3 それはどう見ても血だった
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くちびるが切れそうなほど乾いた冬の早朝。加湿機能をフル稼働させる空気清浄機がうるさいから布団から這い出す。浴室の方から、朝風呂に浸かっているらしい葉菜の歌声が聞こえてきた。
眠気まなこを擦る。昨晩とまったく同じ位置でモーガンが横たわっていた。四つ折りにされたハンカチの上でひっそりと、どことなく痩せて見えるのは気のせいかな。触れると、弾力は以前と変わらないように思えた。今度は鼻を近づける。獣っぽい独特のいい香りがした。寒さのせいか、一日置いたくらいじゃ腐ったりしないみたい。
葉菜がタオルで髪を拭きながら下着姿でリビングに現れた。
「シャワー浴びる? あとメイク」
おはようの挨拶もなく言う。ぼんやりした頭のまま「なんで?」と葉菜を見上げた。わたしたち、どこかへ出かける用事でもあったっけ葉菜はおもむろにモーガンを指した。
「埋めに行こうかなって。できれば景色のいい場所がいいよね」
そういうことかと納得して、ふいに痛みだしたこめかみを指で摘んだ。なんで、こんな二日酔いみたいな症状が出るんだろう。たしかに昨日は葬儀のあと、親戚一同で多少飲みはしたけれど、これじゃまるで、お酒に慣れきっていないのにビール二缶を飲んでしまった、あの夜みたいだ。
設定温度を高めて、風呂場で熱いシャワーを浴びる。口を開けて熱湯を飲み下すと胃のむかむかがいくらか和らいだ。風邪を引かないよう念入りに身体を拭いて脱衣所を出る。
玄関先でブーツの手入れをする、葉菜の背中があった。紅葉色のセーターの上からジャケットを羽織っている。学校の制服みたいなチェックのプリーツスカートと厚手の黒タイツ。ガーリーというかまともな少女っぽい。いつもスウェットにサンダル履きでどこまでも出かけてしまうくせに。
まあ少女っぽいってのも変か。一応この子もまだ十七だし、少女っぽいのが当たり前なんだ。それにしたって、ハムを埋葬しに行くのにお洒落ってどうなの。わたしは普段通り、ベージュのダッフルコートに紫のマフラーを合わせた。
それから、モーガンをどうやって連れていくかという話になった。二人で考えた末、敷いていたハンカチで包んで、使い古しのタッパーに入れていくことになった。「お弁当と間違えちゃイヤだからね?」という葉菜の不謹慎な冗談は無視しておいた。
そんなことより、モーガンをいったん持ち上げたとき、四つ折りにしたハンカチの中央に赤い染みがあるのに気づいた。それはどう見ても血だった。それも、ゴールデンハムスターであるモーガンの大きさでぎりぎり隠れるくらいの、わりと大きな血の痕。最初はモーガンのものかと思ってびっくりしたけど、ぐったりしたその身体には外傷のようなものはなかった。しかもその血痕は茶に近い黒色で、それなりに年季が入っているように見えた。
そのハンカチと血痕の正体に、わたしは割と早い段階で気づいた。本当はもっと早く気づくべきだったんだけど、このところ同居人との生活があまりにも平穏に過ぎるように感じていて(とても便宜的な平穏だ)、すっかり記憶の外に追いやられていた。
「これってあたしのだよね。あのときの」葉菜が笑いかけてくる。「懐かしいよね。てか由香里ちゃん、これ捨ててなかったんだね。あたし、よく分かんないうちにモーガンのベッドにしててさ」
人ってのはたまに突拍子もなく行動に起こすことがあって、その多くは自分でも動機を明確にできないものばかりだ。言うほど人間は理性的でも理路的でもないのかもしれない。それでいて他の動物ほど単純じゃないから面白い。事実わたしは、葉菜のすることなすこと何もかもを黙認で通してばかりで、彼女の思い通りにさせてばかりだった。
そこでチャイムが鳴った。
ぴんぽーんと、控えめに一回。立ち上がろうとする葉菜を制止し、わたしは玄関へと向かった。




