のスカートの裾をとらえる。彼のだしぬけの行動に、少女は小さな悲鳴を上げてバランスを崩す。足がカーペットを滑り、二人はもろともに床に倒れた。
「いったあ……ちょっと、何するの」
少女はスカートをさすりながら半身を起こした。したたかに打ちつけた体の痛みに、彼女の声が、ささやかな剣を含んだ。
「さわっちゃダメなら、言ってくれればいいのに」
重ねて問いただそうとした少女は、傍でうずくまっている彼を見て言葉を詰まらせた。
彼は、全身を縮こませて震えていた。背中を丸め、両手で頭をかばうように抱えて、足は薄っぺらい胸板に触れんばかりに折り曲げて、瞼をぎゅっと閉ざして。
「君……」
少女から逃げるように、彼は部屋の隅へにじり寄る。食いしばる歯の隙間から漏れ出る嗚咽を、少女は聞いた。混じる息づきが声に移ろい、少女へ伝わる。
「ぶたないでね。ぶたないでね」
まるでそれ以外の言葉を知らないように、彼は繰り返し唱える。少女の悲鳴にくらべても、ひどく弱弱しく果敢ない哀願だった。けれど、それは彼女と少しも変わらない、その日一日を乗り越えるための、彼なりの方法だった。
少女は、目の前で怯え色を失っている彼を見て、差し伸べた手を拒絶された昨日の玄関でのことを思い出した。他人の手足が、凶器のように彼を脅かしてしまうのなら。少しの逡巡を経て、少女は思いついたように両手を後ろで組んだ。畳に膝をついて、ゆっくり姿勢を低める。うなだれた彼の頬には、涙の筋が何本も走っている。二人の横顔が、そっと重なった。互いの息と肌が、絡みつくように温かく触れ合う。
「大丈夫。ぶったりしないよ。ぶったりなんかしないから、ね」
少女の吐息が彼の鬢をそよと揺らす。彼のうな垂れた頭がびくんと持ち上がる。おずおずとした緩慢な動きながら、両の瞳が彼女を求める。ようやく反らすことなく、彼は少女の顔を見た。
「これで、本当に、はじめましてだね」
昨日の続きを促すように、少女は微笑んだ。彼は、こくりとひとつ、うなずく。そのタイミングを待っていたように、彼のお腹がぐるると鳴った。




