表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/10

中で。(2/3)

 表のドアが叩かれている。珍しくはなかった。何日かに一回は、誰かしらが訪ねてくる。その都度、彼はママさんの言いつけを守った。──誰が来ても、何を言っても、開けるんじゃないぞ。どうせ少ししたら、みんな帰っちゃうから気にしない。その通りだった。ノックも、撫で回すような呼びかけも、押し入れで布団にくるまっていれば、それきりだった。ドアの向こうは知る必要のない、無関係の世界。そう思うことにも、慣れてきていたのに。


「開けてください、助けて、助けて!」


 外側のスチールを叩く音にも負けないくらい激しく、切迫したその調子は、通り過ぎていくばかりだった呑気な胴間声とは違っていた。彼は、知らず知らずのうちに動揺している自分に気づいた。ドアに呼応するように、胸が気持ち悪いリズムで高鳴る。彼は、そろそろと押し入れを離れた。和室から隣のリビングを抜け、突き当たりの玄関へ。ちょっと様子を見るだけのつもりだった。誰もいないと分かれば、じきに帰ってくれるだろうと思っていた。


 ベランダの光も届かない玄関は、押し入れに似た薄暗の中にある。真鍮のドアノブの傍に貼り付けられた紙が見え、そこに書かれた文字の形もだんだんに読み取れる。窓と同じ「アケルナ」は、絶対に破ってはいけない、ママさんとの約束だった。


 彼は引き返そうと、玄関に背を向けた。足が固いものに触れた、と思った時には、ママさんの靴を引っ繰り返していた。横倒しになった靴が、はっきりと鳴った。ドアを叩く音が止む。埃が舞うさざめきすら聞こえるような沈黙に圧されて、彼はその場で動けなかった。背中や脇の下に汗が滲む。どうして、今日に限って押し入れでじっとしていなかったんだろう。何もせず、ママさんの帰りを待てなかったんだろうと悔やんでも遅すぎた。棒立ちの彼の頬を、目尻にたまった涙が今にも垂れる。


「……知ってるよ。いるんでしょ、君」


 自分に向けられた声と、すぐに理解できない。ママさんではない誰かに、気づかれてしまった。正体の分からない相手への緊張が、彼の頭の中を野放図に占めていく。不安で怖くて落ち着かない、大声でしゃくり上げて泣き出したい。なのに決して嫌な気持ちではない、すがりつきたいくらいに懐かしく思えるものは、一体何だろう。


「ねえ、開けてよ。お願い」


 ママさんの機嫌が良い時、それは本当に滅多にないことだったけれど、こんな声になる。思い出の中の心安らぐものに包まれるような、ほの甘い響き。涙ぐんでいるのが、怖いからか嬉しいからかもわからなくなる。長いこと知らないうちに溜め込んできた寂しさが、堰を切って噴き出してくるようだ。ドアの向こうの誰かと、会いたい。無性に、そう願うように思い切るまで、それほど時間はかからなかった。


 頭の位置にあるドアのノブに、背伸びして手を突っ張った。後ろめたさから、張り紙を見ないようにして、鍵を外す。力を込めて、ノブを回した。


 外のぎらつく明るさが、狙うように彼の目を貫いた。足元の靴や傘立てや靴箱の上の花瓶の輪郭が、陽炎のように頼りなく曖昧になる。その境界に立ち、彼を見下ろしている少女に較べれば。


「やっぱり、いた。君だったんだ」


 彼は声の主の視線を恐れて、目を反らしていた。うつむいた先に、少女の白く、か細い裸足を、最初に見た。彼は何も言えないまま、許しを請うような眼差しを、上の方へとズラしていく。膝を越えて、幾重のきれいな折り目のついた紺色のスカートが外の空気に揺れ、小さな手がそれを抑えるように触れている。腰から上は、襟の長い半袖の白ブラウスで、首元から胸の真ん中へと、スカートと同じ色のリボンが彩っている。彼は、その格好をセーラー服と呼ぶことも知らなかった。襟がV字に切れ込んだ首筋には、ママさんより少し短いくらいの髪の毛が、汗のせいか張り付いている。西日を斜めに受けた瞳は、彼が夢の中でだけ望めるあたたかな笑顔のように、穏やかで優しそうで、臆病に怯える気持ちが解きほぐされていくようだった。


