6 ハムスターお嫌いですか
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葉菜を神経科に連れていこうとしたけれど、最後までタイミング逸してしまった。彼女は文字通り人が変わってしまったようだった。一週間溜めに溜め込んだものを吐き出すように、わたしの後にくっついてはあれこれと話しかけてくるようになった。互いの身辺状況や趣味の話から始まり、食べ物の話、血液型占い、最近読んだ漫画や、果ては天気の話で三十分延々と喋り続けたときは別の精神疾患を疑ったが、まともな受け答えが出来ないわけじゃないし、もともとそういう性格だったのかもしれないとも思える。
ショッピングに行こうと葉菜から誘われ二人でアウトレットモールに出かけたことがある。主に葉菜の衣服を買うために洋服店舗をいくつかはしごするつもりだったけど、葉菜がティッシュ配りの女の子と仲良くなってしまい、足が止まってしまった。
女の子は今風なメイドのコスプレをしていた。当時、モチベーションの権化と化していた葉菜が変わった衣装を纏う彼女に興味を抱かない理由はない。「あなた、かわいいですね。何歳?」とナンパのような切り出し方をしたかと思うと、ものの二分ほどで打ち解けてしまった。
きっとわたし一人だったら、自分とは違う世界に生きている人種なのだと割り切って通り過ぎていた。終始口を挟まず、隣で会話を聞いていたけど、メイドさんはいたって普通の女の子のようだった。普段も猫撫で声で喋るんでしょ、と勝手に思い込んでいたから、ギャップ効果で少しだけ好感を持つ。
それから数日後、葉菜は池袋のコスプレ喫茶でバイトを始めた。様々な衣装を着せられ、従業員それぞれにキャラ設定を課せられること以外は普通の飲食店だと葉菜から聞いた。それでもわたしはそういうお店にあまり良い印象を抱いていなかった。風俗店まがいのサービスでもされられてないかと心配だったのだ。
「そんなに心配なら一度お店に来なよ」
葉菜にそう言われ、内心気が進まないながらもそのコスプレ喫茶へ赴いた。女一人で入店してくるのはやっぱり珍しいみたい。周りの男性客やカップルからじろじろ見られたし(自意識過剰かもしれないけど)、わたしもずっと妙な愛想笑いを浮かべた。
葉菜は、学生風の衣装で働いていた。いつもはただのストレートだった髪型を二つ編みに、いわゆるツインテールの形に結わえている。少女趣味の男性に受けが良く、しかも動きやすくて作業向きなのだという。「あなたは髪が長いから」と先輩に勧められたそうだ。幼児がするヘアスタイルだと甘く見ていたけど、そういうメリットもあるのかとちょっと感心。しかもこういったビジュアル重視のお店ではむしろ武器になるんだろう。
コスプレ衣装は見ているこっちが恥ずかしくなるけど、普通の飲食店とさほど変わらないのは納得した。でも、葉菜とやった『黒ヒゲ危機一髪』で五百円も取られてしまったのだけは、腑に落ちないけど。
葉菜にも、バイトを通じて何人か友だちが出来た。その中には一人、男性も含まれている。特にその人物と仲良くなったみたいで、夕飯時に何度も彼の名前が登場した。
「マコトちゃんって言ってね、お店のマネージャーやってるんだよ」
「格好いいの?」
「格好いいっていえば、格好いいのかな。でもそれ、マコトちゃんに言ったら怒られるかもね。だって彼、ゲイなんだもん」
マコトくんは謎多き人物だった。面白くていいやつだって葉菜は言うけど、経歴や出身、その他身辺情報について、葉菜さえもほとんど知らされていない。
「詳しいことは分かんないけどさ。マコトちゃんね、可愛い女の子に憧れてあのお店で働くようになったんだって。女装するときなんかあたしよりメイク上手いんだよ」
日を追うごとに、葉菜は目に見えて活発になっていく。初めてのバイト代で携帯電話を購入し、毎日誰かと電話やメールのやりとりをしているようだった。だんだんわたしの手から離れていくみたいで、しかし葉菜の交友関係にまで首を突っ込むのは野暮だし、それ以上にちょっと寂しさを覚える。
それにわたしは、その頃あまり人の心配をするような状況じゃなかった。学校へはほとんど行かなくなっていたし、バイトへ出かける以外はずっと引きこもっている。原因の多くにあのナポリタンがある。まるで葉菜と性格の入れ替えっこをしていくようで怖かった。怒りの矢面に立つ存在は一つしかない。自分をどんどん暗くしていくあのナポリタンに、わたしは憎しみさえ感じるようになっていった。
そんなとき、わが家にある転機が訪れる。
転機とはわたしが学校を辞めてしまったことではなく、それよりもっと後に起こったことだった。
晴れてフリーターの身となったわたしは、バイトを終えて電車で帰宅していた。ちょうどそのとき、車内で葉菜と鉢合わせしたのだ。
「ちょうど良かった。これから遊びに行くんだけどさ、由香里ちゃんも来ない?」
