キープアウト
合間をみつけて約2カ月で書き上げました。
最後まで読んで頂ければうれしいです!
その切抜きを見つけたのは二日前のことだった。爽やかな風が肌をくすぐり目前のビルからは僅かばかりの熱を発している気がしてならない午後だった。
パートタイムの仕事を週四日のシフトでこなしながら予備校生として最寄の地下鉄を行き交う日常にすっかり慣れてきた二浪目の初夏のこと。高層マンションの日陰に隠れるほどの小さな賃貸アパートの住人である白神桐彦は、二週間後に控えた予備校の模擬試験に向けて苦手科目に絞って勉強に専念しようと試みたが、夜なべによる睡眠不足のため実行された昼寝をなんとか正当化しようと思い立ったのだ。その大義として六畳の床に散乱しているいかがわしいお題目が書かれた雑誌の巻頭が目障りだったため、襖の角隅に一箇所にまとめようと重ねていたとき、一枚の新聞の切り抜きがページの隙間よりひらひらと畳の床に流れ落ちた。拾って捨てる腹ではあるが一応書かれている内容を凝視する。
…島の榊段連峰のふもとで巡回中に消息を断っていた富樫巡査部長当時三十四歳は山から流れる渓流の下流で遺体となって発見された。初動捜査により、後頭部を強く打った外傷が見られたため、山中で誤って足を滑らせ岩盤に転落したと捜査当局はみている。富樫巡査部長が単独で山道を登っていった意図は不明。所持品の一部と彼が携帯していた拳銃が未だ発見に至っていないのが気がかりであると捜査当局は頭を悩ませているが…
その切抜きは文の冒頭と最後の部分が途中で破られており、紙の表面は日焼けで黄ばんでいる。
「いつの新聞だよ…」
白神が束の間で感じた素朴な疑問が解明されることは困難だろう。なぜなら、この切抜きはこちらへ引越してくる際に一緒に送った必要な荷物ひとつひとつを保護するため、層に分けて段ボールに敷き詰めたクッション代わりの古新聞の一部だからだ。これは成人を控えた普通の青年がとるごく一般的行動であるかは定かでないところだが、例によって片付けた『十八禁』のマークがプリントされている雑誌の中身でお気に召したページの間に二つ折りにして挟んでいたのだ。
「さて、邪魔者を片したことだし」
参考書とノートが重なり置かれている小さな飯台に目を落とすと憂鬱感に苛まれる。
白神が首の後ろをかいて寡黙にぐずっていると、アダプタに接続されたまま床に放置されている携帯電話がうなりをあげた。マナーモードに設定しているとはいえ、閑散とした室内で突如うごめくバイブレーションには思わず鳩が豆鉄砲を食らったように肩をひくつかせてしまう。
携帯を開いてメールの通知だったと確認できた。差出人の欄に表示された『トモ』とい二文字は白神の憂鬱を増幅させるにはふさわしいものだった。
「忘れられた離島」
この島に足を踏み入れた一予備校生の軽率な発言は渡し船の船長である彼の愛想笑いを誘うには充分だった。
静岡県御前崎市の海岸沿いに九州急行とは別に、とある離島へ渡れる小さな船が停泊している。ここより二十キロメートルほど南下した沖に皐月村という名のついた総人口二十七人の年配者ばかりが暮らしている集落をふもとに持つ榊段連峰がそびえる孤島だ。秋になると紅葉が横並びにいくつもの彩りを見せ、その概観がまるで榊が山に密集して段をつくっているように見えるという由来があり、その名がついたそうだ。
「へえ、案外向こう岸が近く見えるんだな」
島の岸辺に渡し船の左舷が着岸すると、淡路智寛は陽気な表情で右手を額にそえて影をつくり、磯の香りを送ってふきつける潮風を浴びながら朝日に煌く海原の先に横いっぱいに広がっている町を眺めながら上陸していく。
「おい、トモ。ちゃんと足元を見ながら歩け」
早く降りてくれと言わんばかりに智寛の背中全体を甲羅のように覆っている登山用リュックサックを睨みつけながら、白神はおぼつかない足取りで下船していく。
白神は小学時代に行った研修旅行先の島で迷子になったことがある。周りの人間とはぐれてしまう不安から、島旅行はトラウマになってしまったのだ。彼のアウトドア恐怖症は今にも発作が起きそうな様子。彼の内情をよく知っている智寛は高らかに声をあげて嘲笑した。
「笑うな。誰にでも苦手なことはある」
「要するにただのビビリってことなんだろ」
その軽口に反論しようにもあまりに正論だったのでやむを得ず白神は口を閉ざして前者の後頭部を平手打ちしようと試みたが、智寛はその攻撃を読みきって回避した。
「ばーか」
とののしられて噴気しそうなところで白神は気を落ち着かせることにした。
(いつもこいつの調子にはめられる…)
一昨日の昼過ぎに白神の携帯に電話をかけてきたのがこの淡路智寛なのだ。白神とは小学三年生からの腐れ縁で白神にとっては災厄を呼ぶ種のような存在。彼らは二年前に同大学を志望して一緒に試験を受けた。その結果智寛は見事合格。一方の白神は不合格。浪人生として予備校に通い、一浪して再試験に臨んだものの一歩及ばずに二浪しているのだ。大学受験のみならず、この二人の間にはこれと似たような状況がたびたび続いている。智寛はこう見えて女性には紳士的に対応できる男なので中学高校と続いてクラス内の女子から人気があった。その一方で白神は女運が悪く、どの女子にももてないわけではないが好かれるのは大抵自分が嫌っているタイプで、自身が好意を抱いている女子は高確率で智寛にのぼせている。という具合だ。
「慎重すぎるから出遅れるんだよ、キリコは」
歩き様に真顔で言われてしまった。自分が優位に立つと智寛はきまってこの台詞を浴びせてくる。『キリコ』というのは白神のあだ名である。『きりひこ』と呼びづらいので短縮してキリコと呼ぶことにしたのだという。
「ふん、旅行先でもその嫌味言われるとは思わなかったな…」
港から離れて二人は車が一台も通らない閑散とした道路脇をガードレールに沿って歩いていた。村の看板や橋などの金属類は潮風の塩分によって酸化している所為か赤サビが目立っている。
道路を数分歩いただけで村の住宅団地に指しかかろうとしていた。目線をどの方角にむけてもスーパーやコンビニなどはない。見渡す限り水田らしき土地と農家の野菜畑、果樹園などが広がる農道を歩き続けること十数分。智寛は都会育ち特有な愚痴をこぼす。
「本当になんにもない島だぜ。せめて自販機くらいあってもいいだろうに」
「定期便の貨物船でもこなけりゃそうなるさ」
「それは言えてるね。ここの連中はほとんど自給自足らしいし」
「食料と水は現地調達か…若者が寄り付かなくなるわけだ」
「定年退職して隠居するにはもってこいの島だな」
「…こんな島にほんとにあるのか?」
「ああ、噂だとあの連峰の中腹あたりにあるって話よ」
智寛が指差した榊段連峰を片繭をひそめて仰ぎ見る。
都心から離れて遥々この辺境の離島まで白神を引き連れてきたのには理由がある。この皐月島にそびえる榊段連峰の中腹辺りまで登山すると、誰にも存在を知られていないもうひとつの集落があるらしい。そこでは女だけが結束して暮らしているのだという。美しい女たちと親交を深めることができればこれ以上にない癒しが求められるのではないのか。日ごろの勉強のストレス発散を兼ねて彼なりの友人としての心遣いだそうだ。
「たかだか都市伝説を確かめるために僕がこんな……そもそも誰にも知られていないのならどうして噂になるんだよ」
その能書きは正論に思えた智寛だが、旅行先くらい現実主義を自重してほしいと内心思うので彼は敢えて話を合わせない。
「着いてからごちゃごちゃぼやくなよ。お前だって興味をもったから話にのったんだろ?」
「僕の興味の対象は…」
その先の台詞は智寛には簡単に予想できたので咳払いして白神の話を遮る。腐れ縁ならではの距離感というのは掴みづらいものだ。長く付き合っていると耳にたこができるくらいに同じ台詞を会話中に聞く破目に陥るからだ。
白神桐彦は宗教、特に都市伝説や占いなどの、ありとあらゆる迷信の類を信じない現実主義者なのだ。要するに頭が固い。その反面、噂話や都市伝説などの口コミが現実味を帯びていると、その実態を解明したいという探究心が芽生えてくるのだという。
「あれが山道の入り口だな」
外装が劣化しかけている木造の民家が立ち並ぶ路地を歩いていると、農道の交差点に行き着いて秘密の集落へたどり着くと思われる山道の入り口に行き当たった。隙間から雑草が飛び出ている小さな石橋の下には幅二メートル程度の川原があり、水面が流れに沿って美しく煌いていた。民家の前に側溝が連なっていたので、おそらくこの川の水は水田の水口に送られているのだろう。
「山の渓流から流れているのかな」
「そういえばお前、この土地のことが書かれている記事を見つけてたんだっけ」
二日前に智寛からの電話で彼の口から、新聞の切り抜きに書かれていた連峰の名前があがったときの偶然には丁度よく驚くことができた。彼と旅行に行く予定が表面上で決定してから白神はアパート付近の図書館へ赴き、館内のパソコンを借りて榊段連峰についての情報をインターネットで検索していた。同名の連峰が各地に複数存在するのではないかと気になって調べたのだが、確認できたのはこの皐月村一件のみ。智寛があげた島の話と合致していたという訳だ
「君たち、観光者かね?」
智寛の次の質問に備えて例の切抜きを発見した経緯についてどう誤魔化したものかと思案していた矢先に後ろから声を掛けられたので、白神は肩をひくつかせて驚き様に振り向いた。
「はい、そうです」
二メートル手前から話しかけてきたのは中腹中背で推定五十代くらいの見た目年齢である警備員だった。かっちりとした制服の基本色と同じ水色の制帽から覗くまぶたが下がっている瞳は明らかに二人を警戒していた。
唐突な邂逅に緊張していた白神の代わりに智寛が率先して対応する。
「若いもんがこんな辺鄙な島に?」
「前に見たテレビ番組で離島が紹介されていたのに影響を受けまして、こちらでもなにか面白い発見があるのではないかと思って立ち寄ってみたんです」
「見てのとおりなにもない島だよ。万人の興味を引くものはね」
「そうですか?」
「ここを観光しようと思うもんはまずいないな」
「じゃあ泊まれる施設とかは?」
「無い。あったとしても採算がとれないよ…ところで連れはそこの彼だけかね?」
「そうです。こいつと二人で旅行を」
「出身は?関東地区の出かい」
「東京です」
「よくここに島があると知っていたものだ」
「御前崎市の地理に詳しい現地の方から教えてもらいました」
「なるほど…」
警備員の容赦ない質問攻めはしばらく続いたが、智寛はときおり嘘も交え毅然とした態度で応答していく。横で控えて彼らの会話を見守っていた白神が気になったのは、この警備員の男が自分たちの身につけている所持品や服装を上半身のみを動かして嘗め回すように視認しながら口を働かせているところだ。
「大体わかった。引き止めてすまんね。もう行ってかまわん」
警備員の男はわざとらしく海岸の方角を指差して促した。
「いえ…では失礼します」
「余計なことかもしれんが、貴重な休日を無駄にすることはない」
警備員の彼は山道入り口へと渡る石橋の上から一歩も動かず、こちらをじっと見つめている。
「ほら…行こう」
「あ、ああ…」
無表情な智寛に背中を押され白神は岸に向かって続いている農道を歩く。去り際に振り返ってみると、警備員の男のもとにひとりの老人が駆け寄っていく様子が垣間見れた。
若者二人が次第に視界から消えていくと警備員の男は白髪の老人に視線を合わせる。
「行ったようですな」
「あの子らは?」
「旅行者たちのようです。潔く引き返したので物見遊山だと思いますが」
「そうか…」
老人は地面についていた杖の頭を両手で添えるとみけんにしわを寄せて榊段の峰を仰ぎ見る。
「巡回ご苦労。だが、くれぐれも他所のもんをこの山に入れんようにな。余計なことを吹き込んではならん。わかるな?」
「…重々承知しとります」
白神は元いた岸辺に帰ると遠方に見える水平線を眺めて物思いにふけっていた。一方、智寛は「帰るか?」と笑顔で尋ねてくる渡し船の船長と話をしている。下船したとき、とりあえず夕方に一度迎えにくると約束していたのだが、どうやらこの船長は今までこの島に船を着岸していたらしい。彼らがすぐに引き返してくると分かっていたのだ。これまでに何人も観光客を島に送っては迎えにきている経験から、大抵の旅行者は着いてすぐに帰りたがるのだそうだ。特に珍しい景観とはいえないが、過半数の観光者がまずあの連峰を見物したいと言い出すのだが、先ほどのように警備の人間に止められるのだ。
船長と話を終えた智寛がかけよってきた。
「とりあえず好きな時間に迎えにきてくれるってよ。今渡し船のおっさんの番号聞いたから」
「山に登るつもりか?」
「当然だろ。警備のおっさんの目をかいくぐる手も考えてある」
「……道理であっさり身を引いたと思えば」
ふっとため息をついて呆れる白神に智寛は親指を立てて微笑んでみせた。
智寛が考えた警備の目を盗んで山道へ入る方法はごく単純なものだった。正午になるとふもとを巡回する警備員は昼食をとるために一旦警戒を解いて持ち場から離れるのではないかと考えたのだ。畑で農作業している村人たちもまたしかり、自宅に戻るはずだと。智寛と白神は人目につかない場所で用意していた昼食をとると十二時まで待機し、川原の川岸に下りて先ほどの石橋付近まで歩くと、二人そろって身を伏せながら道に人がいないことを確認すると速やかに山道の入り口へと足を踏み入れる。
「意外とあっさり入れたな」
智寛は勝ち誇ったような顔で後ろを振り向いた。山道に立ち入った直後も誰ひとり現れる気配はない。過疎化が進んで体制が緩和されている所為なのか、この島では休憩中に他の人員が交代で警備にあたることなど無いようだ。
「今のうちに登れるだけ登ろう。はぐれるなよキリコ」
「わかってるよ」
智寛の先導で二人は仄暗い山道を登っていく。
淡路智寛は実行主義を美徳とする献身的な性格の持ち主で、自分で一度決めたことは必ず実現させなくては気がおさまらないのだ。なので周囲の者となにかしら意見が対立することもしばしば。夢想家のような一面もあり、将来は環境保全や自然保護に携える仕事に就職したいと考えている。大学では登山やハイキングなどのアウトドアを主な活動とするサークルに所属している。野外活動に慣れているので登山においての注意点も熟知しているのだ。
「おっと…」
白神が足を滑らせそうになった。前日に降ったと思われる雨の影響からか足元の石段は少しぬかるんでいて滑りやすくなっているようだ。湿度が高いので足元の石段やいくつか地面に転がっている朽木には苔が点々と生えている。
頭上を仰ぎ見ると木陰の隙間から日差しが照りつけていて、煌びやかに瞬いているように見えた。肌にさわる空気は地上より少しひんやりしており、枝の上で羽を休ませている小鳥のさえずりがこだまするので短絡的だが心身ともに爽涼な気分にさせる。
ふもとから登って三十分ほど経過した頃だった。平坦な地表が姿を現した。
「ここが一号目の休憩所か?」
そうつぶやく智寛の背後から顔を覗かせる白神の視界には、木造の小屋がひっそりと佇んでいるのが伺えた。木材の木目が腐敗して浮き出ているのでそれなりに年期が経過しているようだが、まだ汚れていない綺麗な木版が任意に打ち付けられていることから、つい最近修繕が行われていたとが断定できる。
「不恰好な小屋だぜ。過疎化した村じゃ大工も住みつかないか」
立ち止まってリュックに入れていたボトルを取り出し、一口、二口水分補給する智寛を差し置いて白神は小屋の扉をゆっくり開くとおもむろに中へ入っていく。
「ふうん…」
小屋の中は窓がない密閉された空間だったので少しの間扉を閉じているだけでも息苦しくなりそうだった。見下ろしてみると背もたれが無いベンチが二台ずつ横壁に張り付くように設置されている。そこへ無造作に腰掛けてみると向かい側の壁に四隅を釘で打ちつけた小さな黒板があった。
「なんかあるのか?」
気になったようで智寛も小屋の中に入ってきた。狭いので声が反響する。そして白神の視線の先に見えた黒板に書かれている文字に着目した。
「なんだこれ?なにかのメッセージ?」
智寛が感じる疑問に答えることはできない。白神はベンチからゆっくり腰を離して立ち上がって出口の扉を開くと、
「さあ?……僕らに宛てたものでないことは確かさ」
手で合図して先を急ごうと言わんばかりに黒板をじっくりみつめている智寛を促した。ここで暗中模索してもなんの結論にも至らないからである。
『今年ノ七月アタマ 取リニ伺イマス』
黒板には白いチョークでそう書かれていた。
「あれ?」
白神はふとベンチの下に目立たないよう置かれた段ボール箱が偶然視界に入り、気になったので引き返して箱のふたを少しはぐって中身を確認した。入っているのはすべて女性ものの古着のようだ。どこか時代遅れのTシャツや麻の着物などがぎっしり詰められている。
「おい行くぞ」
小屋を出たところで智寛が急かしてくるので少しの名残惜しさを切捨て、暗黙の了解で彼は智寛の背中について小屋から出て行く。そしてまだまだ続く山道の石段を一歩ずつ登っていく。
「ん?これは…」
休憩所から五分ほど登ったところで先頭を歩く智寛が再び立ち止まった。彼が見下ろした視線の先を目で追うと、白い看板のような物体が泥まみれになって行く手を阻んでいたので、二人で力を合わせて横にどかしてみる。
『-keep out!-この先は私有地のため立ち入り禁止』
看板には赤い文字で大きくそんな警告が書かれていた。
「やっぱりこの山には誰かが住んでいるんだ」
智寛の自信に満ちた予想は白神も同意見だった。看板に記載された『私有地』という単語が決め手だ。しかし白神には『立ち入り禁止』という単語が気がかりだった。
「人がくるとまずい事でもあるのかな?」
「他所の人間を入れたくないのかも」
「どうしてそう思う?」
「この看板を設置した人…地方自治体とか公共団体の名前も書かれてない。この看板にあるのは警告の事柄だけだ」
「確かに…それで?」
「この看板はあくまで個人の一身上の都合により作られたものってわけさ」
「一身上の都合?」
「わかるだろ。村の連中はこの上にある集落に足しげく通ってよろしくやってるんだよ。 ここに若い女ばかりの集落があるなんて世間に知れわたってみろ。観光客が殺到して女たちを横取りされちまうだろうが。だから山に他所から来た人間を近づけたくないのさ。味を占めるようになるからな」
智寛は熱く語るのだった。白神はまぶたを半開きにさせて呆れながらも彼の話を聞き入っていたので冷静に分析してみることにした。
「話をすごい方向に飛躍させるなよ。若い女ばかりなんて噂なかったろうに……もしその妄想話が実際にあったとしても若い女手だけでどうやって暮らしていけるんだよ。そもそもこんな山中で本当に人が暮らしているのかはまだ半信半疑の段階だろ?」
彼の論理的演説に白々しさを感じたのか、智寛は軽く舌打ちして歩みを進める。
「いちいち現実性をこじつけるやつだな。もっと面白い方向に考えてみろよ」
「お前、オフになるととことん夢想家だな」
この漫談(?)議論は一時休戦して二人は登山を再開させることにした。
それから二時間以上経過したのだろうか。二人は渓流にかかるつり橋にさしかかっていた。渓流の流れはゆったりしており波音も静観だった。一番大きいもので直径三メートルの幅をもつごつごつした形状の岩石が緩やかな弧を描くように流れている河川に沿うように並んでおり、川がしぶきを上げて流れている。この上流域を下っていくと渓谷にさしかかり、川は滝になって中流に。下が泥になっている下流に続くのだ。渓流の川辺には丸々とした巨大な岩が密集している。
「これが向こう岸まで行けるつり橋か」
智寛の先導で橋を渡る。思いのほか短いつり橋だが、支えているロープが腐敗しており足を踏み出すたびに揺れ動いてギチギチと今にも引きちぎれそうな音がする。しかし彼らに恐怖心はなかった。なぜなら橋元から渓流の水面までの距離がさほど離れていないからだ。
「うおっ」
前を歩いていた智寛が突然足を踏み外して渓流に落下していった。静けさを保っていた水面からしぶきがあがる。後ろを歩いていた白神は突然発生したその珍事件により少しの間ぽかんと口を開けたまま呆然としていたが「なにが起きた!」と半身ずぶ濡れになって仰天している智寛のみすぼらしい姿を橋の上から見下ろし、わき腹を手で抑えながら失笑するより選択の余地はなかった。それでも事態の収拾を図ろうとして彼が落下した地点をよく見てみると足場の板が完全に外れて消失しているのを確認した。
「くっそー」
みたところ渓流の水深は智寛の太もも部分までつかる程度のよう。流れは緩やかなので彼は川岸の岩までのそのそ歩くと、岩を這い上がって向こう岸まで登ろうとしていた。白神は外れた足場を大股で跨ぐと向こう岸に渡りきって先回りし、上から手を伸ばして彼の身体を引き上げる。
「サンキューキリコ、はあ…はあ…」
アウトドア慣れしている智寛もさすがに肩膝をついている。着衣にたっぷり染みこんだ川の水は鉛と同じ。岩をよじ登って体力を使い果たしたのだろう。
「おい、大丈夫か……あ」
肩を上下しながら息している智寛の足元をみてみると、左足のすねが大きく擦りむいて血がにじみ出ていた。白神は彼を立たせて自分の肩にもたれるよう促すと、リュックサックからタオルとハンカチを取り出した。
「応急処置だから、あとでちゃんと消毒しないと」
白神はまず擦りむいた傷の周りを濡らしたタオルでふき取り、ガーゼの代わりにハンカチで巻いてやった。智寛は申し訳なさそうに首の後ろをかく。
「悪い悪い。でもなんというか…」
「なんだよ」
「怪我の手当てはやっぱり女にしてもらいたいよな」
「お前なあ…」
派手に転落して怪我をしたのにもかかわらず智寛は前向きだった。その健全すぎる思考にはもはや笑うしかない。
二人して高らかに笑っていると背後から草をかきわける音がして彼らは即振り返った。
「あの…」
奥の草むらに立っていたのは、右目に眼帯をはめている女だった。その女が着ている服は所々土で汚れており、手の指先もまた同じ。見た目の印象から農作業していたのだと思われる。
眼帯の女は閉じていない右目を丸くさせて食い入るように二人を見つめていた。
(この女、ふもとの人間か?)
