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中で。(1/3)

 晴れた午後、畳を照らす日射しが消えるのを見計らって、彼は襖にそっと手をかける。色褪せた和室に暴力的な光を放っていた太陽は、もう見えない。彼は安堵して、襖を三分の一ほど開く。夢と暗がりに慣れた目に、外の明るさは痛いくらいに鋭い。怖いような寂しいような寄る辺なさが、さざ波のように胸の内にこみ上げて、彼はママさんの顔を思い浮かべる。外の世界が押し入れと同じ暗さになるまで、一人でいなければいけない。時折、わき出す涙を納得させるのに十分な、毎日の決まり事だった。


 彼はまた、押し入れに敷かれた布団に寝転んだ。着ているランニングシャツと半ズボンは、汗でじっとり湿っている。髪の伸びきった頭を重そうに傾けて、彼はベランダに続く窓に目を向けた。赤いマジックで「アケルナ」と殴り書きされた張り紙の向こうで、七階の部屋から望める空は青い。


 眠くはないが、他にやることもなかった。枕元の童話の絵本は、昨日ママさんが耳元で読み聞かせたところで開いている。はだかで町中に出てしまう王さまの話だ。嘘つきな職人が、この服はバカな人には見えない布でできていると王さまをだます。家来も町の人も自分がバカだと思われないために口をつぐむ中、とある子どもが見たままを叫ぶ。ママさんはこの話を読むたびに腹を抱えて笑い出す。こいつ最悪だよなーこんな空気読めない子どもになるなよ──ま、そんな勇気ないか。ぺらぺらとめくってみるが、読み仮名がふられたどのページも飽きるほど読み返して、彼の退屈を助けてくれない。


 少し前まで、枕元にはピンクの頭巾をかぶったうさぎのぬいぐるみがあった。いつもぎゅっと抱きしめて眠っていたが、ある日ママさんはふいに取り上げると、いきなり彼の頬を張った。──なに人のもん涎だらけにしてんだよ糞野郎、大切にしろって言っただろ汚い汚い汚い。ママさんは怒りを垂れ流すままに、手の中のモノを無茶苦茶に千切っては、彼に投げつけた。ぬいぐるみの中綿がふわふわと頭に肩に降ってきて、彼はほっぺたの痛みも忘れて当惑した。大切に扱ってきたつもりだった。次の日、ママさんが出がけに引っ掴んだゴミ袋の膨らみに、うさぎの黒い瞳が透けて見えていた。


 まだらな雲で刷かれた青空の片隅に一本の白線が現れ、まっすぐ目路を横切っていく。その先端には、玩具よりも小さい、やっと摘めるくらいの飛行機。太陽の光が当たって、キラキラ輝いている。いつだったかママさんの膝の上で、鳥が飛んでると指で追いかけたことがあった。その時、ママさんは「我が子」の不明を嘲るような表情を垣間見せたが、そんなことも自分の役目かと今更ながら思い至って、ため息をこぼした。


 ──飛行機だよ。あれに乗って、遠いところに行ったりすんの。


 ──どこって、色々だよ。アメリカとか、あと、ほら外国。


 ──バーカ、近くで見たらずっと大きいんだよ。


 ──いつか連れてってやるよ、空港。飛行機がいっぱいいるから。


 空に引かれる一筋の飛行機雲を押し入れから探すのは、目をつむってしきりに眠る努力を続けるよりも、楽に夜に近づけた。窓の端までたどり着くのも待たずに消えかかる航跡を見ていると、涙がこぼれそうになるのが、ふしぎだった。靄のように薄まって、水底のような群青に溶け込んでしまうまで、彼は目を離さないでいようと、思っていた。


「てめえ! ぶっ殺してやる!」


 押し入れのベニヤ張りを通して、くぐもって響いた怒鳴り声が、彼の静寂を破った。

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