外から。(1/3)
窓の向こうが暗くなれば今日は昨日に近づいて、明るさを増すごとに明日と呼ばれていた新しい一日が取って代わる。しかし、昨日と今日と明日は、どう違う? ママさんの言動以外に、それを知る手がかりを彼は持たない。この日が、ママさんの悲鳴のような甲高い詰問で始まったように。
ベランダから射し込む光に瞼をくすぐられて、ママさんがソファに横たえていた体を気怠く起こしたのは、日も傾き始めた頃合だった。寝過ごしたと急いた気で辺りを手探ったが、昨晩握って眠ったはずのケータイが見当たらない。目覚ましが鳴らないわけがないし、そもそもどうして電話が消えたのか。おまえだろてめえが隠したんだろと、ママさんは激高を剥き出した。めりはりのない眠りと空腹に悩まされながら、ママさんの懐でじっと朝を待っていただけの彼を、責め苛むことしか頭になかった。ソファのクッションの隙間に電池を切らして潜り込んでいたケータイが見つかるまでに、口汚い罵りと暴力は一渡り吹き過ぎてしまった。一緒に入れてもらえるはずだった風呂も彼には許されず、ママさんは一人で浴室にこもり、食事も取らずに身なりを整え、彼を取り残した。玄関の錠は、今日も重い音を立てて下ろされた。
口の端をいじっていた指先に、ようやく新しい血が付かなくなって、彼は台所で水を含んだ。シンクに吐き出した水はほの赤く、ツンとした痛みが口の裏側に走る。ゆうべのままのテーブルを見回したが、食欲を満たせるものは何もない。皿の上の乾いた焼き鳥の醤油ダレを舌でなめれば、もうおしまいだった。押し入れで、ママさんの帰りを待つしかない。言えよ言えよ何でママって言えねえんだよ。彼を打ち据えるごとに唾と一緒に吐き出したママさんの声が、頭の中で鳴り続ける。疲労は募るばかりだったが、空腹感が邪魔して眠ることすらかなわない。昨日と同じ彼方の空が、恨めしかった。
「ドア、ノックしたのに聞こえなかった? 返事してくれないから、こっち来ちゃった。外、気持ちいいよ」
少女は、当惑した表情を浮かべる彼の目の前に、窓一枚を挟んで立っていた。
「どうやったかって? 開けてくれたら、教えてあげてもいいよ」
そうこともなげに言うけれど、ベランダの端の隣室とを隔てている仕切板は、窓辺に寄れば見ようと思わなくても彼の目に入る。板は縦も横も上階の外壁やベランダの手すりすれすれまで接して、乗り越えられるとは思えない。玄関で顔を合わせた昨日から、彼の脳裏には繰り返し少女の姿があったが、いるはずのない場所に現れた彼女は、まるで彼の想像の外にあった。
「きのうは、驚かせてごめんね。今日は大丈夫。やっと寝てくれたから、きっと夜まで起きてこないよ」
そう言って、少女は窓に貼られた「アケルナ」の文字を、指で右から左へなぞっていく。そのしぐさは、部屋に連れ戻された午後や、その後の夜の騒ぎを引きずる様子もなかった。それだけに、破れ目が繕われた跡の残るブラウスが、なおさら痛々しく映った。
「ア、ケ、ル、ナ。これ、玄関にもあったよね。それなのに、きのうは開けて今日は開けてくれないのは、君の気まぐれなの? それとも、きのうおかあさんに怒られちゃった?」
少女はそう言って、いたずらっぽく唇をすぼませる。突然の訪問に加えて、長いことママさん以外の他人を知らない彼に、彼女の挑発めいたくすぐりをいなすことなどできない相談だった。それどころかどう応えていいかもわからず、恥ずかしくて頬を染めてうつむいてしまうと、少女は一層、おかしそうに相好を崩した。
「あとで挨拶しに来ちゃおうかな。ノックしたら男の子が開けてくれましたって、おかあさんに言ったらどうなるだろ」
──勝手に開けて、逃げ出そうとしたり、外の誰かにチクったりしたら、わかってんだろうな。忘れられないママさんの凄んだ声が、彼の頭の中でよみがえる。少女は大したことないように誘うけれど、ママさんの怖さを知らないからだ。さっきママさんを見送りに立った玄関で、昨日の鍵のことを思い出し、どうしてバレなかったのか背筋を凍らせたばかりだった。
「鍵を外してくれるだけでいいんだよ。君がアケルわけじゃないんだから」
少女が助けを求めてきたのに何もできなかった昨日の負い目に、背中を押されていたのかもしれない。久しぶりにママさんではない誰かの優しさに、もっと身を委ねていたいという願望もあったと思う。とは言え、その時の彼はママさんに気づかれる不安で頭がいっぱいで、少女の勢いに呑まれるまま再び禁を破るしかなかった。
「ありがとう」少女が窓を横にスライドすると、途端に涼やかな風が吹き込んだ。
「答え。空、飛んできたんだよ。──見てて」
少女は彼に目配せして、隣との境の仕切板に歩み寄る。真剣な表情で呼吸を整えると、ベランダの白亜の手すりを両手でつかみ、体を一気に引き上げた。思わず息が止まる彼の前で、少女は手すりを素足でしっかり踏みしめて、ちょうど二つの部屋の間に立った。一歩外れれば、二十メートル下の地面に墜落しかねないが、ばんざいするように揚げた両腕は外壁の縁をつかんで、風にあおられないようバランスを取っている。髪やブラウスやスカートがはためくと、翼を休めに舞い降りた鳥のようだ。
「私、天使なんだ。よろしくね」
誓いの言葉を述べるように、誇らしさを満面にたたえて、少女は言った。手すりの足をそろそろと横に滑らせて、何事もなかったようにベランダに着地する。