白神が眼帯の女に警戒して身構えていると、膝をついていた智寛がおもむろに立ち上がる。
「あんた…この山に住んでいる人?」
突然話しかけられ緊張の所為か彼女は両脇をしめるとばねのように頷いた。その反応をみた智寛は白神と顔を合わせる。
「あの…ちょっと…ここで」
眼帯の女は手のひらをみせて愛想笑いを浮かべると、慌てた様子で草むらへ引き返していった。『ここで待て』と言いたかったのだろう。暗黙の了解で察した二人だが、彼女の言動の意図が気になる。
「誰かを呼びに行ったのか?」
智寛が言った疑念は白神も感じていた。しかしそうだとするならば、あの女の他にも人がいると仮定するのが自然である。
三十分ほど待機していた頃だった。さきほどの眼帯の女が再び彼らの前に現れ「許可が下りたので進んで構いません」とだけ口にすると、ぶっきら棒にまた姿を消した。内心不満に思いつつも智寛の先導で二人は草むらをかきわけ、無作法な眼帯の女が走り去っていった道すがらを辿っていく。
「ここは…?」
草むらを出たところから林を抜けてみると、まず二人の目に映し出されたのは、広大な芝生にそびえる古びた洋館だった。木造の外装は黒ずんで痛んでおり、修繕したのか一部で綺麗な板が打ち付けられているが豪邸の影のある屋敷だった。左脇に見える屋根つきの渡り廊下の先には一軒家に程近いはなれがあり、その手前には小さな庭園と十坪ほどの畑が横向きにずらりと並んでいる。畑の土を耕しているのは十代から四十代くらいの年齢と思われる女性たち。皆作業を止めて珍妙な面持ちでこちらを凝視している。ふと洋館に視線を戻してみると館の玄関前に貴婦人のような立ち振る舞いの女性が立っていた。
「あれが館の家主か?」
危険な山道から抜け出せた所為か、めずらしく白神が率先して館のほうへ歩き出した。智寛もそのあとに続いて歩く。ジグソーパズルのように敷き詰められた石版の道を歩いていると、左手に見える畑からその全員が横切っていく彼らを目で追っている。二人は適当に会釈してみるものの彼女らは無反応だった。右手の庭をみてみると館の脇から数人の子供が物見遊山で集結している。智寛がはにかんだ笑顔で興味本位に手を振ると、うち三人が嬉しそうに手を振って答えた。子供たちの無垢であどけない反応をみて安堵する智寛だったが、同じく子供たちを横目で見ていた白神は少し違和感を覚えた。集まっている子供数人のうち一人、男子が紛れているからだ。
(女だけの集落じゃなかったのか…?)
不安を募らせながら白神たちは玄関前に立っている貴婦人と対面した。高級感あふれるデザインの紫色のドレスをまとっている。肌の目元口元から流れるように刻まれているしわは厳しそうな面立ちを際立たせていた。推定年齢は五十歳半ばから六十歳と思われる。彼女は口を閉ざしたまま白神たちを直視している。こちらから話すべきかと察知した智寛が積極的に口を開いた。
「はじめまして。突然押しかけて申し訳ありません」
智寛は深々と頭を下げると、呆然と立ったままの白神のこめ髪を握り締めて強引に頭を下げさせた。白神は一瞬の激痛に「いてて!」と声をあげた。顔を地面に向けたまま横目で智寛をにらむ。
「………」
顔をあげて寡黙の貴婦人に視線を戻すと彼女はまだ口を開かない。
「あの、俺たち、いや!自分たちはその…」
「わたくし、この村の村長の補佐を務めさせて頂いている、玄徳ツタエと申します。どうぞお見知りおきを」
玄徳ツタエと名乗る貴婦人は両手を互い違いに握ると腹にぴったりつけて深くお辞儀した。そしてほがらかな笑みを垣間見せる。緊張していた智寛はその全く動じない姿勢をみて羞恥心に苛まれた。彼のおどおどした姿をみるのは珍しいため、第三者の立場として傍観していた白神は湧き出る快感を彷彿させるように嘲笑っていた。
「僕の名前は白神桐彦。彼は淡路智寛。こちらこそよろしくお願いします」
いつも智寛に人との対応を任せておくのも気が引けるので、白神が率先して玄徳に話しかける。彼女は頷きながら白神に目線をむける。
「僕たちは観光目的でこの皐月島に」
「左様でございますか」
「はい…左様、です」
「この屋敷はあくまで村長の持ち家なのですが…どうでしょう。しばらく休まれていかれては?」
「え…でも、ご迷惑なんじゃあ…」
「そうご遠慮なさらずに。村長にはわたくしから話しておきますので」
そのやりとりを聞いていたのか、テラスにいた三人組の女性がひそひそと耳打ちで会話している。影口を言っているように見えるのであまりいい気分ではない。しかし白神たちの心境を察してか、玄徳が鋭い目つきでその三人を牽制した。彼女らは怯えた様子で揃って目を背けた。
「当館は白神様、淡路様ご両名の来訪を心より歓迎いたします」
「……それは、どうも」
(追い出される予感がしていたんだけど…)
白神は山中で見かけた『立ち入り禁止』の看板を思い出す。
「ふもとから登ってこられてさぞお疲れでしょう。どうぞ中へお入りください」
玄徳は西洋風の彫刻で彩られている大きな扉を開くと、二人に中へ入るよう促した。流されるがままに敷居を跨ごうとした白神の肩を智寛が止めた。
「こら、キリコ。ちゃんと泥を落としておけよ」
そう説教された白神は自分の足元を確認する。靴底の周りに少量だが泥が付着していた。ふと智寛の足元を見てみると、靴に泥がついていないどころか新品同様のスニーカーに履き替えていた。渓流に落ちたとき履いていた靴は中にまで水がたっぷりしみこんでいた。眼帯の女の申し出により待機していた際に、智寛はリュックサックに入れていた予備のスニーカーに履き替えていたのだ。
「用意周到なやつ」
「人を褒めてる暇があるならやることやれよ」
智寛は皮肉に満ちた笑みを浮かべていた。その挑発的な態度に嫌気がさす白神だったが、なにも言い返す言葉が見つからないので舌打ちするしかなかった。
「スリッパをご用意させて頂きますので、中で履き替えて下されば白神様のお履物は玄関に置かれてもかまいません」
「え…でも」
「給仕の者に洗っておくよう申し付けるので御気になさらず。どうぞ中へ」
玄徳は中まで二人を誘導した。二人は用意されたスリッパに履き替えると玄関前のホールで足を止めた。内装は木造。奥にみえる廊下や通路は隅々まで掃除が行き届いており、天窓から差し込む日差しに反射しており艶やかだった。
「彩乃。こちら、来訪者の白神様と淡路様です。お疲れのご様子なので二階の客室までご案内しなさい」
彼女の目線の先に目をやると、ホールの脇でひっそりと控えていたメイドが歩み寄ってきた。身長は白神よりやや低く、黒髪のショートヘアから覗き見える表情にはあどけなさがあるものの、少しつり上がった瞳からは落ち着いている雰囲気を感じさせる。
彩乃と呼ばれたメイドは膝元の純白なエプロンに両手を重ねて添えると、上体が腰元に対して直角になるまで深くお辞儀する。
「ようこそお越しくださいました」
お辞儀したまま静けさを感じる声色でそう言うと、体勢を定位置に戻した。
「当館の母屋で管理者を務めさせて頂いております彩乃と申します」
(管理者…?)
彩乃があげた役職らしき名前が気になり、あご元に親指をつけて考え込む白神。その横で終始にやついていた智寛が「な、かわいくね?」と小声で白神に耳打ちする。白神はとりあえず女たらしの智寛を無視した。
「二階の客室までご案内します。私についてきて下さい」
白神と智寛は言われるがままに前を歩く彩乃についてなだらかに曲がっている階段を一段ずつのぼっていく。ホールからそれを見届けた玄徳が扉を開けてまた外へ出て行くのが見えた。
「こちらが客室となっております」
回廊の一番奥の角隅にある一室に案内された。彩乃が扉を開いて室内に誘導する。空き部屋とはいえ室内は隅々まで掃除が行き届いていた。入って縦向きに木造のベッドが二台間隔をあけて設置されており、掛け布団には染みひとつ無い純白のシーツがぴっちりとしかれている。しかし必要最低限の家具しか置かれていないようなので、白神の住む賃貸アパートよりもがらんどうな空間だった。
智寛はベッド脇に荷物をどっかり下ろすと、躊躇無く左側のベッドにダイブした。白神はやむを得ず空いている右側のベッドの上に荷物をそっと下ろすと、ベッドの上ではしゃいでいる智寛に「子供か…」と呆れ顔で言って見下ろした。智寛の幼稚なさまを見て、開ききっている扉の前で控えていた彩乃がくすくすと口元に手をかぶせて笑っている。
「ところでさ。彩乃ちゃんはいくつなの?」
ベッドにきちんと座りなおすと智寛は馴れ馴れしい態度で彩乃にからむ。彼女は嫌な顔ひとつ見せず、むしろ朗らかに微笑んだ。
「私は今年で十六歳になります」
「なら高校生だ。でも…島に学校なんてないよね」
「そうですね」
「まさか毎日ふもとまで降りて海を渡って通学してるわけじゃないよね?」
「いえ…」
この集落には村長の推薦で選抜される役職が六つある。まず、村長を補佐して集落の皆をまとめる『村長代理』。白神たちを招いてくれた玄徳ツタエがその役目を担っている。彩乃は『管理者』と呼ばれる役職を任されている。主に館内での掃除、炊事、洗濯、料理などの家事全般をこなすメイド。時間の余裕をみつけて子供たちにその分野の指導をすることもあるらしい。そして、生活していく上で最低限必要な知識と教養を子供に身につけさせる『教師』があるのだ。この集落の住人は皆、この義務教育のみを修得して働いている。「自給自足の毎日がこの集落の日常故、私たちはこの土地から離れるわけにはいかないのです。恥ずかしながら、島の外の学校へ通うための持ちあわせもございませんので…」
彼女からこの集落の大まかな成り行きを説明され、はたから聞き入っていた白神は腕を組んでなにやら考え込み、智寛は深く頷いてこの集落の内情を切実に受け取った。
「なるほど。そういう事情があるなら仕方ないか。嫌なことを聞いてごめんね」
智寛は両手を合わせて失言を詫びた。
「いえ、こちらの事情をご理解して下さり、大変嬉しゅうございます」
彩乃はその白百合の花弁のような微笑みを崩さぬまま会釈した。その眉目秀麗なしぐさは下界にいる一般女子高生とは比較にならない程だと言っても過言ではない。
「でもそれなら、ふもとで暮らしても同じじゃないか」
和やかな雰囲気が形成されつつある場面で、白神は頭の奥からふつふつと見出してきた疑問を容赦なく口に出した。その一瞬、彼の目には彩乃の口元がひくついたように見えた。
「僕の主観に過ぎないけれど、ふもとで暮らしている人たちも田んぼや畑で育てた作物で食いつないでいるように見えたし…まあ、高齢者ばかりだったし光熱費は年金で賄ってるってとこかな。ともかく、山を下りてあの人たちと共存するなり、もしくは島から出て町で働きながら暮らしたほうが無難じゃないかと…」
「それは……」
彩乃は白神から視線を逸らすように床を見下ろしていた。白神のもっともな意見を圧巻して聞き入っていた智寛だが、
「おい、彼女困ってるだろ!その辺にしておけよ」
彼女の困惑した様子を察知して白神を牽制した。
「僕は思ったことを正直に述べただけだ」
「だからよ、そういうのが余計なんだって」
「どうしてさ?」
片繭をひそめて真顔のままそう尋ねてくる白神をみて「はあ…」と重いため息をはいて抗論を再開させようとした矢先だった。彩乃がまた口元に手をあててくすくす笑っているのだ。十六歳の少女に醜態を晒していることに気づいた二人はたちまち恥ずかしくなり、お互い顔を背けた。
「ふふっ、仲がよろしいのですね。それはともかく、白神様」
「な、なんだ?」
唐突に名指しされて今年二十歳になろうかという青年は肩をひくつかせて、微笑んでいる少女を見やる。
「私が村の意向を語るのは非常に身に余ること故、さきほどの件につきましては私が村長代理にお取り次ぎいたしましょう。ご不満でしょうか?」
彼女は憂いに満ちた表情で白神と顔を合わせる。その艶やかな瞳で迫られるとおもはゆくて少し畏縮してしまう。白神は独り言のように「いや…」と呟くとそれ以上はなにも話さなかった。
「他になにかご不明な点などございましたら、お気軽にこの彩乃にお申し付けくださいまし。あとで部屋にお茶をお持ちします。ではごゆるりと…」
彩乃はその場で深くお辞儀すると、おもむろに退室していった。しばらく異様な沈黙が流れた。それを遮るようにベッドからゆっくり立ち上がった智寛は、ベッドを見下ろすように設置されている遮光カーテンを両側に引くと、顔を出した小窓から外を眺める。彼がカーテンを開いたため、二台のベッドの間隔を示すかのように床にくっきりと窓からの日差しが映し出されている。
「どう思う?」
智寛が何の前置きなしに尋ねてきたので白神は、
「奇妙だな。例の『私有地』というのは、おそらくこの館のこと。人を遠ざけたいはずなのに流れ者の僕らを客人として丁重に扱う…」
という具合に俯きさまに分析していると、後ろ肩を智寛にはたかれた。
「馬鹿。カマトトぶるな。彩乃ちゃんのことだよ」
メイドの彩乃に対して恋愛感情を抱くかどうかを尋ねていることは、さすがの現実主義者である白神にも理解できた。
「あいにく、僕はなんとも思っていない」
毅然とした態度で答える白神をみて智寛はにやついて彼の肩に腕を回す。
「無意味な意地はるなって。本音はかわいいって思ってる訳だろ?」
「勝手に決めつけるな」
白神は肩にかかっている腕を強引にふりほどいた。それでも懲りずに嫌らしくにやついている智寛に魔が差した(?)のか、白神は話題を逸らすための餌を撒くことにした。
「従妹であれくらいの年頃の子いるしな」
「なにっ」
入れ食いの如く智寛は食いついてきた。白神は実家に親戚が集まって一泊したときの話をほのめかす。
「別に慣れてるっていうか…いまだにべったりひっついてくるし」
「ちょっと待て!それ女子高生?」
「下着姿のまま平然と話したり歩き回ったり」
「ざけんなよお前コンチキショー!ちょっと携帯よこせ、写真あるんだろ」
恨めしい感情が暴走の域に達したのか、智寛は問答無用に白神の荷物から携帯を取り出そうとする。それを抑止するべく白神は彼の両脇を押さえ込んだ。
「よせ、やめろ馬鹿」
ベッドをぎしぎしと揺らしながら格闘する最中、白神の叫び声は棒読みだった。何故ならこの現状はすべて彼の計算に治まっているいるからだ。彼は智寛の性格を把握しているので、どのようにすれば話題を逸らせることができるのかもよく心得ているのだ。
「あ……」
智寛は隙を見計らって白神の拘束をふりほどくと、リュックサックに入っていた彼の携帯を取り出して開いた。しかし思惑が外れたのか携帯の電源ボタンをいくら長押ししてみても液晶画面に反応が無い。バッテリー切れのようだ。その悪運に軽く舌打ちする智寛だったが、途端に表情を強張らせるとすぐさま自分の携帯を懐から取り出した。
「まさかと思ったけど…」
携帯の画面の上には『圏外』の文字が表示されていた。
アンテナを立てた携帯を手に持ちながら部屋の中をぐるぐる歩き回ってみるものの、一向に通信ができず『圏外』の文字は消えなかった。
しばらくして彩乃が急須とコーヒーカップを二段式の台車にのせて持ってきた。
「ありがと。悪いね」
「いいえ」
ひと言ずつのやりとりだが、智寛はそういった些細なことにも気をてらう。白神は特になにも言わない。彼女がひいてきた台車をテーブル代わりにしてカップに紅茶を注ぐ彩乃。ほんのりと湯気が立ち、甘酸っぱい香りが花をくすぐる。
(う…なんだか渋い。口に合わないかも…)
二口飲んだ白神の感想だ。しかし無償で世話を焼いてくれる彩乃に失礼だと思ったので本音を口に出さないように心がけていると寡黙を通す結論にしか至らなかった。
「旨いなこの紅茶。普段店とかで飲んでるやつとは格別だよ」
智寛の大げさとも受け取られる言動に白神はまぶたを半開きにさせて愕然とした。彼が普段紅茶などたしなんでいないことを知っているからだ。よくこのような中身のない感想をはけるものだと感心できるほどだ。
「恐縮です」
白神たちが腰掛けているベッドから一歩下がった所に立っている彩乃は笑顔で答えた。
「キリコ、一息ついたところだし村長さんに直接あいさつに行かないか?」
「あ、ああ…そうだな」
智寛は社交的で礼儀正しい一面がある。白神の場合はそのあたりのことを適当に考える傾向にあるので、昔から彼に背中を押される場面が多々ある。
白神は彼の提案に何度か頷いて受諾し、傍で控えている彩乃に目を向けた。それに気づいた彼女は、
「かしこまりました。では…」
と言って扉のノブに手を伸ばそうとする。
すると閉めていた扉の向こうからこんこんとノックが二回鳴らされた。その場にいた全員が扉に目線を送る。「どなた?」と扉越しに声を掛ける彩乃。
「「妙だよ。彩乃ちゃん、開けておくれ」」
扉越しに聞こえてきたのは図太くて粋のいい女の声だった。彩乃は施錠されている訳でもない扉をゆっくり開けると、廊下で待機していたと思われるメイドが部屋に入ってきた。
「あたしは離れの管理者で妙っていうんだ。よろしくね旅の人たち」
妙と名乗るそのメイドの背丈は彩乃よりやや低く、横太りした体系だった。少しばかり汗ばんでいる顔の肌には艶があるが、所々に小じわやしみが目立っている。年齢は五十五歳で管理者を二十年も務めているベテランだという。
軽く会釈した二人だが、妙を目の前にして絶句している。
「村長さまのご意向で、あんたがたを案内せよとおおせつかったのさ」
その後、妙は彩乃とやりとりし、白神たちが聞き耳を立てて会話の内容から現状を把握していく。彼ら二人を別々に分かれさせる形で館内を案内し、最終的に村長のもとまでよこすように、とのことだそうだ。
(なんでそんな非効率なことを?)
