第1話 女神に出会って罵って
鐘の音が煩く鳴り響いている。
普段ならば無音が聞こえてしまうような深夜であるはずなのだ。しかし厳戒態勢が敷かれた王国は、真昼のように騒がしい。
人々は混乱し、どうするべきかと思案して右往左往するばかりだ。誰に対しても不意に向けられる灯りが追い打ちをかけるように不安を誘っている。
誰もが隣人を疑い、そこらで掴みかかり、暴力が吹き荒れる。怒号は酒場を王国全土に拡張させたのかと錯覚させる。
そうだ、何故こんなにも混沌とした風景が広がっているのか思い出した。なんでも死刑囚が数人脱獄したとか。
この国での死罪は、すなわち王国反逆罪を指す。要するに脱獄囚はテロリストということ。だとするならば、今この瞬間、どこで爆轟が響き渡ろうと、おかしな事ではないと考えるのが普通だ。野に放たれたとなれば恐怖のあまり安全な場所へと逃げ出すのは当然である。
だからこそ俺も例外なく、裸足のままで王国の外へと駆けていたのだ。
――だからこそ?
……あれ、どの口が物を言っているのだろうか。
死刑囚って、自分のことだろ?
***
『ジョブ:勇者』
天井が崩れさり、淡い光が差し込む魔王城。見渡しても影が一つ落ちているだけで、それ以外何一つ見当たらない。静かにエンディングが流れてきそうな、そんな空間。
息を止めて、眼前で青白く照る正方形を見つめながら。
チカチカと点滅するそれを認識出来ることなく、俺は口をぽっかりと開けていた。
しかし微動だにしない顔と対比して、心臓はずっと正直である。この状況を理解して真面目に仕事をまっとうしているのだ。
耳の奥を通り越して、頭の芯まで響いてくる鼓動音。それが電池の役割を果たしてか、全身からはとめどない量の汗が吹き出していた。
「魔王倒しちゃった……」
と、言葉の壮大さとは裏腹に、情けない声で独り言を呟く。達成感、安堵感、脱力感、疲弊感…………そして違和感。そんな場違いに思える感情が多くの面積を占めてしまっている。戦闘を振り返ればその理由も自ずと見えてくるだろう。
こんなことを言ってしまっては全国の勇者、勇者候補に申し訳なさが先駆けるのだが、正直、あまりに呆気なかったのだ。
世界には打倒魔王を掲げて、何十年も、いや、仮に大魔道士ならば何百年という時を費やしてレベリングに勤しむ者がいることだろう。
しかし俺がこの世界に転移してきたのが、3年前。しかもソロプレイを貫いてここまで漕ぎ着けてしまったのだ。
こんなに短期間で魔王を討伐してもいいものかと、達成感と歓喜に、少しだけ罪悪感が覆いかぶさっている心情である。
――なにせ爆弾投げただけで蒸発しちゃったんだもんなあ……。
まあそのせいで天井が吹き抜けになったのだから、威力だけはお墨付きなのだが。
それもこれは、ソロプレイでの結果だ。
一匹狼……なんて称号も捨てがたいが、勿論好きでひとりぼっちで冒険してきたわけじゃない。本当なら今この瞬間、喜びを分かち合える仲間が欲しいところである。
おかげで決め台詞の1つ吐いたところで、虚しいだけなのだ。
――いつから独りで冒険するようになったのか。
そうだ、あれはある春のことだった。
春といえば出会いの季節である。異世界転移したばかりで、世界の仕組みすらほとんど知らなかった、そんな時。
俺は出会いを望んでいたのだ。
異世界の美少女に一目会いたくて、ギルドメンバー募集なんてありふれた内容の張り紙をクエストボードに貼った。期待で胸がはちきれそうだったことをよく覚えている。
しかしその張り紙は、釘を刺した矢先、速様剥がされてしまったのだ。
「あの……公序良俗って言葉、知ってますか?」なんて言って、せっせと掲示板整理をしていたギルド職員の顔が忘れられない。
……はたしてどこが公序良俗に触れてしまったのか。
――『ギルドメンバー募集。クエストの報酬は山分け。初心者冒険者さん大歓迎。※但し14歳以下の美少女に限る』
……普通の内容だったと思うのだが。
