5 自慢じゃないけどわたしは人一倍腕力がない
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まるごと一週間を葉菜は寝て過ごした。新しくニトリで購入した布団一式に、彼女は朝晩問わずべったりだった。
冬休み明けの忙しい時期で、学校とバイトに行っている間は構ってあげられないにしても、家に帰るとずっと横になったままの彼女を毎日見かけると、さすがに不安になってくる。転がり込んできた当初と比べていくらかまともに喋るようになったとはいえ、その口調からは覇気だの生気だのは感じられない。
「今日は一日なにしてたの?」そう聞くと大抵、「寝てたり、テレビ見たり、ぼうっとしたり」と、まるで能動的じゃない惚け老人みたいな生活ぶりをぶつぶつと口にするのである。
まずは少しでも外に出してあげなければと思い、「ちょっと近所に買い物行こうよ」と誘ったことも何度かあったけど、彼女は「あたたかくなったら」と首を振るだけだった。
これは余談だけど、葉菜はよくコンソメを食べた。固形タイプで、一個五グラムのアレ。やけにコンソメなくなるのが早いなぁと思ったら葉菜がこっそり消費していた。平均して一日四個ほど。食べる料理といえばわたしの作る夕飯くらいで、それすらまともに手をつけない。自発的にとる食事といえばミネラルウォーターとコンソメだけ。生きるのに最低限必要な水分と塩分を無意識に選んで摂取していたことから、身体の方は生き延びるための機能を果たしていたみたい。
そろそろこの子のことについて母と相談するか、もしくは神経科にでも連れていくべきかと思っていた。そんなある日のこと、ある事件が起こる。
それは結果として、わたしに精神疾患に関する各種書籍を手に取らせたりするんだけど、本人にとってはそれが抵抗であり、変わるための第一歩だったんだと、今はそう思える。
その日はバイトで、急にシフトの空きができ、遅くまで勤務してきた帰りだった。
いつも敷きっぱなしの布団に葉菜がいない。浴室の明かりが点いているのを知って、わたしの帰りが遅いから先に入浴しているんだろうと思った。わたしは、今にも倒れそうなほどに眠かった。厚ぼったいストールをソファに投げ出し、葉菜の布団へうつ伏せに寝ころぶ。葉菜がお風呂から上がるまでと、軽く仮眠を取ることにした。
そのはずなのに、目が覚めると二時間も経っていた。葉菜の喚き声がなければ、もっと眠っていたかもしれない。そして、その叫びがそれほど異様でなければ、わたしも危機を察して起き出さなかっただろう。
疲労のせいでふらつく足元をこらえながら、掛け時計で深夜一時であることを確認し、半開きの眼を浴室の方へ向ける。声はそちらからだった。はじめに想像したのは野良猫の存在だった。たまにマンションの通路でうろうろする野良猫を見かけたので、もしやそいつが何かの拍子に部屋に入りこんで暴れているのではと勘繰る。それほどその声は動物的だったし、少なくとも、あれだけ大人しくしていた葉菜のものだなんて、到底想像が追いつかなかった。
だから、浴槽のガラス戸を引いたとき、予想外の光景にわたしはしばらく動くことができなかった。
葉菜は空っぽの浴槽の中にいた。血だらけの果物ナイフを手にして、頭を垂らして声をあげている。よく聞けばそれは悲鳴じゃなかった。小さな乳房に血がしたたっている様を見ながらひたすら、怯えて泣いていたのだ。
眠気と血の気が一気に引いていくと、自分でも驚くことに、わたしは恐ろしいほど冷静になっていた。ガラス戸に手をかけたまま見下ろす。葉菜もわたしに気づき、しわくちゃな泣き顔を向ける。彼女も気を取り戻したのか、だんだん呻き声を小さくしていく。鼻から一筋、鼻水が垂れた。
自分がまだ靴下を履いているのに気づいて、脱いで脱衣カゴに放り込む。靴下が濡れるのを避けるためにそうしたけど、その心配はいらなかったみたい。浴室の床に湿り気はなかった。浴槽に湯も張っていないし、やっぱり、ただお風呂に入っていたわけじゃなかったようだ。
血の出所は葉菜の二の腕からだった。はっきりとした傷跡も一本で、あとは薄皮を何度か切りつけたくらい。出血もすでに止まりかけていたことから、それほど深く切ったわけじゃないみたいと判断する。傷を見られた葉菜は、それを隠すように上半身を傾けた。どういう顔したらいいのか分からないって感じで、困り果てたように、彼女は照れ笑いをしてみせた。
急に感情が溢れてきて、頭に血が上っていくのが自分でも分かった。それは状況にそぐわない怒りだった。その顔がやけに可愛らしかったから余計に腹が立つ。あんた、うちにやって来て、初めて見せた笑顔がそれかよ、って。
果物ナイフを乱暴にむしり上げると、葉菜は驚いたみたいにわたしを見上げた。その頬に一発、平手を入れた。自慢じゃないけどわたしは人一倍腕力がない。高校の運動測定でも、ソフトボール投げでは七メートルしか飛ばなかったし、握力測定も右左平均で十一キログラムだった。いくら女の子でも小学校低学年じゃないんだからって、友人数名の笑いものにされる始末だった。
火事場のなんとかってやつなのか、そんなわたしでも結構な力に溢れていた。ビンタを食らった葉菜はそのまま浴槽の角に側頭部をぶつける。ごん、という骨のぶつかるような音がして、彼女の怪我の安否以前に、自分がゴリラにでもなった気分がして誇らしかった。あんな心境になるなんてもう二度とないだろう。
それくらい、わたしは怒ってたんだ。