白神は不安と疑念を募らせていた。
「んじゃ、あたしはこの色男につくとしようかね」
「え…え…」
丸っこい頬を引き上げてにやついた妙は、強引に智寛の腕を引いて部屋から出て行く。妙に引率されていく去り際の智寛は涙目だった。おそらく彼なりの拒否反応だったのだろうと心境を察していた白神は顔を背けて嘲笑していた。
彩乃は深くお辞儀して妙と智寛の背中を見送ると、二台のベッドの狭間に停止したままの台車を台座に乗っているカップと受け皿をかちゃかちゃと接触音を響かせながら部屋の隅にどかすと、呆然とその様子を伺っていた白神の元まで近づいて微笑んだ。
「それでは、我々も参りましょう。館内をご案内させていただきます」
「あ…うん」
白神はおもむろに立ち上がると、部屋から先に出て行く彩乃の背中について歩く。振り返って扉を閉めようとすると、彩乃が率先して扉を閉めた。そして振り向きざまに笑顔を絶やさないその姿勢に思わず頬を赤く染める白神。
妙に強引に手を引かれていた智寛は、彼女と横並びに廊下を歩いていた。
(ああ…どうしてこんなおばさんと)
魂の抜け殻のごとく力のない表情を保ちながら歩いていると、隣を歩いていた妙が急に立ち止まって何かに気づいたように智寛の足元を見下ろす。
「おやおや、怪我でもされたのかい?」
妙の視線を辿って自分の足元を見た智寛は、ズボンの袖を捲くっている左足のすねに巻かれているままのハンカチに気づいて納得する。
「ああ、渓流の岩肌を登ったときにやったんですよ」
「なんだって。ちょいと見せてみな…」
妙は目を丸くさせると膝をついてそっと智寛の左足に巻かれているハンカチを解いた。傷口から流れていた血はすでに止まっているが、彼女は「あ~ああ」と声をあげて痛々しい傷口を辛辣な面持ちで確認する。その様子を見下ろしていた智寛は、
「大丈夫っすよ、擦りむいただけだし」
楽観的に苦笑して首の後ろをなでた。その軽率な態度に妙は片繭をひそめて立ち上がり、彼の左肩に優しく手を添えた。彼女の手は水仕事で肌が荒れているようで、指のいくつかにひび割れが見られた。
「いんや駄目だね。怪我したお客人をこのまま連れ歩くわけにはいかないよ」
「どうするんすか?」
「こういうときこそ『医者』の出番さ。医務室に行って菊さんに診てもらうかね」
「あ、お構いなく。自分で手当てできますから…」
「遠慮しなさんな」
妙は再びごく太い腕を伸ばして智寛の手を強引に引いて、奥のほうに見えた医務室まで連れて行く。さすがに智寛も逆らえないようでたじたじである。
「菊さん、今いいかい?」
室内が外から見えない硝子戸を軽く叩いて合図する妙。入り口の上を見上げると『医務室』と書かれたルームプレートが設置されている。戸口には『静かに』と書かれた看板がセロハンテープで貼られていた。
「「どうぞー」」
数秒ほどして中から女性の声が聞こえてきた。入室の承諾が下りたので妙は静かに戸を開けて中へ入ったので、智寛も続いて医務室に足を踏み入れた。
「おや。旦那さまに奥さま」
医務室には三台ベッドが並べられており、一番手前のベッドに眠っている赤ん坊を抱えた女がもたれており、椅子に座って寄り添っている男が一人。白衣を身にまとっている女が見守るように佇んでいた。
「おめでとさん。お産は滞りなく済んだみたいだね」
妙が歩み寄ってひとこと祝福を述べると、椅子に腰掛けていた男と赤ん坊を抱えた女はそろって会釈し、幸せそうに微笑んでみせた。
「妙さん。そちらの彼は?」
菊と呼ばれた医師と思われる女性は、ずっと出口の前で呆然と立ちすくんでいた智寛に目を向けて紹介を求めた。
「旅の人なんだけど……ほら、自分で自己紹介しないか」
妙に背中を強く叩かれ促されたが、智寛は口をぽかんと開けたままただ一点を見つめていた。『奥さま』などと呼ばれるにはまだ若い、奥床しい瞳に心を奪われていた――。
彩乃はまず一階を案内した。階段を下りた玄関ホールは客室の倍はあるかというほどの広さで、四方の壁にはさまざまな壁画が飾られている。中でも目立つのは闇夜の森で一人の女が狼の群れに襲われている描写の壁画。そしてひと際大きな額縁に描かれていたのは、女たちが牢獄に閉じ込められて泣き叫んでいる壁画。どちらも白神の目にはおぞましく思えた。玄関ホールには両側に扉があったが、彩乃は正面玄関からみて左側にある扉を開いて白神を案内する。すると奥まで真っ直ぐ続いている廊下に差し掛かった。やはり古い館なだけあって廊下を歩くたびにひしひしとがたついた音が響いてくる。
「こちらは使用人室で、私も含めた役員の方々のお部屋となっております」
左側にもうひとつ通路が分かれており、天井を支える複数の柱の中央部分には火が灯されていないろうそくがそれぞれ設置されていた。連なる窓から外を見渡せる廊下を歩くと、一定の間隔をあけて扉が四つ並んでいた。突き当たりのほうにももう一部屋、使用人室とは形状の異なる大きな引き戸が見えた。リネン室と呼ばれる部屋らしく、主に布団や枕、シーツ、衣類などが保管されているらしい。ここで行き止まりということで、引き返して一階の中央区にある大部屋に案内された。
「こちらはダイニングホールとなっております」
推定三十帖はあるダイニングホールには、純白のテーブルクロスが敷かれた長いテーブルがコの字型に形成し設置されている。テーブルには十五脚の彫刻椅子が一定距離を保って立ち並んでいた。濃厚な漆塗りで艶がある。
「役員の方々はこちらでご夕食を……きゃあっ…!」
ダイニングの壁際を悠々と歩いていた彩乃は突然ぎょっと驚いたように短い悲鳴をあげたので、袖に設置されていた午後三時四十分を指し示す大時計を眺めていた白神は彼女に振り返った。見ると口元に手を添えて目を丸くしている。
「す、すみません旦那さま!ちっとも気づかずに…」
テーブルの死角からのそっと身体を起き上がらせたその男に対し、彩乃は深々と頭を下げて謝罪する。驚くのも当然。その男は不精ひげを蓄え、まぶたが落ち窪んで輝きを失った瞳にはまるで生気が感じられない。土ぼこりで覆われた汚らしいシャツとズボンを身にまとっているので、屍が墓より這い出てきたといっても過言ではない風体だ。
「…………」
前髪が頬まで伸びているふけだらけの髪をかくと、『旦那さま』と呼ばれた男は無言のまま彩乃に目もくれずダイニングから立ち去ろうとした。
「旦那さま、作業のほうは順調でいらっしゃいますか?」
「……ん…」
彩乃は咄嗟に苦い笑顔を取り繕って男に声をかけたが、彼は小鳥のさえずりにもかき消されそうな小声で何かぼそっと呟くと颯爽と立ち去っていった。
「ふぅ……驚いた」
男が立ち去っていった際、彩乃は胸を撫で下ろして安堵した。心からの心配か、あるいは突然発生した現象(?)の追求のためか、白神は彩乃のもとへ駆け寄った。
「彩乃さん、今のは…」
「あ、はい。今の方は隆正さまといって、主に館の修繕を担当されておられます」
隆正は若干二十七歳にして妻を持ち、子供を四人つくったのだという。無口で消極的な性格な故か、機転が利かず誰かに指示されないと行動できない性質の持ち主。彼はダイニングの床下点検口から軒に下りてシロアリの影響で腐敗した柱の修復及び害虫駆除を本日取り掛かっているようなのだが、その指示は村長代理の玄徳によるもの。館に住む者は融通の利かない隆正を影で批難しているようなのだが、玄徳としては忠実に従ってくれる都合のいい存在ともいえる。
彩乃の紹介を聞き終えた白神は腕を組んで隆正が出て行った扉を眺める。
「二十七にしては老け込んでるな。一瞬ほんとの幽霊かと思ったよ」
「ええ…正直、私は苦手で…」
彩乃が頬に手を添えてそんな本音を漏らしたので、白神は思わず目を丸くして彼女に振り向いた。才色兼備にして眉目秀麗な印象を感じていたので、その正直な感想が実に意外だったのだ。
「そうか。いろいろ大変そうだな、君」
白神は同年齢の従妹を連想して重ねたのか、頭飾りであるホワイトブリムになるべく差し支えないようにそっと優しく彩乃の頭を上から撫でた。すると彼女はその突拍子もない行動に思わず喘ぎ声をあげ、その反射で白神から後退して離れた。そして彼女は顔を背けて「コホン」と咳払いし、
「では…案内を続けます」
彩乃は上座側の扉を開けると白神と視線を合わせず彼を誘導した。その一瞬、彩乃に手元を薮睨みされたような気がした白神は、自分の無意識な行動が軽はずみだったことに少々反省する。
(頭を触ったのはまずかったか…)
ダイニングホールから出た正面にキッチンと浴場の扉がふたつ並んでいた。そして右に曲がると使用人室が三部屋ある廊下に差し掛かる。ひとえに使用人室といっても、役員の多くは部屋を空けてそれぞれの持ち場で働いているので、ほとんど寝室としてしか利用されていないらしい。
「では、これより二階をご案内いたします」
彩乃の先導で再び玄関ホールに舞い戻った。
階段を登ろうとした矢先、玄関からぞろぞろ三人の女が入ってきた。それに気づいた彩乃はその三人のもとへ駆け寄り、深々とお辞儀した。
「陽子さま、幸子さまに純子さまも…お役目ご苦労様でございます」
「彩乃、あなた何をしているの」
陽子と呼ばれたリーダー格の女がばつ悪そうな表情で声をかけてきた。仰々しい模様が描かれた一点の汚れもない着物を羽織っており、白い帯でたすきがけして袖上げしている。他の二人も似たような容姿である。
彩乃はまず、階段の前で立ちすくんでいるままの白神を手で指し示した。
「ご紹介します。こちら、旅のお方である白神桐彦さまです。今はこの館のご案内を…」
「それはご苦労だこと」
彩乃が話し終える前に遮る陽子。その忙しない態度から察するにどこか不機嫌な様子だった。
「夕餉の支度は間に合うのでしょうね」
「はい。問題ありません」
「それならいいのだけれど…」
陽子はそう言うと後ろにいた二人に振り返った。すると純子と呼ばれていた女が前に出てくる。
「ねえ、さっきあんたに頼んでおいた仕事は?終わったの?」
「あたしの部屋の掃除はしておいてくれたんでしょうね」
有無を言わさず幸子と呼ばれた女も言い寄ってきた。
「純子さまのご洋服に関しましては、あと三十分ほどで手直しいたします。幸子さま、大変申し訳ございません。お掃除はこれからすぐ取り掛からせていただきます」
彩乃は深く頭を下げて幸子に侘びをいれたが、
「はあ?これからやるの?」
「あれだけのものに一日かかるわけ?」
続いて純子も腰に手をあてて彩乃を非難した。
「あらあら、幸子も純子も気の毒にね。やはり管理者になるには若すぎたのかしら。ねえ?彩乃」
薄ら笑みで嘲笑するかのように陽子は嫌味たらしく当事者に同意を求める。しかし彩乃は顔色一つ変えず、深々とお辞儀する。
「私が至らないばかりで皆さまには大変ご迷惑をおかけしております。しかし微力ながら誠心誠意をもって務めさせて頂きたく思っております」
「ふん、いい心がけね。口八丁手八丁なのは感心できないけれど」
陽子は頭を下げたままの彩乃を見下ろしながらそう言うと、着物の懐から手巻き仕様の懐中時計を取り出して時間を確認する。
「純子、幸子。仕事に戻りましょう」
「「はい、陽子さま」」
二人は声をそろえて陽子に従う。
「管理者まで監督しなければならないのかしら」
「困った子よねえ。こっちも忙しいっていうのに…」
彼女が二人を率いて外へ戻っていく合間に、すかさず純子と幸子はひそひそとなにやら囁いている。
(これがいわゆる”おつぼね”っていう連中か)
終始ゴネ得していた三人に対して内心嫌気がさしていた白神であったが、仲裁に入ると事を荒立てる要因になると推定し、三人組が外へ出て行くまで感情を押し殺して寡黙を貫いた。
いくつも仕事を任された彩乃の立場を考えた白神は、彼女の心痛を察して仕事を手伝うべきではないかと考察して口を開こうとした矢先だった。
「雅、こちらに来なさい」
腰に手をあてた彩乃は突然ホールの右手前の角に置かれている巨大な焼き物の壷に視線を浴びせてそう言ったが、ホール内は閑散としていて外から畑仕事による作業中の掛け声などが聞こえてくるのみだった。
そんな彩乃の背中を見ていた白神が首を傾げていると、
「戯れもほどほどになさい。いつまで壷の陰に隠れているの」
彼女の口調は更に厳格さを増している。さすがにやり過ごせないと諦めたのか、彩乃の読みどおりの壷に隠れていたその少女が姿を現して駆け寄ってきた。靴音が幾重にも重なってホール内で反響する。
「えへへ。ばれてた?」
「あなたは何度言えばわかるの。屋敷内を移動するときは走らない」
「いてて…」
へらへらと笑う少女に彩乃は痛くないほどの軽いゲンコツで制裁を下した。
雅と呼ばれた少女は土汚れの目立つ膝丈二センチほで切れている黄緑色の着物を着ており、さきほどの陽子たち同様に着物の袖をたすきがけで上げている。髪は彩乃より少し短い程度のショートで、瞳はニホンザルの子供のように薄茶色で大きい。
「彩乃おねえちゃん、わたしに用事?」
無礼講な雅が薄茶色の目を丸くさせながらそう尋ねると、彩乃は彼女の肩に手を添えて、もう片方の手で人差し指を差し出した。
「そうよ。いい?雅。私はこれからお客さまをご案内して回るので、幸子さまのお部屋を掃除しておいてちょうだい」
「えー、それって彩乃おねえちゃんが頼まれてたことじゃん」
「文句はなしです。すぐに取り掛かりなさい」
雅が気に入らなさそうに睨んでいると、彩乃は満面の笑顔になってこう言う。
「仕方ないわね。代わりに葵に頼もうかな。『雅は仕事そっちのけで遊んでいるから』とでも言っておきましょう」
「ま、待ってよ!」
彩乃がなりふり構わずはなれに向かう方角に歩みを進めようとすると、雅は急に動揺して彼女の腕を抱きとめた。
「やるからわたしが!葵ちゃんだけには…」
「やってくれるの?じゃあお願いね」
彩乃は邪な笑顔をくずさずに言いつけた。
「もう…」
咄嗟に了解した雅だったが、まだ気に入らない様子でふてくされていた。
「白神さま、大変お待たせして申し訳ありません。二階をご案内させていただきます」
「ああ、わかった」
(ああいう一面もあるのか)
彩乃は誰に対してもへりくだって従順しているものと思いきや、年齢が下である所為か雅に対しては毅然とした態度で命令していたので、白神は彼女には状況に応じたそれぞれの二面性があるのだと改めて認識できた。
「ねえねえ、ちょっと」
階段をのぼっていく彩乃の背中について行こうとした直前、ズボンをくいくいと引っ張る雅に気づいた白神は足を止めて彼女に振り返って少し屈んだ。
「雅ちゃん…だっけ。どうかしたかい?」
白神が優しい口調でそう尋ねると雅は耳打ちして囁く。
「あとでお兄さんの部屋行ってもいい?」
「え、どうして?」
「お願い、『外』のお話聞かせて?」
「外の話?」
「ええっと…つまりね」
そんな密かなやりとりをしていると、階段をのぼっていた彩乃が「コホン!」と咳払いしたので、雅は耳打ちを中断すると白神にピースサインして後ろに手をまわし、はにかんだ笑みで彩乃についていく彼を見送っていた。
彩乃の誘導で二階の回廊を悠々と歩きながら白神は気になる疑問を投げかけた。
「彩乃さん、今の子はどんな役目を負ってるんだい?」
「はい。あの子は雅といって『一般』の部類となります」
「一般?」
彩乃が言うには、『一般』とは要するに役職を与えられていない一般人という意味で呼ばれている名称らしい。男子二人を含む子供が十人、同じく男子二人を含む十五歳から五十歳代が十五人、六十歳以上の老婆が十人の計三十五人で構成される人員。一般の者は年齢の上下関係なく役員に従わなければならない雇用者のような存在なのだ。彼女たちの寝床ははなれにあり、皆が雑魚寝しているのだという。この待遇の差に反発する者はいない。何故なら村長代理を除くすべての役職には二年の任期があり、任期を終えると一般の者に役職を後任させ一般の一員として元一般の役員に従わなければならないからだ。この制度そのものに疑念をもつ者が陰口を言っているようだが、この地で生きていくため仕方なく村長の意向に従っている。雅は主にはなれの管理者である妙の元で家事を学び、家畜の世話を担当しているのだが、頻繁に役員の目を盗んでは遊び呆けているので手を焼いていると彩乃は言う。ちなみに陽子、幸子、純子の三人は『労働監督』と呼ばれる役職を務めている。畑仕事にまわされてくる一般たちを監督するのだ。彩乃はそれ以上の説明をしなかったが、本来、労働監督は一般に混じって農作業に勤めなければならないのだが、さきほどの陽子たち三人は一般の者たちを駒使いするだけで自分たちは左団扇で畑の周囲をただ歩き回っているだけなのだ。最年少で管理者に任命された八面六臂な彩乃が目障りらしく、さきほどのように嫌味をこぼしにやってくることは稀なことではない。
二階は部屋の数が少ないため、彩乃の案内は簡潔に終了し、その間に何度かすれ違った智寛と妙に合流して二階の上手袖にある村長代理の書斎まで二人の管理者に誘導される。書斎にいた玄徳には彩乃一人が報告し、村長の面会を希望した。今度は玄徳の案内で上手の中央にある村長室の扉の前で白神と智寛は待たされることに。彩乃と妙は玄徳の承諾を得て自分の持ち場へ戻っていった。
「………」
「トモ、どうかしたのか?」
待機中とはいえ気さくな智寛が黙り込んで呆然と立っている姿があまりにも不自然だったので、白神は彼の肩を揺すって反応を窺った。
「おう…まあ…あとで話す」
「そうか…?」
白神はそれ以上何も聞かず、智寛とともに先に部屋に入っていった玄徳を待つことにした。
数分経過後、玄徳が静かに扉を開けて部屋から顔を出した。
「村長のお許しを頂きました。お入りなさい」
二人は玄徳に促され村長室へ足を踏み入れる。
村長室は驚くほどに静まり返った空間だった。二十帖の広さをもつ床には西洋風の絵柄が描かれたじゅうたんが広々と敷かれている。窓がひとつもなく換気口もないので部屋の中は少し息苦しく、上座方面にある大きなすだれの前に置かれた灯篭の中で燃える小さな火が仄暗い部屋の中で怪しく揺らめいていた。
「村長、この二人がさきに申しました来訪者です」
すだれの奥で身を隠すように床にふせっている人物に囁きかける玄徳。
(来訪者って、あまりいい響きじゃないな)
白神が目を細めてため息をついていると、隣にいた智寛が一歩前進する。
「あの、俺たちは…!」
彼の声量に一瞬目を丸くした玄徳は人差し指を口元に添えて無言の警告を発した。智寛は白神と顔を合わせ、先に部屋に入る前に玄徳に言われた注意事項を思い返す。彼女が言うには、村長及び祖母である玄徳カスミは今年一一五歳と集落最高齢の長寿ということで、身体が虚弱な故、数年前から人前に出て話すことは適わなくなっているらしい。なので原則として村長代理の承諾なしに部屋に入って話してはならない。村長の声はか細く聞こえづらいので、話をするときは玄徳が代弁する。そしてくれぐれも粗相のないよう、部屋では静かに控えていることが条件だ。
「自分は淡路智寛、連れは白神桐彦といいます」
智寛は名前だけ紹介したが村長は無反応の様子。すだれの脇で控えている玄徳はこちらに目線を向けながら口を閉ざしているのを察知した彼は更に続ける。
「突然おじゃました僕らを客人としてもてなして頂き、感謝します。でも、そろそろ失礼して下山するつもりです」
(僕もそうしたい。なんだかこの館は不気味だ)
振り向いて同意を求めてきた智寛に白神は深く頷いて合図した。すると玄徳はすだれの隙間に耳をあてて屈むと、しばらくその体勢を維持していた。
「村長はお二方の来訪を心より歓迎されています。また、寛大にも村長はお二方の滞在を無償で許可してもよいと仰っております」
玄徳は神の御使いである教祖の如く恍惚な口調で代弁をした。しかし二人の耳にはその村長の声が聞き取れなかった。
「え…それはちょっと」
玄徳のその申し出に戸惑いながらも白神は断ろうとして口を開きかけた矢先に智寛が振り返って「いいだろ?」と半ば嬉しそうに微笑みながら同意を求めてきた。かくゆう白神は拒否する明確な理由も用意していないので、複雑な心境ながらも頷くしかなかった。
「では、お言葉に甘えて」