不幸なことにそれからというもの、街のギルドから目をつけられてしまい、美少女と出会うチャンスはなくなってしまったのだ。
しかしそんなことも今更である。
今見つめるべきは、結果だ。
勇者のジョブ。
このジョブを手にすることはすなわち、魔族を統べる王、文字通り魔王を討伐したことを指す。
それは冒険者に限らず、この世に生を受けた者なら全てが憧れるものなのだが……悪いな、全国の勇者候補諸君。
ステータスバー、俺の名前の横。
冷静になった脳みそは、今度こそはっきりと理解してくれた。
――今しがた俺、田中 蓮のジョブは勇者となったのだ。
もちろん勇者の称号は伊達ではない。
腕輪を模した木製の魔道具が自分や相手の力量を数値化して、青白い光に映してくれるのだが……魔王の総合ステータス値が10万ほどだった。
俺の元のステータスは恥ずかしいから伏せておくが、今はどうだろうか。
……53万である。
よもや壊れたのではないか。
しかしこの数値。
次に新たな強敵が現れたとしても、「私はこの左手だけで戦ってあげましょう。少しは楽しめるかもしれませんよ」なんて余裕をかましながら勝てる自信がある。
……いや、ん、あの人は結局両手使ったのか。まあ細かいことはどうだって良い。
無縁だった歓声の嵐だって、王国まで戻ればきっと溢れかえる。勇者のジョブを見せつければ、同じギルドに入れて欲しいと懇願する者だって山ほどいるだろう。王国直属騎士長に推薦されるかもしれない。
俺が現世にいた頃思い描いていた異世界ライフが、やっと実現するわけだ。
美少女からのチヤホヤ祭りが目に見える。
しかし本命は。
俺が魔王を討伐した真の目的は、このあとすぐに達成されるはずなのだ。
それこそ魔王が討伐されたという朗報が、世界中に伝わるよりも早く。
だからこうして空を見上げて待っているのだが……どうしたのか、なかなか現れないな。
***
――どのくらい待ち続けただろうか。魔王との戦いで負った傷が、既にリジェネの効力のみで全快している。
まさか思い違い……?
ラスボスを倒したら、転移した時に一度だけ会った、もう顔も忘れかけている神様が俺を現世に送り返す。
異世界転移ものの主人公ならば誰もがそう思うし……うん、多分。知らないが。
実際のこと、俺も今の今まで、ラノベのテンプレどおりに事が進むと思っていた。
しかし俺はそこらの勇者様みたいに、ホイホイ現世に帰るようなことはしない。
もし現世に戻ったとしたら、この世界で過ごした3年間はただ神隠しに遭っていた3年間に変換されて、これまでの冒険の意味を無に帰してしまう。
一生懸命覚えた魔法やスキルだって全部パァだ。
第一、勇者のジョブを誰にも見せつけずになかったことにできるだろうか。
いや、俺にはできないね。
まあ神様のことだし、俺がこういう考えになったのも全てお見通しなのか?
それなら全然良いんだ。勇者の限られた貴重な時間を無下にしない、最高の配慮だろ。
流石は神様。
と、勝手に納得し、この場を離れて王国に戻ろうとした瞬間のこと。
空をくまなく覆っていた暗雲に亀裂が走り、一筋の光が差し込んだ。
――ああ……ナシだったみたいです。
この光景は、『降臨している』という表現が正しいのだろうか?
きっと一生にそう何度も使う動詞ではないから、その意味をしっかりと噛み締めよう。
差し込んだ光の中を、女神が舞いながら降りて来て……い、あ。
「ぬわああああ! 止めて、受け止めてえええ!」
空から注ぐ、耳を劈くような声。
……これは降臨じゃない、墜落だ。
見た目だけなら齢九つくらいの神様が、こちらを目掛けてミサイルのように突き進んでくる。
まあ幸いにも、勇者なんてジョブに就いた俺が落下地点に居るわけだ。ここは華麗にキャッチして、神様からすら、株をあげておこうじゃないか。衝撃にも耐えられる身体も持ち合わせているし。
いやロリっ娘に抱きつきたいわけじゃないよ?
