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3/10

中で。(3/3)

 夢とも思い出ともつかないまどろみの中で、彼は玄関の鍵が回る音を聞いた。うとうとした頭は、逃げ出すのに夢中で鍵をかけ忘れた夕方に思いが及ばない。何ヶ月か前、新聞屋の執拗な猫なで声に心を許してドアを開けてしまった彼を、ママさんはヒステリックに問い詰めた。どうして開いてんだよ出たのか外出たのか。泣き叫ぶ彼のパンツを下ろして、尻を赤くなるまで張った。


「あれ開かないよう」


 日付もとうに変わっていたこの夜、鍵を差し込んで逆に開かなくなったドアに手をかけたのは、ママさんの勤め先の男だった。


「もう、なにやってんだボケ。鍵一つ回せねえのか。貸せよ」


 翌日、自分がどうやって家に帰ってきたのか思い出せないほど泥酔していたママさんは、同僚の犯した些細なしくじりなどに、頭が回るはずもなかった。


「ねえ、せっかく来たんだから、かわいいボクちゃんに挨拶させてよ」


 長身の男は、しなだれかかるようにママさんの金髪に顔を埋めながら、上着の内側をまさぐった。指先で真っ赤なキャミソールのストラップをいじくり回して、べったり汗ばんだ胸の谷間に風を送る。


「バカ言ってんじゃねえよ、また怯えるだろ。ようやく懐いてきたってのに」


「懐いたって、ペットみたい」


 男は口調に、あからさまな非難を漂わせる。ママさんは仏頂面で酒臭い息を吐いた。


「子どもには父親が必要な時があると思うけどね」


「誰もあんたに頼まねーし。大体、育てる気なんてないし」


「持て余したら放り出すの? やっぱペットじゃない。そんで捨てるのは、また私の仕事だったりして。拾ってきたみたいに」


 向こうも酔っているせいか妙に絡んでくる男がたまらなく鬱陶しい。ママさんは、ごちゃごちゃうるせえよ早く帰れホモと吐き捨てると、一発ぶん殴って黙らせてやるつもりで腕を突き出したが、固く握ることもおぼつかない拳は、男の顔のはるか手前で空を切る。男は何さ暴力反対平和主義と唱えながら、服の裾をつかもうとするママさんを体よくあしらい、手を振り振り階段を下りていった。狭い踊り場に香水の残り香が、むせ返るように立ち込めている。


 押し入れの彼は、帰ってきたママさんの機嫌が日によってまちまちなことには慣れていたし、時に一口飲んでみろと勧めてさえくる酒を含んだ夜は、気味が悪いくらい明るく騒ぐ調子に合わせてさえいれば、とりあえず安全だと学んでいた。靴を無頓着に脱ぎ捨てて、押し入れに向かってそっと忍び寄ってくる気配にも、どうすれば喜んでもらえるか知っている。


「ばああ。今帰ったぞう。キスさせろぉ」


 耳元に飛んだ唾は、酸っぱい臭いがした。彼は、さも眠りを妨げられた風を装って、天井のダウンライトに照らされたママさんの赤い頬を見た。


「びっくりしてやんの。ちょーかわいい。ヤキトリ買ってきてやったぞ」


 起き上がろうとする彼をママさんは軽々と抱くと、リビングの食卓の定位置に座らせる。椅子のクッションはコアラの顔を擬していて、彼はその上に尻を乗せるたびに罪悪感を尖らせる。電気のついたリビングには、その他にも動物や子どもをかたどった無数のぬいぐるみが、棚や床のカーペットを埋め尽くさんばかりに飾られている。彼と同じように、ママさんに「かわいい」と認められたモノたちだった。


 ママさんは、焼き鳥とコンビニで買ったお握りを、飲みかけの緑茶のペットボトルと一緒に彼の前へ「ほれ」無造作に投げ出すと、自分はふらふらした足取りでソファにばたんと身を任せた。ソファに乗っていたぬいぐるみの群れは押し潰され、あるいは周りに飛び散る。それもママさんは意に介さず、手に絡まっていたハンドバッグからケータイを取り出して、ワンセグを起動する。彼は横目でママさんの手の中の小さな映像が気になるが、もし怒られたらと思うと、ねだる一言が出てこない。スピーカーから漏れる深夜番組のガヤガヤも、ママさんの笑い声にかき消されて彼の耳まで届かない。部屋の隅のアナログテレビは、たまに借りてくるDVDのためだけにある。


 焼き鳥はすっかり冷たくなって縮こまっているようだったが、一日何も食べていない彼には、ようやくありつけるご馳走だった。串にしがみつく肉を、箸で引き抜いていくのももどかしいけれど、そのたどたどしさは却ってママさんの関心を呼ぶ。


「不器用―ぶきよう―。でもかわいいから許しちゃうっ」


 画面がテレビからカメラに切り替えられたケータイが、彼に向いた。光るフラッシュが、彼のぎこちない笑顔を切り取っていく。


 ──きょうも、いい子してた? 


 ──部屋の外もベランダも、出てないよね?


 ──おし、偉い。


 尋ねたそばから忘れてしまう質問と、痛みと叱責に引き替えて身につけた模範解答以外の意味を持たない返事の、他愛ないやり取り。それでもママさんは、満足した様子で彼の柔らかな髪をもてあそぶ。手が頭に触れた瞬間、彼は思いがけずびくりと震えた。叩かれる、という怯えは、体をいつも先走らせる。


 幼い彼にはとても理解の及ばない、店に現れる下劣な客どもの愚痴が一回りした頃、隣の部屋が騒がしくなる。ドスンドスン頭に響くような物音が、ママさんの饒舌を呑み込んだ。


「また始まった。毎日よく飽きないよ」


 慣れっことばかりに気にもしないママさんの腕の中で、彼は壁から目を離すことができなかった。知らず知らず体が竦んで、指一本動かすのも痛いくらいに緊張している。昼間の時より激しく声がぶつかっている感じがするけれど、リビングにいては間を隔てるものが多すぎて、ほとんど聴き取れない。押し入れなら、きっとわかる。昼間の少女の声も、少女を虐めている男の声も。


「ほんとうるさいねえ。いい? お外にはあーゆーランボーな人たちがいっぱいいるんだからね。絶対、出ちゃだめだよ」


 すぐにでも押し入れに戻りたかったが、アルコールが回りきったママさんの頭は、彼の焦燥に気を揉む余裕もない。自分がいつの間にか失くしてしまった、きめ細やかな幼い肌に、酔いしれるように頬をすり合わせて、すっかり夢中になっている。されるがままの彼は、周りのぬいぐるみに睨まれているような気がしてならない。ママさんは彼の髪を掻いて耳を顕すと、口を寄せた。どす赤い上下の唇が耳たぶを挟むと、汗と酒の入り交じった体臭が、彼の鼻を突く。かわいいと言って彼を抱くママさんは、いつだって優しい。でもこの間まで部屋の隅で埃をかぶっていたネコを思うと、彼の気分は晴れない。ママさんは「どうしてこんなもん買ったんだ。全然かわいくない。むしろキモい」と言い、ネコはその日のうちに部屋から消えた。ママさんに「かわいくない」と言われたらと考えるだけで、彼はなかなか寝付けなかった。

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