智寛が会釈しがてらそう言うと、玄徳は館内での注意事項を簡潔に説明する。そして夕餉の支度が整うまで部屋で待機しているように頼んできた。
客室に戻った二人はそれぞれのベッドに腰を落ち着かせていた。智寛は足を床につけたまま上半身だけ仰向けになり、両手を頭の後ろにまわしてなにやら嬉しそうに鼻歌を歌ってはじけている様子だ。一方白神はというと、また例によってあご元を親指と人差し指で挟んでなにやら考え込むように目を伏せていた。
「トモ、どう思う?」
「なにがだよ?キリコ」
話をきりだしたのは白神だった。
「玄徳さんに言われた注意事項だよ」
彼女が二人に促した注意事は奇妙なものだった。この集落の住人と俗世の話をしてはならない。それから部屋の外へ出るときは必ず管理者の彩乃か玄徳に許可を得て、どちらか一人は部屋で待機するように、とのことだ。
「屋敷をわざわざ個別に案内したことにせよ、僕ら二人を一緒に行動させないようにしているみたいな……」
「それはそれで光栄だね。四六時中お前と一緒なんて息がつまる」
嘲笑するように減らず口をはく智寛に対し、『それはこっちの台詞だ』と言わんばかりに白神は自分の枕を寝ている彼の腹部に投げつける。その拍子に智寛は「ぐへっ」と変な声を発して枕を投げ返した。白神はいとも簡単にそれを受け取る。
「それに俗世の話をここの人たちにしちゃならない意図も…」
白神の憂鬱感をなぎ払うかのように智寛が上体を起こして大きく背伸びをし、俯いている友人の肩を軽く叩くと、にやけた顔を頬づいた。
「ごちゃごちゃ考えすぎなんだよお前は。いちいちさ」
「そうかな…」
「村の掟みたいなものだろ。古臭い風習なんだと思うけど…俺の家もさ『食事中は家族の話だけするように』なんて堅苦しい家訓があるしな」
放任主義の家庭で育った白神とは違い、智寛の家庭は干渉主義とでも呼ぶべきか。他所でどんな行動をしていたか、抱えている悩みなどを家族ひとりひとりが把握し、共有し合っているのだという。その家訓が身についていることが巧を奏したのか、彼の周囲には常に人が集まり、自分に干渉してほしいと期待するのだ。白神にとってはただ馴れ馴れしい迷惑の種だと思うところがあるようで、出会ったときから苦手なのだ。
「…ところでトモ。お前さっきから妙に嬉しそうじゃないか?」
会話に空白ができるたびに鼻歌をたしなむ智寛の態度が気になり始めていた白神は、片繭をひそめて半笑いしながら尋ねる。
「え、そうかな」
聞かれた途端にきょとんとする智寛。
「なにか嬉しいことでもあったか?」
「いんや、別に…へへへ」
「気持ち悪いなお前…」
(女だな…)
智寛と長い付き合いの白神には容易に察することができた。やり手に見えて単純な部分があり、好みの異性を発見すると気分が高揚してつい表に出てしまう癖が彼にはあるのだ。
「鼻歌やめてくれ」
「あん?なにが…」
そのとき部屋の扉の向こうからノックが小刻みに三回ほど聞こえた。二人は顔を見合わせて寡黙のまま扉から顔を出してくるであろう人物を待ち受けていたが、扉は開かれないままただ沈黙を保っていた。
「どうぞ」
言ったのは智寛だった。すると「失礼します」とおしとやかな声色の少女が扉を開けて入ってきた。
「あ、あの…あたし」
遠慮しいにのそのそと部屋に入ってきたのは、薄茶色の髪を後ろで一本に結んでいる中学生くらいの年頃の少女だった。白神たちに見つめられて頬を赤く染めながら彼らと視線を合わせてはあさっての方角に目を向けたりするばかりで話を切り出さない。
「や!お兄さん」
挙動不審な彼女の後ろからひょっこり出てきたのは、はにかんだ笑顔の雅だった。
「おっと…!」
目を丸くしたままの白神が座るベッドに駆け寄ってきた雅が突然彼の隣に座って腕を組んできた。そしてその煌く両目を白神に向ける。
「ねえねえお兄さん!あのさ…」
「こら雅!離しなさい」
さきほどまでおどおどしていたはずの少女が突然声を荒げて白神に寄り添う雅を睨みつけたので、白神と智寛の両名が同時に肩をひくつかせて驚愕する。
「わ、わかったよ…葵ちゃん」
さすがのおてんば娘もその突発的な出来事には頭があがらないようで、しょんぼりしたままそっと白神の腕から身を離した。
智寛は両名とも初対面だったので、少女二人は改めて横に並んで挨拶する。葵と名乗る少女は雅より五センチほど背が高かった。雅と同じくはなれで働いている一般。真面目な性格な故、普段から怠惰の雅のお目付け役を買って出ているそうだ。しかし内気な一面のほうが目立つようで、幼馴染の雅以外には心を開くことはない。
「葵ちゃんっていうのか。よろしく…」
智寛はベッドから立ち上がると真っ先に葵のもとへ近づこうとする。
「わ、わわわっ」
頭を撫でられそうになった寸前に逃げ出した葵はどうしていいか分からずスカートの裾を握ってもじもじしていると、たまたま目に付いた白神の背中に隠れて彼の肩に手を添えながら小動物のように智寛を警戒する。
「え…なにそれ?」
思いのほかショックだったのか智寛は引きつった笑みを浮かべたまま膠着している様子。震えている感触が背中より伝わってくる白神も困惑していた。途端に雅に目をやる。
「葵ちゃん、かっこいい男の人苦手だからね」
雅は満面の笑みを浮かべたままそう言い放った。その瞬間に白神は内心複雑な心境になりため息をつくが、対する智寛は調子を取り戻したみたいで、
「そっか、なるほどね」
(なにが”なるほど”なんだか…)
態度が一変して嘲笑する智寛を睨む白神。月とスッポンだと言われても無垢な雅を突き詰めるわけにはいかないと自重しているとも言える。
すると智寛はにやにや笑いながら部屋から出て行こうとする。
「キリコ、俺ちょっと出てるわ」
「は?なんでだよ」
「両手に花の友人を邪魔したら悪いしな」
「お、おい…!」
智寛は有無を言わさず出て行った。室内が一瞬だけ静まる。
「き、緊張した…」
緊張が解けたようで葵はゆっくりと白神から身を離すと膝に手を置いた。それを確認した白神は落ち着いた状態の彼女に振り返ってみる。
「そんなに怖かった?あいつ」
「別に…そうじゃないけど…」
葵は目を伏せたままぼそっと言うだけだった。彼女の心境がどうだったにせよ、智寛が真っ先に葵に言い寄ってきた理由を白神はなんとなく察しがついていた。よく目を凝らして葵を見てみると、子顔な輪郭で高すぎず低すぎない小鼻はきれいな筋が通っており、奥二重の瞳は控えめな大きさだが確かに煌いている。年相応にあどけない容姿ではあるが、可愛らしく美しく整った顔立ちだった。
「私、あっちのお兄さん苦手。よくわかんないけど」
憂いの面持ちで雅がそう告白すると、白神の背後にちょこんと正座したままの葵も「うん…」と頷いて同意した。
女性うけのいい淡路智寛だが、高校生以下の年頃の女子には嫌煙されることがたまにある。女性に邪な感情を抱いていることが子供心に敏感な警戒心を生ませる発端であるからだ。逆に白神の場合は子供に好かれやすい性質のようで、現に雅と葵は白神の傍にいても平然としている。
「ところで二人とも、僕になにか用でも?」
そう切り出した白神。すると葵がベッドから立ち上がって雅のもとへ駆け寄ると、彼女の肩に手をまわした。
「こ、この子がどうしても俗世の話を聞きたいって…村長代理に叱られるからって、あたしは止めたんだけど…」
「え~、葵ちゃんだって聞きたいくせに…」
「あたしは『お客さまに失礼ないように雅を見張れ』って彩乃さんに言われたの!」
葵は横目でちらちら白神を見ながら頬を赤く染めて動揺している。白神は葵が代弁した雅の願望に首を傾げる。
「ちょっと待ってくれ。なんでそんなことが気になるんだ?」
彼が指摘した疑問に雅はあっけらかんとして答える。
「そりゃあ気になるよ。ふもとに下りたことないんだもん」
「は?それってどういうこと…?」
白神は目を見開いて圧巻した。その直後に葵が雅の口を強引にふさぐ。
「ふ、ふもとまで下山するのは危険なので…あはは…」
葵はお茶をにごしたような笑みを浮かべて応対した。あからさまに何かを誤魔化そうとしているのだと察知した白神だが、「へえ…」と流されるがままに一声あげるだけだった。
「ねえねえこれ何?お兄さん」
「あ、こら雅!」
油断した隙に葵の手から逃れた雅が白神の枕元に置かれたままの携帯に飛びつく。それを慌てて追いかける葵。この二人が部屋にやってきてからどたばたと靴音が響くようになっている。白神は例によって慣れているのか迷惑そうな顔色一つ見せない。
「何って…携帯電話だよ」
きゃっきゃと胸躍らせながら手に持つ携帯に興味津々になる雅。
「ケイタイデ…ンワ?それどんな道具?」
妙な発音を口にして首を傾げる雅。葵がすかさず彼女の手から強引に携帯を奪い返す。
「雅いい加減に…あ!」
奪った表紙にボタンに触れたのか携帯が開く。葵はおそるおそる暗いままの液晶画面を凝視する。まんざらでもない好奇心があるようだ。すると横から雅がひょっこり顔を覗かせて目を輝かせる。
「うわあ…このイボイボ、字が書いてあるよ!」
(この二人まるで初めて携帯を見たような…)
葵と雅が携帯を奪い合って騒いでいる最中に白神はあごにこぶしをつけて考え込む。
古びた洋館。住人たちの服装はどこか時代遅れ。そして下界の流行を知らない子供。この集落は長らく保守的な生活を継続していた所為か全体的に浮世離れしている。白神はおとぎの世界に迷い込んだような気分に苛まれた。
その後も雅から『俗世』についての質問攻めは続き、白神は頭の切り替えに悩みながらもなるべく驚異的に世間知らずな雅の目線に沿って受け答えするのだった。彼女の純粋な好奇心に便乗したのか、玄徳にうしろめたい気持ちを感じつつも(?)葵は次第にベッドに座る白神の隣にちょこんと座って彼の話を聞き入っていた。
ひとまず話に区切りをつけ、白神はベッドから離れて窓の外を眺める。数人の子供たちが裏庭で遊んでいる。その左隣には牧草が散りばめられた囲いがあり、死角で見えないが数匹の山羊が放牧されていた。ほんのり赤く染まる夕日が裏庭の芝生を照らしているのがわかる。
すると扉の向こうからノックが聞こえ、彩乃が夕餉の支度をするようにと雅と葵を促し、白神はひとり部屋に取り残された。
「ん?トモ…」
ふと窓から裏庭を見下ろしてみると、智寛が純白のワンピースを身にまとった若い女性を連れて歩いている姿が見えた。見た目の年齢はおそらく白神たちに近い。腰元まですらりと伸びた亜麻色の長い髪は夕日に照らされて美しく艶めいている。その魅力的な彼女と智寛は楽しそうに笑いあっている。その様子を頬づいて眺めていた白神は欠伸をかいて口をへの字に曲げた。
(またえらい美人を落としにかかったものだ…)
それから三十分経過し、彩乃が部屋にやってきて「夕餉の支度が整いました」と白神に伝え、彼をダイニングまで誘導した。テーブルの配置が昼間とは打って変わり、住民全員が座れるように配慮されていた。総勢四十八名が一定間隔の席で着席し、テーブルに置かれた料理には手をつけずに寡黙のまま待機していた。あまりに閑散とした空気に白神は息がつまりそうになるくらいであった。
しかし夕食時に至っては行動に制限はつかないらしい。既に智寛が待ち構えて座っていたからだ。なので白神は彼が座っているテーブルまでおもむろに近寄る。
「はい、桐彦くんはここに座ってね」
男子のみが密集しているテーブルで待ちかねていたかのようにその亜麻色の髪の女性は椅子を引いて白神を優しく促した。隣には智寛、そして少し年上と思われる優男が座っていた。同じテーブルに隆正もいた。相変わらず屍のように影が薄くて不気味だ。
「あれ?君…」
さきほど智寛と裏庭で話していた女に間違いなかった。
「沙希っていいます。よろしくね」
沙希と名乗った彼女は優しく微笑んでみせた。彼女の透き通った素肌に魅了させられる白神。落ち着いた雰囲気の彼女だが今まで顔を合わせた住人の中で白神たちと一番年代が近いと思われる。沙希は手を小さく振ると自分の席へ戻っていく。その姿を目で追っていた白神の首に腕を回してくる人物がいた。
「おっと、人の嫁さんをじろじろ見るなよ」
「おわっ!な、なんすか…?」
「俺、沙希の旦那の晴之ってんだ。よろしくな」
晴之と名乗るその優男が握手を求めてきたので成すがままに白神は握り返した。晴之は回していた腕をそっと引っ込めると歯をみせて微笑んでいた。
白神がふと向こう側のテーブルを見てみると、背を向けて座っていた雅が振り向き、にやついた表情で小さく手を振る。彼女の隣に座っていた葵も振り返り、恥ずかしそうに会釈していた。
「全員揃ったようですから、頂きましょう」
スプーンでワイングラスを軽く叩いて音を響かせた玄徳の号令で各自「いただきます」と唱え食事に手をつけていく。白神と智寛も少し出遅れて手を合わせた。
「遠慮しなくていいからな」
食事に手をつけようとしない白神たちを見かねた晴之が笑って促したが、彼らは別に遠慮しているだけではない。ひとりひとりの席に配膳された皿にはコーンスープが入れられ、ほのかに湯気が立っている。その隣にはトマトやレタスが盛り付けられた野菜類の皿。そして水が入ったコップ。この館の食事は一日二食で朝と晩に時間が設けられているようだが、夕餉はあまりにも粗食だったので二人は食欲をそそられない。十分も経過しないうちにスープを飲み干して野菜類の皿も空にしてたいらげたものの、逆に空腹感が増したような気分に苛まれた。
「男の二人旅か。いいなあ、俺もできたらいいんだけど…」
優男で冷めた顔立ちとは裏腹に晴之は快活で明るい性格だった。同姓で人懐こい彼と会話が弾んでいく白神と智寛。
「晴さん。沙希さんは役員が固まってるテーブルにいますけど、彼女もなにかの役員なんすか?」
(晴さんて…)
妙の案内中に先に顔を合わせていたようで智寛は無礼講に晴之をあだ名で呼んでいた。呼ばれている彼は全く気にしていないようで自然に受け入れている様子だ。
「ああ、沙希は『代表者』なのさ」
白神が首を傾げると晴之は親切に説明する。
若干二十一歳の沙希は『代表者』という役目を担っている。ふもとに下りて住人の衣類や靴などの生活必需品を調達する重要な役割。
「もしかして山道を登る途中で見かけたあの休憩所…」
白神は山の下腹部で立ち寄った休憩所の黒板に書かれていた内容を思い出す。天井を見上げる白神に晴之は人差し指を立ててみせる。
「そう。その休憩所で依頼したものを受け取るのさ。代表者に選ばれた人がね」
「それは無償でってことですよね」
智寛が少し身を乗り出し、この集落が自給自足だという事情を踏まえてそう尋ねた。
「そうだね。でもふもとの人たちがただ親切だから…というわけでもないんだ」
かつてふもとで暮らしていた皐月島の住人たちは津波による被害で家を半壊され生活を脅かされていた。そこに、とある資産家の令嬢を名乗る玄徳カスミが莫大な寄付金で島の復興を援助すると申し出てきたのだという。その代償として榊段連峰の山岳に持ち家を構えて定住させてほしい。また、使わなくなった古着や生活用品を必要時に応じて恵んでほしいと交渉を持ちかけてきた。その当時の皐月島の村長は藁をもすがる思いで彼女の援助金を受領し、玄徳カスミと彼女が率いていた女たちを住民として迎えた。両者の利害関係が一致したおかげで彼らは世代を超えて永住できている。
晴之の補足説明を聞き取り納得する智寛だったが、白神がひとつ不振な点を述べる。
「沙希さん一人がふもと近くまで下りて生活用品をすべてここまで運ぶんですか?」
すると晴之が高らかに笑って首を横に降った。
「まさか。必要に応じて一度に運ぶ数が増えることもあるから、代表者は二人一組だよ」
「ならもう一人ってもしかすると…」
智寛が晴之の横顔をじっと見つめていると彼は短めに拍手する。
「ご明察!俺も代表者なのさ。同じ役員って関係で意気投合してね」
晴之が嬉しそうにそう語るので舞い上がってのろけ話でも始まるのではないかと見構えていた白神だったが、その期待は裏切られて(?)晴之は途端に寂しそうな表情に切り替わって俯く。
「もうそれもできなくなるんだけど…」
ぼそっとつぶやいた晴之の独り言に目を丸くする白神。
「どうしてできなくなるんです?」
「あ!いや…それは」
白神が投げかけた疑問に何故か晴之はお茶をにごした様子で愛想笑いを浮かべる。
「白神さま、淡路さま。そろそろお部屋でお休みになられては?」
背後から厳格な玄徳が現れたので二人は肩をひくつかせて驚いた。彼女の後ろに彩乃が控えている。白神はふとダイニングを見渡すと、一般の女たちがテーブルの食器を下げており役員たちは各自部屋に戻っていく様子が窺えた。思いのほか話し込んでいたようでいつの間にか同じテーブルで着席していたはずの隆正の姿もない。大時計の文字盤に目線を向けると既に時計の針は九時前を指している。
「こちらから出てすぐに男女別の大浴場がございます。お湯はりは終わっておりますのでお早めにご利用ください」
彩乃は丁寧にお辞儀しながらそれだけ告げると一般の女たちが集っている炊事場へ加勢するため去っていった。玄徳も書斎へ戻ると言って去っていく。去り際に「くれぐれも村長室の前を通るときは粗相のないように」と忠告していった。
「俺たちも出ようか」
晴之の号令で白神と智寛は揃って大浴場へ向かうことに。不慣れなダイニングでの食事に緊張をしていたのか、普段は口数が多いはずの智寛は終始口をあまり開かず考え込んでいる様子だった。
登山で流した汗を大浴場ですっきり洗い流した白神と智寛は、長い廊下を渡った先の客室で隆正と寝ていると言う晴之と分かれて自分たちの部屋へと再び戻っていく。
「うわ!なんだよ」
先に扉を開いた白神が手を伸ばして壁を探っている動作をしているので、電気のスイッチを探しているのだと智寛は瞬時に察知したが、
「電気は通ってないって言われてただろ?」
と口ぞえし、扉のすぐ横にあった台の上に置かれている金製の古びたキャンドルスタンドのろうそくに、廊下の柱に火が灯されて設置されていたろうそくの火で着火すると、白神を押しのけてキャンドルの火で部屋を照らしながら先に部屋に入っていく。自分のベッドの位置が把握できた時点で白神も入室し扉を閉めた。
「大きいけど不便な屋敷だ。明日になったら出るだろ?トモ」
「ん…ああ…まあ」
早々と床につく白神に智寛は立ったまま背伸びし曖昧に返事をする。疲労困憊なのか智寛の態度は釈然としない。
「僕は先に寝かせてもらう。おやすみ」
「ああ…」
わざとらしく片言で話した白神に見向きもせず、智寛はベッドに座り込んだまま呆然としていた。白神も疲れが溜まっているせいか少し様子のおかしい智寛にはそれ以上声をかけず、明日から一予備校生として励めるようにと胸の内に唱えて眠りにつくことにした。
智寛が就寝して数分経過後に外して置いていた腕時計のボタンを押して文字盤を光らせてみると時刻は午前一時を回っていた。というのも白神はあれから一睡も出来ていないのだ。彼は他所の寝室で就寝できた経験が一度も無い。修学旅行の宿泊先のホテルでも一人だけ朝まで眠ることができずこっそり部屋のテレビをつけて不眠症の一夜を過ごしていたという逸話もあるほどだ。しかしこの部屋にはテレビどころかコンセントの差込口も存在しない。やむを得ず白神はベッドを抜け出して窓から照らされる満月の月光をただ眺めている。この屋敷は読書をたしなむゆとりがないそうなので下界の本など一冊も置かれていない。暇なときはこうして景色を眺めるか人と喋ったりするかの二者択一だと大浴場で共に背中を流した晴之が教えてくれた。
白神は思考をめぐらせているうちに後悔の念が沸々とこみ上げてきた。
(模試も控えているっていうのにとんだ道草だ。昔からこいつには振り回されてばかりだな…)
白神はふと眠っている智寛の寝顔を見下ろす。いびきをかいて幸せそうによだれを垂らしている。彼は大学のサークル活動の関係でさまざまな宿泊施設を訪れており、不慣れな環境でもしばらくまぶたを閉じていれば熟睡できると自負している。あるいみ理不尽ともとれる劣等感を抱きつつ白神は自身のエゴイスティックな精神を呪った。室内がかび臭い、枕が硬い、敷布団が重くて寝苦しい――など、彼はそんな悪態を胸の内に訴えているのだ。しかし無心になれなければ睡魔は襲ってこないと悟った白神は、屋敷内をしばらく散策しようと台座に置かれたキャンドルスタンドのろうそくに所持していたライターで火を灯すと、なるべく音をたてないように気を使い足音を殺してそっとドアノブを捻る。