ただ勇者として目の前の人を救う、そんな役目を全うしたいだけだ。
…………合法的にロリっ娘に抱きつけるのか。
待ち構えるように腕を精一杯伸ばす。
みるみる内に広がる影は、見事に両手をすり抜け――耳元で風を切る音が聞こえた。
直後、すぐ隣の床が砕け散る。
ボウン、と鈍い音が鳴り響き、飛散した砂埃が身体中を突き刺すと、悔しさの念が溢れだした。
惜しいことをした――と。
瓦礫が崩れて、土煙の中から人影が現れる。
汚れを払い除けるため、犬のように身震いをした影は、低い背丈と、ぺちゃぱ……主張しない胸部を持ち合わせているようだ。
なんともまあ……尊い神様である。
「ちょっ、何失敗してるんですか! あなた紛いなりにも勇者ですよね!?」
まだ姿がはっきりとしないが、敬語ながら馴れ馴れしい罵声だけが飛んできた。
そう、彼女こそがこの世界で崇められ、多くの国で国教ともなる、いわゆる女神様である。
会うのは俺がこの世界に転移した時以来だから……およそ3年ぶり、二回目だ。本人曰く、名前はまだ無いらしい。異世界の書物の影響を受けすぎである。
そういえばのじゃ系のロリっ子様だったな……。
語尾に「のじゃ」を付けるのは止めたのだろうか。
「それにしても……」
眉間にシワを寄せて、まるで汚物を見るかのような目を向けた神様は、そのまま罵声の続きを。
「キャッチしようとしてた時、何故ニヤついていたのですか? つい防衛本能で方向転換してしまいました」
打って変わって、冷静な敬語に。これこそ神様である。
しかしその言動に、返す言葉が詰まってしまった。
だったら墜落した原因は俺じゃないだろ、なんて考えも浮かんでしまったのだが、ニヤついていたという事実は揺るぎないものである。
だからお互い様であろうと、反論などは絶対にしない。いついかなる時もロリの行動は正し……紳士たるもの当然の受け答えだ。
第一相手にけんか腰で話されても、動じず穏便に済ませるのが無難というものである。
その相手が女の子であったり、幼い子であるなら尚更だ。
だからそれに則って、
「あの……どうして落下してきたんですか? 背中についている翼で羽ばたけばよかったのに」
なんて話を逸らした。
我ながら雑な切り返しだ。
「それは……その、色々事情があるんです。翼の節約ですね」
まったくもって意味が分からない、答えになっていない回答。しかし晴れた土煙から覗かせる、神様の姿を見れば答えは歴然だった。
光の道と影の出来方で大きく見えていた翼は、実際のところ肩甲骨を覆うくらいの大きさしかなかったのだ。
こんなに小さいもので空に羽ばたくなんて、到底不可能である。
雀や蝶だって自分の胴体以上もある翼を身につけているというのに。切ない。
「……あんまりジロジロ見ないでくれませんか?
翼を見つめるなんてあなた本当に神の手によって変態認定しますよ?」
「神の手によって変態認定……。なんですかそれ、怖すぎですよ」
身を守るように両手で翼をすっぽり覆うと、女神様の腕は後ろに回るせいで絶壁が誇張されて、前へならえの最前列のポーズに見える。
やっぱり尊いな……。翼は神様にとって恥部なのだろうか。
あ、尊いってのは神様としての神々しさを指しての意味だからね? 変な解釈はしないでいただきたい。
「はぁ……まあいいです。早く仕事を終わらせましょう。……どうしますか?」
前へならえののポーズを揺げることなく、そのままため息を。
それにしても……どうしますか?
なにが聞きたいのだろうか。
変態の疑念についてこれ以上追求されないのはよしとして、なにかを問われるような話の流れでなかったことは確かだ。
「え、と……なんのことですか?」
「願い事ですよ、現世に帰りたくはないのですか? ……それとも別の願い事を?」
ああ、現世に帰ること以外にも選択肢があったのか。それにしても説明が少ない。
ともかく、普通はここで現世に帰るという選択をするのだろう。だから神様も『現世に帰りたくないの?』などと言ったのだ。
しかしさっきの話どおり、俺は現世に帰る気などさらさらない。
つまりは願いが余ってしまった、ということなのだ。
どうしたものだろう。突然のことすぎて良い願い事が全く思い浮かばない。
俺はこれから英雄になるはずだし、きっと金と女には困らないであろう。ギルドの加入申請を受け続ければ、気の合う仲間とも巡り会えるだろうし。
勇者になった時点で多くの願い事の確約が取れてしまった。だが今後二度とないチャンス、そうやすやすと見逃すことはできない。
じゃあ……健康?
