第7話 吾輩の辞書に戦闘の字はない
音はゆっくりと、しかし確実に大きさを増していく。鎧の重さが、つまり重厚さがひしひしと床に伝わって、踞る体を揺らした。
脳天を劈くほどの動悸が、五月蝿く体内で響いている――が、その半分は俺のものではない。どうやら隠れる場所を間違えたようだ。
「(……あの、叫ぶですよ?)」
鎧の音が聞こえた直後、近くのクローゼットに隠れたことは良かった。むやみに状況を軽視しない、賢明な判断といえただろう。
だが選んだ場所がフィオと被ってしまったのだ。つまり、ピンチタイム兼サービスタイムである。
「(叫んだらばれるだろ、てかファンタジーの世界観にギャルゲーを持ってくるとか、少し贅沢すぎやしないか?)」
「(何のことをいっているか分からないですが、レンさんはやっぱりロリコンなのですね。確信したのです)」
「(もう口を動かすな、見つかるぞ)」
俺はフィーナの口を塞いだが、変態と言わんばかりに手を振り払われた。
しかも嫌悪に満ちた顔で。
傷つくからその顔やめてください。
不意に足音が止んだと思うと、入口の扉が轟音をたてて崩れる。クローゼットの隙間から息を殺してその光景を見守るが、なにより衝撃だったのは部屋への入り方ではなく、入ってきた者の姿だった。
「(モンスター?)」
片手に剣をぶら下げながら王国エンブレムの入った鎧をまとう姿は、三等身ほどの体にとって、いささか大袈裟すぎる装備である。
だが何匹も倒した相手、見間違えるはずがない。緑色のでこぼこした皮膚に、やせ細って肋骨が浮き彫りになった胴体。口元は何を食べていないにも関わらず、常にニチャニチャと音を立てている。ゴブリンだ。ニヤニヤと頭にくるような笑みを浮かべて、余裕の表情を見せている。
それにしても、何故モンスターがここにいるのか。不可解な点が多すぎて、捌ききれない。
取り敢えずその理由を端から潰していこうじゃないか。
始めに考えられるのが、『このゴブリンが王国の遣いである』ということだ。だがその可能性は極めて低いと思われる。
兼ねてより人とモンスターは敵対関係にあるのだ。いくら追うべき相手と憎むべき相手が一致したからといって、手を組むようなことはまずないだろう。
ならば近衛兵から鎧を奪ったゴブリンが、偶然単体で攻めてきたのだろうか? いいや、それも考えにくい。
いくらゴブリンが最弱級のモンスターに位置するとはいえ、その種族は亜人族である。
脳が発達し、道具を使って戦いを挑んでくる彼らはそれなりの知能を持っているのだ。むやみに人を襲うことはない。
それにわざわざ村の中心にある宿屋に侵入してまで、俺たちを狙ってきたのだ。しかも部屋の位置をピンポイントで当てて。
偶然ということはまずないだろう。
「あぶないですレンさん! なにボーッとしているですか!」
「え?」
一瞬体が宙に浮く。フィオに狭いクローゼットの中で突き飛ばされたかと思うと、間髪入れずに木の壁を突き破って姿を見せた剣の矛先が、俺の目に映っていた。
そのまま剣は壁を横に割き、ミシミシ音を鳴らす。
東の空から零れる朝日が、暗かった密室に少しの侵入を許した。
その先では、見つけたと言わんばかりのゴブリンが相変わらず薄ら笑いを浮かべている。
そんな渦中、フィオは既にスキルを発動していた。
【しんだふり】
死んだフリをする。
獣や一部のモンスターに対して効果をもつことがある。
「あー、うん、冷静な状況判断――」
直後、フィオの胴体をめがけて勢いよくゴブリンの剣が振り下ろされる。
「なわけがあるか! ゴブリンにそんなスキルが効くわけねえだろ!」
敵意むき出しの剣を回避すべく、叫びながらもちょうどフィオにされたように、思いっきり突き飛ばし返した。
無情に向けてくるその切っ先は、フィオではなく、またもやクローゼットに傷をつける。これで大きな十字架の完成だ。そのままボロボロになって立てなくなった外開き戸は、思うままに倒れた。
ものの数秒で、最弱の代名詞、ゴブリンを相手に二人とも死にかけたのだ。対抗心が億劫になっても仕方ないだろう。
だがゴブリンは続けて攻撃を加えてくることはなかった。勢いがつきすぎた刃先は、床に突き刺さって動かなくなったのだ。焦って余裕がなくなるゴブリンを、フィオは放心状態で見つめていた。
だがフィオを、ロリを突き飛ばして罪悪感に苛まれていた俺は、いち早く正気に戻っていた。
ここで選択すべきコマンドは『逃げる』である。何故こんなにも有利な状況でそんなことをしなければならないのか。もちろんゴブリンが王国の使者である可能性も捨てきれないが……そうじゃなくてもまずい理由があるのだ。
武器さえ持っていなければ無力なゴブリンを横目に、フィオの手を引き寄せ、脱出するには最短距離であろう、窓へ足を進める。
「……レンさん、カッコいいところを見せるチャンスだったのに、いいのですか?」
「逃げるが勝ち、ってことわざがあってだな……」
「なんなのですか、その都合のいい言葉」
ゴブリン相手を背に逃げ出すのは、間違ったことではないと思う。だが不安な要素が一つ。
ゴブリンは群れを作って行動する、亜人にとっては珍しい習性を持っている。
つまり、だ。外にやつの仲間がいてもおかしくな――
「うわあああ!!」
窓の外から見える光景に、思わず仰け反ってしまった。村全体を囲むようにして、鎧を纏ったゴブリンが数十体、まるで軍隊のように整列しながらぎらついた目をこちらに向けている。