「ん…あれ?」
静かに扉の隙間から外を覗くと、長い廊下を渡った先にある客室へ向かっていく沙希の姿があった。彼女の手に持ったキャンドルスタンドの灯火が仄暗い廊下や壁際を照らしていく。そして客室の扉を静かに叩いている様子が窺えた。晴之の名を呼ぶ声が微かに聞こえてくる。すると晴之が扉を開いて現れ、二人はなにやらこそこそと話し込むと横に並びながら階段を下りていく。するとローブを羽織った陽子が偶然に通りかかって二人を呼び止めた。白神が聞き耳をたてると「どこへ行くの?」と陽子が二人に尋ねているのが微かに聞こえた。しばらく話し込むと陽子と別れた二人は玄関の大扉を開いて外へ出て行ったようだ。終始晴之は沙希の華奢な肩に手をまわしていた。
(なんだ…夜這いってやつか)
回廊の手すりにひじをついて様子を見送っていた白神はまぶたを半開きにして内心呆れるが、不思議とその瞬間に睡魔が襲ってきたので部屋に戻りベッドに横たわった。
気がつくと昨晩の暗闇が嘘のように掻き消えて、窓からは眩い朝日が差していた。白神は頭まで覆っていた敷布団から顔を覗かせて眠気眼で隣のベッドを見やる。そこには智寛の姿は無く、シーツを布団からはがして洗濯かごに入れている彩乃の背中があった。彼女に起きていることを悟られないように布団の中に忍ばせていた携帯をこっそり開いて時刻を確認すると午前九時三十分過ぎを指し示していた。白神は日々のみすぼらしい食生活で必須アミノ酸不足のためか朝に弱くなかなか起床できない。この部屋の環境に悪態つけて寝付けないと不眠症になっていたかと思えばすっかり心地よくなっているようでいまだにうずくまっている。
「あの…えと、兄さん…ちょっと」
おどおどした声色の少女がさきほどから白神の肩を布団越しに揺らしている。その動作は少々ぎこちなく、熟睡している人間を起こすには難物といえる控えめな力加減である。
「ねえ…ちょっと…起きてよ…」
そのか細い声と消極的な態度で白神は揺すってくる人物の見当がついていた。やむを得ずむくっとベッドから上体を起き上がらせてなんとか意識を保ってみせる。
「早いね彩乃さん…葵ちゃんも」
目じりのあたりを指でこすりながら欠伸をかく白神。気づいた彩乃は「おはようございます、白神さま」と覇気のある笑顔で丁寧に挨拶してきた。ベッドに寄り添っていた葵は一瞬だけ目を輝かせると弱々しい手つきで白神の右腕を掴む。
「あの、ちょっときて」
白神をみつめる彼女の瞳は今にも泣きそうなほど潤んでいた。
「葵、いい加減にしなさい。相手はお客さまですよ?」
彩乃が片繭をひそめて中腰になり床にべったり膝をついたままの葵を非難する。しかしその声には怒気などなく、どこか憂いに満ちている様子だった。彩乃は葵の両肩に手を添えておもむろに立たせると俯いたままの彼女にまっすぐ視線をむけた。
「旦那さま方を起こしに行ってきてちょうだい。できるでしょ?」
「………」
「お返事は?」
「………」
葵は俯きざまに白神のほうをちらちら見ながら黙りこくる。
「はあ…どうしてあなたはいつもそう…」
彩乃が頭を抱えてその先を言う前に葵は「はい、行きます…」と気のない返事をすると部屋から出て行こうとするので、横で見ていた白神はベッドから抜け出して彼女の肩を後ろからそっと掴むと身を低くして小声で耳打ちする。
『付き添ってあげる。出たところで待ってて』
『いいの?』
『ああ。彩乃さんには僕から話しておくから』
『………うん』
後ろめたい感情を抱きつつも葵は微笑を浮かべて照れくさそうに頷くと部屋から出て行く。足音がすぐに途絶えたので廊下を出てすぐに留まっているようだ。それを確認した白神は扉の前で背伸びして眠気を打ち消すように自分の頬を叩いた。
「申し訳ありません白神さま。葵がとんだ粗相を…」
彩乃が傍に駆け寄り申し訳なさそうに顔をしかめながら頭を深々とさげる。白神は彼女の生真面目な態度に目を見開いてあわてる。
「そ、そんなオーバーな!…なにも君が謝らなくても」
「いいえ。私の監督不行き届きです。もう十四歳になるというのにあの子は…」
行動的な雅とは逆に葵はとても消極的でか弱い性格の十四歳だ。しかし頭がよくて器量よしな一面も持ち合わせており、日々の仕事並びに家事においては右に出るものはいないほど優秀であり、管理者の後任が期待されても不思議ではないのだが、誰かが傍についていないと不安になり挙動不審になるか身が固まってしまうのが最大の難点なのだという。
「六年前、兄のように慕っていた旦那さまが行方不明になりまして。以来ずっと塞ぎ込んでいたのですが…雅と連れ添うようになって徐々に心を開くように。でも…人に依存する癖が染み付いてしまっているようで。雅が傍にいないと何かしら行動できないみたいです」
深刻な表情で語る彩乃の話に感情移入して受け止める白神。
「そうか…」
彼は子供の頃人見知りが激しく小学校でなかなか場の雰囲気に馴染めずに孤立しかけていたのだが、同じクラスになった智寛に絡まれたのがきっかけで徐々に周囲の友達と話すきっかけができたのだという。白神はそんな過去の自分と重ねているのか、引っ込み思案な葵のことが少しばかり気がかりだった。
「ところでその”旦那さま”って呼び方が気になるんだけど。この館の当主は何人もいるのかい?」
葵のことは一旦横に置いた白神は昨日から耳に残っている呼び名についての疑問を投げかけた。隆正と晴之のことも一貫して同じ呼び方なので不思議だったのだ。
すると彩乃はくすくすと微笑する口元に手を添えて説明した。『旦那さま』というのは、十八歳から三十歳までの子持ちの男を呼ぶときの俗称。どちらか一人に用事がある場合は名前で呼ぶそうだ。この集落で数少ない男子は三十歳の誕生日を迎えるまでに伴侶となる女の協力を得て同年齢の子を最低でも十人つくらなければならない。ただし男子は二人以上女に産ませてはならない。
「ち、ちょっと待ってくれ!」
「はい?」
頭の中でいろいろ整理して混乱を抑えたかったので白神は彩乃の説明を一旦遮る。しばらく考察した上で口を開く。
「つまり年内に出産する子供は…男二人、女八人で構成される十人がもっとも理想的ということになる」
「そうです」
「そんなこと無理に決まってる」
「なぜですか?」
彩乃が真顔で見つめてくるので白神は肩の力が抜けたように愕然とする。お産の専門的知識に乏しい彼でも彩乃の説明は明らかに人類の生態的常識から逸脱していることは明白であった。
「なぜって…男が二人以上産まれないとは限らない。計十人を目安としてその…せ、性交を重ねた結果として、男子の割合が多い可能性だって充分ありえる!」
途中頬を赤く染めて恥じらいながらも白神は彼女とまっすぐ視線を合わせて言い切った。しかし彩乃は首を傾げて困惑した。彼女は幼少期に教師から『男子は一年のうちに二人以上産まれることはない』と教え込まれて育ったと言うのだ。再三に渡りその理由をその当時の教師に追求したらしいが、ただ単にそれが自然の理だと言われるだけだったそうだ。
「ふふっ。強いて申し上げますとこれは一般常識である以前に現にこの構成でお産が行われておりますので」
と言いはる彩乃に笑われた白神はもう脱帽して言葉もなかった。
(この彩乃って子に限って天然なのかもしれない…それしかない)
白神はそう自分に言い聞かせるととりあえずこの奇妙な件については受け流すことにして、もうひとつ抱えていた疑問を投げかける。
「ま、まあいいや…もうひとつある。その十八歳から三十歳の男の人の中で子作りを拒んだり相手の女性をみつけれなかったときはどうなるんだ?」
彩乃は間髪入れないように笑顔で対応する。
「もちろん拒否する権限はあります。お互いのお気持ちの問題ですし、交際をお求めになる男性を野暮だと振ってしまわれる女性の方もおられます。今回の場合ですと隆正さまと晴之さまのお二人が『旦那さま』となられ、合わせて十人のお子を授かったそうです」
「あの二人だけ?今年で今の時点で十人も出産するなんて…」
性的感心を通り越したおぞましい想像が脳裏によぎり、白神は思わず口を止めた。
「えと…それは……つまり、あの……」
彼以上の羞恥心に苛まれたのか、彩乃は視線をちらつかせながら頬を真っ赤に染めてその先の言葉を発するのに戸惑う。
「一夫多妻…みたいな?」
しびれを切らした白神が辛辣な表情で結論を代弁すると彼女は深く頷いた。隆正は四人の妻をもち四人の子供を。晴之は五人の妻をもち六人の子供を授かったらしい。
これ以上の質問はセクハラではないかと思い立ち、白神は部屋を出て廊下で待機していた葵と一緒にもうひとつの客室へ向かうことにした。
さきほどの卑猥とも言えるやりとりを扉越しに聞いていたのではないかと心配した白神は廊下を歩く道中に隣を歩く葵に追求したが、なにも聞かなかったと平然と答える彼女。白神はほっとして胸を撫で下ろした。いろいろ複雑なお年頃の葵に聞かせる訳にはいかなかったからだ。さきほどの話で白神がなにより度肝を抜かされたのは、あの薄気味悪い生ける屍のごとく老けた形相の隆正に四人も妻がいたことだ。
(世の中わからないものだな)
そんな複雑な心境を抱えつつ白神は葵とともに晴之と隆正の部屋の前に行きついた。葵がおそるおそる扉をノックして、
「失礼します、旦那さま」
と入室の許可を求めたが全く応答がない。それどころか部屋からは物音ひとつ響いていないようだった。
「は、入ります」
二人は熟睡しているのだと推察した葵はおもむろに扉を開いていく。
室内の広さは白神たちの部屋とほぼ同じ。ベッドの配置と窓の位置も同等だが、入ってすぐ左奥には机と椅子があり、ふけだらけの頭の隆正が机に突っ伏したまま両腕をぶらさげている光景がまず視界に飛び込んできた。おもむろに室内に足を踏み入れていくと、シーツがしわくちゃになって敷布団が荒れた状態のベッドときれいに整えられたベッドが二台縦列に並んでいるだけで晴之の姿がなかった。
「ねえ…なんだか旦那さまのご様子が…」
突っ伏したままの隆正の背中を揺すっていた葵が室内を見回していた白神に振り返った。彼女はなぜか表情を強張らせている。
「どうしたんだ?」
「揺すってみたんだけど起きないの。それに…なんだか体が冷たくて」
震える声の葵を見かねた白神は意識を取り戻さない隆正のもとへ駆け寄ると、
「おい、ちょっとおじさん…」
同じく彼の肩を揺すって声をかけるが、あまりにひんやりとした体温だったので思わず手を引っ込めてしまった。
「まさか…」
ただならぬ悪寒を感じた白神はあわててぶら下がっている彼の右腕を持ち上げると手首に指をあてて彼の脈拍を測ろうとする。小刻みに場所を変えて確認したが低体温の手首からは脈が全く感じられない。そしてふと机上をみると底に少量水が残っている硝子コップとラベルも巻かれていない白い錠剤が入った小瓶が倒れて中身の薬が半分あふれていた。
「自殺…した?」
状況からみて隆正はあきらかに死亡している。白い錠剤はおそらく毒薬。
白神の背中に隠れていた葵は彼のジャージの裾を握り締めて震えていた。白神も人間の死体など生まれて初めて目の当たりにしたので固まってしまった。しかし「どうしよう?」と涙目と震えた声で訴えかける葵と目が合うと、成人を迎えてこそいないが大人としての言動をすべきと自分に言い聞かせた白神は、
「彩乃さん!ちょっときてくれ」
部屋から出ると彩乃が階段を下りている姿がみえたので大声で呼び止めた。事態の深刻さを察知できたのか彼女はすぐさま階段を駆け上がるとまっすぐに白神の元へ小走りする。
「どうかなさいましたか?」
「この部屋で隆正っておじさんが…」
ただならぬ恐怖感からくる動悸をなんとか抑えながら白神が言い切る前に下の階から玄関の扉が開く音が聞こえどたばたとけたたましい靴音が鳴り響いた。
「村長代理!村長代理!」
白神と彩乃はそろって吹き抜けの視界から玄関ホールで泣き叫んでいる女を確認した。
「小百合さん。どうかなさいましたか?」
床にへたり込んで血相を変えていた女は、つり橋を渡ったところの草むらで出会った眼帯の女だった。彩乃は階段を下りると真っ先に彼女のもとへ駆け寄っていく。
「はあ、はあ…あ…はあ…っ」
小百合と呼ばれた眼帯の女は呼吸がなかなか整わず苦しそうに胸元をおさえる。見かねた彩乃は彼女の肩に手をまわして「落ち着いて小百合さん!」と辛辣な表情で介抱する。一分ほど呼吸を整えた小百合は彩乃のエプロンをつかんだ。
「旦那さんが…晴之さんが…!」
小百合の話は実に衝撃的だった。集落外の渓流の岩肌で晴之が死んでいると言うのだ。彩乃はすぐさま村長代理の部屋へ向かう。彼女から伝達され聞きつけた白神は、隆正の遺体をみていまだに膠着して佇んでいた葵を一旦自分たちの客室へ連れて行き、待機しておくようにと身震いしている彼女に告げると勇み足で玄関から外へ飛び出していった。畑を横切っていくと所々で二、三人固まってうろたえている。労働監督の三人組が大げさに奇声を発しているのも見えた。小百合から話を聞きつけた誰かが騒ぎを大きくしたのだろう。
白神は一目散に林を駆け抜けると昨日通りかかった渓流の岩肌を見下ろす。
「う……」
とびきり大きな岩盤の上に血まみれの晴之がうつ伏せになって倒れていた。
「晴之さん、大丈夫ですか!」
ぐったり倒れたまま動かない彼の生死を確認するために白神は岩肌をなぞるようにゆっくり下って足場を確保しながら近づいていく。
「晴……」
やっとこさ倒れている晴之のもとにたどり着いた白神は瞳孔を開ききって思わず口を閉ざした。
顔を横に向けたまま倒れている晴之の大きく見開いた瞳は輝きをなくし完全に生気を失っている。身にまとっているシャツとズボンは所々引きちぎられており、野犬にでも襲われたのか噛み傷の歯型が痕跡として全身に見られ、その傷元から大量に流血して岩盤に染み込んでいる。そして胃の中の内容物まで吐き出してしまいそうな汚臭が漂っていた。
(むごすぎる…)
白神は口元を手で押さえて見るも無残な遺体から目を逸らそうとする。しかし彼はある異変に気がつくと片膝をついて遺体を凝視する。
「これは刺されたのか…」
遺体の背中をよく確認すると一箇所だけ刃物で一突きされたような刺し傷があった。噛み傷による出血で染みこんだシャツのおかげで目立たなかったようだ。しかもシャツの背中には血の手形があり、指紋まではっきりと付着している。親指が左向きなので手形は右手だと分かった。
「この筋はなんだ?」
ふと首元に目線を向けると頸部に太さ二ミリ前後の赤茶色の横筋がくっきりできている。おそるおそる触れてみるとその筋の部分が丸くくぼんでいるのが感触で理解できた。遺体の検証など当然素人の白神でもこれは紐状のもので首を絞めたのだと認識した。
その後、玄徳の指示で妙と智寛が担架と固定用のロープを持ってきて晴之の遺体を回収し、ひとまず裏庭まで運ばれた。二人は何故か白い衣のようなものを羽織っていた。
担架に乗せる際に智寛はあまりに無残で生々しい死体を目の前にしてショックのあまり言葉を失っていた。そして客室で死亡していた隆正の遺体は白神と智寛が協力してなんとか一階まで下ろして同じく裏庭まで運んだ。二人の遺体は納屋に保管されていた藁で覆い隠された。
「晴之さん!……どうして…こんな」
晴之の遺体にすがりながら沙希は泣き叫んでいた。住人たちはそろって遺体を取り囲み喪に服している。
「狼たちにやられたのよきっと!」
「村から出ようとしたんだわ!」
興奮状態の幸子と純子が互いに手を握り合って震えている。彼女たちの発した言葉に周囲の皆は動揺して隣同士ひそひそとしゃべっている。
「村長代理」
ハンカチを口元にあてている陽子が玄徳に発言を申し立てる。そんな彼女に目もくれず玄徳はただ遺体を見下ろし無表情だった。
「役員の臨時会議を召集しましょう。これは由々しき事態です」
「そうですね……しかしそれは彼らを丁重に葬ってからでも遅くはないでしょう」
自身の地位向上のため提案した彼女に対し、玄徳はあくまで道徳的な事態の収拾を最優先に図ろうとした。その水際立っている意見には何も言い返すことができず陽子は口ごもり館のほうへと去っていく。あわてて純子と幸子は彼女の背中を追って駆けていった。
それを見送ってから白衣を着た菊が声を漏らす。
「晴之さん…どうしてこんなことに」
「気の毒だね、沙希ちゃんは」
菊の隣に立っていた妙も辛辣な表情をして便乗した。何故、皆は一様に晴之の死ばかりを労わり自殺した隆正については触れないのか白神にははなはだ疑問だった。彼の妻らしき人物が遺体に寄っていく様子もみられない。
「お兄さん…」
気がつくと涙目の雅が身を震わせて白神の腕を抱きしめていた。葵も彼の背中に隠れながら震えて惨たらしい遺体に恐れをなしていた。白神は臆する二人に「大丈夫だ」と微笑んでみせたが、精神が未成熟な少女たちを宥めるのは容易なことではなく、雅は強がりにひきつった笑みを浮かべ葵はまぶたをぎゅっと閉じて自意識を保つのが関の山だ。
すると、晴之の遺体に突っ伏したまま泣き止むことのない沙希の悲しみを切実に感じとったのか智寛が辛辣な表情を浮かべて震えている彼女の背中をさする。
「沙希さん、とにかく部屋に戻りましょう」
「晴之さん…晴之さん…」
「ここにいても辛くなるだけですよ」
「いやよ…絶対に離れない」
「沙希さん…」
夫を失った絶望で壊れてしまいそうな沙希の肩にそっと触れる智寛。二人は似たような問答を三十分以上繰り返した。頬を伝って流れていた涙はやがて乾き、魂を抜かれたように脱力した沙希の肩を持ち上げた智寛は彼女とともに悠々とおぼつかない足取りで館のほうに向かって去っていく。ふと周囲を見回すと先ほどまでいた群衆の姿はなく、裏庭に残っていたのは玄徳、彩乃、白神、小百合の四人だけ。白神にぴったり張り付いていた雅と葵は手を繋いで他の子供たちとはなれに戻っていったようだ。
「下山して警察と救急に連絡しませんか?」
沈黙が続く中で先に口を開いて提案したのは白神だった。まだ緊張している所為か思わず声が震えてしまう。
「小百合、待ちなさい」
玄徳はさりげなく立ち去ろうとした小百合を呼び止める。玄徳の表情はあからさまに険しく目つきは鋭かった。
「は、はい…」
無言のまま手招きされておそるおそる力のない足取りで傍に寄り玄徳と向かい合う小百合。玄徳の威圧的な視線に彼女は完全に竦んでいるようで足元が小刻みに震えているのが見て取れる。
―パンッ!―
玄徳は右手の手の甲で小百合の頬を思い切り叩いた。あまりに唐突だったのか叩かれた直後、彼女の口元から少量の血があご元に染みる。口内が歯に当たって切れたのだろう。
「村の外へ出てはいけないと…口が酸っぱくなるほど言いつけたはずよ」
声に怒気はないが玄徳からは殺気のようなものが立ち込めている。そのなんともいえない重圧感に苛まれた白神は自分の足元から見えないなにかに引き摺り下ろされるような恐怖に駆られる。殴られた口元を手で押さえながら俯く小百合のあられもない姿を間近で見ているため、
(穴があれば入りたいはずだ)
と自分を彼女の立場に置き換えて痛切に気持ちを察していた。
「も、申し訳ありません!」
小百合は自身の過ちを悔いて深々と頭を下げる。そして玄徳からこっぴどく油をしぼられた彼女は館のほうへ帰って行った。
この山には狼の群れが棲みついているらしく、ふもとに下りようとする人間を容赦なく襲うとのこと。小百合はこれまでに何度も下山を試みようとした常習犯で、実際に襲われたことがある。その証が失った右目なのだという。
「でも僕らが登ってきたとき狼なんて…」
天を仰ぎ見ながら記憶を辿る白神がそう言いかけた途端に玄徳は彼の背中に手をまわした。
「白神さま。警察に連絡いたしますので、申し訳ございませんがしばらく客室にて待機されたく存じます」
強張った表情でそう依頼してくる玄徳。話を遮ったことに不満を募らせながらも白神はとりあえず頷くと裏庭から立ち去る。
しかし今になってこんな疑問が彼の脳裏をよぎる。
(二人の遺体…動かしてもよかったのか?)