「さんざん周りを心配させておいて、今度はなにすんのかと思ったら自傷かよ。学校行かない。外出ない。家帰らない。かといってバイトして生活助けるわけでもない。どうしたいのかも分かんない。つーか喋んない。コンソメ食べたいならたまには自分で買ってきなさいよ。そもそもなんだよコンソメって。ばかじゃないの。虫かよ。そういうペットかおまえは。寝て、起きて、コンソメ食って、それで人間が生きていけんのか。あんたはつまりあれでしょ、死にたいんでしょ。じゃあどっかよそでやれよ。あんたが死んだ部屋なんて住たくないよ。引っ越し代出してくれんのかよ。出せないだろ。じゃあここじゃなくて外で死になさいよ、迷惑なんだよっ」
肩で息をしながら、打ったところを抑えて痛がる葉菜を見下ろす。こんな物でちょっと腕切ったくらいじゃ死ねないと思うけどね、と付け加えて、床に果物ナイフを落とした。
すると葉菜は、あろうことか、くつくつと笑い出した。それこそ狂ったみたいに。
由香里ちゃんになぐられたって、どうしてか嬉しそうに。あの由香里ちゃんに。パパにだってなぐられたことないのにって、アムロの台詞パクって腹を抱えて笑う。
「もう、勝手にしなさいよ……」
だんだん薄気味わるくなってきたわたしはその場から一旦離れた。寝間着に着替えて寝ようとしたが、一日頑張ってかいた汗が気持ち悪くて寝付けない。
笑い声のする浴室に押し入ってシャワーを浴びる。隣で全裸のままの葉菜が未だにくつくつ笑っていたけど、気にせず身体を洗った。浴び終えると一気に疲れが押し寄せてきて、わたしは最後までシカトを決め込み就寝した。
翌朝目覚めると、彼女は昨晩の全裸のまま自分の布団で眠っていた。左腕にはあのハンカチがぞんざいに巻き付けられている。傷跡を中心に、布地を赤黒く、じわじわと浸食して。
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お腹が空いてきたので途中駅で降りた。そこは学生街で、チェーンの飲食店ならいくらでもある。
適当にファミレスでも入ろうとしたけど、葉菜が嫌がった。
「もっと静かなところがいいなあ」
昨日騒音で近所に迷惑をかけた子の台詞とは思えない。迷惑――といえば昔、自傷した彼女にぶつけた言葉でもあるけれど、今ではずいぶん許容できる『迷惑』になったなあと、葉菜との共同生活に慣れきったことが感慨深い。
十五分ほど歩き、街の片隅にある一軒の喫茶店に落ち着く。太陽が暖かいので、テラス席に向かい合わせで座る。店員がメニューを取りにくると、葉菜は間髪入れずココアを注文した。つづけてナポリタンと言いかけたところで、葉菜はわたしを横目に見て小さく笑う。
「冗談だよ。だって、あたしにとってのナポリタン記念日だったんだもん」
いやな記念日を作ったもんだ。しかし葉菜も一応気を使ってくれたのか、訂正してペペロンチーノを注文した。わたしはオレンジジュースとサンドイッチミックスをお願いする。それから、いまだに葉菜が左腕に手をやっているのが気になった。
「まだ痒い?」
「昔を思い出したら尚更ね」風が吹き、彼女のツインテールの先を撫でつける。「あのときの由香里ちゃんの目が忘れらんないわけ。なんだろ、別の種族の動物を眺めるみたいな。そういう突き放したような目してた」
そんな顔だったのかと自分で可笑しくなる。しかもいい歳して誰かに手をあげるなんて、当時は葉菜だけじゃなくわたしも変になっていたのかも。
「でもあの出来事がなかったら、今でもあたしは布団の中だったかもね。そうでしょ? わたしはきっと痛い目に遭いたかったんだよ。高校に受かった瞬間燃え尽きちゃってさ、体の芯から力が抜けちゃったみたいで。引きこもって死んだも同然って感じで。それでパパ、怒るわけでもぶつわけでもなく、優しく諭してくるのよ? 『葉菜は受験だって乗り越えたんだ。頭のいい君だからこそ、環境の変化には弱いんだな。ちょっとくらい休んだって平気さ。君が学校に行きたいって言うまで僕らも待つから』って。ぬるま湯なの。もしかしたらこの世に苦しいことや痛いことなんてないんじゃないかって、すごく不安になった。でもそんなはずないって頭のどこかで分かってたから、よけい腐ると思ったの。正直、あんな家にいたら」
ドリンクが先に運ばれてくる。葉菜は言葉を切ってココアを口にし、さらに喋り出す。
「なんで腕なんか切ったのか、あのときのあたしには説明できなかったけど、今なら分かるよ。あたしは痛みが欲しかったんだ。精神的でも身体的でもなんでもいい。たぶん最初で最後の自傷だったけど、後悔してない。身体が傷つけば痛い思いをする。叱られれば辛い思いをする。それが当たり前のことなんだから。あたしみたいな馬鹿はそうでもしないと実感が沸かないわけ。傷つけたり、殴られたり、怒られたりしないと」
葉菜はもう一度ココアを啜り、すっきりした顔で歩道の街路樹を眺めた。
わたしたちは大人になるために常識を教育されていく。世間はその『当然』という前提のもと、わたしたちに対する接し方を少しずつ別次元へとシフトさせていく。しかもその『当然』は覆されることだってある。引きこもったままじゃ良くないのは本人も分かっているだろうって、叔父さんはそれをあえて口にせず葉菜を諭した。実際は未発達で、『当然のこと』すらあやふやなままなのに。誰も口にしないから曖昧になってしまうことなんて、世の中にはいっぱいある。今目を向けるべき真実を、見失ってしまうことだって。