「お隣さんなのに、やっと会えたね。はじめまして」


 少女はそう呼びかけると、大切な宝物に触れるように、その手をゆっくり彼の方へ伸ばした。とっさに彼は、逃げるように顔を背けていた。何か言おうにも、自分の声が少女に比べて汚らしいもののように思えて、気がつくより早く体が動いていた。少女の微笑みが、僅かに曇った。


 その気まずい沈黙のさなかに、二人が立つ後ろのドアが開いた。戸棚中の食器を床に叩きつけるよりも乱暴な音が通路にこだまして、彼の耳を脅かした。瞬時に強張った少女の表情が、彼には何より恐ろしいもののように映った。


 彼よりも少女よりもずっと大きい。きっとママさんよりもだろう、見上げるように大きな体つきの男が、少女の背後を塞いでいた。その黒い影は、少女の存在を打ち消すように、彼女の頭から足の先までをすっぽり覆い尽くさんばかりだった。体臭なのか、息が詰まるような嫌なにおいが、彼の立つ玄関まで流れ込んでくる。


 少女の悲鳴が響いた。彼は、思わず後ずさっていた。後ろの大きな、大きな男が、少女の襟首を片手で鷲掴みにすると、少女の爪先が床を離れた。彼女は腕を後ろに回して、何とか逃れようと試みるが、男の片手にねじり取られ、身動きが取れない。宙に浮いた足を必死にばたつかせても、まるで手応えを得ない。


「痛い! 破れちゃう、離してよ!」


 少女の抵抗も空しく、更に力が加えられる。襟の縫糸がブチブチと断裂する音は、どんな叫び声よりも残酷に彼の耳を打った。ブラウスは骨の折れた傘のようにだらしなく伸びきり、少女の骨張った肩先がはだけた。


「黙れ役立たず! さっさと来い!」


 何をも相手にしない怒声が、彼の鼓膜に突き刺さる。男は、開いた向かいのドアの奥へ、少女の体をまるで加減を知らないように乱暴に放り込むと、すぐさま彼に背を向けた。その時、男の視線が後ろに流れた。その先で、声もなくおののいている彼を睨み付けた。黒々と量の多い髪と髭に覆われた、薄汚い顔の中心で、男の双眸が下卑た光を放った。


 彼はドアのノブに手をかけると、体重を乗せて一気に手前に引き寄せた。ドアが完全に閉まるまで、とても待っていられない。廊下を一目散に突っ切って、押し入れに逃げ込むと、襖をぴったり閉てきった。かけ毛布を頭から被った。息を吸って吐いて、ここは安全なんだと言い聞かせて、暴れ馬のように猛る気持ちをねじ伏せる。さっきまでの暑さが嘘みたいに、手足が震えて仕方なかった。二人はまだ言い争っているらしい、甲高い声が微かに伝わる。彼は、唾を飲み込むごくりという音にも注意を払って、暗い押し入れに身を潜めた。


「俺はめんたいこしか食わないんだよ! なのにチーズ嫌いなの知ってて、よくもわざと買ってきやがったな!」


「ごめんなさい、ごめんなさい、だからぶたないで痛いよ!」


 物が落ち、床が軋み、凶暴な言葉で壁がうめく。張り詰めた少女の叫びを、食らうように蹂躙していく。


 それは、今まで聞き慣れてさえいる隣室のありふれた物音だったのに、これまで大して気にもならなかった騒音に等しかったのに、どうして今日に限って、こんなにはっきり聞こえるのか。それに聞いているうちに、どんどん胸がきゅんとなるように苦しいこの気持ちは、なんなんだろう。彼は瞼の奥で、壁の向こうに連れ去られた少女の像を、何度も結ぼうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