4 「ご飯」
♪
ぴん、ぽぉーん。控えめに一回。首を傾げる。この部屋のチャイム、こんな間抜けな音だったっけ。
玄関へ向かい、のぞき窓から廊下を見る。女の一人暮らしを決して甘く見ちゃいけないと母から口うるさく言われていたので、訪問者が現れるたびにこののぞき窓を使うのが癖になっていた。時期的にどうせ新聞の集金だと思いこんでいたわたしは、扉越しに立っていた女の子を見た瞬間、驚きのあまり扉におでこをぶつけてしまった。
ぶつけた所をさすりながら扉を開くと懐かしい顔と対面した。小さい頃よく一緒に遊んだ記憶がある。中高時代はめっきり会わなくなったけど、それが従妹の葉菜だということは面影ですぐにわかった。今年、地元の私立高に入学したと風の噂で聞いていて、それを証明するみたいに、彼女はその学校の制服を着ていた。ただし子供のときからあまり身長は伸びていないらしく、顔立ちも幼いため、小学生の葉菜がタイムスリップして制服を着て現れたみたいだった。
「葉菜だよね……?」
他にも聞きたいことはいっぱいあった。いきなりやって来てなにかあったのか。なんで制服なのか。仙台から東京までどうやってきたのか。そもそも一人なのか。あり過ぎて何から尋ねていいか倦ねてしまって、わたしはうろたえることしかできなかった。
彼女はじっと顔を伏せていたが、少しずつ時間をかけて、申し訳なさそうにわたしを見上げていく。一応、アポなしで訪ねてきたことを悪いと思っているのか。ただならぬ事情があって、それを隠そうともしているのか、恥ずかしそうに頬を染めている。
「とにかく上がりなよ」
葉菜の制服の裾をつかんで部屋に招こうとして、どきりとする。その日は二月の真冬だった。冬服とはいえ、葉菜はマフラーや手袋といった防寒具を一切身につけていない。見ると手の甲は寒さでかじかんでいる。顔や耳が赤いのも、恥ずかしがっているからじゃなさそうだ。
とつぜん葉菜が、わたしに抱きついてきた。右肩に重たそうなボストンバッグを担いだままだったから、思わずよろめいてしまった。わたしは混乱しきっていた。葉菜が声を殺して泣き始めたからだ。
葉菜はしばらく、まともに喋ろうとしなかった。泣き止んだのを機にお風呂に入れてあげて、それから事情を聞き出そうと思っていたのに、彼女は持参したパジャマに着替え、わたしの布団へ勝手に潜り込んで一分足らずで眠りに落ちた。よっぽど疲れていたらしい。いつ起きるんだろうとソファでくつろぎながら待っていたが全然目覚める様子もなく、それこそ泥かスクラップのお人形みたいに眠ったまま、翌日まで布団の中だった。
朝、ソファの寝心地の悪さから起き出したときも彼女は眠ったままで、バイトから戻ってもまだ起きないようだったら、今度は救急車を呼ぶ必要がありそうだと思ったほどだった。しかし夕方に帰宅してリビングの引き戸を開けると、ぼんやりと掛け布団から身を起こす葉菜と視線が合った。
「いつ起きたの?」
「五分前くらい」
うちに来たのが前日のお昼だから、合わせて二十四時間以上は寝ていたことになる。なのに葉菜は当たり前のように言った。長い髪があちこちに跳ねてひどい有様でちょっと笑えたけど、それどころじゃない。隣に座って、昨日聞き出そうとした様々な質問事項を並べ立てたが、聞こえていないのか、それとも意図して答えようとしないのか、葉菜はうんともすんとも言わなかった。それどころか、さっきまで目一杯寝たはずなのに、わたしの詰問を子守歌代わりにして、彼女はまたうとうとし出した。この子、寝過ぎて頭おかしくなったんじゃないの、なんて本気で心配していると、そこで母から電話がかかってきた。
「大変なことになったよ。従妹の葉菜ちゃん、覚えてるでしょ? 家飛び出したままもう二日も帰らんて」