なんなんだこのカオス。ファンタジーなのにパニックホラーが混ざっているぞ。
そして先頭に立っている、一際背の高い先導者。深緑のフードを被っていて、しっかりと顔を認識することはできないが……明らかに『人』である。
モンスターを引き連れている人が存在する、さらにカオスが重なった。
あまりの劣勢、もはや圧巻。
「どうするのですか……これ」
「無双ゲーだったら余裕なんだけどな」
「相変わらずわけのわからない単語を……」
不意に緑フードが右手を挙げて、こちらを指す。
同じに、列の後ろに見えるゴブリンたちが、一斉に弓を構え始めた。
「え、いやいやいや……」
小さく見える手が、よーいドンの合図のように下ろされる。それを契機に、数多の弓が揺れて、空を細長い光が伝った。
「嘘だろぉ!」
放たれた矢は弧を描きながら、慌てて閉めた窓に次々と刺さっていく。もはやそれはハリネズミと表現すべきだろう。
それにしても、ここまで多くの矢が飛んできて一本も貫通しなかったのは奇跡である。
「どうするフィオ、籠城でもするか?」
「いや、それも無理みたいなのです」
背後を見れば、やっとのことで剣を引き抜いたゴブリンが、歓喜の表情で刀身を舐めまわしていた。金属の光沢が粘膜の反射に上書きされていく。
「ああ、これは……」
「結局詰んだですね」
一片の隙間も見当たらない室内でありながら、第2陣である矢の雨の音が聞こえてくる。石製の壁はともかく、今度こそ窓はもたない。今近づいたら、それこそ蜂の巣になってしまうだろう。
しかし目の前にはいつでも飛びかかる準備ができている重装備のゴブリン。こいつのせいで逃げる場所を常に移動しなければならないのだ。
入口から逃げようにも、この宿から出てしまえば、外で待機しているゴブリンの軍勢に袋叩きにされてしまう。というか、このままもたもたしていたら外の軍勢が突入してくるだろう。
まさに万事休す。
――と、悠長に考えに耽っている場合でもないのだ。
今この間にも重装備ゴブリンの攻撃を避け続けて、ベッドやらライトやらが次々と破壊されていく。
降り注ぐ矢の猛攻で、もう外は見えないくらいだ。部屋の中だというのに、嵐が起きている。
「フィオ! どうにかして外に逃げるぞ!」
「どうにかしてって、どうやるのですか!」
「人としてどうかと思う作戦があるんだが……どうする、乗るか?」
「この際方法なんて選んでいられないのです!」
予想通りの返答。
では遠慮なく勇者の評価を地に落とそう。今は勇者じゃないが。
ゴブリンにとっては重すぎる鎧と剣。
大きく振りかぶった後に、かなりの隙が生じる。浴びるほどの矢をものともしない鎧にダメージこそ与えられないが、
「こう、する!」
ごつく装飾された足元に、スライディング。
本当は腹を狙ってドロップキックするつもりだったのだが、情けないほどの跳躍力はドロップキックなんて呼ばれた、良い運動神経の代名詞を理解することができなかったようだ。
まあ結果オーライ。
重心を崩したゴブリンは己の重みに耐えきれずバランスを失い、そのまま地面にめり込むようにして突っ伏した。
身動きがとれなくなって剣を縦横無尽に振り回しているが、到底当たるような距離ではない。遂には諦めたのか、当てようと思ったのか、自ら投げ捨ててしまった。
フィオから「おお」と感嘆の声が漏れる。
……これだけならばごく普通のロリの反応であった。だがフィオはその好機を見逃さず、鎧の隙間、首の付け根にチョップを連続して入れている。
ゴブリンの悲壮な鳴き声が断続的に聞こえたと思うと、何発目かで伸びきってしまっていた。これが元死刑囚の少女の逞しさである。
「よくもやってくれたですね」なんて呟いて、恨みの尾を引く様子が目視できた。恐ろしい。
まあそれはともかくだ、俺の勇気ある行動にフィオも少しは見直してくれただろう。だがさっきも行ったはずだ、『人としてどうかと思う作戦』だと。
根本的な解決に至ったわけではないから、まだ続きがあるのだ。ということで続行。
俺はゴブリンの小手を外した。
「なにやってるですか、レンさん」
「見りゃわかるだろ、追い剥ぎだよ」
「犯罪癖が板についてきたですね」
「いいだろ、相手は人じゃないんだ」
ゴブリンだけでなく、俺にとってもかなりの重量である防具は、身につけるともともと低い素早さを、落とすところまで落とす。
頭まで完全に覆ってしまえば息苦しくてしょうがない。
細い体を打ち消すように、暑い装甲が身を包んだ。
「おおっ、絶望的に似合わないのです」
「うるさい、俺だってゴブリンの臭いを我慢して着てるんだ」
「わざわざこの汚らわしい装備を身につけるなんて、なんですか、盾にでもなってくれるですか」
「だいたい正解。フィオ、この前の洞窟で合流するぞ」
返事を待つ前に、もはやただの穴になっている窓へと飛び込んだ。飛び降り……ることは流石にできないから、排水管を登り棒のように伝って慎重に。
問答無用に乱れる矢は体中隅々に当たって、鎧の中に轟音を響かせる。寺に佇む鐘になった気分だ。土の地面に足をついてもなお、それは鳴り止まない。
だがそれに負けない声を、腹の底からひねり出した。
「フィオ! 俺と反対の方向だ! 急げ!」
ゴブリンたちの弓は全てこちらを向いている。それを引きつけるべく、村の外へと必死に衝撃で痺れた足を動かした。