「いいけど、こんな遅くにどこ行くの?」
「クラブ」まさかあの葉菜の口からこの三文字が飛び出すなんて、夢にも思わなかった。「マコトちゃんと待ち合わせしてるんだ。夜七時、六本木にあるお店なんだけど」
マコトくんの名前が出て少し安堵する。話を聞く限り悪い人ではないようだし、ゲイとはいえ男の子がついているなら安心だろう。
「わたし、クラブなんて行ったことないもん。なんか怖そうだし。マコトくんがいるなら葉菜ひとりでいけばいいじゃない」
「わたしだって初めて行くよ。だから不安なんじゃん。ねぇお願い。マコトちゃんいいやつだし、由香里ちゃんにも紹介してあげたいの」
しかし、いざ目当てのクラブにつくと、入口付近で侵入禁止のテープが張られていた。人だかりのせいで店の様子すら見通せない。見ると、周囲にパトカーが数台止められており、入り口では警察官数人が出入りしていた。
そのクラブで何らかの事件が起こったことは明らかだった。わたしたちはしばらく人混みに紛れてうろたえるしかなかった。既に時刻は八時を回っており、葉菜も何度かマコトくんと連絡を取ろうとしたが、一向に繋がる気配がない。
「少なくとも暴力事件か、最悪、人死にかもな……」
誰かが発したささやき声がわたしたちのもとに届く。葉菜は顔を蒼白させ、携帯を握りしめたまま立ち尽くしていた。
季節は移り変わり、夏の終わりへと差し掛かっていた。あれからマコトくんが葉菜のバイト先に顔を出すことはなくなった。
昼下がり、一人ソファでテレビを見て過ごしていると、ふいにチャイムがなった。葉菜はまだ仕事中だろうし、新聞の契約更新もまだ一か月先だ。するとセールスか、実家からの仕送りでも届いたか。
覗き窓を覗くと、そこには見知らぬ若い男が立っていた。
見知らぬ、というのは誤謬があるかもしれない。わたしは確かにその顔を知っていた。例のクラブでの暴力事件、それとともに、ワイドショーが報じた何人かの行方不明者。彼らは顔写真つきでメディア報道されていた。そんな記憶と照らし合わせて、確かにそれがマコトくんだという確信が持てたのだ。
彼は大きな布のバッグを両手に抱えていた。背中には楽器ケースらしきものを背負っている。それから、片耳につけたピアスに目がいく。イルカを模した形状で、薄いピンク色をしたそれは男性用としては似つかわしくない。
「どちらさまですか」
「ハギワラマコトというものです。以前、葉菜さんと同じ職場で働いていた者です」
ドアチェーンを掛けたまま、恐る恐る顔を出す。
「残念だけど、葉菜は不在ですよ」
「知ってます。今は確かバイト中ですよね。だから、あなたが居ることだけに賭けて伺ったんです」
マコトくんはおもむろに手にした黒塗りの布袋を差し出す。チャックを開くと、ガラス張りのケージの中に、小さな動物の姿が見えた。その正体を知ったわたしは、小さく悲鳴をあげて後退った。
「もしかして、ハムスターお嫌いですか」
「き、嫌いというか、苦手です。とくにこの鼠みたいな動物は……」
マコトくんは笑みを絶やさなかった。
「この子のお世話を、葉菜ちゃんにお願いしたいと思って。それから、お荷物ですがこのギターも渡してあげてほしいんです」
ある事情があって携帯を変え、それから葉菜とメールのやりとりをしたのだと彼は話した。
「本当に葉菜が受け取ってくれるって、そう言ったんですね?」
「それは本当です」
わたしはおずおずとケージを受け取り、玄関の隅にそっと置く。マコトくんは静かにうなずく。
「よろしくお願いします。是非、あなたの手で渡してほしいんです。初対面でこんなことを言うのは失礼なんですが、僕はあなたに嫉妬していて、それと同じくらい、あこがれているんです」
彼はギターケースを両手に持ち直した。
「一度、葉菜ちゃんに尋ねたことがあるんです。葉菜ちゃんの一番の友だちは誰なのって。もちろん僕の名前を一番に挙げてくれるはずだと思っていました。だけど彼女は頭を悩ませたんです。やがて挙がってきた名前は二つ。僕と、それからあなた」
わたしは黙って聞く。
「由香里ちゃんはあたしの大事な親戚で、親友なんだって。葉菜ちゃんはそう言いました。同時に自分を救ってくれた恩人であると。もちろん、僕のことも親友だと言ってくれたし、二人を比べることなんかできないと彼女は言いました。でも、あなたのことを語る葉菜ちゃんの目は、悔しいくらい輝いていて……」
マコトくんは言葉を切り、自分のつま先を見つめた。
「だから、あなたの手を介することに意味があるんです。どんな意味がと訊かれると困るのですが。とにかく、これが僕にとっての抵抗であり、彼女へ向ける親友としての、最後の意地なんです」
マコトくんは押し付けるみたいにしてギターケースを寄越してきた。よろしくお願いします、と深く頭を下げ、彼は足早にその場を去っていった。




