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7 この町に吹く風より何倍も冷たい

   ♬


 電車が終点に到着する。無人改札を通り抜け、プレハブ小屋じみた駅舎を抜ける。車道を挟んだ向こうで、枯れかけの麦畑が風にそよいでいた。わたしたちは海へと続く寂れた商店街を歩いた。

 風は潮っぽく冷たかった。そして台風みたいに風が強い。真冬の海辺の町にいると、どうしてこう無条件にもの悲しい気分になるんだろう。五分くらい歩いたけどほとんど人とすれ違わない。代わりに、建造物越しに垣間見る更地で、重機が節足動物さながらにせっせと働いていた。

 葉菜がさっきから全く喋ろうとしないから、しょうがなくわたしはじっと町並みを眺めていた。年中営業しているらしい射的屋を見かけたので、葉菜の服の裾を引いてみたけど「子供じゃあるまいし」と一蹴された。

 まもなくして海が見える。久しぶりの海だから、実は内心わくわくしていたんだけど、葉菜が沈んだ表情で波の動きを眺めていたから、わたしも黙って海を見つめた。

 タッパーから、くるんだ血塗れのハンカチごとモーガンを取り出す。タッパーはカバンにしまった。その瞬間強風が吹き付けて、ハンカチの角がめくれた。モーガンの顔が露出して、長い髭を撫でつける。

 風が通り過ぎる。頬が寒さでぶるりとふるえた。モーガンも同じだろうとふいに思って、ぴたっと頬を寄せてみた。

 モーガンは、やっぱり冷たかった。この町に吹く風より何倍も冷たい。それがわたしにショックを与えた。モーガンと触れあった部分が氷漬けになって、肌に貼り付いてしまいそうな錯覚を受ける。それでもわたしは頬ずりをつづけた。つづけていれば少しは暖かくなりそうな気がしたから。でも、わたしが凍えてしまうばかりで何も変わらない。

 砂浜で、大人の柴犬が一匹であそんでいる。砂の匂いを嗅いだり、後ろ足で蹴りつけて砂埃をつくったり、海水を跳ねてみたり。首輪をつけていたから野良じゃないみたい。

「ワンちゃーん」

 葉菜が声を張って呼びかける。驚くことに犬はその呼びかけに気づいたようで、石段を駆けあがって葉菜の足下までやってきた。しっぽを振りながら葉菜のブーツの匂いを確認している。人に慣れているのか、それとも何か施しでも期待しているのか。

 葉菜がわたしの手から、ハンカチごとモーガンを掬いあげた。モーガンが掌の上で温泉卵みたいに転がる。お腹を隠すように整えると、葉菜は膝を折って屈み込む。

 ご飯と勘違いしたのか、柴犬がモーガンに顔を近づけた。しばらく鼻をひくひく動かしていたが、次第に鼻先の動きが鈍くなっていく。葉菜を見上げると、かすかに首を傾げた。これはなにか、とでも言いたげな顔だった。

「ななこっ!」

 道の先から女の子が駆けてきた。小学校低学年くらいの三つ編みの少女。ななこというらしい柴犬は凄い勢いで踵を返し少女にじゃれついた。犬の方が明らかに大きかったから一見襲われているように見えるけど、少女は楽しそうに笑っている。

「こんにちは。その子、ななこっていうの?」

 わたしは微笑んで尋ねる。三つ編みの女の子は元気よく頷いた。犬の顎肉を無造作につかんで、わたしたちに歩み寄る。

「それ、ハムスター?」

「そうだよ」今度は葉菜が答える。

「寝てるの? 名前は?」

「モーガン。モーガン・フリーマンの、モーガン」

 女の子は意味が分からないという風に首を傾げた。その仕草はさっき犬がした動きによく似ていた。

「なんでモーガン?」

「昔この子を飼ってたやつがね、渋くてかっこいい男が好きだったんだ。だからモーガンって名付けたの」

 ふうん、と言って女の子は、モーガンへと手を伸ばした。背中の毛を撫でようと触れた瞬間、はっとした顔で手を離した。

「これ、死んでるじゃん!」

 耳にキンと響くような声だった。女の子は一歩後退って犬の首を抱く。その目には不快感に溢れており、純真なまでに非難がましかった。

 わたしは、葉菜が怒り出すんじゃないかと思った。そんな態度を女の子がしたからだ。でも葉菜は笑みを絶やさなかったから、わたしは、自分がそういう危惧をしたことを恥じた。実は怒りたかったのって、わたしだったんじゃないかって。