客室に戻ると智寛の姿はなくふとベッド脇を見ると二段式の台車の上に紅茶の入ったカップと、一切れのパンが皿にのせて置かれていた。彩乃が朝食を運んできたのだろうと推測する白神。紅茶にはまだ湯気が立っているのでカップに注がれてからさほど時間は経過していないと思われる。ベッドに腰を落とした白神は枕元に置かれたままの腕時計を手に取ると現時刻を確認した。文字盤の針は午前十一時前を指していた。憂鬱と不安を拭うようにため息をついた白神は台車に置かれた朝食を口にすることにした。昨晩の夕飯もそうだが今朝の朝食におけるエネルギー摂取量は空腹を満たせるものではない。普段食の細い白神でもさすがに昨日から腹が空いて脱力しそうな健康状態だ。しかし今朝の騒動のおかげで食欲を無くしているのかそのごく少量の食事は丁度よかったとも言える。
白神は朝食を終えるとベッドに横たわって身体を大の字に広げた。
「もう…帰りたい」
薄暗い天井を見上げ、とうとうその本音を口に出してみた。浮世離れした集落、突然の不審死事件。思考がまとまらずに頭をかきむしっていると、予備校通いとバイト通勤にあけくれていた忙しない日常生活が恋しく思えてきた。
「みんなどうしてるだろう…」
予備校で知り合った友人たちの顔を思い浮かべていると、白神は再び睡魔に襲われてしまいまぶたを閉じずにはいられなかった。
突然聞こえたノックの音で白神はようやく目を覚ました。ふと窓辺を見やると眩い夕日が射しており、室内の床や壁を赤く照らしていた。そして台車ごと空の食器はいつの間にか消えており、片付けられたようだ。時間を確認しようと枕元に置いたままの腕時計を見てみると午後五時過ぎを示していた。
「「キリコ起きてるか?」」
けたたましいノックとともに扉越しから聞こえたのは智寛の声だった。眠気眼をこすって「起きてる」とひと言だけ返事する白神。
「もうすぐ夕飯だとさ」
部屋に入りながらそう告げる智寛の表情はあっけらかんとしていた。
「今までどこにいたんだよトモ」
そう尋ねる白神に智寛は毅然とした態度で、
「俺は沙希さんにずっとついてたのさ。泣いてる女を放っておけないだろ?」
と答える。実に彼らしい行動だと白神は内心納得した。
「ところで警察はまだこないのか?」
白神がそう尋ねると智寛は何故か目を逸らして半笑いする。
「まあ…わざわざいいんじゃね。この村で起きた事故みたいなものなんだし」
彼の放った言葉に白神は圧巻してしばらく口をぽかんと開けていた。普段の智寛ならこのような緊急事態において適当な振る舞いはしない。女にだらしない性格を覗けば正義感あふれる頼もしい人間なのだ。そんな彼が事態の収拾に図ろうとしないのが白神には意外すぎた。
白神は一息つくと頭に手をあてて俯きながら、
「隆正さんが自殺した理由が分からずじまいだぞ。それに晴之さんは狼に襲われる前に殺されていた可能性があるんだ」
考えていたことを口に出した。すると智寛は無表情になる。
「どうしてそう思う?」
「遺体の首筋に紐で絞めたような跡があった。それに背中には刃物で刺されたような傷。うなじ寄りに背中には右手の手形。血が染みこんで指紋がはっきり出ているし、殺害した犯人の右手だとしたら…」
「それ本当か!」
智寛は一瞬目を見開いて白神の両肩を握るとそこで遮った。白神は思わずぎょっと驚いて後ずさりする。
「あ、ああ…」
「でも…今更だしな…」
智寛が勿体つけて口を閉ざそうとするので白神は片繭をひそめて訴える。すると智寛は重い口を開き始める。
「死体は火葬しちゃったんだよ。もう骨しか残ってない…」
隆正と晴之の遺体は既に火にくべて残った骨は裏庭に埋葬したとのこと。白神が熟睡しているうちに役員が緊急招集され会議で決定したらしい。しかも会議中に即実行され村長代理の命令により一般の村八分の女たちだけで火葬された。
話を聞き終えた白神は更に頭を抱えて考え込む。
(警察に通報しようと提案した僕が寝ている隙に……これは偶然なのか?意図的な行動だとしたら…昼前に飲んだ紅茶には睡眠薬でも混ぜたんじゃないか?メイドの彩乃が犯人で事実隠蔽のためにもみ消した…?それは飛躍しすぎか…)
「おい!聞いてるのかキリコ」
白神が夢中になって思考をめぐらせていた最中に智寛が彼の肩を揺すった。
「なんだよトモ」
白神はようやく我にかえると智寛に視線を戻した。
「俺…ここにいようかと思うんだ」
「は…?」
智寛が出した唐突な結論に白神は目を丸くして驚いた。「もう一度言ってくれ」と苦笑しながら白神は言った。
「この館でずっと暮らしたいんだ。大学は中退する」
瞳を輝かせながらそう宣言する智寛。白神はそれを聞いて思わずベッドからいきり立つ。
「なに言ってるんだ!冗談だろ?」
「まあ落ち着けよキリコ。真面目な話なんだ」
真顔の智寛に宥められた白神はひとまず冷静になって彼の話しに耳を傾けようとベッドにゆっくり腰を落とした。それを確認した智寛は一息ついてから口を開く。
「お前が寝ている間に沙希さんといろいろ話したんだ。彼女、晴さんが亡くなったことで相当ショック受けててさ。ほとんど泣いてばかりだったんだけど……俺そんな沙希さんを見てるとなんだかたまらなくなって……心の支えになりたいって思えたんだ」
「つまり彼女に惚れた。だから傍について残りたいと?」
「茶化すなよ。今までいろんな女と付き合ってきたけど…こういう気持ちは初めてなんだ」
そう語る智寛の表情はいつになく真剣だった。頭を抱えて悩んでいる様子も見て取れる。今まで会って話してきた白神から見てもここまで異性に首っ丈な智寛はかなり珍しい。
しかし白神は腕を組んで少し考え込む。
(こいつ…まさか本気で沙希さんを愛しているとでも?出会って二日で?)
「お前の気持ちは分かったつもりだ。けど大学を中退することはないと思う。とにかく今は一度家に帰って気持ちに整理つけるべきだ」
白神が冷静にそう言った途端に智寛は窓辺に目線を背ける。
「お前がすぐに帰りたいだけだろう。俺がいないと安全に下山できないからな」
「ぼ、僕はそんなこと言ってないぞ!」
長い付き合いの所為か彼に心境を見破られたことに白神はつい声を荒げてしまう。
「なあキリコ、考えてもみろよ…」
気まずい沈黙を遮った智寛は微笑みながら話を続ける。
「この集落には電気もガスも通ってない。はっきり言って不便だ。でもな、下界に比べたらずっと穏やかな暮らしが送れると思うんだ。皆で畑を築いて作物と家畜を育て…それを自分たちの食物として食いつなぐ。時代遅れかもしれないけど自給自足の生活は本来の人間らしい生き方だと俺は思ってた。なにも世間のしがらみに縛られることはない」
話の途中から白神はベッドから立ち上がって窓の外を眺めていた。智寛は彼の背中を目で追って見つめている。
「そのために…折角受かった大学を一年で中退か」
白神は智寛に背を向けながら声を強張らせてこぶしを強く握り締めていた。
「もったいないと思うか?でも俺は自分の道を見つけ…」
「お前はなんでもそつなくこなせるから、そんなことが言えるのさ!」
白神は突然部屋の壁を叩いて怒り出した。
「な、なんだよキリコ?」
智寛は思わず肩をひくつかせた。
学歴、社交性、多数の人脈、どれにおいても智寛は八面六臂な活躍ができる。長年友人としてつきあっていた白神がどんな努力をしても彼にはなにひとつ及ばなかった。自分とは違う人間だからと割り切ってはみたものの、白神は内心劣等感を感じずにはいられなかった。
ずっと胸の内に溜め込んできたことが爆発するように白神は友人を罵倒し始めた。最初はただ驚くばかりでおどおどしていた智寛にも次第に怒りがこみ上げてきた。この話題とは全く関係ない理不尽な暴言まで白神の口から吐き出されていたからだ。
「僕の気持ちなんて考えたことないんだろ!」
「ああ分からないね!話してくれねえもんお前は」
「話すわけないだろ。お前なんか友達じゃない…」
そう言いかけた途端、白神は言い知れぬ虚しさを切実に感じて口を閉ざしてしまった。
「そうかい!ならここで絶好しよう」
智寛は白神の肩を突き飛ばしてベッドに転ばせると、部屋から出て行こうとする。
「おい待てよトモ!」
彼がいなければ下山しても迷子になる。冷静に話をするため彼を止めようとする白神。
すると智寛は扉を開けたところで振り返り、
「山を下りたければ一人で下りろ。じゃあな桐彦」
わざとらしく大きな音を立てて勢いよく扉を閉めた。
愛称で呼ばなかったことから彼の絶好宣言は揺るがないと確信した白神は、抗論のため彼に尋ねることができなかったことを敢えて口に出してみる。
「お前はきな臭いと思わないのか?ここの連中が…」
隆正と晴之の死を悼み玄徳の話は三十分ほどで終わり、静かに夕食は始まってすぐに終わった。大浴場での入浴を終えて床につくまで智寛と白神は一切口を聞くことは無かった。しかも智寛は死亡した隆正と晴之が使用していた客室で眠りたいと玄徳に申請し、意外にも即承諾された。
月夜だけに照らされる暗い部屋で一人ベッドに横たわっていた白神はとある決意を固めた。
(この一件の真相を解き明かすことができれば、あいつの目が覚めるかもしれない。一人で突き止めてみるか…)
その決意を胸に白神は眠ることにした。しかし、昼前から晩までの間熟睡した所為と不安な気持ちに苛まれたため、なかなか寝付けなかった。
翌朝目が覚めたのは午前八時ごろ。白神は睡眠不足のためなかなか起床できずにいたが、また例によって葵、そして今度は雅も加わって二度寝に奇襲をかけてきた。たまらなくなった白神は観念して彩乃が用意した朝食を口にして着替える。どうやらこの二人とはすっかり馴染んで打ち解けたらしい。年齢差が気になる白神ではあったが。
昨晩の喧嘩に反省したのか、白神は部屋を訪ねて智寛に謝罪した。智寛も落ち度を感じてか彼に謝罪して意外にもあっさり仲直りできた。しかしこの館に永住するという彼の意思は固く、「それだけは譲れない」と断言すると沙希のもとへ行ってしまった。
「今は仕方ないな…」
白神は気合を入れるように頬を叩くと部屋から出ようとする。
「白神さまどちらへ?」
部屋の前の廊下を偶然通りかかった玄徳が彼に気がつくと無表情のまま近づいて行く手を阻んだ。その風格からにじみ出る緊張感が白神の背筋に伝わる。
(この人は苦手だ…)
「えっと…ちょっと『教師』の人たちのところへ。授業風景を見学してみたいなと思いまして…へへへ」
白神は目を泳がせながらなんとかアドリブを利かせて対応した。
玄徳が一瞬眉をひくつかせたので白神はようやく気がついた。部屋を出るときは玄徳か彩乃に断りを入れて一人は部屋にいなければならない原則を。おそらく先に部屋を出た智寛は既に許可をもらっていると考えれば白神は本来部屋で待機していなければならない。
「では彩乃を供におつけしましょう。それでもよろしければ許可いたしますが」
玄徳にそう言われた白神は少しの間考え込んでから頷いて交渉成立させた。彩乃が監視役だということは疑いの余地はない。館に二泊滞在していてもまるで信用されていないようだ。それでいて滞在については寛大に歓迎されていることが白神には気がかりだった。
玄徳は下の階まで白神を誘導すると玄関ホールの床を清掃していた彩乃に声をかけて彼の供につくよう命じた。彼女は笑顔で了承すると手の空いていた小百合を呼びつけて掃除の代役を頼む。
「村長代理の話ですと、教師のお二人に御用だとか?」
右手の使用人室が並ぶ廊下の突き当たりまで先導した彩乃は白神と向き合って用事を確認した。相変わらず曇りのない微笑を浮かべての対応だ。
「うん、見学も兼ねて話を聞きたいんだ」
白神が答えると彩乃は「かしこまりました」と会釈すると突き当たりの部屋の扉を軽くノックする。扉越しに子供たちの快活な声が響いているのがわかった。
「なんでしょう…」
部屋から出てきたのは二十代ほどの若い女だった。
「授業中に突然お邪魔して申し訳ありません佐和先生。こちら、旅のお方の白神桐彦さまです」
彩乃は手を指し示して白神を紹介した。
佐和先生と呼ばれたその女は長い黒髪を後ろで一本に結んで前髪を少しだけ両側に残してたらしている。髪の毛一本一本がパサパサに乾ききっているので全く手入れが施されていない状態のよう。大きな瞳は輝きを失ったように曇っていたことから、初見の隆正を連想してしまう白神。何故なら彼女からは全く生気が感じられないからだ。
「教師の佐和です…よろしく…」
木々のざわめきにもかき消されてしまいそうな細い声で佐和は足元を見下ろしながら挨拶した。
「こちらの白神さまが先生方の授業を見学されたいと希望されているのですが、よろしいでしょうか?」
彩乃に尋ねられた佐和は二人に待機するように申し渡すと、室内にいるもう一人の教師に相談して、数分経過したのちに見学を許可した。
彩乃の先導で白神は教室に足を踏み入れる。床が段になっていて履物を脱ぐスペースがあるので彩乃は履いていた黒のハイヒールを脱いだので白神もスリッパを脱ぐ。段を上がったところの床は緑がかった畳で、子供たちは皆座布団の上に正座しており、正座した状態で腹のあたりの高さの長机を並べていた。授業を受けていたのは小学一年生くらいの年代の子供が十数人。二人一組で肩を並べてそれぞれの机に置かれている積み木を積み重ねては崩しているようだ。教室前の黒板に書かれている内容からして算数の授業をしているようだ。
部屋の後ろのほうで白神と彩乃は授業風景を眺めている。気になるのか正座している子供たちがひょこひょこ後ろにいる彼らに振り返ってはくすくす笑っている。目を凝らして顔を確認していくと、やはり女子の割合は高く男子は二人だけいるようだ。
「計算を教えているんですか?」
後ろの机にいた子供がもう一人の教師を呼び止めたので、折を見て白神は興味本位に尋ねる。
「はい…」
それだけ返事をした教師は白神に見向きもせずに子供の相手をしていた。
(なんだかな…)
引きつった笑みの白神が彩乃と顔を見合わせると彼女は、
「彼女は美紀先生です。佐和先生と同じく教師をされております」
と笑顔で自己紹介を代弁した。
美紀先生と呼ばれたその女は茶色がかったマッシュルームカットで彩乃よりも長さが短く枝毛が目立っていた。身長は中学生並みに低くて猫背。佐和と同じく瞳は輝きを失っており表情には覇気がなかった。
三十分ほど授業がつづくと十分間の休憩時間が設けられた。トイレに向かうため教室を去っていく子供が多かったので、白神は前で黒板に書かれた内容を消している二人の教師に話しかけることにした。彼の背中を追うように彩乃もついてくる。
「すみません、ちょっとお聞きしたいことがあるんですけど」
彼女たちは無言のまま手を止めて彼に振り返った。
「今日の深夜一時頃に外へ出て行く人を見かけませんでしたか?」
白神が堂々とその質問を投げかけると彼女ら二人は顔色ひとつ変えずに首を横に振った。後ろにいた彩乃が一瞬片繭をひそめていたことに彼は気がつかなかった。
「お二人はその時間は眠っていたんですか?」
白神が視点を彼女たちに向けた質問を投げかけてみたが、やはり二人は首を横に振るだけで何も言わなかった。
「そのことを証明できる人はおられますか?」
その質問でさすがに嫌気がさしてきたのか佐和が眉間にしわをよせて、
「十時の消灯時間には全員が眠っています。証明できる人物などおりません」
と言い切った。瞳は相変わらず曇っている。
すると白神は愛想笑いで「すみません、お邪魔しました」と最後に挨拶すると軽く会釈して教室から出て行く。彩乃も二人に会釈して彼に続いた。
玄関ホールまでの廊下を歩きながら白神が先に口を開く。
「あの二人はいつもあんな感じ?」
「”あんな感じ”と申しますと?」
彩乃は珍しく目を丸くして尋ねる。
「なんだか無愛想というか…根暗みたいな」
白神は佐和と美紀の第一印象を包み隠さず口に出した。
小さな子供が相手とはいえ口数が少なくて憮然としている大人が人に常識を教えられるのかと白神ははなはだ疑問に感じていた。それ以前の問題でも、この集落の役員は資格も免許も取得していない。下界とは一切縁を切っているのだから当然だ。
彩乃はしばし間をおくとその重い口を開く。
「いえ…先生方はどちらも元々快活で明るい性格なのです」
「そ、そうなのか」
隆正に勝るとも劣らないほど覇気が感じられなかったので白神はその意外な事実に疑惑の念を感じつつ度肝を抜かされた。
彩乃の話によると、佐和と美紀はどちらも死亡した晴之の元妻だったらしく、彼の子供も身ごもったのだ。年齢も近く気さくで魅力的な晴之と話しているうちに二人とも惹かれていった。そんな晴之が突然死亡したと聞きつけた彼女らは大いに悲しみ、今は心を閉ざしてうつ状態に陥っているのだそうだ。蛇足になるが例の眼帯をつけた小百合は隆正の妻の一人だったのだが、二人は村長の意向で無理やり縁談が成立されたのだ。夫婦仲は冷え切っていて会話のないいわゆる仮面夫婦だったらしい。他三人の妻とも同じく三下り半をつきつけられているような関係だったらしい。
その後、白神は医者の菊と管理者の妙。そしてはなれに住んでいる一般の葵と雅のもとへ右往左往して先ほどの教師二人に投げかけた質問を再三に渡り尋ねてみたが、有力な情報はなく二人とも消灯時間には既に就寝していて人が出歩いている気配など全く感じなかったと一点張りに断言した。
ずっと後ろからついてくる彩乃のことがいささか気になりだした白神だったが、足取りは止まることを知らぬまま代表者の沙希が使っているという使用人室へ向かうことにした。
「沙希さん今よろしいですか?」
親切な彩乃が沙希の部屋の扉をノックしてくれた。しかし一向に応答がなかった。
すると隣の部屋の掃除を終えた小百合が偶然通りかかると、沙希は皐月島の村長が手配した生活用品や衣類を取りに下腹部の小屋まで下山している頃だろうと白神と彩乃に告げた。彼女だけでは手が足りないと判断した村長は玄徳を通して智寛に手伝いをさせるよう命じたのだという。
「えと…小百合さん、つまりあいつも沙希さんと一緒に下山したんですか?」
状況が飲み込めない白神は少し興奮気味に小百合に追求した。
「え、ええ……淡路さんは村長に”自分を村の住人として住まわせてほしい”と希望したみたいで。村長は快く了承されたそうです」
晴之の死で代表者に人手が足りなくなったということで新住民の智寛が選抜されたそうだ。交渉の末に利害関係が一致したため急遽決定されたらしい。
(あの馬鹿いつの間にそんな勝手なことを…下りるなら僕にも言ってくれればいいのに)
この場にいない智寛への怒りがこみ上げてくる白神だったが、とある矛盾点に気がつく。
「ふもとに下りようとする人間を狙って狼が襲ってくるんじゃあ…」
「あ…えと、それは…」
答えに戸惑ったのか小百合は彩乃に目で訴えた。
「お二人はおそらく”魔よけの衣”を羽織っているはずですので、山に潜んでいる狼たちは襲ってこないでしょう」
「魔よけの衣?」
彩乃が言った単語を不思議そうに復唱する白神。
村長の玄徳カスミはまじない師としても名高い存在なのだ。彼女がかつて強力な霊力を用いて魔よけを施した衣が二着この村にあるのだという。その『魔よけの衣』を羽織ると狼などの獣が寄り付かなくなり、安全に下山することが可能だということだ。衣は代表者二人のみが管理、使用されることが義務づけられているのだ。
(にわかには信じられない話だな)
現実主義者の白神は『魔よけ』という非論理的な単語に対し否定的な感情を抱いていたが、不足の事態とはいえ居候の身であるが故に口出しはせず自粛することにした。
沙希はしばらく館には戻らないのだと判断した白神は小百合にひと言礼を言うと、今度は労働監督の三人組から話を聞こうと玄関から外へ出て行くことにする。
「知らないわよ」
たまたまテラスにいた純子に話を聞こうと尋ねてみると即答だった。そして迷惑そうな顔で虫を追い払うように手で合図した。近くの椅子でくつろいでいた幸子にも同じ質問をしてみたがやはり純子と同じく知らないの一点張りで目もくれなかった。内心この三人を嫌っていた白神は段々憂鬱な気分に陥ってしまう。
服を土で汚しながらあくせく農作業している一般の労働者たちを傍観するように畑の外で腕を組んで立ちすくんでいる陽子を見つけたので白神は金のわらじでたずねる。
「深夜の一時頃に誰か見かけませんでしたか?」
「いいえ見ませんでしたわ」
「陽子さんはその時間になにをしてました?」
「眠っていたに決まっているでしょう。消灯時間ですもの」
白神の質問に堂々と答える陽子は彼と目もわせずに嫌味がこもった横目で一瞥するだけだった。
しかし白神は彼女が毅然とした態度で質問を否認したことで少しの可能性を見出し、ほんの一瞬だけほくそ笑んでみせた。
(嘘をついたな。なにか理由があるのかもしれない)
白神本人が深夜一時頃に晴之を連れた沙希と出くわしていたところを目撃していたため陽子の証言が嘘だということは明白。彼女の思惑にはまる危険性を頭に入れつつ、白神は敢えてそれ以上は突き詰めず目撃の事実も伏せておくことにした。
「あ、そういえば…」
陽子は何かを思い出したようにふと空を見上げる。
「深夜の二時過ぎに隆正さんが外へ出て行くのは見たわ」
したり顔で語る陽子に白神は驚きを隠せず思わず「え!」と声を漏らした。彼女の言ったことが正しければその時点でまだ隆正は生きて行動していた事実が成立するからだ。
「外で何をしていたか知りませんか?」
始めに質問したときに話してくれればいいものをと内心文句を唱えつつ白神はなるべく愛想よく笑顔でふるまった。
「さあどうかしら?トイレに行くときすれ違っただけで何も見なかったわ。あの人のすることに興味なんてないもの。大方自害する間際に外をお散歩したくなったのかしらね」
陽子は口元に手を添えて高らかに嘲笑してみせた。
隆正は無口で他人と関わりを持たず、衛生面の管理がおごそかで不潔だったため村の女たちから嫌煙されていたと医者の菊を訪ねたときに彼女から聞いていたのだが、よくそれでいて四人もの妻ができたものだと疑問に感じていた。未来を担う子孫を絶やさないために総スカンを食う隆正にも『旦那さま』としての義務があると菊は話していた。
白神は下げたくもない頭を陽子に下げてひと言礼を言うと館に戻る。
館に戻った白神が階段を上がろうとして歩みを進めようとした寸前に背後にいた彩乃がそっと彼の腕に手をまわして止めたので白神は彼女と向き合う。
「どうかした?彩乃さん」
「白神さま。もしや晴之さんは誰かに殺害されたと疑ってらっしゃるのでは?」
彩乃からは普段の笑顔は消えて強張った表情で白神に尋ねる。
「どうしてそう思うんだい?」
引きつった笑みで質問を打ち返す白神。すると彩乃は彼に背を向けて後ろで手を組んだ。
「無礼とは思いましたが、あなたが昨日の午前一時に的をしぼって深夜を徘徊する人物を見かけなかったか皆さんにお聞きになられているご様子なので、もしやその時間に晴之さまが外へ出て行くのをお見かけしたのではないかと……なんらかの経緯で晴之さまの死は自殺ではなく他殺であるとお思いになり、目撃証言から真実を探っておられるのではと」
背を向けたまま淡々と語る彩乃の推理は見事に的中していた。あまりに的確だったので白神は固唾を呑んで圧巻してしまう。
「よ、よく分かったな」
(ずっと傍にいて話を聞いていたんだから当然といえばそうだけど…)
彩乃は白神に振り返るともじもじとして落ち着かない様子で両手を握り締めていた。
「実は私…!」
愛の告白でもするのかという勢いで彩乃はまぶたをぎゅっと閉じながら思わず声をあげたが、途端に周囲に誰もいないか目線をちらつかせると、
「お部屋でお話しましょう」
と言って白神の手を引くと小走り気味に階段を上がって客室まで誘導していく。
彩乃は白神をベッドに座らせると室内をぐるぐる落ち着かない様子で歩き回りながら話した。彼女も晴之の自殺に疑念を持っているというのだ。晴之は彼女が管理者としての責務を全うできず悩んでいたときに相談を受けてくれた恩師だというのだ。仕事の合間を見つけて彼と話すことは多々あったらしく、最近では「生まれてくる子が成長していくのをずっと見守っていたい」と楽しそうに晴之が話していたこともあって、隆正はともかくとして彩乃はそんな晴之が自ら死を選ぶ理由など考えられないと強く訴えた。
普段穏やかで冷静な印象の彩乃がまるで人が変わったように熱くなっていたので、その真剣さが伝わったのか、白神は昨日の午前一時頃に沙希が晴之を部屋から連れ出して外へ出ていたこと。更にその瞬間彼らが偶然に陽子と出くわしていたこと。そして晴之の遺体には殺害によるものと思しき痕跡があったことをすべて告白した。
「そんなことが…」
彩乃はしばらく黙り込んで呆然としていた。半信半疑だった疑惑がじわじわと確信に迫っていくのを感じ取り言葉をなくしているのだろう。
しばらく沈黙が続いて頬に手を添えて考え込んでいた彩乃が、
「では…沙希さんが犯人だと?」
とぎこちない口調で白神に結論を求めた。すると彼は腕を組んで床を見下ろし首を横に振った。
「いや断定はできないな」
陽子の話だと昨日の深夜二時過ぎに隆正が外へ出て行く姿を目撃しているため、彼も容疑者となりうるのだ。嘘の証言についても含め個人的な感情を加えれば白神は下の者をあごで使う陽子の話を全面的に信じているわけではない。しかし隆正を目撃した件について現時点において疑う余地がないのも事実だ。
「僕は晴之さんと沙希さんが出て行く姿を見てすぐに眠ってしまったし…どこで誰が殺害したかまで特定できるのは早いと思う」
加えて殺害方法もあやふやであると内心思う白神。
とにかくまだ情報が少ないため結論が出ないということで話はまとまると、事件解決に協力したいと彩乃が申し出た。しかし、
(この彩乃っていう子…本当に信用していいのか?)