慌ただしく捲くし立てる母の声に耳にしながら、『大変なこと』の元凶である葉菜に目をやった。当の本人は暢気にうつらうつらと舟を漕いでいる。
「葛飾の路上で葉菜ちゃんの自転車が打ち捨てられとったって、ついさっき警察の人から電話あってね。叔父ちゃんたちも捜索願い出すって、もう大騒ぎよ。葛飾っていったら東京だもんね。ゆかちゃん、なんも知らんね?」
「お母さん、捜索願い取りやめさせて」
「は?」
「葉菜、うちにおる」
それからひっきりなしに、母と叔父から交互に電話がかかってきた。葉菜は携帯電話を持ち合わせておらず、そのせいでわたしの携帯が唯一の連絡手段となってしまった。
葉菜に代われ、と決まり文句のように言われ、そのたびに取り次いだ。葉菜はまともに言葉を発さなかった。話したとしても「うん」とか、「ううん」とか、「しばらく由香里ちゃんちに泊まる」としか言わない。
はらはらしながら見守っていると、豪を煮やした叔父さんの怒声がこちらまで届いてくる。それでも葉菜は、見ていて怖くなるくらいの平静ぶりだった。ふいにため息を吐いたかと思うと、彼女は「由香里ちゃんに代わるから」と、放るようにわたしに携帯を寄越してきた。
「二度と帰って来なくていいって、そう葉菜に伝えてくれ」
叔父さんは八つ当たりみたいに喚いて電話を切った。そういえば、あれ以降叔父と話した記憶がない。わたしにとって、それが恐らく最後に聞いた叔父の言葉なんだ。
わたしたちはしばらく憔悴して何も話さなかった。いや、憔悴していたのはわたしだけだった。葉菜は相変わらず心ここにあらずといった風で、ただ薄ぼんやりしているだけ。しばらくして「ご飯」とふいに呟いたことからも、やっぱり何も考えていなかったんだと思う。
♬
「そう、そのとき由香里ちゃんが作ってくれたのがナポリタンだったんだよ」
「そうだっけ?」
どうにもその後のことは記憶が曖昧だ。冷蔵庫にあった有り合わせのもので作ったら偶然それが出来たという程度だったかもしれない。たしかその四ヶ月後くらいに学校を辞めたはず。そのときのわたしはまだナポリタンが嫌いじゃなかったのか、ちょっと思い出せない。
駅のホームには、わたしたち二人しかいない。ひび割れたプラスチックのベンチに座って息を吐くと、冷却された空気の結晶が目に見えそうだった。
「ちょうど一年前の今日なんだよ。だからこの日はあたしにとって、ナポリタン記念日なの。由香里ちゃんは嫌だろうけどね」
確かに、聞くだけで鼻の奥が酸っぱくなってくる。
構内アナウンスの数十秒後、電車がやってくる。車内に入ると頬がぶるっと震えた。ここから路線を二本ほど変えていくと海岸が見えてくる。
二人掛けの座席に腰掛けてショルダーバッグを膝の上に置いた。中からタッパーを出して、血糊つきのハンカチをよけると、ぴったりと瞼をおろしたモーガンが顔を出す。しばしば『狭さ』の表現に猫の額が例えられるけれど、ハムスターの額はもっと狭い。人差し指で触れるとそれだけで顔の上半分が隠れてしまう。
葉菜が、わたしの手元から顔を逸らした。じっと車窓越しの景色に目を凝らしている。それは何かに抗う表情にも見えた。
「こういう寒い季節が来ると、このへんが痒くなってくるんだよね」
葉菜の右手は、左の二の腕に添えられている。ジャケットの上から数回さする。寒い、ってわけじゃない。古傷が痒いんだと思う。
書店の立ち読みでそういう本を読んだことがある。自傷に関するドキュメンタリーだ。ある時期わたしは葉菜の自傷行為について本気で心配していて、そんな本を幾度か手に取ったことがある。不思議なもので自傷の跡っていうのは冬になると急に痒みを帯びるらしい。動物が生命の危機を感じて冬眠に落ちるように、自傷跡も主の本能と乖離し、早くかき毟って痛みを思い出せと訴えているようだと思った。