――いやいやいや、ジジくせーよ! ウイルスへの耐性もきっとあるだろうし。なにせ今の俺は勇者だ。
じゃあ……最強の力?
――もう魔王を倒したわけだしなぁ。裏ボスなんかがいても、今の力さえあれば負けることはないだろう。
結局何を考えても勇者のジョブが全てを解決してしまう。
現世に帰らないなら帰らないとして、現世だラノベを読み漁っていた俺なら、この展開は読めていたのだ。しっかり願い事は考えておくべきだった。
「……まさか、願い事を考えてなかったのですか? 転移するときに一応考えておきなさいって言ったじゃないですか」
冷静な口調ながら、頬を膨らませる様子は、1人の少女そのものだ。
それにしても、完全に願い事の詳細を忘れてしまっていたようだ。
なにせ転移した直後のことだから、パニクってよく話を聞いていなかったのかもしれない。
第一、3年前の出来事だ。
だが神様にとっては3年なんて一瞬のことかもしれないしな……。
長く生きていれば時間の流れる速さもかなり変化してくるだろう。
あれ? よくよく考えたらこのロリ神様も、見た目が幼いだけで実際は俺よりずっと年上?
ロリババア?
思い立ったがまず行動。情報収集とは冒険の基本だ。
「あの……神様っていくつですか?」
「……なんですかその質問。それが願い事でいいのですか?」
「いやそうじゃなくて、神様若いからいくつかなー、なんて気になって」
危ねえええ! ワケわからない願い事にされるところだった。俺のスキル、『マダム殺し』が火を吹いていなければ今頃は死ぬほど後悔してた。
それにしても『マダム殺し』が思いのほか効いて良かった。ロリだから、当然じゃないですか、なんて言われて一蹴されるかと思った。
しかしそれどころか、ニヤけが止まらなくご満悦といったご様子である。
やはりロリババア説は濃厚なのか?
「ふふん、分かっているじゃないですか、勇者くん。ちなみに何歳に見える?」
あ、この質問は、と思った。
三十路を超えた女性の、典型的な質問返し。
ならば、
「絶対に若くない」
あ、やべ、声に出てた……。
ちらりと表情を伺うと、そこでは憤慨の面を被った神様が、軽蔑の目で俺を突き刺していた。
「……願い事はお預けね」
「すみません、今のはほんの冗談で……」
「はあ!? じゃあなんで、やっちまったって顔してるのよ!」
敬語を忘れた神様が、頬を赤くして責めてきた。
言葉に詰まる。またもや返す言葉が見つからない。
もしかしたら本当にロリだったのかもしれないのに……。そんな子を傷つけてしまったとなれば、紳士失格だ。
「もういいです、一年後にまた来ますから。それまでにちゃんと願い事考えてくださいね。私のほとぼりが冷めていたらだけど!」
表情を崩さないまま、神様は空に飛び立とうとする……が、案の定翼が小さすぎて身体を浮かせることすら敵わない。
というか、肩甲骨がピクピクと動いているだけである。なにこれ、可愛い。
なんて思っていたら、今度は携帯のようなものを取り出して、
「早く迎えに来なさいよ! もう帰るんだから!」
なんて叫び出す。
こんなに情緒の変化が激しいのを見ていると、やはりロリなのだろうかという思いが過ぎる。ババアは不要なのだろうかと。
「あの……ほんとにすいません。やっぱりロリでした」
「それはそれでうるさい! もう口を開くな!」
言われた通りにぐっと口を噤むと、神様が墜落してきた時のように、暗雲から一片の光が差し込む。
そこに向かって走り出す神様は、舌打ちをして如何にも機嫌が悪いご様子だ。
もう一年後になったって、願いを叶えてもらえる見込みはないかもしれない。
そして光に包まれる直前、神様は吐き捨てるように言葉を残していった。
「まだ私は二百歳前半よ!」
……まるで二十代前半と言うような口調。
だが全人類のはるか上を行く年齢。その矛盾に、気がつけば、また独り言が漏れてしまっていた。
「ロリババアじゃねえか」
と、聞こえるか聞こえないかくらいの、小さな声を。
バチが当たらないといいが。