大方の推論を話した白神だったが、今になって彩乃に疑惑の念を感じつつあった。玄徳の命令による監視がまだ続いているのだとしたら後で何を告げ口されるか分かったものではないからだ。
いやらしい不信感を払っておきたい白神は彼女に鎌をかけてみることにした。
「自殺を疑っていたのなら遺体の焼却をやめさせるように説得できたんじゃないか?殺害の証拠を抹消することになるのに」
我ながら嫌味なことを言うものだと自分が嫌になる白神。
「申し訳ありません」
彩乃はなんの躊躇もなく深々と頭を下げる。
「この村で人が亡くなった場合、遺体はすぐに火葬しなければならないしきたりでして…まさか遺体から殺害の事実を判断できるとは思いもよらず…俗世では常識なのですか?」
「いや…常識というか」
彩乃が真剣なまなざしでうがったことを言うので白神は思わず困惑して答えに戸惑っている。
(刑事ドラマの真似事とは言えないけど……死んだ人間はすぐに焼くのか。どうにも出来すぎている気がするけど)
「ま、まあそれはどうでもいい。とにかく僕はこれから玄徳さんと村長さんにも話を聞こうと思ってるんだ」
白神は誤魔化すように頭をかくとあさっての方角を見ながら話題をすり替えた。
すると彩乃は彼の手を両手でそっと握ると目を輝かせた。
「では私がお取次ぎします!村長と話すには村長代理の許可を頂く必要がありますし」
白神は彼女の勢いに負けてしぶしぶ協力関係について了承した。
書斎へ行き玄徳に皆と同じ質問を投げかけてみた白神。しかし彼女からも有力な情報を得ることが出来なかった。白神は遺体を火葬させるように命じた件については敢えて追求しなかった。彼女には一時的に協力してもらうため波風を立たせるような発言に気をつける必要があるからだ。
それから彩乃との交渉の末、玄徳は村長への面会を許可した。
「再度申し上げますが、くれぐれも村長に心痛を増すような言動は謹んで下さいますように」
村長室の扉の前で玄徳は白神に注意を促した。彼は潔く頷いた。
玄徳の先導で部屋の扉が開かれ、白神と彩乃が中に入る。室内は相変わらず薄暗くて閑散としていた。初見に同じく村長はすだれで覆われた部屋の奥で床にふせっているようだ。
病のため床にふせっている村長の姿を除き見ることは禁止されている。面会と言っても顔を合わせないのだから変な話である。
「村長、来訪者の方がお見えになっておりますが…」
玄徳はすだれ越しに小声で耳打ちしている。
「昨日の深夜一時頃に誰かの足音とかお聞きになりませんでしたかと…」
白神の提示した質問の内容が耳に入っているのか定かではないが、玄徳は彼に振り返ることなく屈んだまますだれの奥にいる者に耳を傾けている様子。
「その時間は眠っていたので何も聞かなかったと村長は申されております」
玄徳は扉付近で立っているままの白神に振り返って代弁した。彼は納得のいかない気持ちを胸の内に抱いていた。病気で声も満足に出せない村長にかこつけて玄徳が代弁を誤魔化している可能性も否めないからだ。
「そうですか」
白神はしばらくの間考え込むと、
「余談ですが、山を下りて生活しようとは思わないんですか?狼避けの衣というのをたくさん作れば全員無事に下山できると思うんですけど」
目を細めて無感情にそれを尋ねた。
「それは無理な相談でしょう」
「どうしてです?」
玄徳がすくっと立ち上がって断言したので白神が間髪入れずに問いかける。
すると白神の隣にいた彩乃が辛辣な表情を浮かべて横から口ぞえする。
「村長のまじない師としての能力は三年前から衰えておしまいに…もう魔よけの衣はお作りにならないのです」
白神はとりあえず納得した素振りで「それならしょうがない」と苦笑して言ってみせる。やはり霊力などという神秘的な能力が存在するとは信じられないのだ。
そのとき扉からノックの音が響いた。
「「失礼します。彩乃ちゃんはいますか?」」
扉越しに聞こえたのは沙希の快活な声だった。どうやらふもとから帰ってきたようだ。
「白神さまは私に任せてあなたは沙希を手伝ってきなさい」
玄徳にそう命令された彩乃は途端に嬉しそうに微笑むと「かしこまりました」と弾むような声で部屋を後にした。扉越しに声が聞こえるが、沙希と楽しそうに笑い合っているようだ。年齢が近いので仲が良いのだろうと思い微笑ましくなる白神だった。
玄徳の話によると沙希は代表者に成り立てで未熟なため小屋から回収してきた物をどう取り扱っていいのか分からないので館の管理者である彩乃を訪ねてきたということだ。
「さて白神さま、他に御用がなければ部屋にお連れしますが」
玄徳にそう促された白神は少し考え込む。
「あの、あいつ…連れの淡路が部屋に戻ってきたら待機するように説得しますんでまた出歩かせてもらえませんか?」
まだ情報収集に努めたい白神は玄徳にそんな相談を持ち込む。彼女はその提案に表情をにごらせると人差し指を彼に見せつけながら口を開く。
「いいでしょう…しかしくれぐれも余計な詮索はされぬようにと村長のお達しがございましたので、どうかご理解頂きたく存じます」
彼女は、村長は未だに白神を警戒している様子である。しかしその反面同じ立場の智寛が集落の住人として歓迎されている上に急遽代表者に任命されている現状が白神には不思議だった。ジェラシーを感じている訳ではないが信頼度の差が激しいことに不満を感じてしまう。
(僕が晴之さんの死因を調べていることが気に入らないのか?)
玄徳に部屋まで誘導された白神はしばらくベッドに座り込むと無地の壁紙が広がっている天井を見上げながら頭の中で思考をめぐらせる。
するとしばらくして沙希を連れた智寛が部屋に戻ってきた。
「よおキリコ!実は俺さっきまで…」
「聞いてるよ。代表者になったんだろ。で、沙希さんと一緒にふもとの小屋まで下りてた」
何故かご機嫌な様子の智寛を途中で遮り、事前に事情を把握していた白神が無表情で無感情な口調で代弁する。
「なんだ知ってたのか?」
声を弾ませ浮かれているままの智寛の軽い調子に白神は思わずはらわたが煮えくり返りそうな気分をなんとか抑止させる。
「下りるなら僕にも言ってくれればよかったのに…もう帰りたいんだよ」
白神がそんな皮肉を漏らすと智寛の隣に立っていた沙希が腕にかけていた白い衣を持ち上げて見せつけた。
「村長さまがまじないをかけられたこの衣を羽織らないと狼に襲われちゃうのよ?」
真剣な表情でそう語る沙希だったが白神は片繭をひそめて「ふうん」と一声もらすだけであった。
一息ついた白神は智寛に視線を戻した。
「ところでどうして彼女をここに?」
「ああ…ちょっとな」
「ちょっと?」
智寛は沙希と顔をあわせて微笑を浮かべていた。彼女のほうも「そうね」と微笑みながら答える。そのわずかなやり取りだけで対話が成立しているので白神が入り込む隙間がなかった。出会って二日足らずでねんごろになっているのだから当然だ。
一旦気を取り直した白神は智寛に部屋で待機してほしいと交渉を持ちかけた。智寛は山道の往復で疲労していたためこれからベッドで休む予定だったのでなんの躊躇もなく了承した。
「それで沙希さん、二人だけでちょっと話したいことがあるんですけど」
「別にいいけど?」
白神の申し出に沙希は不思議そうに答えた。するとベッドに大の字になって聞いていた智寛があからさまに不機嫌面をみせつける。それに気づいていた白神だったが無視して彼女を部屋の外まで誘導した。
白神は吹き抜けの手すりに両手をかけて階段を見下ろす。後ろにいた沙希は壁にもたれかかりながら彼の背中を見る。
「ずいぶん親密になったんですね」
白神がそう切り出すと沙希はくすくすと口元に手を添えて苦笑した。
「そんな親密ってほどでもないよ」
「あいつが何か面白い話でも?」
「まあね。いろいろと…励ましてくれたりね」
沙希は頬を赤く染めながら微笑を浮かべている。
昨日晴之の遺体にすがって彼の死を嘆いていたことが嘘だったかのように沙希の態度は明るかった。智寛に励まされたにしてもその立ち直りの早さに白神は不信感を抱く。しかしそのことは敢えて追求せずに、「そうですか」と気のない受け答えをするのみだった。
「話ってそのことだけ?」
沙希がそう切り出したので白神はようやく彼女に向き直って視線を合わせた。
「ひとつ聞きたいことがあるんです」
白神が質問を求めると沙希は「なに?」とひと言尋ねた。
彼は晴之が死亡する前の午前一時に沙希が晴之を部屋から連れ出して外に出て行くところを目撃した事実を当事者の彼女に告白した。そのとき起きていた陽子と偶然鉢合わせていたことも含めて。
「あんな夜更けに二人で何をしていたんですか?」
白神が問い詰めると沙希は一瞬だけ目を見開いて驚いた表情を見せるとふっと微笑を浮かべた。
「あの夜はなかなか眠れなくてね…なんだか晴之さんと話したくなって、迷惑とは思ったんだけど彼を起こして夜風に当たりながら庭を散歩していたの」
彼女は話を続けるうちに次第に目を伏せていく。
「しばらく話してたら眠気が出てきて、館に戻ると彼が部屋まで見送ってくれたわ」
「そのとき晴之さんが部屋に戻っていく姿は見ましたか?」
「いいえ。私の部屋で別れたあと、私はすぐに眠ったもの」
晴之の寝床は二階の客室で沙希の寝床は一階の使用人室なので、見送られた使用人室で別れてから彼女がすぐに部屋で眠ったのなら晴之のその後の行動など知る由も無いので、沙希のこの証言は筋が通っている。
「なるほど…」
(素直に認めるのか……どちらにしろあの人の嘘は確定だな)
「君がなにを言いたいのかは分かるわ」
白神が腕を組んで考え込んでいると沙希が彼の肩に手を添えて微笑む。
「あの人ね、子供のころから下界に興味を持ってて…」
彼女と晴之が意気投合し交際し始めた頃に彼が「下界で暮らしてみたい」と話していたそうだ。その話題で盛り上がっていたところを玄徳に聞かれ、晴之は彼女から激しい非難を浴びたそうだ。何度かそのことで二人が抗論していたことは住人の全員が知っているとのこと。
「あの夜、私と別れてから興味本位で林のほうに行ったんじゃないかな」
その不注意で狼に襲われたのではないかと彼女は言いたいようだ。
(そうだとすれば魔よけの衣を羽織っていかないのはあまりに不自然じゃないか?遺体には羽織っていた形跡がなかったし二着とも無事にある。そもそもこの人の証言事態が殺害を隠蔽するための嘘なのかもしれない。でもあの夜は隆正さんも外に出ていた……この両者のうち一人が殺害したとしても動機はなんだ?晴之さんがなにか恨みを買うようなことでもしのか?)
考えがまるでまとまらず頭を抱えている白神。すると沙希が彼に背を向けた。
「桐彦くん…だったよね?」
「え、あ…はい」
珍しく下の名前で呼ばれたので白神はあわてて首を縦に振った。
「そろそろいいかな?智寛くん待たせてるし」
沙希は困惑した表情で白神を促した。
このまま彼女を引き止めていても拉致があかないと判断した白神は頷いた。
「じゃあまたね桐彦くん」
彼女は笑みを浮かべたまま白神に一言別れを告げると左手を伸ばして扉を開き、智寛が待っている客室に入っていった。
白神はこの集落の人間を誰一人信用していない。そしてこの館に永住すると決めた智寛に対しても遂に当てにするのをやめた。隆正の自殺と他殺と思われる晴之の死因について自分以外の人間が関心もなく平然としているからだ。その不信感だけが彼の足をつき動かしているようだった。しかしずっと思考をめぐらせているのも疲れるので息抜きがてら彼は気まぐれにはなれのほうに足を踏み入れることにした。
館から渡り廊下を伝っていく。はなれと言ってもほとんど一軒家に近いほどの二階建ての建物である。一階は六十歳以上の老人が利用しており体の不自由な者も混じっている。二階は六十歳以下の一般が雑魚寝するためだけの寝室。一階の奥には小さな台所があり管理者である妙の縄張りとも呼ばれているらしい。
「はあ……」
台所以外に部屋割りがされていないので、一階は天井を支える太い柱が点々と立ち並んでおり、見渡す限りぎっしりベッドが並べられている。まだ昼間だというのに老婆たちが床についていたり楽しそうに会話している。足の不自由な若い女が二人ほどベッドの上で服の裁縫を手作業で行っていた。
木造の内装と穏やかな雰囲気が和むようで白神は立ちすくんだまま呆然としていた。
「驚いたかい?」
台所での作業を終えた妙が歩み寄ってきた。
「ここにいる人たちは?」
視線を老婆たちに向けたまま白神は横にいる妙に尋ねる。
「体の不自由な人や働くことができないお年寄りたちさ。他はほとんど畑やその他の持ち場に行ってる」
時々だが医者の菊も往診のためここに訪れるので、彼女とよく話をするそうだ。
「なにか揉め事とかはないんですか?」
白神が興味本位に尋ねてみると妙は首を傾げる。
「揉め事?」
「一般の人の人数ほうが多いのに小さいはなれで雑魚寝なんて…変じゃないですか?」
「ああ、たまに意見するのはいるね。例えば労働監督の三人が当時一般だったときが一番うるさかったんじゃないかね」
妙は気持ちよさそうにそんな逸話を話した。聞いていた白神は腕を組みながら頷く。
(あの三人ならやりそうだな。役員にこっそり嫌がらせしてたりして…)
「あ!揉め事といえば村長と村長代理が一度だけ」
ふと思い出したように妙が頭上を見上げたので白神はすかさず、
「どんなことで?」
と質問すると、妙は彼に耳打ちする。
彼女の声は小声だったがよく聞き取れた。三年前、杖をつきながらだがまだ屋敷を出歩くことができていた村長がこんな提案を玄徳に持ちかけたのだ。『そろそろ山を下りて町で暮らしてみないか』と。玄徳はその意向を完全に否定し、二人の間に考え方の相違と溝が生まれた。しかしとうとう村長のほうが折れてその提案は可決されなかったそうだ。
(なんだかあっけない話だな。どうして山での暮らしにそこまで固執するんだか)
白神はふっと息をはくとまぶたを半開きにさせた。
ふと目を凝らしてみると現在各ベッドにいる老婆は総勢十人ほどで、まだ空いているベッドがいくつかあった。
「おじいさんはいないんですか?」
一階のほぼ全域を埋め尽くすように並べられたベッドを眺めていてもやはり老婆か還暦以下の女しかいないのが気になった白神がその質問を投げかけると、妙は不思議そうに首を傾げる。
「なんだいその”おじいさん”ってのは?」
「は?」
妙がその単語の意味を理解できないことに白神はしばらく絶句していた。なんとか冷静を取り戻して男の年寄りはいないのかと言い回しを変えて妙に再度尋ねてみたが、どうやらこの集落で数少ない男は若いうちに早死にする例がほとんどのようで、男性が長生きすることはなく『おじいさん』という単語を聞くこと事態珍しいみたいだ。
男性が長寿する概念が存在しないということをようやく理解できた白神だったが、やはり納得がいかず妙と噛みあわない問答をしばらく繰り返していた。
「妙さん、今ちょっといいですか?」
すると、裏庭に出て行ける奥の扉を開いて走ってきた葵が白神の後ろからひょっこり顔を出した。
「ちょっと待ってよ葵ちゃん!」
すると葵の後を追ってきた雅が焦った様子で彼女の腕を掴む。
なにやら状況を察したのか妙は腰に手をあてながらふっと笑みをこぼす。
「どうしたんだい?」
「これを見てください」
眉間にしわをよせて不機嫌そうにしている葵は手にしていた青い針金ハンガーを妙に渡した。見るとハンガーは変形して針金の筋がひし形のようになっていた。
妙はため息を吐くと両手をあげてみせた。
「やれやれ…折角ふもとまで調達してもらった物をおもちゃにするとはね。一体なんの遊びに使ったんだい雅?」
追い討ちをかけるように葵は鋭い目つきで雅を睨む。
「私じゃないもん!見つけたときにはこうなってたんだよ」
雅は必死になって妙のエプロンを掴んで彼女に弁解する。
「あんた以外に誰がこんな馬鹿なことするっていうの!」
葵がとうとう声を荒げて確信をついたように雅を叱りつけると、笑いのつぼに入ったようで妙は高らかに笑った。外野で傍観していた白神はむしろ葵の豹変ぶりに唖然として半笑いしている。誰にも理解されず挙句に嘲笑された雅はすっかりすねてしまい、そっぽを向いて口をへの字に曲げると溢れそうになる涙をためていた。
すると白神は何か気になる点を見つけたようで、妙が手にしている変形した針金ハンガーを凝視すると葵に目線を向ける。
「葵ちゃん、このハンガーは雅ちゃんが持ってた訳だ」
「う、うん…」
怒鳴り声を聞かれていたのが急に恥ずかしくなったようで葵は赤面しながら白神と目を逸らして頷くだけだった。
「でも曲げたのは私じゃないもん!」
すると涙を溜めて潤んだ瞳の雅が前のめりになって白神に弁解してきた。その表情はいつになく真剣で普段のはねっ返りな印象が消えていた。
雅の話によればこの針金ハンガーは一昨日館前の物干し竿にかけたままとり忘れたものだったらしく、何故か昨日から紛失していて探していたのだが今日庭園を散策していると芝生に落ちていたのだという。彼女が見つけて拾ったときには既に変形していたので、手に持っていた瞬間をたまたま目撃した葵は普段おてんばな雅がいたずらをしているのだと疑ったらしい。
何か気づいたようで白神は少し考えてから葵に目を向ける。
「僕は雅ちゃんがやったんじゃないと思うよ」
白神が率直な意見を述べると先ほどまですねていた雅が急に笑顔を取り戻し白神の腕に抱きつく。その瞬間に葵は目を見開いて「あ!」と声を漏らした。
「お兄さんは私の味方なんだね」
調子が良くなった雅はわざと葵を見てにやつく。
「だ、だめだよ!その子を甘やかしちゃ…」
葵が焦ったようにおどおどした口調になって白神の服の裾を引っ張る。
「でもさ、雅ちゃんがハンガーを曲げて遊んでいるのを見たのかい?」
白神が真顔でそう尋ねると葵は困惑するばかりでぐうの音も出なかった。そして身を震わせて悔しそうに雅を睨むと「仕事に戻る」とだけ吐き捨ててその場から去っていった。その後姿に向かって雅がまぶたをずらしてアカンベする。
「はっはっは!へそ曲げちまったよ」
傍観していた妙は高らかに笑うと台所へと戻って行った。「ありがとね」と小声で白神に告げた雅もはなれから出て自分の持ち場へと戻っていく。
白神は手近にある誰もいないベッドに座り込むとあご元を撫でた。
(晴之さんを殺害した犯人はおそらく沙希さんだ。殺害方法もなんとなくだけど想像できる。殺害が行われた後に部屋を出た隆正さんが彼女に手を貸して遺体を村の敷地外まで運んで狼に襲わせた……あの夜、沙希さんが晴之さんを外に連れ出していたことは紛れもない事実。隆正さんがその一時間後に外へ出ていたという目撃談が真実だと仮定すれば理論上は実行可能……でも動機はなんだったんだ?あくまで僕の中では好印象だったあの晴之さんは同室の隆正さんと、妻の沙希さんの両者から恨まれていたのか?それとも……)
夢中になって考え込んでいるおかげで白神は隣に座ってきた人物の気配にようやく気づいて肩をひくつかせた。
「な、なんだ彩乃さんか…」
膝をきちんとそろえて背筋を伸ばしている座り方は実に美しい姿だった。彩乃は白神と顔を合わせるといつもの笑顔で会釈した。
「さきほどからお呼びしていたのですが、夢中になっておられるので」
「ごめん…全然気づかなかった」
白神は頭をかきながら引きつった笑みを浮かべて彩乃に頭を下げる。
彼は昔から何かに夢中になると一切周りが見えなくなる傾向に陥る癖があるので人の話を聞いていないことが稀にあるのだ。この性格のおかげで人生において何かしら損をしているのだが彼にはその自覚がないようだ。
彩乃は首を横に振りながら申し訳なさそうに謝る白神に「いえいえ」と言うと、くすくすと口元に手を添えて笑った。白神のどこか抜けている性格が面白かったらしい。
白神は少し動揺しながら、
「僕になにか用だった?」
と誤魔化すように笑って言うと彩乃は彼が座っている位置から少し離れてなるべく身体が向き合うようにして座り直す。
「あれからなにか分かりましたか?」
「大体の目星はね」
「本当ですか!」
彩乃は目を輝かせる。
「でも動機がわからないんだ。彩乃さん、晴之さんが誰かに恨まれていたことはない?」
白神は敢えて容疑者と思われる二名の名前を挙げなかった。
彼に尋ねられた彼女は人差し指をあご元に添えながら少し考え込む。
「……それはないと思います。もちろん私自身もですよ?晴之さんはとても誠実で気さく上手なお方で、皆から慕われる存在でした。誰かに恨みを買っていたなど考えられません」
(そういう人はごく一部の人間から疎まれたりすると思うけど…)
「なら隆正さんについてはどうかな?最近なにか思いつめていたりとか」
質問を切り替えて彩乃に尋ねると彼女は両肘を掴んで深刻に悩み始めた。
「隆正さまですか……思いつめておられたのでしょうか…?大変無口なお人でしたので村長代理以外の方と話されることはなかったと記憶しております。僭越ながら小百合さんともあまり会話がなかったご様子で……孤独に苦しんでおられたのかも」
「なるほど」
(ま、あの人の場合もともと自殺志願者みたいな目をしてたしな。なに考えてるのかよく分からなかったし、初対面でも明らかに変人だと…)
すると白神は片繭をひそめて足元を見下ろすと顎元をなでた。
(変人……考えが分からない……?)