「そうだね、死んでる」葉菜は立ち上がって女の子に手を振った。「ばいばい。ななこ、お腹空いてるみたいだよ」

 防堤沿いに歩き出すわたしたちを、女の子はじっと見つめる。数十メートル進んで振り返ると、女の子は犬の顎をつかんで来た道を引き返していた。


 やがて竹林が道を阻む。一列になって小径を抜けると、今度は海浜公園が見えてきた。防波堤の壁に一角を守られた公園だ。誰かが落としていったおもちゃのスコップを拾い上げる。さっきの女の子の物かもしれない。

 一部がなだらかな丘になっていた。湿った木陰の地面を選んで、おもちゃのスコップで穴を掘った。ここからなら海が見えるだろう。

 掘り返されないよう、深く深く掘り進んでいく。無数の小石に当たったが、プラスチックが壊れそうな勢いで土を返し、外へと追い出す。

 葉菜は手にモーガンを包んだまま、海のさざ波を眺めていた。天気は良いとは言えない。今にも雨が降り出しそう。

「死んでる、って言われて気づいたんだけど」

 葉菜の言葉に、わたしはスコップを動かしながら黙って耳を傾けた。

「やっぱり、モーガンを偶像にしちゃいけなかったんだ。マコトちゃんをモーガンに重ねるのはよくない。だって、モーガンの命は、モーガンだけのものなんだから」

 一段と大きな石に当たる。周りの土を避けてから、手で引っこ抜いてそばに捨てた。さらにスコップを刺しこむ。

「ねえ由香里ちゃん、パパのお葬式はどうだったの?」

 わたしは平静を繕って作業をつづける。

「パパ、どんな顔してた?」

「どうだったかな。叔父さんって印象薄い顔してるからね」

 本当のこと言うと、骨になった叔父のインパクトが強すぎて忘れてしまったんだ。

「ママはどうだったの、なにか話した? ほかの親戚の人とか、あたしの同級生とかいた?」

 わたしは短く息を吐いた。額に浮かんだ汗を、前髪をよけて拭う。話を逸らそうと思った。

「地元はいいよね。また可愛くなったねって、みんなわたしのこと美少女扱いしてくれる」

「二十歳にもなって自分のこと美少女って、由香里ちゃん、ばかだと思われるよ?」

「文部科学省では二十二歳以下の女のことを女子って定義してるのよ。わたしが美少女でもおかしくないでしょ」

 葉菜がわたしの隣にやってきて、「もういいよ」と言った。穴は相当な深さになっていた。底まで手を入れたら肘まで入っちゃうくらい。

「お別れしよう」

 ハンカチを穴底に敷き、その上にモーガンを横たえる。葉菜がスコップを手にして、慎重に土をかぶせていった。徐々に隠れていくモーガンを眺めていると、自然と下唇のあたりが震えた。何か言い忘れたことがないかと考えたけど、いくら悩んだところで声にしてしまえば陳腐に成り下がる言葉ばかりで、おとなしく口を噤むしかなかった。

 そのとき、ふいに葉菜の手が止まった。顔を上げ、公園の入り口に目をやっている。彼女の視線を追うと、そこにきょろきょろと辺りを見回す三つ編みの女の子がいた。あとから柴犬が追いかけてくる。

 わたしたちを見つけると、女の子は一目散にこちらへとやってきた。右手に、一輪の野菊を握りしめて。

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