彼はなにかに気づいたように彩乃に目線を向けた。
「あ、あの何か…?」
彩乃は目を丸くして彼の視線に釘付けになると途端に頬を赤く染めて目を逸らした。
(待てよ……この子は妙なことを言ってたな。確か妊婦は決められた年に男子を二人産まなければならないとか…男子は年内の出産で二人以上生まれることはないだとか訳の分からないことを……この子だけじゃない。よく考えてみれば妙なことを言う人ばかりじゃないか。いやそれ以前にこの皐月島にきてからずっと奇妙なことが続いている)
白神は皐月島に上陸してからのことを思い返してみた。
過疎化が進んで忘れられた島 よそ者を山に近づけない村人 立ち入り禁止の看板
女ばかりの集落 村と呼ばれる古風な洋館 自給自足 一般と五つの役員
三年前から人前に出ない村長 村長代理 徹底された統制 ふもとからの支援
代表者以外の下山は禁止 魔よけの衣 下山する者を襲う狼 他殺と自殺 旦那さま
俗世に興味を持つ者 方針の食い違い 男は早死にするジンクス 死人はすぐに火葬
「白神さま?…お加減が悪いのですか?」
白神はかれこれ十分以上空を見つめて黙りこんでおり、膝元に置いていたこぶしを震わせていた。
彩乃が彼の肩を揺すって声をかけたのでようやく白神は我に返った。
「彩乃さん…今すぐ玄徳さんと話をしたい」
時刻は午後三時を回っていた。外で農作業している者たちは時折小休憩をはさみながら働いている。妙が夕食の下ごしらえをしているようで、はなれのほうからもくもくと煙が立ち上っているのが見えた。子供たちは裏庭で駆け回っており、他の皆はまだそれぞれの持ち場で仕事に励んでいる。
話がしたいと白神の申し出に玄徳は顔色一つ変えず素直に応じた。彼の希望で沙希が呼ばれて彩乃も含めた四人は村長室の扉の前に集合していた。どうやら白神はこの部屋で話をしたいらしい。玄徳は彼の考えを察知して自らこの部屋への入室を許可した。
「村長さんに入室の許可をもらわなくていいんですか?」
玄徳がなんの躊躇もなく三人を部屋に引き入れたので白神がそう尋ねたが、玄徳はなぜか寡黙のまま返事をしなかった。
相変わらず薄暗い部屋に四人は足を踏み入れ、最後に入った彩乃が扉を閉めて部屋の後方で待機している。憂いに満ちた表情をしている沙希は彼女の隣に寄り添う。部屋の中央で玄徳と白神は顔を合わせた。
「して、お話というのは?なるべく手短にお願い申し上げたいのですが」
玄徳は腹部のあたりで両手を組むと無表情のまま白神に尋ねる。
彼も無表情になって口を開く。
「晴之さんが亡くなった原因について話があります」
「ほう…原因というのは?」
玄徳は腕を組んで少し笑みをみせた。その態度に白神は片繭をひそめる。
「彼は狼に襲われる前に死亡していた可能性があります」
「どうしてそんなことがお分かりに?」
白神は晴之の遺体にあった外傷について細かく説明した。
「晴之さんは殺害されたんです。そこにいる沙希さんに」
彼は後ろにいた沙希を指差し、彼女は玄徳と彩乃の注目を浴びて肩を引くつかせた。
一瞬だけ動揺した沙希は一呼吸置いて平静を装う。
「変な冗談はやめてよ桐彦くん。私は彼を愛して…」
「あなたは黙っていなさい」
玄徳は鋭い目つきで沙希を睨みつけて話を遮った。彼女には逆らえないようで、沙希はしぶしぶ口を閉ざして顔を背けた。隣にいる彩乃はまるで動じていないようだった。
玄徳が白神に向き直ったので彼は話を再開させる。
「僕は昨日の午前一時頃に、晴之さんを外に連れ出していく沙希さんの姿を見かけました。そのとき陽子さんが偶然二人と鉢合わせていた。そうですよね?」
陽子の名前があがった瞬間に沙希は唾を飲み込んだ。彼に問いただされた沙希は声を震わせ「ええ」と言って頷く。
「沙希さんはこの事実を認めました。まずこのことを覚えておいてください」
白神は玄徳に同意を求めると彼女は深く頷いた。
「沙希さんは『眠れないので少し話したい』とでも言って館前の庭まで晴之さんを連れ出した。そして彼が背を向けている隙を狙い、あらかじめ隠し持っていた刃物で晴之さんの背中を突き刺した。重症を負い背中から出血し弱ってしまう彼だったが、苦痛にもだえながらもしばらくは動けたはずです。彼が誰かに助けを求めようと大声をあげてしまえば皆が起きてたちまち大騒ぎになる。その事態を恐れた彼女は咄嗟に近くにあった物干し竿に掛けられていた針金ハンガーを手に取り、輪になるように変形させると衰弱しかけている晴之さんの首にハンガーを引っ掛け…右手で背中を押さえながら左手で首にかけたハンガーを引き首をしめた。このとき、流血で染みこんだため晴之さんの遺体の背中には指紋までくっきりと右手の手形が残っていたんです」
そこまで語る白神。すると後ろにいた彩乃が「よろしいですか?」と言って発言の許可を求めたので玄徳が手で合図した。
「晴之さまは沙希さまよりお身体が大きい男性です。女性の力だけで渓流付近まで運ぶのは困難かと」
彩乃のもっともな意見に沙希も「そうよ!」と力を込めて言い切った。しかし白神は全く動じることはなく、無感情な口調で話を続ける。
「遺体を運ぶための共犯者がいたんです。陽子さんの証言で、晴之さんと沙希さんが表に出た一時間後に隆正さんが外へ出ていたことが分かりました。沙希さんと隆正さんは魔よけの衣を羽織って晴之さんの遺体を渓流の岩盤まで運んで館に帰り、山に潜んでいる狼に遺体を襲わせた。あくまで晴之さんは狼に噛み殺されて死んだと皆に思わせるため」
沙希は何も言い返す言葉が見つからず、俯いていた。
すると玄徳が一笑に付すように苦笑いする。
「もし、あの子が左利きだからという理由で右手の手形が残っていたとおっしゃるのであれば他の者が犯人である可能性もありますよ?左利きの人間は一般の中にも何人かおりますので。まあ、本当に殺害の痕跡があったらの話ですが」
遺体は既に火葬されているので証拠はない。
(骨になるまで焼けば痕跡が消える…でも)
「いいえ。決め手は陽子さんが言った嘘と真実の証言です」
「陽子の…嘘と真実の証言?」
玄徳は首を傾げて後ろに立っている沙希にふと目線を向けたが、彼女にも白神の発言の意味が分からない様子で同じく首をかしげている。
「沙希さんを除く役員の皆さんと、はなれで寝ている葵ちゃんと雅ちゃんに僕は同じ質問をしました。『昨日の午前一時頃に誰か見かけたか?』『その時間は眠っていたのか?』とね。皆、眠っていて誰も見かけていないと答えていましたよ。だから僕は驚きました。あの夜に二人と鉢合わせていた陽子さんが『知らない』と嘘をついたからです……僕の推測では、陽子さんは晴之さんを殺害する計画を知り沙希さんに手を貸した。そして僕があの夜のアリバイを尋ねたときに彼女は独自の判断で気転を利かせて沙希さんの犯行を隠蔽するために嘘の証言をした。僕があの時間にホールの様子を目撃していたなんて夢にも思わなかったんでしょう。だから嘘の証言が通用すると考えた。そして陽子さんは『隆正さんが二時頃に外へ出て行くのを見かけた』と事実を話した。隆正さんが共犯だったとは知らなかったため包み隠す必要性がなかったからだ」
白神がそこまで言い切ると、玄徳は彼に背中を向けてぐうの音も出なかった。
しばらくの間沈黙が続く。
「沙希…こちらへ」
真っ先に切り出したのは玄徳だった。背を向けたまま名前を呼ぶと沙希は「はい…」と辛辣な表情を浮かべて返事をするとおぼつかない足取りで玄徳の傍まで近づいた。
「あなたが晴之を殺めたというのですか?」
玄徳は背後まで近づいた沙希に振り返ると無表情のまま彼女と目を合わせた。咎められている状況に沙希は怯えながらも深く頷く。
「今のお話の通りです…村長代理」
沙希は口元を震わせながら潔く自分の罪を認めた。
そんな彼女の肩に手を添えた玄徳は白神に目線を向ける。
「どうでしょう白神さま。この子は罪を認めたことですし、この村のおきてに従いしかるべき罰則を与えるということで…」
後ろにいた彩乃が白神に寄って来て部屋まで誘導しようとしたとき、彼は断固としてその場を動こうとはしなかった。
「まだ彼女から殺害の動機を聞いていません」
白神は眉間にしわを寄せて話を終えようとする玄徳に意見した。
「夫婦仲というのはときに複雑なもの。恨みを買うほどの揉め事くらいありましょう」
玄徳が愛想笑いで誤魔化そうとしているのを察知したのか、
「恨もうが敬おうが…隆正さんと晴之さんの二人はどちらにせよあの夜に死ぬ予定だった。違いますか?」
白神は間髪入れずに玄徳だけに目線を向けて言い放った。
そのとき、隣にいた彩乃が一瞬だけ睨んでいたことに彼は気がつかなかった。
「それはどういう意味でしょう?」
首を傾げる玄徳。
白神は前まで歩くと玄徳と向き合って彼女を指差す。
「今回の一件はあなたの計画の一部に過ぎないということです。玄徳ツタエさん」
「計画の一部?」
玄徳は片繭をひそめて尋ねた。白神の話は続く。
「女ばかりの集落……どうしてここまで男が少ないのか…何故男は長生きできないのか理由が分かりました。”男は三十歳までに十人の子供を妻に産ませなければならない”というおきて。僕らがこの屋敷を訪れた日に晴之さんと沙希さんの間に生まれた子供が丁度十人目だった。必要な人数を出産できたから始末したんです。すべてはあなたの指示で沙希さんに晴之さんを殺させ、隆正さんに毒薬を飲ませた。ここには三十歳以上の男は存在しない。あんたは今回のようなことを何年もくりかえしてきたんじゃないのか?」
白神は次第に興奮しはじめて口調が荒くなっていく。
「なにを根拠にそのような世迷言を」
玄徳は横目で白神を見ながらふっと嘲笑うように鼻で笑った。その態度に白神は火に油を注がれたようにますます声を荒げはじめる。
「あんたは男を恐れている。だから僕たちを二人一緒に行動させず、一人は部屋で待機させるか監視役をつけた」
玄徳はもう何も言わない。白神は前のめりになって彼女を睨み怒鳴り続ける。
「年内の出産で男子は二人しか生まれないんだったな……それを聞いたとき意味が分からずかなり混乱したが、考えるまでもない…いや考えたくなかった!だからこればかりは言わずにいられない!」
白神は息を切らしながら玄徳に切迫して近寄った。
「二人以上男子が生まれた場合はどうしてきたんだ…?」
すべてを把握している所為なのか彩乃と沙希の二人は目を伏せたまま一言もしゃべらない。
今にも暴れだしそうなほど興奮している白神を嘲笑うかのように玄徳は微笑を浮かべる。
「ふ……まったく勘の良い男性ですね、あなたは」
その瞬間、白神は彼女に殴りかかろうとした直前に彩乃と沙希が後ろから彼の両脇を押さえて動きを封じた。
「離せ!」
白神は二人に腕を掴まれて必死にもがいているがなかなか逃れることができない。彼は動きを止めて鋭い目つきで玄徳を睨む。
「生まれたばかりの子供を殺して男女の割合を調整してるんだな……こんなことが許されると思っているのか!生まれたての赤ん坊にまで手にかけるなんて…!」
「暴言を吐くのはあなたの勝手だけれど、せめて理由を聞いてからにしてちょうだい」
「理由だと?」
玄徳は取り押さえられている白神を傍観しながら手近な椅子に腰掛けると、
「私は幼少期に奴隷として扱われていた…」
この皐月島の山中に集落を築く以前の過去を話しはじめた。
かつてこの村には女を奴隷として扱う風習があった。男たちは畑仕事を彼女たちに任せて昼間から酒をたしなみ、遊び呆けていた。仕事を終える刻限になると、男たちは疲労困憊の女たちを無理やり一箇所の牢に閉じ込め、自分たちの半分にも満たないごく少量の食料のみを与えた。意義を唱えるもの、仕事を放棄しようとする女がいれば容赦なく折檻。身体を痛めつけレイプする。子供でも容赦は無い。しかし男子に生まれた子供は丁重に扱われ、育てられた。ただ女に生まれたために奴隷扱い。その理不尽な現状に女たちは耐え切れず、ついに自我に目覚めた。夜間に決死の思いで牢屋から脱出し、酒に酔いつぶれ館で眠っている男たちを殺していった。彼らは皆資産家だったらしく莫大な遺産を持っていたため、その遺産を資金にして女だけの集落として旗揚げした。そのときの首謀者が玄徳カスミだったのだ。彼女は村長として皆を守るために誓いを立てた。必要時以外は村から外へ出ない。なぜなら、下界にはまだ野蛮な男がいるかもしれない。誰にもこの村の存在を知られてはいけない。
『男を増やすなかれ、男は悪魔の申し子なり』
と孫のツタエやその当時の子供に語り継がせたのだ。しかし村の存続のため子作りするにはどうしても男が必要になる。そこで玄徳カスミは各地から貧困に苦しんでいる身寄りのない男を探し、必要な人数だけ館に招き入れた。将来の子づくりに必要なだけの男子と女子を女に産ませるためだ。そして用済みと判断したときに殺す。そうやって女だけが生きながらえるような体制を考えたのだ。
そこまで話を聞きいていた白神は愕然としていた。彩乃と沙希による拘束は気がつくと解かれている。
「奴隷として扱っていた男たちを憎んでそれで……いや、でもそれはあんたたちのエゴだ!昔ひどい扱いを受けたからって罪のない子供まで…」
過去のしがらみに囚われている玄徳の話は、白神の焼け木杭に火をつけるには充分過ぎるものだった。
「あなたには分からないでしょうね」
脱力している白神の言葉を遮って玄徳は言い張った。
「私たちはただ静かに暮らしたいだけなのです。しかし村長はこともあろうに『ふもとで暮らそう』などと恐ろしい提案をなされた。下界には野蛮な男たちがはびこっているというのに」
玄徳は握っているこぶしを震わせながら強張った表情をみせる。
この話で白神ははなれで妙から聞いていた三年前のことについて思い出す。
(三年前…病気になって人前に出なくなったタイミングと重なる)
「その村長は奥にいる”人形”のことですか?」
白神は部屋の奥にかかっているすだれを指差した。玄徳は彼の言動に思わず笑みをこぼした。
「やはり気づいておられましたか」
玄徳はすだれを引き上げてベッドを見せた。布団をかぶっていたのは人ではなく白いマネキンだった。
それをみた白神は驚愕しながらも不適に微笑む。
「なるほど。口封じのために村長を殺し病に犯されていることにして…皆には館に留まるように告げた。あくまでそれが村長の意思だと思わせるように代弁」
「さすがですよ白神さま。晴之もそこまでは見抜けなかった」
玄徳は激励の拍手を送る。しかし白神は彼女の言った意味が理解できなかった。
「晴之さんが?どういうことだ」
「男を増やさないための措置については女だけの秘密。本来晴之は隆正同様に毒薬を飲む予定だった。もちろん彼らにはあれが毒薬だとは言っておりません。村長のまじないがかけられた薬ということにして適当な理由をつけて飲ませるようにしていたんですが、あの子はそのことに勘づいてしまったのでやむを得ず…」
玄徳はまるで晴之の死に心を痛めているように辛辣な表情を見せる。
白神は気になっていた質問を投げかける。
「よく隆正さんが遺体を運ぶのに手を貸したものですね」
「隆正は私に忠実な子でしたので、やれと言えば従います。晴之は集落での平穏な生活を乱す恐れがありましたので、口実はいくらでもありました」
「ところで魔よけの衣というのは本当に効果のある物だったんですか?」
「まさか。飼いならした狼に衣を着た人間を襲わないよう躾けたんです」
(やっぱりまじないなんてデタラメか。狼を飼いならすなんていうのも凄い話だけど)
すると玄徳は懐からリボルバー式の黒い拳銃を取り出し、白神に銃口を向けた。
「そろそろお話は終わりです」
「な、なんでそんなものを持ってるんだ!」
白神は肩をひくつかせて退きながら拳銃を指差した。
「十年ほど前に山道で落とされた方がおりまして」
玄徳は撃鉄を起こして引き金に指をかけながら微笑む。
(まさか切り抜きの記事に書いてあった刑事の…)
「あんたたちのしていることは明らかに犯罪行為だぞ!」
白神は自分に向けられた冷たく輝く銃口に恐怖心で怯えながらも玄徳を激しく批判する。しかし彼女が耳を傾けることは無かった。
「残念ながら、ここではあなたが咎人となるのです」
そのとき、一発の銃声が屋敷内に響いた――。
親元を離れて暮らしていた二人の青年の捜索願が警察に提出されたのはその半年後だった。それから七年という年数が経過した現在、大学一回生の淡路智寛(当時十八歳)とその友人である予備校生の白神桐彦(当時十九歳)の消息は未だに不明。七年間行方不明であるため法律上両名は死亡したと判断された。
忘れられた離島、皐月島にそびえる榊段連峰の山奥に建てられた洋館の存在は未だに知られていない。女ばかりの名もない集落で起きていたこの度しがたい惨劇の実態は後世に語り継がれることは無かった――。
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
願わくば率直なご意見、ご感想をお待ちしております。